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鹿島左衛門大輔義幹の顛末

2010年11月16日 00:00

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/15(月) 00:15:13 ID:WL3Vk0mr

鹿島左衛門大輔義幹は兄の前五郎の討死を受けて、幼くして鹿島家の家督を継ぐ事
になった。
当主が弱い家は勢力を失う。鹿島家も義幹が幼いのを良い事に、家臣や周辺の豪族
達が、好き勝手に鹿島領を横領するという状態に陥った。

それでも何とか断絶する事なく、家を保った鹿島家であったが、義幹は成長するに
つれて、武勇を好み、勉学を嫌う、粗暴な青年に育って行った。

義幹が側に置き、重用したのは玉造源三と言う浪人上がりの小者。
この男は「仁義を蔑み、利を貴ぶ」悪人であると言われ、何と数年前に家臣達が鹿
島家から強奪した領地を、何の相談もなく取り返してしまうという暴挙にでたので
ある。
そればかりか検地を行い、鹿島家の収入を増やす。増えた歳入のおかげで予算に余
裕が出来ると鹿島城の改築を行い、防備を固めるというトンデモナイ事をやり始め
た。

折角宗家から盗み取った領地を取り返され、検地や軍備の強化で宗家の権力を固め
られては、我々家臣が好き勝手出来ない。
困り果てた鹿島家臣団は、江戸家や行方家に話を持ち込む。
その結果、
「鹿島家の領地を江戸但馬守通泰に割譲する」
「先代・鹿島前五郎の娘(江戸通泰の姪)を府中忠幹(大掾忠幹)の弟・次郎に嫁
 がせ、鹿島家当主に迎える」
という二つの条件で協力を取り付けた。

そして遂に江戸・行方・府中の連合軍三千が鹿島城へと進軍を始める。
対する鹿島城には七百余の兵力しかない。
家臣団の中で義幹側に残ったのは東右衛門大輔と林左京亮くらいであった。
「殿、源三殿が進めていた城の改築は未だ済んでおらず、兵力差も明らかです。三
千の敵勢を普請途中の城で堪える事など出来ませぬ。ここはどうか、私の居城、東
城へお退きください!」
「東殿の城へ移り、総州の加勢を得た上で捲土重来いたすべきです!」
義幹は二人の進言を聞き入れ、下総国東城へと落ち延びていった。


623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/15(月) 00:18:36 ID:WL3Vk0mr
義幹を追い出した連合軍により、府中次郎が鹿島通幹と名乗って鹿島家の家督を継
ぐと、民と臣下に恩愛を施し、国中に慕われる名君となった。
……のではあるが、城の中でも外でも、色々と大変な事が起こっていた。

まず城の外では、義幹方の勢力が、未だにゲリラ戦を続けていた。下総から東氏の
兵も海を渡ってやってきており、彼等との間で連携を取っていた為、容易に揉み消
す事の出来ない火種となっていた。

そして城の中。義幹によって頭を押さえつけられていた重臣達が、彼を追い出した
事により調子に乗り始めていたのだ。
特に眼に余る振る舞いが多かったのが根本右馬。
横柄に振る舞い、周囲を貶め、罪を捏造し、裁判結果を歪めたりもする。

神輿として担ぎ上げられたものの、漸くとんでもない家に来てしまったと気が付い
た通幹、なんと実家へ帰ると言い始めたのである。

この情報をキャッチした義幹、今こそ好機、と手勢を率いて鹿島に向かう。
「通幹を迎えに来た府中の兵士」を装い、船着場の人夫にも兵を紛れ込ませて鹿島
城へと潜り込む計画を立てる。

しかしこの計画、少々杜撰過ぎた。
と、言うよりそもそも「根本右馬の横暴で通幹が困っている」「通幹が府中に帰る」
という情報自体、大掾氏側がわざと流した情報だったのである。

義幹が罠にかけられた事に気付いた時には、鹿島城の城門は堅く閉ざされていた。
しかも義幹&源三が進めていた鹿島城の改築は、改築に反対していた筈の重臣達の
手によって、ちゃっかり完成していたのである。

「露見したなら仕方ない。総攻撃だ!」
義幹の命令と共に、下総勢&鹿島ゲリラ部隊によって一斉攻撃が始まる。
しかし元々、計略を使わざるを得ない程度の小部隊である。
改築が済み、堅牢な要害と化した鹿島城を陥とすには、兵力が全然足りない。

義幹勢は敗北。しかもここで義幹自身も討死にしてしまう。
これによって鹿島家は江戸氏の影響下に置かれる事になる。
(鹿島治乱記)


鹿島義幹や玉造源三を暴君だ、奸臣だと罵倒のオンパレードで書かれているんです
が、罵倒されてる割に、書いてある事跡自体は普通に名君・名臣じゃね?と思いま
す。
どうせ悪く書くなら、なんで暴君のテンプレで書かなかったんだろ。
どんな立場の人がこの本を書いたのか、ちょっと気になりますね。
それとも、僕の読み方が間違ってるだけか?確かに所々、この解釈で良いのか不安
な所はあるんですが……

あ、冒頭に書くのを忘れていましたが、常陸国鹿島氏の話。
>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4125.html
の数代前の話に当たる筈です。




624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/15(月) 20:39:11 ID:ixK7umrh
著者に関してはこうした考察がされていますね。


『群書解題4』
・また漂泊の隠士といっていることから考えてみれば、没落した主家にゆかりのあるものではないであろうか。
文の始めには
「君ハ舟也、臣ハ水也」とも記しているし、文中に古語・漢書などを引用したりして、漢文調で
儒教的な表現や意識を強く出しているから、
そうした教養も深いものであったろう。

『鹿嶋の歴史 中世・近世編』
・成立年代は、その奥書によると大永六年(一五二六)に漂泊隠士という匿名の人物の筆による。
この人物の素性は明らかではないが、
おそらく敵役である鹿島義幹ゆかりの者と思われる。


義幹側で、漢籍の教養があった人物のようです。それだけに複雑な思いで書かれたものかと。

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/15(月) 21:05:07 ID:ixK7umrh

私も義幹たちの行ったことは一面から見れば戦国の世にはかくあるべき、というようなことだと思います。
主家の力を強め、軍備を強化する、そうしたことは他勢力の干渉を招いた宿老たちよりよっぽどいい。

ただ、義幹側と目される著者ですら書かずにはいられないほど、義幹の暴政も目に余るものがあったのかと。
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