朝倉宗滴と古渓宗陳

2010年12月06日 00:02

670 名前:信長の菩提寺の・・・[sage] 投稿日:2010/12/05(日) 17:20:14 ID:wfofgJy3
朝倉宗滴は「朝倉宗滴夜話」の中でこう述べている。

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人というものは妻を娶って子供が出来たならば、たとえその子が片輪者で
あろうとも相続をさせるのが普通である。
私が実の子を廃嫡して養子を迎えた(※宗家から景紀を養子に迎えている)
ことを不思議に思っている者がいるが、こういう理由がある。

貞景様(義景の祖父)の時代に一族の小次郎(初代孝景の次男景明の子景純)
が孝景様の孫でありながら、既に宗家とは縁が遠くなり、集まりの際の席次も
決して高くはなかった。それを見た家中の者どもも彼を冷淡に扱った。
我が兄景明の子がそうであれば、末弟である我が子も同じであろう。
だから自分は惣領貞景様の子を養子に迎えたのだ。これは我が家のためでも
あり、我が家臣のためでもあるのだよ。

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時は変わって本能寺の変の後の京都。
羽柴秀吉が主催する織田信長の葬儀で導師を務める一人の高僧がいた。

名を古渓宗陳、あるいは蒲庵古渓。

出家後、下野国足利学校に学んだ後、京都大徳寺の江隠宗顕に師事。
堺の南宗寺住持を務めた後、天正元年より大徳寺住持となる。
信長菩提寺となる大徳寺塔頭総見院の開祖でもある。

堺時代に千利休と親しく交わり、その茶道の弟子となり、その参禅の師となった。
後に信長の新たな菩提寺建設を巡り、秀吉の怒りを買い博多へ配流される。

許されて帰洛するも、大徳寺木像事件に関与し利休は切腹、怒りの収まらぬ秀吉は
大徳寺をも破却しようとする。
命を伝える使者の面前で、古渓は短刀を手にして自害を試みる。この命懸けの抵抗に
秀吉も驚き破却を諦め、大徳寺は救われたのである。
その後は洛北に隠遁し生涯を終えている。


この古渓、実は朝倉氏の出身である。
信長に滅ぼされた朝倉氏出身の彼が信長の菩提を弔うとは皮肉だが、まだ二十歳そこそこの
大徳寺修行時代に宗滴一周忌に際して悼文を捧げている。



古渓は廃嫡された宗滴の実子   であったのかも知れない。




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