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『水谷蟠龍記』から領民思いの良い君主と恩返しする良い領民

2010年12月10日 00:00

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/09(木) 16:17:08 ID:0QM4xyhT

いい話スレに投下したのに、「確かにコイツ、ヒャッハーだよね」なんて一言を付
け加えてしまった水谷さんのお話。
>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4936.html
お詫びがてらに今度こそ、正真正銘良い話……かな?(^^;


ある年、常陸国では不作となり、水谷蟠龍が治める下館領では、年貢が例年の三分
の一程度しか納められなかった。

「これでは来年までの一年間、財政的にやって行けないぞ」
水谷家の重臣達が頭を抱えて対策を練っていると、
「おい、これを処分して金を作れ」
主君・蟠龍が差し出したのは水谷家に伝来する家宝の刀、六振り。

「な、何を仰いますか!? 家宝の刀を質に入れるなどと……」
「質? 何を言うか。質では安く買い叩かれる。こういう時はパァッと売り払うに限
るのだ。売っちゃえ、売っちゃえ!」
「……そ、そんなっ!」

「名刀など千振り持っていたとしても、千人の侍がいなければ役には立たんではな
いか。無駄に名刀を持っているより、百人、五百人の譜代の衆を助ける金に替えた
方がどれだけ有益な事か。いいから売って来い!」

蟠龍は六振りの名刀全てを売り払い、来年度の予算に充てた。しかも余った金は家
中の侍、百姓達にまで配布し、生活の足しにさせたと言う。


これに感激した領民一同、翌年が豊作となると皆で金を出し合って、一旦は売り払
った家宝の名刀を全て買い戻し、蟠龍の元へ献上した。

「お前達……せっかく今年は豊作だと言うのに、こんな事をしたのでは、今年もお
前達の生活は苦しいままではないか……」

蟠龍は皆の心遣いに感激しつつも、領民の生活を思い、布告を出す。

「今年の年貢は例年の三分の一を納めればそれでよい」

百姓一同、これに驚き、「それで国はやっていけるのか」と、布告の撤回を求めた
のだが、蟠龍はこれを譲らず、結局その年は三分の一しか年貢を受け取らなかった
と言う。


……あれ?三分の一じゃ、やって行けないから刀を売ったんじゃなかったっけ?
水谷蟠龍記』から領民思いの良い君主と恩返しする良い領民のお話。





756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/09(木) 19:10:18 ID:NpoITbE5
>>747
なんという名君。
あと「例年」の1/3と「豊作時」の1/3じゃ後者の
方が多いんで財政的に困んなくても不思議は無い。

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/09(木) 19:19:44 ID:1CrEEs7+
豊作時にも例年の三分の一って言ってるが

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/09(木) 19:50:55 ID:NpoITbE5
あ、本当だ。見落としてたごめん。

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/09(木) 20:18:09 ID:+0VGiwu9
>>747
だからあれだよ。領民が買い戻した名刀をもう一度売り払ってだな。
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『水谷蟠龍記』より蟠龍少年の度胸の良い話?

2010年12月07日 00:00

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/06(月) 15:45:26 ID:f0zEpWkg

常陸国下館に水谷蟠龍斎という武将がいた。
母が老僧から貰った玉を飲み込むという夢を見てから、ちょうど一年後に生まれた
子供であり、左眼には瞳が二つあった為、
「観音様の御加護を受けた若君だ」
と評判になった。

赤ん坊の頃に一度も泣き声を上げた事がなく、七歳で弓馬兵法を習い、八歳で師匠
を超えた。九歳からは仏道の修行にも励み、十一歳で家臣の間の争いを自ら決裁す
るという知勇を兼ね備えた少年であった。

十七歳で初陣を飾り、見事な手柄を上げた蟠龍であったが、その翌年、とある事件
を起こしてしまう。
水谷家と共に結城家に仕えていた多賀谷家。
その多賀谷の家老であった成田主馬が蟠龍の前を騎乗のままで通り過ぎようとした。
それを見咎めた蟠龍が、問答無用で成田を斬り殺してしまったのである。

多賀谷家ではこれに怒った。
「成田に無礼があったと言うなら我等に訴えるべきではないか、それが事実である
なら謝罪もしよう。だが、詮議もせずに問答無用で斬り捨てるとは乱暴過ぎる!」

同じ結城家の配下武将同士でもある。力を合わせるべき両家なのだから、過激な行
動は控えるべし、と言った所か。
しかしこの抗議に蟠龍、
「無礼を働かれてその場で処断しないのは臆病者のやる事だ。味方だろうと何だろ
うと、我が水谷家に無礼を働いた者は即刻斬る!これが水谷家のルールだ」
と、返答。

多賀谷の抗議に対して「お前等のやり方は臆病者のやり方だ!」と罵りを返したの
である。
これはもう、全面衝突しか残っていない。
多賀谷軍が下館城を囲み、水谷軍もそれを迎撃する構えを取る。

慌てたのは結城政勝、二人の主君である。
両軍が対峙する下館城に、自ら出馬して双方に説得を試みた。
「多賀谷と水谷は車の両輪、鳥の両翼である。片方が滅亡したら、もう片方も、結
城家までもが滅びてしまう。私の顔に免じて、これ以上の争いは勘弁してくれない
か」
最早説得と言うより懇願である。

主君にそこまでさせてしまった事に、流石に罰の悪さを感じたのだろうか。二人は
共に兵を退かせ、政勝の前で和睦の酒盛りを執り行った。
政勝は両将の仲直りを非常に喜び、感激のあまり家臣のお囃子に合わせて自ら『高
砂』を舞う程であったという。


水谷蟠龍記』より蟠龍少年の度胸の良い話? 私は部下の戦争に自ら割って入った
結城政勝さんの良い話のようにも思えた。
まとめブログの方では「坂東を代表するヒャッハー」などとコメントされてますが、
水谷側の記録ですからかなり良い感じに描かれています。
やってる事自体は敵陣に単騎突入したり、味方の重臣切り殺したりと、確かに制御
不能のヒャッハーという気がしないでもないですね。ww




水谷蟠龍の田野城攻め

2010年12月03日 00:00

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/02(木) 13:28:24 ID:+1mMNY8a

天正十三年、常陸国田野の領主・羽石内蔵允盛長が、結城晴朝から離反し、宇都宮
家に通じているのではないかと風評が立った。

晴朝は配下の久下田城主・水谷蟠龍を呼び出して告げる。
「羽石の謀反は噂などではない。本当の事だ。奴の討伐は他の者にも命じてあるの
だが、もし討ち損じたら結城家の恥となってしまう。念には念を入れて、そなたに
も出陣して貰いたいのだが、どうか?」

この申し出をあっさりと引き受けた蟠龍、結城家諸将の軍勢を待たず、水谷軍のみ
で田野城を急襲する。
「羽石が宇都宮家に通じているのは明白だ。長引くと笠間からの援軍が来るぞ!て
っとり早くサクッとヤッちまえ!」

しかし、これは流石に羽石の事を舐め過ぎていた。
元々晴朝が、他の連中だけでは心許ないと言う程に武勇に優れた武将であり、田野
城も堅固な要害である。
水谷軍は攻め込みながらも攻めきれず、宇都宮家配下の笠間軍による援軍を許して
しまう。

早くも水谷軍が戦線を開いた事、笠間軍の援軍が田野城に入った事を聞いた晴朝は、
急いで結城軍からも援軍を編成して田野に送り込んだ。
また、宇都宮家の家臣でありながら結城家に通じ、笠間家とは犬猿の仲であった益
子家からも援軍が届いた。

「援軍忝い!これから水谷軍が城を落します故、益子・結城の両軍は周囲の警戒に
当たり、重ねての援軍がある様なら、これを追い払って頂きたい!」

速攻での決着を諦め、腰を据えて攻撃を始めた蟠龍。
三晩四日の間、攻めに攻め続けて、三千の敵兵は三百余りにまで数を減らしていた。
「最早ここまで」
勝負を諦めた羽石はしかし、腹を斬る事よりも、戦って死ぬ事を選ぶ。

「我こそが羽石内蔵允!雑兵共はそこを退け!水谷蟠龍、尋常に勝負いたせ!」
最後に残った本丸の門を開け、水谷軍に向けて突撃を決行する羽石軍。
この突撃を知った蟠龍も、羽石の奮戦に報いるべく、前線に馬を走らせた。
水谷蟠龍、この時六十三歳。
互いに槍を合わせ、半刻程の打ち合いの末羽石内蔵允は力尽き、田野城は落城した。


田野領が水谷・結城・益子の三家で分割された時、羽石家で飼われていた名馬「田
野黒」を蟠龍が手に入れた。
後に徳川家康から書状が届いた際、その返信と共に田野黒は徳川家へと贈られた。
家康からは名馬のお礼として、一羽の鷹が蟠龍に贈られたと言う。

いよいよ老境に至った蟠龍、自ら筆を取って自画像を描き上げたのだが、その際に
家康から貰った鷹を一緒に描き、
「私の死後、この鷹も私と共に成仏させてやりたいのだ」
と語ったのだと言う。


>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4886.html
のコメ10でちょっと触れられている水谷さんの田野城攻め。
『水谷蟠龍記』だとこう書かれてますよ、と。

つか、全体的には良い話寄りだとは思うんですが、援軍に対して「俺達だけでやる
から、お前等はそこらで見てな!」ってのはどうよ?
彼等にも面子ってもんがあるんじゃないか?