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「武家閑談」より大坂夏の陣の時の徳川秀忠の様子

2023年02月21日 19:09

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/20(月) 20:17:28.56 ID:XEaRtdGo
武家閑談」より大坂夏の陣の時の徳川秀忠の様子

大坂の陣での五月七日の合戦前に秀忠公は味方の軍勢を巡見なさった。
黒田長政加藤嘉明については独立した部隊ではなく本多忠純(本多正信の三男)の部隊に属していた。
七日の昼前、大軍が備えているところに誰からともなく「将軍様御成」と言い出したため、長政と嘉明はお目見えのために通路へ出た。
秀忠公は一騎で黒い鎧、山鳥の尾の羽織兜をめされ、桜野という七寸三分の馬に孔雀の尾の鐙をかけて召されていた。
武具は十文字の長刀、そのほか徒歩の士二十人ほどがお供していた。
黒田長政加藤嘉明をご覧になり両人の方へ乗りかけられたため、両人は馬の左右の口についた。
秀忠公は「敵を打ちもらし城へ引かれたのは残念だ」とおっしゃったが
両人が「そのうち敵はまた人数を出すので、冥利にお叶いになるでしょう。思いのままの御一戦となりましょう」
と言うとご機嫌もよくなった。
長政・嘉明に「もう戻ってよいぞ」とおっしゃられたため、両人は備えに戻った。
途中、本多正信が具足も兜もつけず、団扇で蝿を払いながら乗物に乗って通った。
黒田長政が「将軍様はいつもと違い軽い様子だな」と申すと
加藤嘉明は「いかにもいかにも、このように軽いのは御家の癖だろう」と答えた。
長政は深く感心し「秀忠公は常々御行儀正しいが、軍法においては万事軽く行うということか」
と賞賛したという。



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「武家閑談」から第二次上田合戦

2023年01月31日 19:23

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/30(月) 19:59:21.02 ID:r6sM9i9Y
>>576の続き
武家閑談」から第二次上田合戦

本多正信からの下知により攻め手を引き、牧野康成も中の手に向かって下がっていたところ
真田昌幸は信賀(原註:真田幸村)ら八十騎と、物見をおびき寄せに出てきた。
牧野康成とその子、牧野忠成はこれを追いかけた。
真田兵の湯田又右衛門ら十余人がしんがりをして退いた。
牧野康成の兵の雨尾又六、辻茂左衛門、今泉次郎作、福島九太夫らがなおも追いかけた。
この時、二町ばかり先で真田父子と真田兵八十ばかりが手鼓を打って高砂を謡った。
榊原康政はこれを見て「さても悪しき仕方である。こちらを屑(もののかす)とも思っておらぬ」
と馬を引いて手勢二千余で真田の跡を切り取らんと駆け、渡辺重綱は道筋に鉄砲を撃ち込んだ。
真田父子・侍は色めきだち松沢五左衛門に榊原康政軍への備えをさせ次々と城内に退いた。
こうして真田に高砂を途中で切り上げさせて城中に追い払ったところで、再度引き取るようにという下知があった。
榊原康政、牧野康成も引き取り、軍評定があって関ヶ原への進軍が決まった。
こうして森右近大夫(森忠政)、日根野筑後守(日根野吉重)、石川玄蕃頭(石川康長)を真田表に残し、秀忠公は美濃へお急ぎになられた。
木曽へは本多正信隊は和田峠を避け回り道し、榊原康政の一手の二千騎は旗を押し立てて和田峠を越えた。
こうして真田の策は天の与えと伝えられているが、一人も欠けることなくことごとく秀忠公に奉侍した。

595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/30(月) 20:15:34.60 ID:r6sM9i9Y
というわけで巷間伝えられている第二次上田合戦と比べると地味な感じではある。
秀忠軍が大敗北したとしても書けないだろうけど、徳川方の上田七本槍の活躍も盛られてなさそうだ。
ついでに上田七本槍の中山照守の父親は>>530の中山家範で中山照守も八条流馬術の名手(将軍家指南役?)
小野忠明は小野流一刀流の開祖で秀忠の剣術指南役



「真田七本槍」(第二次上田合戦の上田七本槍)

2023年01月23日 19:34

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/22(日) 21:45:38.06 ID:vbYgp9gn
>>571の続き
武家閑談」から「真田七本槍」(第二次上田合戦の上田七本槍)

また後の真田陣(第二次上田合戦)は慶長五年(1600)年九月六日であった。
台徳院秀忠公が御発向し、真田昌幸をお攻めになられた時、城の北の門は根津長衛門が受け持っていた。
御旗本の浅見藤兵衛が一人で夜に堀の深さを測っていたところ、城中から鉄砲玉が雨のごとく降り注いで撃たれた。
朱の十二引の指物もずたずたになり、浅見は地に伏せた。
そんな所に御味方の小栗治右衛門もつづいてやってくると、城門から真田の甲兵二十余が門を開いて浅見・小栗両人に鉄砲を打ちつけ、鉄砲煙がはれたところで槍を突き立ててきた。
浅見の小者の虎若が刀を抜き槍下をくぐって二人の元に行ったところ、小栗は胸三箇所を撃たれて討ち死にしていた。
浅見も胸を撃たれて地に伏していたのを、虎若は浅見の両足をとって引き出した。
浅見は「兄の小栗を退けよ」と命じたが、虎若は腹を立てて「主人を捨てて他人を退ける者がおりましょうか」と背負って退却した。
虎若から指物について問われた浅見は
「槍合わせの時に落とされたと見えるが、取り戻すわけにもいくまいな」と言うと
虎若は「退却時に落としたのであれば武官の落ち度となりましょうが、槍合わせの時に落としたのであれば問題はないでしょう」と引き下がった。

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/22(日) 21:48:58.23 ID:vbYgp9gn
城方は手始めに相手方の二人を殺し、負傷させた、ということで真田兵の山本清右衛門と依田兵部がただ二人で追い打ちをかけにきた。
両人が二町ばかり離れた堤の上に立って偵察したところ、台徳公(徳川秀忠)の御旗本の武者、二、三十騎が騎馬の鼻を並べてやってきた。
山本・依田を見た旗本衆は、「今、槍を持ってこっちに来る真田方の斎藤左大夫とその弟子二人だ、逃すな」とかかっていった。
なかでも小野次郎右衛門(小野忠明)、辻太郎助(辻久吉)がひと足先に駆け寄ってきたため、斎藤左大夫は城に逃げ帰った。
小野と辻はそこで堤際へ行き、依田・山本を相手にすることにした。
こうして堤の上と下でそれぞれ槍を突き合わせた。
そこへ朝倉藤十郎(朝倉宣正)、中山助六(中山照守)、戸田半平(戸田光正)、鎮目一左衛門(鎮目惟明)、太田甚四郎、斎藤久右衛門(斎藤信吉)が続いて槍を合わせた。
(太田甚四郎以外の五人と小野・辻が上田七本槍)
こうして依田兵部は朱具足で奮戦したが倒れ伏した。
小野と辻が依田の首を取ろうとしたところ、山本清右衛門が二人を打ち払い、依田を肩に担いで城中に引き返した。
入れ違いに城中から駆け出してきた真田兵三十余人に対し、太田甚四郎は鉄砲を脇より撃ちかけた。
さすがの真田もひるんだところを、中山・朝倉・小野・辻・鎮目・戸田・斎藤が槍を持って追撃しようとしたため、真田はことごとく城に引き返した。
そこで本多正信は城を攻めても寄せ手の被害が生じるだけだと下知した。
(このあとは第二次上田合戦についての記述)



秀忠と政宗と酒井忠世

2022年05月26日 16:35

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/25(水) 23:28:29.94 ID:8WaBkeoQ
槐記享保十年十月二十二日の記事より 秀忠と政宗と酒井忠世

進藤夕翁の話に「台徳院殿の御時、酒井雅樂頭(恐らく忠世)と奥州の政宗が御相伴になって、台徳院殿自らが放った鷹で獲った雁を二人に下されたが、二人ともにその雁を褒めたところ、その時分俳諧が流行っていたのであろうか、『一句詠めるか』とお尋ねあるとすぐさま雅樂頭、
 下さるる 御汁いくたび かえる雁
と詠まれた。御感心のあまり『政宗、脇を付けよ』とご所望あれば、政宗、
 遅き給仕の あたまはる風
と付けると、おおいに面白がられた。『なにとぞ第三句はお上がお付け下さいませ』と二人が申し上げると、
 山々は こぶしの花の 盛りにて
と付けられたとのことです」
家煕様も「昔の人は」と大笑いされたが、三人の性格の違いがまざまざと表れているのは実に驚くばかりだ。



第二次上田合戦時の戸田左門の進言

2022年05月24日 16:48

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/23(月) 19:42:12.20 ID:tGyeQDo6
朝野雑載」より、第二次上田合戦時の戸田左門(戸田一西)の進言

慶長五年(1600年)九月二十三日の夜、本田上野介(正純)から
「内府公(家康)、御持病も御快癒されましたので、明日秀忠公に御対面なさいます。
また今度御供に召し連れた面々にも御目見の御沙汰があります」
と申し送りされたため、翌朝秀忠公は大津の城に赴きなさって、家康公と御対面された。
御供に召し連れた輩も御眼前にひかれた。
秀忠公「関ヶ原に遅参してしまい、大切の御一戦に参加できず、御迷惑におぼしめされていることでしょう」
家康公「参陣の時節を申し上げた使者が口上を誤った以上、いたし方のないことであるが、
総じて天下分け目の戦というものは囲碁の勝負と同じことで、碁にさえ勝てば、相手方に石がいくらあろうが相手の用にはたたぬものである。
われわれが関ヶ原の一戦に打ち勝つならば、真田ごときの小身者がいかに城を堅固にしようと、結局は城を明け渡して降参するよりほかにないのだ。
お前の後ろに控えている者どものうちに、そのように申した者は一人もいなかったのか?」と尋ねられた。
秀忠公が「同じことを戸田左門(一西)も申しておりました」
と仰られたところ、
家康公は「なんと申したのだ?」と重ねてお尋ねになったので
秀忠公は左門の進言の委細を仰られた。
家康公は御家人列座の方を御覧なさり左門を召されたが、末座にいたため聞こえなかったのか反応がなかった。
そこで秀忠公は声高に「内府公は左門をお召しだ!」と仰られると、左門はすぐ御前近くに出た。
家康公はおそばに召し寄せ、御両手にお菓子を山盛りにすくい、お手ずからお菓子を賜い
家康公「その方、小身にて口がきけぬか、すぐに口がきくようにしてやろう」とおっしゃった。
左門はあまりのありがたさにお礼もいえなかったため
秀忠公が代わりに「左門ですが、けっこうの御意をこうむり、かたじけないしあわせに存じております」と仰られたという。



198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/24(火) 15:39:42.57 ID:emE/uutk
>>196
家康が約束した通り
戸田一西は翌年近江で三万石の大名になり、小身ではなくなる

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/24(火) 17:26:34.67 ID:bJqQkG0r
本多正信も進言したのになかったことにされてる

秀忠関ヶ原途上の上田攻めの時の話

2022年05月23日 17:21

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/22(日) 20:19:15.64 ID:U8GqlHSQ
朝野雑載」から秀忠関ヶ原途上の上田攻めの時の話

慶長五年九月八日、秀忠公は本田佐渡守(正信)を召して、昨日兵が真田方に煽られて戦をした一部始終を聞かせ給うたところ
佐渡守「大久保忠隣牧野康成の配下の者どもが下知なく兵を進めたのは処罰するべきです。
軍法を破るものは不忠であり、不忠の者はその罪を逃れません。
大久保・牧野の物頭に腹を切らせるべきです」
と諌めたところ、秀忠公も同意されたため、大久保・牧野にその旨を言い渡した。
両人は仕方なく家人に腹を切らせようとしたところ、牧野康成の息子、新次郎(牧野忠成)は
「手柄を立てた家来に腹を切らせては、誰が身命を捨てて働くでしょうか」
と独断ということにして、小姓掃部を召し連れて陣中を立ち退いてしまった。
これにより康成も逼塞していたが、秀忠公若君誕生により新次郎は御赦免され、康成も元のように出仕した。
新次郎が立ち退いたと聞いた大久保忠隣の息子の新十郎(大久保忠常)も、旗奉行の杉浦惣左衛門久勝を召し連れて出奔しようとしたが、
惣左衛門は承諾せず「御志は身に余りますが、我が命を救うために御主君が浪人するというのは本意ではありません。命は義よりも軽いのです」
と言ってたちまち自害してしまった。
杉浦の嫡男や次男の命は助けられ、長男・平太夫久成はのちに大久保忠常に仕え、
次男・十兵衛久真は、惣左衛門の志をお聞き届けになった秀忠公に召し出されたということだ。



徒者取締の事

2020年09月06日 17:26

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/06(日) 13:40:20.72 ID:J6DlKxxS
慶長十七年、江戸に於いて徒者たちが集まり、人を斬るという事が絶えなかった。
六月二十八日、柴山孫八(上口奉公の人也)が、そういった者共の一人を成敗した所、
彼の党類がその柴山の所にも奉公しており、「我が類を斬った」として、主人である
孫八を斬り殺した。

江戸中にもこういった徒者が、三百ほど有ると云われた。諸国で奉公しているこの類の者たちは、
合計で三千人とも云われた。

このような中、江戸中で穿鑿が行われ、九十人ほどが搦め捕られ、牢に入れられた。
かの柴山孫八を斬った者は、彼の小者であったのを取り立て、侍にして懇切にしていたのに、
その重恩を忘れ主の頭を斬るなど、是非に及ばぬ次第である。

かの者を生け捕り、類を尋ねた所、大将分は大鳥居一兵衛、大風嵐の介、大橋すりの介、
風吹はちり右衛門、天狗郷右衛門、などという名であった。
その白状に任せて捜索し、悉く搦め捕って成敗が行われた。

そうして京都に下知があり、大阪、堺、その他の国々に於いてかの一類を成敗有るべしとの事であった。
しかしこれによって、この頃無縁の者たちに対し宿を貸さなくなり、旅人はこのため迷惑した。

江戸の大将分であった大鳥居一兵衛は相撲を能く取り、兵法も能く使ったため、彼が若衆かぶきとは
知らずに近づいてきた者たちに、罪科を行わせ国々に遣わしたという。

当代記



両名共上手である

2019年12月26日 16:40

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/26(木) 00:02:03.79 ID:MjkcHwi4
秀忠公は剣術を柳生但馬守と小野次郎右衛門の両名から習っていた。
秀忠は次郎右衛門との稽古で、柳生に習った太刀を以て次郎右衛門に撃ちこんだがついに当たらず、また柳生との稽古では次郎右衛門に習った太刀で柳生に撃ち込んだがついに当たらず、両名共上手であると常々我々に仰られていた。

秀忠の近習だった永井直重が残した覚書『元和寛永小説』の中の逸話



444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/26(木) 01:16:26.92 ID:Ea5Ja01t
>>443
ここで「どちらの教えも役に立たない」とキレないのがいかにも秀忠らしいな。

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/26(木) 04:18:30.60 ID:NaeV5kyq
二人を戦わせて勝った方に教わるんじゃ駄目なのか

447 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/12/26(木) 06:24:31.77 ID:qAsgelBv
>>446
師を競わせて教わる相手を絞るより複数の達人から教わる方が、色々気付きが有ったりして良いんじゃないですかね?

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/26(木) 16:56:36.07 ID:HJrn4SsC
>>443
どっちも立てるのがいかにも秀忠っぽいな
この噂を聞いた柳生と小野もいい気分になれるだろうし
非の打ち所がない。

世上で金銀がたくさんとなったのは

2019年06月25日 15:44

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/25(火) 00:35:13.79 ID:Qzaauj/K
世上で金銀がたくさんとなったのは、今から50年以来のことである。

台徳院殿(徳川秀忠)の時、作馬不閑(不干斎。佐久間信栄)という者が所持する“雲山”と
いう茶入を金森法印(長近)が黄金百錠で求めた。これが台徳院殿の御聴に達し「その価を
与えよう」と宣った。

折しも金30錠はあったが70錠は不足していたという。今の世と甚だ相違している。

南都東大寺の奉加で頼朝(源頼朝)は「金50両を寄進する」と言われたけれども、その年
は干ばつで調わなかったいうことが『東鑑』に見える。

――『老人雑話』



45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/25(火) 08:35:45.23 ID:ZgS036DP
太田牛一「秀吉公が出世ののち日本国中に金銀山野に湧き出で」

一季居、耶蘇教、負傷者、煙草、屠牛ニ関スル禁令五ヶ條

2019年06月09日 09:27

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/09(日) 03:07:24.08 ID:cxXeu6pY
  六日、幕府、一季居、耶蘇教、負傷者、煙草、屠牛ニ関スル禁令五ヶ條ヲ頒ツ

 『令條』

  条々

一、一季居(一季で雇われた者)の事。堅く停止された以上は、侍はもちろんのこと中間・小
  者に至るまで抱え置く輩は速やかに罪科に処される事。

一、伴天連門徒は御制禁なり。もし違背のある族はたちまちにその科を逃れられない事。

一、手負いの事。上下に関わらず傷付いた者がいれば、その場所の給人・代官に詳細を申し届
  けなければならない。ならびに他の場所から手負いの者が来たならば、すなわちその手負
  いを留め置き、交名を註して必ず言上すること。万一隠し置けば、重科に処される事。

一、煙草を吸う事。制止とされるに至り、その上で売買する者までも見付けた輩がいたならば、
  双方(売る者と買う者)の家財を、見付けた輩に下されるものである。もしまた、路次に
  おいて見付けた場合は、煙草ならびに売主をその在所に押し置いて言上せよ。付いて来た
  馬・荷物以下は改め出した者に下される事。

  付いてはどこの地においても煙草を作ってはならない事。

一、牛を殺す事は御制禁なり。おのずと殺すような輩には一切(牛を)売ってはならない事。
 (牛を殺事御制禁也、自然殺へき輩には、一切売へからさる事)

  この趣を領内に必ず触れさせるように。この旨を堅く仰せ出されたものである。よって
  件の如し。

     慶長17年(1612)8月6日        青山図書助(成重)
                            安藤対馬守(重信)
                            土井大炊助(利勝)

            藤田能登守殿(信吉)

(原注:幕府が一季居を停止したことは慶長14年正月2日に。煙草を禁止したことは、同年
7月是月に。また耶蘇教を禁じ、京畿の耶蘇寺院を破壊せしめたことは、本年3月21日に。
また一季居などに関する法令を頒布したことは18年3月是月に各々その条あり。参照すべし)
                      
――『大日本史料』

その7日後>>129



135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/09(日) 21:52:07.77 ID:mD08Q13s
キリスト教については分かる
煙草もなんとなく分かる
その他はどういう理由なんだろうね

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/10(月) 12:58:13.75 ID:Cv0VNwoU
>>134
牛を殺すことの禁止はキリシタン弾圧の一環かな

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/10(月) 13:30:40.56 ID:E0Guiztx
キリシタン弾圧って言うより、牛を食うという行為が農民から相当嫌悪感を持って見られてたらしい。
秀吉のキリシタン追放令の理由の中にも「牛を食うこと」が入ってる。

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/10(月) 13:44:22.19 ID:ZI8DPZsm
自分の親が牛に転生してるかも、と思うと食えないな

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/10(月) 14:56:31.46 ID:YuoSwCCz
カムイ伝みたら穢多が死んだ牛食ってた

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/10(月) 16:54:35.54 ID:/xDs3wXj
彦根藩の特産品は干し肉と味噌漬けだったりする。
彦根藩から届く肉を楽しみにしていた大名は多く徳川斉昭もその一人だったが
井伊直弼が藩主になると肉食を禁じてしまう。
しつこく肉をねだる斉昭と頑なに断わる直弼の仲は険悪になり
安政の大獄や桜田門外の変の遠因になったとかならなかったとか…

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/10(月) 17:30:23.91 ID:n8keEJU7
食べ物の恨みは怖いな

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/10(月) 18:30:43.06 ID:ZI8DPZsm
>>144
慶喜「父上も近江牛がなければ豚を食べればいいのに」

徳川秀忠、池田輝政の屋敷での茶会

2019年01月27日 17:56

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/26(土) 23:01:01.56 ID:5v4Tc4E9
徳川秀忠池田輝政の屋敷での茶会


慶長六年元旦、内府公(家康)の体調が悪く大坂の城への参賀はなかったが
同月十五日に快復されたので列侯は悉く登城し、新年の慶賀を申し上げられた。

二月三日、秀忠公は池田輝政の屋敷に御茶会に訪れられた。
先月十八日に、内府公から飛騨肩衝の茶入を輝政が拝領したからであるという。
このおもてなしの次第は、以前とは違い(将軍の)御成の作法と大して変わらないようなもので
関ヶ原御勝利以後、外様大名の屋敷を訪問するのは初めてであった。


――『落穂集』


諸大名を全て国へ帰し、敵対を成すならば

2019年01月26日 20:03

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/25(金) 21:59:05.04 ID:736jMRiG
元和二年の正月、相国様(徳川家康)は田中にて御鷹野を行われていた所、俄に御患われ、
次第次第に重くなり、卯月十七日に御遠行となった。御遺言については誰知りたる者は無いが、
人々が申しているところによると、相国様は

「我虚しく成った時は、日本国の諸大名を三年は国へ帰さずして、江戸に詰めさせるように。」

と仰せに成った。この時大将軍(徳川秀忠)のお答えは

「私は御遺言について、一つとして違背することはありません。ですがこの事についてはお許しください。
私としては、もし父上が御遠行成なされた時は、それより日本の諸大名を全て国へ帰し、敵対を成すならば
その国にて敵をさせ、我らが押しかけて一合戦して踏み潰します。どうあっても、天下は一陣せずしては
治まらないのですから。」

その時、相国様は手を合わせて、将軍様を拝まれた
「その事を聞きたくて、あえて申したのだ。さては天下は鎮まりたり。」

そう喜ばれ、そのまま御遠行なされたのだという。

(三河物語)

これが「わしが死んだら天下はどうなると思う」「乱れます」「そう思っているなら安心だ」って話の原型かな?
こっちは「むしろこの機会に敵対勢力を炙り出してやりますよ!」みたいな話だが。



これより攻め滅ぼさせていただく

2018年08月09日 12:20

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/08(水) 21:49:54.59 ID:xiowr2gD
関ヶ原の合戦の後、9月24日、大阪表に徳川秀忠が大名16名を引き連れ現れ、大阪に着陣するや、
すぐに大阪城へ使いを立てた

『今回の戦乱中、伏見城にて討ち死にを遂げた鳥居元忠、松平家忠、同五左衛門三名の首を
当地に取り寄せ実検を行ったとある上は、この一乱、秀頼公の企てであるのは紛れも無い事であり、
これより攻め滅ぼさせていただく。』

この口上に大阪城中は驚愕し、秀頼の母である淀殿はこれを請けて申した

『秀頼は未だ幼年であり、一乱を企てることは申すに及ばず、首実検の事も毛利輝元、その他奉行たちの
仕業であり、秀頼の存ずる義ではない』

そう一々に詫言したため、秀忠は京へ戻った。
そこで徳川家康がこの事を聞き、
「秀頼公については赦免し、今後は御蔵70万石ほど宛行うように。」
と仰せになった。

その発言までは諸家も旗を張り立て一戦の支度をしていたが、秀頼安堵の情報が伝わると、諸手ともに
旗を治め休息した。

(駿河土産)

これはおそらく史実ではないのでしょうけど、ここでも対豊臣強硬派が秀忠で、穏健派が家康なんですね。



19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/09(木) 06:29:43.59 ID:3X1txoR3
若いのが積極で老人が慎重なのは今昔いつも同じ

浅井の御娘は秀忠に

2018年01月07日 18:01

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/07(日) 17:13:42.85 ID:I2+XP7nd
浅井の御娘は秀忠に


良正院殿智光慶安大禅定尼 ふう姫君様は権現様(家康)の姫君で
台徳院様(秀忠)の御姉、御母は西郡殿。初めは北条氏直に嫁がれたが
(氏直と死別した後)秀吉が権現様に
「池田三左衛門輝政が無妻になっているので、淀殿の妹(お江)と
 縁組するのがよいだろうか」
と御相談したところ、権現様が
「願わくば浅井の御娘は秀忠に御縁組されるように、三左衛門輝政には
 私の娘を嫁がせますから」
と仰せられたので秀吉はもっともに存じ、その段を輝政公に申し渡され
文禄三年八月十五日、姫君様が参州吉田に御入輿になられたという。


――『因州鳥取慶安寺略記』


この夫婦の仲の良き事は、人間の世界にこれほどは

2017年11月22日 16:45

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/22(水) 16:10:22.18 ID:l+yNUGUe
いい夫婦の日ということで
慶長十年~同十八年のものとされる、前田利家室・まつ(芳春院)が七女・千世に宛てた消息より


(第一紙欠)
はんふんはんふんにて候、をかしく候、おりへ事、よくそ御きも入候、りくつたて申候ハヽ、御しかり候て、よきやうに御きもいり候へく候、
天下さまハ七つましのミたいさまにて、なかのよき事、人けんにかやうの事ハ見きゝたる事もなく候、かしく、
(後略)

(――増補改訂 図録 芳春院まつの書状)


内容は、まつが従弟の養子で利家の実子とされる篠原長次(おりへ/織部)に嫁を世話するよう千世に頼んだところ、年上の女しか心当たりがないがどう思うか、という問い合わせが来たことへの返信と推測できるもの。
将軍・徳川秀忠(天下さま)は七つ年上のお江(ミたいさま/御台様)を娶っているが、この夫婦の仲の良き事は、人間の世界にこれほどは見たことも聞いたこともないくらいである、と例を挙げて、心配せずに縁談を進めるよう答えている。

よく恐妻家などと揶揄されているけど、人の目から見てこんな風に評されるいい夫婦の話



秀忠、江戸城内に孫の遊び部屋を作る

2017年08月04日 13:14

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/04(金) 11:17:39.14 ID:UKPuWRly
秀忠、江戸城内に孫の遊び部屋を作る


元和7(1621)年、越前藩主松平忠直は病を理由に江戸の参勤を止め
自身は北庄に帰り、代わりに嫡男で7才の仙千代(光長)を参勤させた。

忠直は秀忠の娘婿で、庶兄の結城秀康の嫡男でもあったが
家中の騒動や本人の不行跡などが重なり、元和9(1623)年には配流される。
秀忠はそのとき既に思うところがあったのか
十月に叔父の松平直政と共に登城してきた仙千代を、殿中で養育することにした。

公(光長)はいまだ中剃がなかったので、将軍(秀忠)が自分の手でこれを剃り
夫人(お江)が髪を結われ、その間土井大炊頭(利勝)が(光長を)抱えていたという。
また、仙千代の為に遊ノ間を造らせ、柱などは(光長が怪我をしないよう)
悉く天鵞絨(ビロード)で包んだ。
――『美作津山松平家譜』

孫が可愛い秀忠の話。



123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/04(金) 11:41:44.44 ID:JM7Qhewf
葵徳川だともし家光に嫡男が出来なかったら光長を家光の養子にと秀忠が考えてたという設定だったけど、この辺の話がネタ元なのかな

その節諸事に御軽きこと

2017年06月14日 19:00

29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 18:16:53.47 ID:i+cO2s5n
中根宗閑と内藤善斎がある時の話で申し上げなさった事には、

台徳院様(徳川秀忠)が、ある時に御鷹野をなさり、田の畦に
御腰を御かけ遊ばされて、御膳を召し上がりなさった。

その時、御湯がなかったので、「向かいの在所に参って湯を
沸かさせ申すように」との旨を仰せにつき、

百姓の家より御湯を御取り寄せ遊ばして召し上がりなさった。

その節などは、このように諸事に御軽きことであったとの由を
(宗閑らは)申し上げなさった。

その旨、戊戌閏10月21日に拝聴仕った。

――『松雲公御夜話』


釣り髭であった

2017年06月09日 18:41

7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/09(金) 17:07:05.10 ID:jMN9vXWl
台徳院殿秀忠公は御釣り髭であられたという。井伊掃部頭殿(直孝)も釣り髭であった。
(台徳院殿秀忠公には御つりひげ御座候由。井伊掃部頭殿にもつりひげ有之候。)

――『松雲公御夜話』


都ははるのこしきなりけり

2017年06月02日 17:24

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/01(木) 20:24:36.85 ID:Kx/wuCSQ
秀忠公が禁中を御作事された時に、
国々の人夫共が築地廻りの植木の枝に面桶をびっしりとかけおいてあるのを、
柳原殿は御覧になられ

見わたせは柳さくらにこきかけて 都ははるのこしきなりけり
「見渡せば柳さくらをこきまぜて みやこぞ春の錦なりけり」(古今和歌集)の本歌取り

(※面桶は人夫の弁当箱。後に乞食の持つもののことも指し、御器ともいった)

(昨日は今日の物語)


台徳院様が三河田原で御狩りをなさった時

2017年02月08日 10:35

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/08(水) 03:35:26.83 ID:407AQT02
○ 台徳院様(徳川秀忠)が三河田原で御狩りをなさった時、猟師の中に
“あたり筒”を持っている者がいた。

これを岡部八十郎が借りようと先約した。ところが、中川八兵衛も借りよう
として、口論になり、

八十郎は即座に八兵衛を討った。八十郎の若党が八兵衛を討ったという。


○ 右の御狩りの時、九鬼図書(成隆)は御見舞いに参られ、御狩りを見物
致されて、本多中書(忠勝)に会い、

「おびただしき御人数かな。8,9万人もいるのではないだろうか」と挨拶した。

中書は曰く、「いや左程はあるまい。およそこのように山の方から平地へと
続いている人数は大勢に見える。谷底などの人数は小勢に見えるものだ」

――『武功雑記』



588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/08(水) 18:41:40.50 ID:x9+MGLZ0
流石忠勝さんはいつも冷静だな

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/09(木) 08:21:08.96 ID:i7dwTuub
>>587
そもそも当時の日本で、視界内に8~9万人も入る状態が起こり得たんだろうか

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/09(木) 18:14:53.87 ID:uZ8rMyA2
俺の財布でもそんなにいないな

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/09(木) 19:28:19.30 ID:IuYwlBQ0
大げさなこと言ったら真面目に返されたんじゃない?