台徳院様が三河田原で御狩りをなさった時

2017年02月08日 10:35

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/08(水) 03:35:26.83 ID:407AQT02
○ 台徳院様(徳川秀忠)が三河田原で御狩りをなさった時、猟師の中に
“あたり筒”を持っている者がいた。

これを岡部八十郎が借りようと先約した。ところが、中川八兵衛も借りよう
として、口論になり、

八十郎は即座に八兵衛を討った。八十郎の若党が八兵衛を討ったという。


○ 右の御狩りの時、九鬼図書(成隆)は御見舞いに参られ、御狩りを見物
致されて、本多中書(忠勝)に会い、

「おびただしき御人数かな。8,9万人もいるのではないだろうか」と挨拶した。

中書は曰く、「いや左程はあるまい。およそこのように山の方から平地へと
続いている人数は大勢に見える。谷底などの人数は小勢に見えるものだ」

――『武功雑記』



588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/08(水) 18:41:40.50 ID:x9+MGLZ0
流石忠勝さんはいつも冷静だな

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/09(木) 08:21:08.96 ID:i7dwTuub
>>587
そもそも当時の日本で、視界内に8~9万人も入る状態が起こり得たんだろうか

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/09(木) 18:14:53.87 ID:uZ8rMyA2
俺の財布でもそんなにいないな

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/09(木) 19:28:19.30 ID:IuYwlBQ0
大げさなこと言ったら真面目に返されたんじゃない?
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秀忠は、参勤してきたとの注進を聞くと

2017年02月02日 22:37

572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/02(木) 21:40:18.02 ID:zmgUxsFx
徳川秀忠は、江戸へ大名が参勤してきたとの注進を聞くと、必ず品川、千住口、
それぞれの筋道に遣いを送った。これらは皆重臣たちの役割で、大名より下の位の
者には、段々に軽い役人を上使としていた。

特に越前黄門秀康が江戸に参向してきた知らせを聞くと、必ず即座に自身で迎えに出て、
同道して江戸城に入った。

総じて将軍家においては、諸家が重んじている諸侯参勤については、いつごろ江戸に入ると聞かれると、
自然を装って鷹狩に出かけられ、その道筋であり江戸に近い千住、品川あたりで待ち、その場で大名に、
直に参勤を労り、それは作法の一つのように考えられていたが、いつの頃からか、それぞれの家まで上使が
向かうようになった。

(武野燭談)



573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/02(木) 21:44:27.35 ID:VVlWoBW2
あの兄弟は仲良かったのか
ちょっといい話

元日に将軍に出仕した衆は2日に大御所へ、2日に出仕した衆は3日に大御所へ

2017年01月01日 17:04

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/01(日) 10:03:13.19 ID:zqydozcU
慶長19年正月朔日、江戸にて両御所(家康・秀忠)が越年なさった。

朔日、例年の如く将軍(秀忠)に皆々が礼を遂げた。なかれを皆々が
頂戴したうえに、御服一重があまねく宛てられて拝領した。

これは近年に大御所家康公の時からこのようにしていた。今の大御所
(秀忠)にはこの慣例はない。今日、大御所に将軍が勤行なさった。

2日、在江戸の上方の大名・小名が将軍に出仕した。昨日のように、
なかれと御服を拝領した。元日に将軍に出仕した衆は2日に大御所へ
出仕し、2日に将軍へ出仕した衆は3日に大御所へ出仕した。

2日夜、毎年の如く将軍が謡初をなされた。

――『当代記』



六間堀神明、雁披の事

2016年11月27日 08:24

359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/27(日) 01:15:15.71 ID:erM4z9uc
六間堀神明、雁披の事

 或る人が言うには、六間堀の神明はその鎮座の初めは詳しくわかっていない。
文禄元年九月十五日、その辺に台廟(秀忠)が御鷹狩りでの御成りがあった。
その日は「オビシヤ」といって、新米をウブスナへ供え村長やその他の者どもがうち寄って酒などを飲む日だった。
うち寄った者どもが筵上で肴も無く酒を飲んでいるのを、台廟が御覧になられて
御拳の雁を『肴にせよ』と下された。
また領国繁盛のめでたい祝いであると、
社に昇られ、御懐から三条院御宸筆の天照大神とある紙片を取り出されて、
御自らほこらの中に納められた。
今も神体としてあがめ奉っているという。


 『江戸砂子補』に云う。
「葛飾郡西葛西領、深川六間堀。
大川のすこし東、川幅およそ六間ばかり。
神明宮が六間堀にある。別当は猿江の泉養寺が兼帯している。
慶長年中、泉養寺開山の秀順法印があらたなる神異があって鎮座させた。」
『砂子補』では慶長を鎮座の年としている。
しかし既に文禄の始めにこの祠があることと見てきた。
ならば『砂子』の説は再び神異があったのをこのようにいったのか。

 「オビシヤ」は宴のようなことである。
今も蝦夷では、このように集まって飲むことを「オムシヤ」というとか。
きっと同じ言葉であろう。

 『武家事紀』及び『豊臣譜』を案ずると、この頃は朝鮮の役が既に起こり、
秀吉は東照神君と共に肥前名護屋に着いていた。
後に大政所の病により秀吉はすぐに京へ帰り、神君は秀吉の命に従って肥州に在留された。
また『武事紀』には、台廟はこのとき、大政所逝去の弔問として八月に上洛になった。
秀吉は喜び権中納言に昇らせた。
これから十月〔文禄元年〕上旬に江戸に帰られたと見える。
なので台廟の御帰りは九月より後になるので、この事はどうであろうか。
しかし『武事紀』の伝本は誤写が多い。
この十月というは、もしくは九月の誤りだろうというのも知ることができない。


(甲子夜話続編)



この事について、台徳院様が

2016年10月27日 17:57

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/27(木) 02:00:58.95 ID:TnWOS/cS
(大坂夏の陣の時、)玉造で源君(徳川家康)は、杖をおつきになり、
諸大名に御言葉をかけなさって、のさのさと御通りになられた。

台徳院様(徳川秀忠)は御駕から御出になられ、御腰をかがめなさり、
諸大名へ御挨拶なされて、御通りになられた。

この事について、台徳院様が敵方からの矢玉を御避けになっていた
ように取り沙汰し仕ったとのことである。

――『武功雑記』



徳川秀忠の御咄の衆(安西衆)

2016年08月20日 17:38

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/20(土) 06:20:58.88 ID:AuGd7sRl
徳川秀忠の御咄の衆(安西衆)

立花立斎(宗茂)…九州のことを良く知っている。

九鬼大隅守…水軍のことを良く知っている。

脇坂中書(安治)…四国のことを良く知っている。

平野遠江守(長泰)…太閤のことを良く知っている。

佐久間備前守(安政)と同大膳(勝之)
…北国ならびに奥州のことを良く知っている。

細川玄蕃頭(興元)…上方のことを知っている。

――『武功雑記』




93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/20(土) 07:20:42.29 ID:eKeT/cdb
で、どういった話を聴いていたのかな?

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/20(土) 09:34:13.86 ID:if6gLazI
>>92
丹羽長重「あれ、僕は・・・」

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/20(土) 10:07:10.99 ID:s01bNQ/W
>>94
秀忠<「棚倉で藩主にしてやっただろ。不満?」

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/20(土) 11:07:08.14 ID:p+lYpupN
>>92
九鬼大隅守って蘇ったのか?

人々はみな自分の悪を忘れて

2016年07月23日 07:53

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/23(土) 04:23:28.57 ID:2iesiE+O
徳川秀忠の仰せによると、「人はただ我が身が他人より劣っていると
知って、諸事を慎むべきである。

愚人は蛤の貝の片一方を持ってその対を探し求めている時に、合わな
ければ、たちまち怒って持っている貝を捨てる。先程から持っている
貝が劣っているわけでもない。自身の心の仕業である。

人々はみな自分の悪を忘れて、友を恨み嫉むのだ」とのことであった。

この物語りは、阿部備中守(正次)が聞き覚えていたものである。

――『武功雑記』



台廟御馬、岩浪の事

2016年07月18日 09:44

940 名前:1/2[sage] 投稿日:2016/07/18(月) 03:04:46.14 ID:UAan42eF
台廟御馬、岩浪の事

 増上寺の教誉僧正〔典海〕は、予は少年の時から知っている人であり、
かの寺の住職となった後もしばしば対面していた。

 ある日の彼との会話の中で出た話である。

 元和二年、神祖が駿府で御病気が重なっていることを、江戸で台廟(秀忠)がお聞きになられた。
すぐに御出立なされ、一昼夜の間で駿府にお着きになられて御対面された。
神祖は非常に嬉しそうな顔つきをされたという。
 その時乗られた御馬は、”岩浪”という駿足のもので、昼夜をかけて馳せられたので、
駿府へ着かれると息絶えて死んだという。
台廟は憐れに思われて、これを埋められた所に馬頭観音の像をたてて、
そのしるしとなされた。
 今でもその跡があるとのことであった。

 予はその御馬を埋めた跡を訪れたいと、年頃思っていた。
増上寺の山中にあって、その所を心光院というと聞いたので、
今年品川に行ったついでにかの地を尋ねると、
この院は今は増上寺の山外、赤羽根の川辺にあった。
御馬の遺跡には一堂あって、中央に石像の観音があった。
高さは四尺を超すだろう。
守僧に問うと正観音という。いかにも古色でその頃の像であろう。
後にしばしば火災に遭ったというので、石像に石灰を塗って鼠色に見えた。

 またかの守僧の言う所では、
「この御馬は名を”布引”といって、台廟に殊に愛されていた。
大坂の御陣にもこれを召されて、台廟が薨去された時も葬儀に従い、
そのまま増上寺に繋がれていたが、御中陰満(四十九日)の日に死んだ。
よって荼毘にして山内に埋め、仏像をその所に建てた」
とのことであった。

941 名前:2/2[sage] 投稿日:2016/07/18(月) 03:05:08.84 ID:UAan42eF
 予は思うに、守僧の言といえども信じれないのは、
大坂冬の陣は慶長十九年で、台廟の御他界は寛永九年である。
この間十九年で、大抵の常馬の寿命を考えると、
寛永九年に十九歳とすると、冬の御陣ではその馬の産年となる。
この年に四歳としても、御他界の年には馬寿は二十二である。
たまたま長寿の馬はないわけではないが、おそらくは違うだろう。
またその寺中で死んだので、荼毘にして埋めたというのもいかがであろうか。
それならば僧正の語ったように、台廟がかの駿足を憐れみなさって、
駿州で倒れた馬を火葬にして、御帰りのときに増上寺に埋められたものであろう。
そうでなかったらすぐに駿府で埋めたのであろう。
 また御馬の名を”布引”というのも、おそらくは違うであろう。
それは今も速足の馬には、四方手に布一端をつけて乗るので、布は空を曳いて地に着かない。
これを布引の馬と称するのである。
かの御馬は千里の駿足であるが、布を引くのは言うまでもないだろう。
その名は僧正の言うように”岩浪”であるはずだ。
守僧は武事を知らないまま伝承したのだ。
 また駿府まで、一昼夜で着かれたというのも、後藤庄三郎〔光次〕が記した『政事録』にいう所では、
『二月朔日、将軍家江戸御発駕。日以て夜に継ぎ、二日御駕御駿府に着く。』
と有るので、江戸から駿府まで四十六里なので、かの駿馬の力に依らないと、
このような神速の行はできなかっただろう。
いずれにしても、かの御馬は今でも吾輩にさえ憐れみの念に堪えるものだ。

 また心光院は、初めは今の本坊の側の新道というところにあったが、
火災に度々罹ったので、ついに今のところに移されたという。
ならば初めは御馬を埋めたところは今のところではない。心光院はもとは方丈の内道場と言う所であったのであろう。
(甲子夜話)


東京タワー側の心光院、お竹如来以外にもこんないい話があったんですね



942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/18(月) 08:32:41.95 ID:smVtlRxu
馬は4年ぐらいでも立派な大人の馬だが、
寿命だけなら20年(現代では30年)くらいも生きられる
というので、二十二というのはあながち間違いというわけでもなさそう。

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/18(月) 12:33:33.95 ID:bzKhQP9H
赤兎「わずか二十二で亡くなるとか、主人に不忠じゃのう」

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/18(月) 12:57:39.89 ID:MTCAvQpS
江戸から駿府を一昼夜で走ったら22じゃなくても逝きそう

945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/18(月) 13:59:36.75 ID:Jho+/2z/
>>940-941
その時代にも逸話を真面目に検証してるのが面白いな。

医療も馬の環境も充実してる現代ならともかく、昔に22まで生きたのが信じられないのは当然かも。

徳川秀忠も同意であり

2016年06月14日 17:48

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/14(火) 02:34:32.03 ID:VPNrXKgR
徳川家康武田勝頼のことを、「若気ゆえに強ちすぎて、終に滅亡した」と
言い、殊に惜しんだ。徳川秀忠も同意であり、勝頼の子孫を尋ねたところ、

宮原右京(晴克)の母は勝頼の娘である旨が申し上げられ、秀忠は喜んだ
様子で、「初めて聞いた。その他にはいないのか?」と、言った。

家名の絶えたことを憐れんでのことである。

――『明良洪範』



836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/14(火) 03:12:55.53 ID:G40Fhy1X
清和源氏足利基氏の血筋なり。上杉憲寛、上杉義勝、宮原義照と続き
義照の実弟義久を養子とす、兄弟同母が真理谷信政の娘なり。
義久、家康より勝頼娘貞との結婚と嫡子は宮原姓、庶子は穴山姓を名乗ることを命ぜられる。
高家なり。


837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/14(火) 07:08:30.30 ID:ym6v2zfR
>>835
甲陽軍鑑のせいだけど家康、勝頼は数えで4つしか違わないので
完全に同年代なんだよなぁ。

838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/14(火) 08:00:59.65 ID:twXBwpVX
真理谷信政ということは武田信長の子孫か

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/14(火) 08:10:57.18 ID:X1xNTxNG
真理谷には信玄の子供が養子に入ったという伝承があったような

道器一致の旨にかなう

2016年06月09日 17:11

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 21:37:51.16 ID:fbNcmqXW
 前に、増上寺虫干しのとき、台廟(徳川秀忠)の御具足を出し、
その御鎧に銃丸の痕が所々有ることを言った。
予は台廟は御戦場でこのように銃を蒙りなされたこと無かったと疑った。

 然る後に、軍講者の宗耕に会う。このことを語ると、
「不審もっともでございます。それは関が原の御合戦の時、
小山御陣で台廟が御物見として通りなさったところを、真田が山上から銃を連ねて撃ったときのものです。
このとき御側衆には、討ち死にの人が二、三人有ったとの事です。」
と話した。

予は聞いて歎息し恐れ入った。これらは(坂本)天山が伝える所の、道器一致の旨にかなう。
(甲子夜話三篇)

道器一致ってなんでしょうかね



695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 22:01:15.68 ID:etFF9G+S
道器、道具、甲冑

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 22:06:27.62 ID:xCyA6pUL
同母弟のがほぼ同時期に狙撃されたのは偶然なのか

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/09(木) 12:03:16.65 ID:Acm8aK/8
暗殺だよ。

台徳院が着られた御具足

2016年06月08日 17:08

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 00:49:24.05 ID:fbNcmqXW
 芝の宿坊雲晴院は、増上寺で役を勤めた者で、年をとって引退し故里因州に帰っていたが、
故あってまた私の宿坊の住持としている。
 この僧はかつて方丈の虫干しに関わった者なので、よくそのことは知っている。
虫干しの品も数多いことゆえ、御朱印部類、御甲冑部類、御刀剣部類など唱えて、
御代々御寄附等の品々をよく干していたという。

 分けて御秘蔵の品として伝わる物は、方丈の書院に干す。
その中に、台徳院(徳川秀忠)が着られた御具足があった。その御背の所に、銃丸の痕が所々あったという。
恐れ入ることである。台廟は、神祖のように御戦場の話はあまり聞き及ばないが、どこでこのような危うい御事があったのだろうか。
これが御秘蔵の御物なのはしかるべきことであろう。

 宗耕曰く、『慶長外伝』に中に書いてあるそうだ。
『慶長五年九月七日、江戸中納言[台廟]、信州上田へ御出勢なされましたとき、
城中から真田勢が打ち出で、その他、山からの手勢と合わせまして、
御旗本へ鉄砲を撃ち掛けましたので、御勢は三町まで繰り上げましたという。』
これによれば、この御具足は正しくはこの時のものである。
この時御側の輩にも、不慮の討ち死に等が有った。
との話である。

(甲子夜話三篇)

今でも残ってはなさそうですねえ




687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 01:16:10.80 ID:vr887YWi
当たっただけで貫通はしてないのかな

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 05:35:28.46 ID:YdrSKFuN
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3852.html
遺骨調査によると骨まで達した銃創痕があったとか
真田のせいだとしたらそりゃ九度山下山を許されませんわ

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 10:03:38.48 ID:YCJF0dkB
>>688
第二次上田合戦で秀忠が負傷した記録は、伝承も含めて一切存在しないし、
仮にそんな重症を負ったら、逆にあんなに早く家康のもとに駆け付けられない。

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 11:41:35.45 ID:8tzKO/kN
隠蔽したんじゃないの?ひと揉みに攻めたら反撃くらって負傷とか跡目相続に関わる事件だわ

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 12:36:54.76 ID:CmxE+Ops
隠蔽って便利な言葉だな。

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 13:07:12.04 ID:mrEuZqdb
まあ、この話も甲冑に弾の痕とはあるけど怪我したとは書いてないね
軽傷くらいは負っていそうだけど、骨に残るような銃創ていつ負ったんだろうね

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 15:40:34.79 ID:EuFT9BDA
>>688
こういう逸話を思わせるのいいね、ロマンだわ(実話とはいってない

徳川秀忠へ譲られた七宝

2016年06月01日 18:22

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/01(水) 03:56:01.37 ID:ywUkHrR1
以下は徳川家康から徳川秀忠へ譲られた七宝である。

捨子(茶器)
薬研藤四郎
義元左文字(三好政長が所持したので宗三左文字ともいう)
投頭巾(茶器)
円座(茶器)
円悟
ちすいほねはみ(小さ刀)

秀忠の他界は24日の夜4時であった。その昼の七つの頃、秀忠は
前述の七宝を徳川家光へ譲った。(使者・秋山修理正重)

そしてこの他にまた1つ譲られた。それは土井大炊頭利勝である。
利勝は長年心安く側に召し使われ、他界に及んで落髪などすれば
惜しいことと秀忠は思ったので、その時より差し上げたのである。

秀忠は「以前から長く召し使っていたもの同然に思し召されよ」と、
家光に告げたのであった。

――『武功雑記』

私が及ぶところではない

2016年05月20日 10:43

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/20(金) 00:23:35.05 ID:igMUeQhK
ある時、将軍徳川秀忠は駿府城の二の丸に1ヶ月ばかり滞在していたことがあった。
大御所である家康は阿茶局を召して言った

「将軍は壮年であるのに、旅住にあるのも既に一月なれば、いろいろ退屈にも思っているだろう。
美しい花(女性)に菓子を持たせて、我が命だと言って遣わせば、拒否もしないだろう。
お前の心得にて計ってくれないだろうか?」

これに阿茶局
「よくお心付きたる仰せです。」と、早速女性を選びこれに菓子を持たせて、宵の口の頃、ひそかに
参上させた。

尤も、秀忠にはかねてより阿茶局から斯くと申し上げ置いてあったため、秀忠は裃を着た姿で女性を
待っていた。女性が秀忠の部屋の前に来ると、彼は自ら立って戸を開け、彼女を上座に座らせ、
持ってきた菓子を頂き、手をついてそれへの御礼を申し上げると、女性に

「さあ、早く帰られよ。」

と、自ら先に立って戸口まで送った。その姿意義正しく、言語厳かであり、女性は顔を真赤にして
立ち帰り、この事を阿茶局に報告した。

このように、秀忠が女性を、あくまで家康からの遣いとして対処したことを聞いた家康は
「早くも帰されたのか。将軍は元より律儀な人であるが、私が及ぶところではないな。」
そう感嘆したという。

(慶元記)




兵部少輔、覚悟せよ!

2016年05月05日 13:50

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/04(水) 19:53:39.95 ID:wIDEY8AF
徳川秀忠は関ヶ原合戦の時、真田安房守(昌幸)に防がれ、合戦の終わって後に
美濃に到着したことに、徳川家康は不快に思い、「持病の寸白を発した」と言って、
対面を許さなかった。

秀忠は「さては着陣が遅くなった為、故意に会おうとされないのだ」そう推量し困惑し、
幕の外に出たあと少しく落涙した。
この時、秀忠に従っていた榊原康政、大久保忠隣、本多正信、酒井備後守忠利を
はじめとした御家人たちを一人も召さず、下陣すると言い出した。

井伊兵部少輔直政は秀忠に仰せ言を述べて後に、榊原らに対し荒々と言い放った
「中納言様(秀忠)が遅く上らせ給い、大軍が合戦に間に合わなかったのは、各々の
不覚である!」

しかしこの発言に対し彼らは、家康の機嫌を憚り返答するもの一人もなく、それぞれ
退出した所、酒井忠利は御前であっても所存を臆すること無く言う人であり、
兵部少輔の言葉を聞いてこう思った

『秀忠公の御舎弟、下野守殿(松平忠吉)は井伊の婿であるため、今度の合戦に後見して
鮮やかな戦功があったと聞く。このため、直政はむやみに秀忠公の遅参を言い立て、
忠吉様の御手柄を吹聴しているのではないか?』

そして一人その座に居残り、直政に言った
「兵部殿の先の言葉は心得がたい!何故ならば、中納言様が遅参したのは正当な理由ある
事であり、内府公(家康)が機嫌を悪くされるような話ではない!
それなのに、若き殿の憤りを憚らず、粗忽のことを申されるのはいかなる心中に候や!?」

井伊直政はこれに冷笑した
「言っても返らぬ事だが、天下の人の口にそう懸かってしまう、その口惜しさに申すのだ。」

忠利は屈せず
「例え、本当に誤りがあって内府公の御機嫌よろしからずという場合であっても、格別の時期であるから、
御父子の対面があるように、貴殿こそ申し直すべきなのに、その計らいが無いだけでなく、今更無益の
批判を言うとは何なのか!?
この上も我らと争い、中納言様の御事を悪しく申すのなら、兵部少輔、覚悟せよ!」

そう言いざまに直政に向かって進み寄る所を、側にあった諸士が慌ててこれを止めた。

井伊直政が申す所は、秀忠の身にとって、心良からぬ事であった。並の気質であれば、直政は
秀忠の不審を被ったであろう。しかし秀忠は露ばかりも彼を悪む様子がなく、却って、彼が死去した
時には、深く惜しんでいたという。

(新東鑑)



587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/04(水) 19:57:53.36 ID:Huu4TCor
家康「真田を無視しとけよ
寸白(サナダムシ)を理由に会わんことにする」

紅葉山東照宮の御神体

2015年12月16日 06:32

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/16(水) 03:36:51.18 ID:/Y9EknLU
 江戸城中の紅葉山東照宮に御神体にすべきものが無かった。
そこで久我家へ御家に先祖から守りなさっている神功皇后の御鏡を拝見したいと懇願された。
 久我家は関東に見せるため送ったところ、奪い取られて返してこないので、使者は仕方なく京に帰ってしまった。
その後、御鏡は東照宮の御神体と崇められていたところ、不思議なことにその夜から紅葉山の宮は、昼夜の分けなく鳴動地震が
甚だしく、まことに神功皇后の御憤りに違いないと、君臣ともに戦慄してしまった。
すぐに久我家へ返したところ霊異も止んだという。
(本阿弥行状記)

神功皇后の鏡が残っていたとは知らなかった。
しかし、神功皇后は武士が崇拝する八幡宮で奉られている神

この逸話は、
この神の依代を奪うことで武士の棟梁としての確立しようとしたこと、それと同時に源氏長者の地位をライバルである村上源氏から幕府が奪おうとしたこと、暗喩であるのだ

ということもこじつけようと思えばできますね




768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/16(水) 22:49:13.54 ID:fSwnyNND
明治期の薩長族と同じようなことしてんな

三年の休息

2015年09月16日 13:27

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/15(火) 20:32:23.34 ID:94hHNS5O
大御所・徳川家康の病が重篤と成った頃、将軍・秀忠は昼夜家康の側に控えていた。
この時、家康が秀忠に言った

「現在の天下の政治は善道であるので心配はしていない。ただ、大阪落城後程無い時期でも有るので、
世上の安定のためにも諸侯には3年の間江戸在住を申し付けてはどうか?」

秀忠はこれに涙を流しつつ
「大命の赴き、謹んで承りました。しかし父上に万が一の事があったとしても、諸大名は大阪両年の役で
困窮しております。ですから3年の間、休息を申し付けたく考えています。」

これを聞いた家康、枕から頭を上げて
「天下は長久である!これにて安堵した!」
そう、殊の外御機嫌と成った。

そして家康の死後、秀忠は諸大名を前に仰せ下した
「大阪の陣を相勤めた面々は、困憊している。であるため当年より3年間、休息するように。」

ところがこの時、伊達政宗が進み出て
「上意の趣、有難いことです。ですが御代になって間もない時期でもありますから、
他の者達はともかく、私はこれから3年間、江戸詰め仕る覚悟でここにおります!」

この政宗の発言を聞いた諸侯達、何れもが「私も!私も!」と3年の江戸詰を申し出た。

(明良洪範)



316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/15(火) 20:48:08.89 ID:kPEFYiSo
権現様は政宗がこうすることを読んでいたのか?w

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/15(火) 21:35:42.10 ID:I/Lou4cp
悪いはな…し…?

あまりの有り難さのあまり

2015年06月28日 13:49

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/28(日) 07:47:50.83 ID:fosTrykK
徳川秀忠が鷹狩を行った帰りに、鶴の料理を家臣たちに振る舞った。
この時秀忠より、自身の侍医である「野間玄琢にも食べさせよ。」との上意があり、
そのため玄琢は頂戴したのだが、あまりの有り難さのあまり、鶴の御汁を頂きすぎて、
自分の頭から襟の周りまで熱い汁をかけてしまい、散々の体となってしまった。

この様子を秀忠は見たのであるが、この時脇差で頬杖をした状態であったのを、その姿のまま眠ったような
様子になり、玄琢の方を見ることはなかった。
これは自分が玄琢の散々な様子を見てしまうことで、彼に迷惑がかかるのを防がれたのだという。

(明良洪範)




248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/28(日) 07:55:02.91 ID:ULF/8Hgm
狸の子寝入り

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/28(日) 11:14:02.70 ID:+ODgI+P4
笑ってはいけない秀忠

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/28(日) 12:11:30.05 ID:nNBLEnjZ
「ありがたき幸せ~」って頭の上に持ち上げすぎちゃったのか

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/28(日) 12:52:36.35 ID:A/lytio3
頂きすぎって汁を持ち上げすぎたってことか
大量に頬張っておかしくなったのかと思った

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/28(日) 12:59:45.11 ID:4XJCWfrc
大きい器だとこぼしやすいよね

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/28(日) 15:18:04.31 ID:CcgXm/9j
玄琢「かけるなよ、かけるなよ…」

大母殿の事

2015年05月31日 17:07

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/31(日) 16:22:36.31 ID:HMaA3uKM
大母殿徳川秀忠の乳母で、賢良な女性であった。しかしその子の某は山中源左衛門の党類であったため、
流罪となった。(旗本である山中源左衛門が、江戸市中で無頼行為をしていたことが発覚し切腹となった事件)

しかしその後も、大母殿に対する秀忠の尊敬は衰えること無く、彼女の徒然を慰めるため、月に3,4度は
茶の子(菓子)を贈った。彼女はこれを近習の女中などに遣わし、話などして彼女たちの労を慰めた。

この大母殿には月に1,2度ずつ、決まって行うことがあった。
それは、大きな切板に飯をうずたかく盛って、六尺(雑務係)や中間たちまで自由に呼び入れ、
自身でこの飯を振る舞うことであった。

本多佐渡守(正信)これを聞き、初めてその様子を見て大いに驚き、大母殿に意見した
「ここには夫々の女中も多いのですから、誰かに申し付ければよいではありませんか。
ご自身で飯を盛るなど、あまりに軽々しいことです。」

これを聞いた大母殿は、飯を盛っていたしゃもじを止めて佐渡守に振り向き
「最近、あなたが驕っていると人々が言っていますが、私はそれは虚説だと信じていました。
しかし只今の一言で、そういった人々が言っていることも事実なのだと思いました。
その方、弥八郎と呼ばれた頃の事を忘れたのですか!?

この婆は三河では賤しき者であったのに、思わずも上様に御乳を差し上げ、今はこのように
御厚恩を蒙り、大変に結構にして頂いております。

私が三河にて賤しき時分は、5,6人の客人へ飯を振る舞う事も出来ませんでした。
しかし現在では、何人に振る舞うとも自由となりました。
それ故、賤しき時のことを思い出しこのように時分で飯を盛るのです。

現在は富貴の身となりましたが、この婆は昔を忘れません。
しかし其の方は、早くも弥八郎の時のことを忘れたように見えます、そんな心得では、大事のご政務に
預かっていることも心もとなく思います。」

これには流石の佐渡守も殊の外困惑して帰っていった。

その後、大母殿は病にかかり、甚だ心もとない体調であると聞こえたため、将軍秀忠は見舞いに行き
こう声をかけた
「思ったよりも顔色が良いではないか。しかし、今のうちに言っておきたいことが有れば、何事でも
申し置くように。どんなことでも叶えたい。」

その時、大母殿は
「何もありません。

今の私の願いといえば、ただ上様が、権現様の御条目を御違いあそばされず、天下のご政務が、
人に後ろ指をさされぬよう、常々ご油断の無きように願い奉る以外に、何も申すことはありません。」

秀忠も、大母殿の思いを理解した。
「しかし、それ以外に願うことはないか?」

「このように結構にして頂いているというのに、これ以上何の願いもありません。」

こうして秀忠は立座し部屋を出ていこうとした時、彼女は「上様」と呼び返した

「上様は先頃から、再三に何か願いはないかとお尋ねに成りました。この事は、私の伜のことを、
この婆が臨終に際して気にかけるとお考えに成ってのお言葉だと思います。

しかし、絶対に御赦免してはなりません。
もしこの婆に免じて御赦免されたなら、御乳を差し上げた馴染み故天下の大法を犯されたということであり、
後代まで政道に傷のつく、有るまじき事であり、それこそ私の黄泉への障りとなります。
どうか必ず、御赦免なされませんように。」

そう言い終わると、間もなく卒した。人々はみな、その志の程に感嘆したという。
(明良洪範)



110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/31(日) 20:58:07.51 ID:nVSvJ3lg
で、正信は?

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/31(日) 22:17:41.98 ID:TLw/66af
いい話だ…
けどその後息子はどうなったんだろう。
あと、89歳とは長命だが、55歳で乳母って本当?

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/31(日) 22:38:07.67 ID:EF3ETCaI
乳母といっても母乳を与える人だけをさすのではなく
母親の代わりに子育てや教育をする人も乳母というみたいですよ

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/31(日) 22:43:19.34 ID:bw12OwFu
乳母も傅も「めのと」だしな

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/31(日) 23:09:52.54 ID:utGOVjQL
秀忠は実母を早く亡くしてるからか乳母とか大切にしてそうなイメージあったな
個人的に

1605年、秀忠将軍就任の様子

2015年01月19日 18:40

572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/18(日) 16:51:17.76 ID:+li5LsnP
日本に平和が存在することはすこぶる稀なことで、それは毎年奇跡と見なされるほどある。
それゆえ将軍、すなわち公方、内府様(徳川家康)がそれら諸国のすべての絶対的君主となって以降、
既に数年にわたってそれを享受していることは極めて大いなる奇跡である。
彼は、大将軍としての勇気、気力を欠くわけではないが、すこぶる思慮に富み、生来安寧を愛するので、日本帝国の統治を巧みに行い、
誰も彼に対して敢えて頭を上げぬよう、万人を制御して帝国を平和のうちに維持し保持するのみならず、
また領主や個々の殿たちの間に、かつてあったような軋轢や不和が生じないようにしている。

そして、その前任者、太閤の息子で若君豊臣秀頼様
(その父の死によって、内府は若君の最高後見人となり、成年に達した暁には帝国を譲渡することになっていた)に関しては、
こうなるのではあるまいかと思いながらも、彼がいかなる決断を下すか判らないために、これまですべての人を不安がらせていたが、
本年、決意を明らかにし、帝国を己のものとして占奪するだけでなく、自らの一族のうちに永遠に留めることに決めた。

これゆえ、己が世襲の領国である関東諸国から息子を上洛せしめた。
次男ではあるが、彼に将軍あるいは公方の称号を与え、自分の死後は帝国を相続するよう、彼を嗣子かつ相続人にしておいたのである。
この若君は、その国だけではなく近隣諸国のすべての領主を伴い、七万の戦士とともに来た。
この随行者たちをひきつれて、父が待っている都に近い伏見の政庁と城に到着した。
南方の諸国の他の多くの領主たちがその地から彼を迎えに出た。
こうして、このような盛儀をこらして都に入り、多数のいともすばらしい兵士たちを華々しく披露した。
彼らは様々な衣服や衣装を身に纏い、落ち着き払っていて、ヨーロッパにおいてさえ一見の価値のあるものであったろう。
数日後、内裏の手から将軍の称号を受けに行ったが、受けようとしている称号が要求するところから
(ここ、我らのヨーロッパで皇帝が教皇の手から帝冠を受けに行くのと同じように)
衣裳のみならずそのような儀式において習いとなっているその他の位階章にいたるまで、
都に入った時よりもさらにいっそう豪華絢爛であり、万事において整然と秩序立っていたので、これを見たすべての人をすっかり驚嘆させた。

しかし、さらに驚くべきことは、すべてがきわめて平穏かつ冷静に行われたことである。
息子とともに来た者、父のもとにいる者とで十万以上の兵士が集まり、
またこの盛儀の模様を見物のために至るところから集まったの他の人々は無数にのぼるにもかかわらず、
その盛儀の続行中と、さらに新将軍が政庁にとどまっている間、ずっと、騒擾、混乱、喧嘩、抜刀騒ぎも、
傷害沙汰も見られなかったことは、どのようなキリスト教団にあっても奇跡的なことと考えうるが、日本においてはなおのことである。
このことはすべて、老将軍がその逆のことを厳罰を持って禁じ、良政を施し秩序をもたらしたがゆえである。

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/18(日) 16:53:58.17 ID:+li5LsnP
老将軍(家康)が、息子(秀忠)をこれほどの権勢と盛儀をもって新たな称号を受けるために召喚させた理由は、
老将軍が言っていたように、往時の日本の君主源頼朝が、同じ将軍の称号を授かるために同様に関東の諸国から都へ独自の仕方で上ったのに倣うためであったが、
その真の理由は、誰もが信じているように、太閤秀吉の息子である若君(秀頼)から大坂の城と街を奪い取り、
これによって、かつて自分の父のものであったその帝国をいつの日か相続したいという、若君がまだ抱いている希望を断ち切るためであった。
(中略)
若君はこのたび、帝国を相続することにはならぬことを悟ったばかりではなく、以前有していた勢力が大いに減少した。
その証拠に、彼の同盟者であり熱心な支持者である数人の領主たちが、もはや彼、その人に期待も頼りもしないかのように、辞去の挨拶もせずに自領に戻ってしまった。

このことにはデウスの正しい裁きが欠けてはいない。
なぜなら、彼の父(豊臣秀吉)が、主君で前任者の偉大な織田信長の後継者嗣子(秀信)に同様のことをしたからである。
彼もまた、信長の子(孫)の後見人になり、帝国を奪い己のために横奪した。
そうしてまたデウスは、若君の父秀吉がキリストの御名の、きわめて邪悪でいとも激しい迫害者かつ敵であったところから、
悪事において父を模倣せぬよう、彼が帝国を相続することを許し給いはしなかったのである。

(イエズス会年報集)

宣教師から見た1605年の秀忠将軍就任の様子。




574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/18(日) 19:35:04.37 ID:4VBmSEFc
さすがにこの時点でのイエズス会は、後に徳川幕府の鎖国、禁教政策が
秀吉時代より苛烈になるとは予想だにできなかったんだろうな。

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/18(日) 20:20:28.08 ID:J+O67atp
島原の乱があったからなあ

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/18(日) 21:44:29.51 ID:01UDUlbA
どっちかというと、イギリス・オランダの進出が原因だろ

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/19(月) 13:37:36.58 ID:74L6HPrm
>このことにはデウスの正しい裁きが欠けてはいない。
>なぜなら、彼の父(豊臣秀吉)が、主君で前任者の偉大な織田信長の後継者嗣子(秀信)に同様のことをしたからである。
>彼もまた、信長の子(孫)の後見人になり、帝国を奪い己のために横奪した。

こういう見方は当時から存在したんだな。
もうみんな信長の頃のことなんてすっかり忘れてると思ってた。

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/19(月) 21:04:01.49 ID:O2bO8PMr
(既存の仏教勢力を牽制する都合上)信長が宣教師を優遇したこともあり、
イエズス会は信長を称えるとともにその織田政権を簒奪した(と彼らには見える)
秀吉に対し批判的だったんだろうな。

何事も一己の思慮ですることなく

2015年01月07日 23:38

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/02(金) 23:43:42.16 ID:uLnJUPTc
台徳公(徳川秀忠)がある時仰せになったことには、

「おおよそ人は愚者だからといって、不調法ばかりするわけでもない。
賢者だからといって誤りが無いわけでもない。

かえって道理に賢い者は、その事の体源(根源に同じか)を深く考えずに
事を行うため、事によると、道理に働かせる誤りがあるものだ。

何事も一己の思慮ですることなく、小事でも人に相談してその人の思慮を
聞く時には、己が深く考えたことでも、やはりいまだ気付かないところが
あるものだ。

お前たちもこの理をよく心得て事を行えば、過失の無いことであろう。
決して自分の一存で事を決断して行ってはならないぞ」

とのことであったという。

――『明良洪範』

秀忠公は御近習の人をお呼びになり、事のついでに、

「道理に明敏な者の多くは、道理を尽くさない。これは自分の才智に思い
を向けて、事の根源をよく察しないという誤りである。

これより他にはあるはずがないと思う事をも人に問い、自ら省みる時は、
ここの障りかしこの憂ひあり。
(直訳すると「ここには差し支えがあり、あそこには災いがある」)

お前たちが常にこの理を思えば、事を行う時に過失は少ないことだろう。

武士が自ら決断して世間の噂を憚らないことは、全く異なる意義だぞ」

と、仰せになられた。

(武士の自ら決断して人口を憚らざるは、格別の義ぞと仰せらる。)

――『武将感状記』