天正17年、安房万喜城攻防戦

2010年12月10日 00:01

744 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/12/09(木) 11:39:12 ID:E5fXw7SP
天正17年(1589)4月下旬のこと。

北条氏配下である安房万喜城主・土岐頼春は、北条氏による里見義康討伐のための派兵要請に従い、
重臣である大曽根右馬充、三階図書之助らに300騎をつけ、名代として小田原へと派遣した。

さて、これを見逃さなかったのが里見義康である。土岐頼春は房総の里見家にとって喉元の棘であった。
義康は上総庁南、庁北両城の城主、武田信栄に「万喜城からは多くの兵が相模へと派遣された。
これを攻め滅ぼすのは今しかない!」と、万喜城攻めを命じ、武田信栄は先鋒として家臣・多賀六郎左衛門、
多賀勘解由左衛門らに数百騎をつけ万喜城攻めに向かわせた。

さらに武田信栄は
「万喜城を囲んでもあの城は屈強の要害であり、簡単には落ちないだろう。
攻略に手間取れば万喜城の支城である鶴ヶ城、亀ヶ城より援兵が出て、我々は却って危機に陥る。
この両城を抑えた上で無いと安心して万喜城を攻め取ることは出来ない。」

と、佐々駿河守が籠っている亀ヶ城へ鶴見甲斐守70騎、鶴見弾正が籠る鶴ヶ城には一宮隼人50騎を
押さえとして派遣した。さあ万全である。

寅の刻(午前3時頃)、武田信栄は馬に轡を結び、密かに兵を率いて万喜城に向かい出陣。
万喜城からわずか1キロ、川一つを隔てた松丸村というところに陣を張った。
これまで武田が兵を出しても土岐は難所に兵を置いてこれを防いでいたのだが、今回は土岐の兵が
相模に派遣されて少なくなったことから、一気に城際まで押し寄せたのである。

万喜城の側はこの武田の動きを全く察知できず、夜明けになって敵が押し寄せていることを知り大いに驚いた。

土岐頼春が櫓に登ってこれを見れば、武田勢は持ち楯掻き楯をつき矢弾を飛ばして一気に攻め破ろうとする。
頼春は弓鉄砲を放って必死に防衛の指揮をとるも敵は大軍、衆寡の差はいかんともしがたく
城は危うきの縁にあった。その時である

武田勢の後ろに突然、軍勢が現れた。

これは万喜城の危機を知った土岐頼春の家臣、安房矢竹城主・浅生主水助が、付近の領民を集め、
高野城の勢と合わせて500騎で後詰めを決行したのだ。

「万喜城中の方々出て、先駆けの者共の剛臆を見給え!」

そう言い放つと後詰勢は鐘太鼓を鳴らし、大声で喚きながら武田勢の後ろを襲う!
武田勢、大いに驚き浮き足立つ。
これに万喜城の兵たちも力を得、城門を開いて討って出る。
一転、武田勢は挟撃される形となった。

その頃、巳の下刻(午前10時頃)、武田勢は寅の刻(午前3時頃)から深夜移動して長駆ここまで押し寄せた
上に、食事も出発前に取ったきりで、疲労はピークに達していた。その上でこの思いもよらぬ後ろからの
襲撃である。

武田勢は前後の敵に揉まれるように責め立てられ、悉く潰走。武田信栄は命からがら庁南城へと
逃げ帰る。土岐頼春、見事な逆転、大勝利であった。


天正17年、安房万喜城攻防戦のお話




745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/09(木) 13:02:00 ID:EF1MqZIr
兵の数が少ないが
やはり面白い
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