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酒井康治の弟、一位殿

2020年12月06日 18:04

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/06(日) 14:46:58.26 ID:HNbS3gTH
伯耆守殿(酒井康治)の弟に、僧となって一位と呼ばれた悪僧があった。
彼は生まれつき悪であり、善心の弁を知らぬ曲者であった故に、『一子出家すれば九族天に生ずる』の儀を
思し召され、坊主に成られたのである。

天正十八年正月二十三日、宮谷本國寺の日典上人が土気へ振舞に御出でになられた時、その昼に一位殿は
本國寺に参り
「愚僧こそ、今日よりこの寺の住僧である。皆々その事心得るべし!」
そう申すとすぐに磬台に登った。

寺檀は大いに驚き、早速土気へ申し上げると、殿様(酒井康治)は以ての外のご立腹で、早速対処するとの
事であったが、日典上人は先ず、畑ヶ中村にご住居になった事で、殿様のご立腹もいよいよ増し、
御役人に申し付け追い払わせられた。

この処置に一位殿も立腹されたが、力及ばぬ故に、すぐに房州に赴き、里見殿の元に罷り出て、
「土気の城を愚僧に給わるのであれば、兄伯耆守を討ち取り、首を御前に備え申さん。」
と、委細に披露した。

しかしその内に病に取り付かれ、長南まで来た所で相果てた。煩いは骨が痛む病気であったという。
浅ましいものである。例え仏道修行の心までは無くても、どうして方を猥りにし、その上恩愛の兄を
討とうなどと計ったのか。

経にも百千歳の間、百羅漢の供養をしても、一日の出家の功徳には及ばず、たとえば、人が有って
七宝の塔を建て、その高さ三十三天に至っても、一日の出家の功徳には猶及びがたしと見える。
このような無道の心を以て莫大の功徳を得られるだどうか、覚束ないことだ。

日典上人は翌年の正月まで畑ヶ中村に御座して帰寺遊ばされた。
私(著者)もこの件の解決について随分と骨を折り申した故に、このように書き置くのである。

『土氣古城再興傳來記』



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両酒井氏の交換トレード?

2012年11月09日 20:01

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/08(木) 22:22:32.73 ID:Saa11suA
第二次国府台の合戦の折、

北条方の土気城主酒井胤治は合戦の準備に手間取っていた。
というのも年の初めに急に合戦が始まったため、年始の行事と重なって大わらわになっていたのだ。
これに北条氏康は疑いを持ち始める。
「やる気がないのか?ひょっとして裏切る気なんじゃ…?」
この噂を耳にした胤治は頭にきた。
「今まで北条家に尽くしてきたのに疑われるとは!もういい、だったら里見につく!」
こうして胤治は里見方になってしまった。

一方上総にはもう一つ酒井家があった。
東金城主酒井敏房である。
彼は里見方として活動していたが、第二次国府台の合戦では北条有利とみて北条方に寝返っていた。


両酒井氏の交換トレード?な話




273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/08(木) 23:31:56.09 ID:nmbePeny
酒井をやっつけろ酒井

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/08(木) 23:39:08.55 ID:vjEutOzM
土気酒井と東金酒井が分岐してまだそんなに年月経っていないので
敏房と胤治ははとこ同士なんだよね

277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/08(木) 23:49:49.48 ID:jRh1W7Cs
>>272
合戦始まっちゃったなら年始の行事はキャンセルしようよ…。
まさかの年始の行事≧合戦?

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/08(木) 23:57:20.66 ID:BIRB/1cl
>>277
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6137.html
>正月も何も関係ありません!かつて大内家が崩壊するとき、日頼様(元就)は正月の儀式をとりやめられ
>弓矢を取ってご出陣成されました。
>逆に尼子経久は毛利に攻めいった時も正月の儀式をし、恐れながらこれにより我々は神風を得ました。
>こう見れば正月の儀式など、目出度いことではありません。

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/09(金) 00:06:42.81 ID:gGK1oXY9
>>278
尼子経久が正月に計略で月山冨田城奪い返したの知らなかったんだな

生臭坊主の浅知恵よ

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/09(金) 03:41:43.45 ID:Mh5PjjTA

>>278>>280
尼子さん…

『土気古城再興伝来記』より、本行寺を巡る戦い

2010年11月28日 00:02

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/27(土) 02:48:30 ID:ZtkkmtZC

もう一つ関東仕置きの時の土気酒井氏の事。

>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4908.html
のちょっと前。もうすぐ上方勢が土気に攻め寄せてくるだろう、という時の話。
第二次国府台合戦の後、>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4903.html
の冒頭であっさりと死んでしまった池野和田城主・多賀蔵人に、息子が一人いた。
父が死んだ時にはまだ幼く、城を逃れて隠れて生活していた浪人である。

この多賀内膳という青年、関東仕置きが始まると、
「上方勢に加わり、父の無念を晴らし、多賀家を再興する」
と志し、上総・下総方面の攻略を任された浅野弾正少弼の元に出仕する。


この頃土気城では、近づく上方勢の攻撃に、どう対処するのかが議論されていた。
「相手はとんでもない大軍なんだろ?篭城しても勝ち目はないぞ」
「……打って出るか?」
「本行寺に篭城してみよう」
「本行寺?城を捨てて寺に篭ると言うのか?」
「そうじゃない。城には囮の軍勢を残しておく。相手は我々が討って出るなどと考
えてないだろうから、警戒もせずに城を囲むだろう」
「そうか、城を包囲した上方勢の背後を……!」
「……本行寺の主力で叩く!!」

「一度しか使えない手だ。一旦は敵を退けられても、二度目はない。一度勝って、
意地を見せた上での玉砕という事になる。皆はそれで良いか?」
「おう!」
「上総武士の意地を見せてやるぜ!」

こうして酒井勢の作戦は決定した……………が、



763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/27(土) 02:49:45 ID:ZtkkmtZC

「……ってな作戦を土気城では立ててます」

流石に地元の土豪。多賀内膳には土気城内にも伝手があった。
悲壮な覚悟で決定した作戦は、あっさりと浅野弾正少弼にばれていた。

「本行寺は中々の要害で、ここに主力が篭るとなると、判っていても少々厄介です。
今の内に焼き払っておくべきだと思います」

多賀内膳は浅野から数十騎ばかりの兵を借りると、多賀家の遺臣・大島小太郎を連
れて浅野勢に先行、本行寺へと急いだ。

ところが内膳は本行寺に到着すると、僧侶を避難させる事もなく、問答無用でいき
なり放火してしまう。
逃げ惑う僧侶達の中、火は本堂を包み、全ての堂宇を焼き尽くした。

それを確認して悠然と本陣に帰還する内膳であったが、何の弾みか突然に落馬、血
を吐いた挙句、狂ったような声を上げて息を引き取ってしまう。

若君の隣りで全てを見ていた大島小太郎は、
「仏罰だ!主家の再興を夢見るあまり、我等はやってはいけない事をやってしまっ
たのだ!」
頭を抱えそう叫ぶと、次の瞬間、馬を取って返し、未だ炎の治まらぬ本行寺の本堂
に駆け込み、寺と運命を共にしたと言う。


結局、作戦を実行出来なかった酒井勢。心が折れてしまったのか、玉砕するでもな
く、篭城しつつ開城への路を模索するしかなかった。


『土気古城再興伝来記』から本行寺を巡る戦い。こちらはこちらで、お留守番の人
達だって涙目だったんだい!という悪い話……と言うか可哀想な話?
多賀内膳が寺を焼き払った悪い話っつっても良いか。

以上、『土気古城再興伝来記』からの一連の話でした。上総酒井氏の成立から、土
気開城まで、ですね。
お付き合い下さり、ありがとうございました。




764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/27(土) 12:59:22 ID:9lxeJoVu
>>762-763
こちらこそありがとう。
楽しめました。

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/27(土) 13:37:27 ID:B1SEEmtX
>上総酒井氏の人
いい悪い両方含めて面白かった。
焼身自決しちゃった大島さんには悪いが
畿内では南都山門大坂との闘争を経て薄れつつあった
寺院への素朴な畏怖が残ってるのを見ると微笑ましくもあるな

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/27(土) 13:49:07 ID:tE13QuhJ
>>763
ありがとう。上州酒井氏の話って、酒井金三郎と原吉丸の草履の話しか知らなかったから
非常に面白かったよ。

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/27(土) 21:06:24 ID:t/qyTeyj
>>763
仕返しにヒットマン送り込まれただけのような…

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/27(土) 23:04:28 ID:+ZxmFEjP
>>767
むしろ、内通者は敵を倒したら不要なので…

『土気古城再興伝来記』から康治さん涙目な悪い話

2010年11月27日 00:01

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/26(金) 01:47:27 ID:BUtYr6Ey

ラスボス殿下の関東仕置きの時の事。
北条氏は配下の武将を全て小田原に呼び寄せ、篭城するという策を取った。
それに対して豊臣軍は圧倒的な戦力で小田原城を囲んだ上で、別働隊に関東各地に
散らばる北条方の城を虱潰しにさせるという作戦に出る。

酒井康治の上総国土気城もその例に漏れず、浅野弾正少弼らの軍勢に囲まれてしま
う。
上方軍は開城を命じるラスボスの書状を持ち、無条件降伏を呼びかける。
それに対して土気城は、
「今、うちの殿様、留守なんですよ。ちょっと待っててくれます?」
いやまぁ、そりゃ留守だろう。小田原に篭城してるんだし。

が、土気城の酒井家臣、単なる時間稼ぎのつもりではなかったようだ。
浅野から預かったラスボスの書状を持ち、使者を小田原に向かわせた。
本気で「主君に開城の許可を貰ってきますね。それまでちょっと待ってて」と言う
のである。

当然、小田原城は上方軍に包囲され、簡単には入城出来ない。
しかし酒井家中から選びぬかれた使者であり、勇者である。戦場での不測の事態に
備え、水練の訓練もしっかりと行っていた。
そう、彼等は迷わず水に飛び込み、海側から包囲網を突破、見事小田原城に忍び込
んだのである。

困ったのは篭城中の主君・酒井康治である。
わざわざ居城から使者が来たと思ったら、敵の総大将からの手紙を持って、
「開城しても良いっスか?」
と言うのである。
「うん、いいよ~」
などと返事の出来よう筈がない。
当然、北条氏からも疑いの目を向けられる。
必死の弁明で許しては貰えた物の、守備の受け持ちは交代させられ、城内では孤立
してしまう羽目となった。


『土気古城再興伝来記』から康治さん涙目な悪い話。つかお留守番の人達、もうち
ょっと空気読んであげて。
「攻撃に耐え切れず部下が開城を決めちゃった」なら康治さんの顔も立つんだから!
忍城の成田さんほど面の皮厚くないんだから!

ちなみに関東仕置き後、酒井康治は小田原で蟄居&病死。二人の息子が家康に仕え
たと言います。




760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/26(金) 15:54:22 ID:AqGeQn5v
家来が真面目すぎたんだな。

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/26(金) 16:21:46 ID:ndPVmgoe
攻撃が始まったら皆殺しにされる可能性が…
前田や上杉も降服開城させたら「何勝手に助けてんの?」とか
ラスボスに脅されてるし

『土気古城再興伝来記』より、転がりかけで治まってくれた兄弟喧嘩

2010年11月26日 00:00

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/25(木) 01:22:20 ID:L/5g5H1K

上総国土気城の酒井康治には一人の弟がいた。
この弟は出家し、一位殿と呼ばれていたが、悪僧と名高い乱暴者であった。

ある時、酒井家の帰依している本国寺の日典上人が土気城に出向いている隙に、こ
の一位殿が本国寺にふらりと姿を現した。
そして、
「今日、この時からこの寺は俺様の寺だ!お前等もそのつもりで俺様に仕えろ!」

そんな無茶な。
そうは思うが領主の弟君である。寺としても下手に事を荒げる訳には行かない。
とりあえず土気城に使いをやり、日典上人と康治とに今起こっている事を説明した。

「あの馬鹿は何をやってるんだ!!」

話を聞いて激怒した康治は、すぐさま配下の者に命じて本国寺から弟を追い払わせ
た。
一位殿も弟の我儘の一つも聞き入れない兄の態度に激怒し、寺に籠もって抵抗する
も、手勢を持たぬ僧侶一人が何をやった所で領主には逆らえない。
遂には力尽き、酒井氏の領内から追い払われてしまった。

一位殿が抵抗する間、寺に帰れない日典上人は近くの畑ヶ中村に滞在せざるを得な
かった。その事がまた、康治の逆鱗に触れてしまった。
一方、弟は弟で、兄に対して怒り心頭であった。
兄は上総酒井家総領として踏ん反り返っていると言うのに、自分は出家させられた
のである。
せめて、兄が武家の上に立つなら、自分は僧侶の上に立つのが当然。そう考えて領
内で一番の寺を奪い取ったと言うのに……

こうしてこじれまくった兄弟の仲(片方は明らかに八つ当たりだが)は、どちらも
一歩も譲る事がなかった為、面倒臭い方向に転がり始める。


数日後、安房国里見家の門を叩く一位殿の姿があった。
「兵を貸してくれりゃぁ、俺様がクソ兄貴の首を取ってきてやる。その時ゃ酒井家の
総領として、里見家に仕えるのも吝かじゃぁないぜ」

だが、この一位殿による土気攻めは実現しないままに終わる。
一位殿が里見義弘に謁見した直後、この僧侶は病を発してしまうのである。
病のせいか否か、里見家では一位殿の計画に乗る事はなかったようだ。
安房を辞し、上総国長南の辺りまで来た所で、一位殿はあえなく死去してしまった
と言う。

出家の身でありながら、法を犯し、上を軽んじ、兄を討とうと企んだ。その浅まし
さ故に報いが下ったのだと、彼の顛末を知った人々は噂したという。


『土気古城再興伝来記』から面倒臭い方向に転がったけど、転がりかけで治まって
くれた兄弟喧嘩。
……これ、暗殺じゃね?




竹内太郎左衛門の功

2010年11月25日 00:01

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/24(水) 00:48:12 ID:UDaj1NRj

第二次国府台合戦の結果、里見家の勢力は大きく減退する事になった。
北条家は下総、上総を踏み潰し、そのまま安房まで攻め込もうと大軍を動員。手始
めに池野和田城の多加蔵人を攻め、自害に追い込む。

国府台合戦の折には北条勢の追撃を食い止め、敗走中の里見勢を無事に逃がした土
気城の酒井中務丞胤治。
当然、自分も攻められると考え、半ば以上切腹も覚悟で篭城の準備を進めていた。

が、そんな所にやってきたのは北条家からの使者。
なんと和睦に応じて欲しいと北条家の方から打診してきたのである。

「上総酒井家の初代・定隆公は遠江の出身。その頃に今川家の客将であった我が北
条家初代・早雲公が定隆公と入魂のお付き合いをさせていただいておりました。
我等としては胤治殿に何の恨みも持っておりません。昔の友誼を忘れず、我等に力
を貸してはいただけぬでしょうか? 北条家には早雲公と定隆公で交わした手紙も
残っております。その様な縁がある家を、我等の手で滅ぼしたくはないのです」

胤治は和睦に応じ、息子を人質として小田原に送る事になった。

この和睦に激怒したのは里見義弘。
「裏切り者の末路として見せしめにしてやる」
と意気込み、六百騎の軍勢を土気城に送り込んだ。
しかし、安房からの遠征で疲れが取れない所を土気勢に攻め立てられ、逆に敗走に
追い込まれてしまう。

酒井家中の竹内太郎左衛門、逃げる里見勢を見て、
「こんな事もあろうかと、抜け道を準備してたんだよ!」
と、里見勢の敗走路に先回り。物陰から弓の狙撃であっと言う間に十四、五人を打
ち落としてしまう。
里見勢はこれを一人だとは思わず、別働隊による奇襲にあったと勘違い。パニック
を起こしたように散り散りになって安房に逃げ帰ったと言う。

462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/24(水) 00:49:45 ID:UDaj1NRj

戦後、論功恩賞の場で
「一番の手柄は竹内太郎左衛門を置いて他にはいない」
と皆が口をそろえるが、そんな中ただ一人富田伊豆守が、
「太郎左衛門が十数人を討ち取ったと言っても、勝ちに乗る味方に追い立てられて
逃げ回る連中を討ったに過ぎない。敵に打ち勝ち、敗走させた我々を差し置いて、
そのおこぼれに預かった太郎左衛門が一番手柄とは納得出来ない。それに、奴は討
ち取った連中から武具やら衣服やらを剥ぎ取って自分の物にしている。それだけで
十分の恩賞といえるんじゃないか?」

この言葉によって議論は紛糾。
「富田の言葉にも一理ある」「いや、でも竹内が十数人を討ったのは事実だぞ」
主君重臣を交えて様々な意見が噴出する中、板倉長門守が口を開く。
(>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4895.html の板倉大蔵の息子)

「味方の武士が敵に向かって命を賭け、謀を巡らすのはすべて恩賞の為だ。功を立
てたのに恩賞をケチッては誰も戦場で働かず、国が成り立たない。ここは当然、太
郎左衛門への恩賞はケチるべきじゃない。それに太郎左衛門は人より抜きん出た手
柄を立てようと謀を巡らせた結果の手柄だ。伊豆守は彼のような謀を持たなかった。
当然、一番手柄は太郎左衛門の物だと言うべきだろう。そもそも太郎左衛門が敵か
ら剥ぎ取った武具等は、主君から下された恩賞ではない。その様な物を理由に恩賞
を減らされたのでは道理が立ち行かなくなってしまうではないか」

これによって竹内太郎左衛門の一番手柄が決まり、恩賞が下された。
しかし富田伊豆守は板倉長門守を恨み、これ以降不和になったと言う。


流れで一緒に並べてしまったけど、『土気古城再興伝来記』から北条家&酒井家の
旧交のお話と、スタンドプレーでの手柄も超OK!な戦争のお話。

……長台詞が多いな。我ながら読みづらい。orz





『土気古城再興伝来記』より、法華宗の坊さんの話。

2010年11月23日 00:01

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/22(月) 09:49:01 ID:aHSadx3y

>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4893.html
の酒井定隆の時代、下総国に日泰聖人という僧侶がいた。
定隆が上総に渡る際、船を襲った高波を鎮めたと言い、それが縁で酒井家の尊崇篤
い僧侶であった。

下総国八幡郷(千葉県市川市八幡)で八幡宮の神主を務める市川刑部の息子が疫病
にかかった。
病人は、
「これは八幡神の崇りだ。私には親しくしている高僧がいるから、彼の読経を聞か
せてもらいたい」
と訴えたのだが、何故か近所の者、親族一同は相談の上、それを無視。日泰聖人に
祈祷を頼んだ。
日泰聖人が読経を上げると、たちまちに病人は快癒してしまったという。


またある日の朝、本堂でのお務めの最中。
突然怪しげな風が本堂を舞い始める。
日泰が入り口の方を振り返ると、そこには一人の女性が赤子を抱いて立っていた。
「…………寒い……」
泣きながらつぶやく女性。
出産の際に命を落した女性が、子供を死なせてしまった後悔から化けて出てくる亡
霊、『産女』であった。

「ここは……寒い……この子…助け…て……?」
涙を流し、助けを求めながら日泰に赤ん坊を差し出す産女。
日泰はその赤ん坊を受け取り、片手で抱き上げて女性と赤ん坊の為に読経してやっ
た。
女性が深々と頭を下げて姿を消した時には、日泰の腕に抱かれた赤ん坊の姿も消え
ていたと言う。

しかし、それが夢でなかった証拠として、日泰の片腕は凍えたまま、一生涯動く事
はなかったのである。


『土気古城再興伝来記』から法華宗の坊さんの話。
>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4113.html
といい、法華宗の坊さんは産女に縁があるな。ww





433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/22(月) 10:29:55 ID:uAHfw04c
神主の息子なのに坊主にお払いを頼むもんなのね

いや父親では駄目だったから、ってことなんだろうけど

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/22(月) 11:11:08 ID:LZ0rw23g
>>433
坊さんが神社の管理とか普通にしてる時代だぞ

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/22(月) 11:16:38 ID:OFcpXlAj
多分この時代は、坊さんの方が禰宜よりも社会的地位も高く
功徳や霊能力もあると考えられていたのではないか。
もちろん個人差は非常に大きいが。

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/22(月) 11:23:57 ID:ZYXAemV3
現代でも神主と僧侶兼務っていうとこを知ってる
お葬式やると穢れで神事ができないからって檀家をもってないんだよね

437 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/11/22(月) 11:29:10 ID:LDgAF04R
例えば春日大社の宮司と興福寺の別当は兼務されていた。

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/22(月) 21:59:07 ID:Rw0So04Z
>>432
成仏させてあげたのに片腕凍らせるとか

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/22(月) 23:39:26 ID:n48vOzg3
>>438
確かにw
悪い話しだな。

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/23(火) 08:24:29 ID:6q0XuDhK
>>438
成仏する前に
「赤ん坊なめんな?! 赤の他人が何で抱いてるんだよ?!
経唱えるのを止めないと凍らせるぞ? あ!?
凍らせちゃってるのに読経続けるなんて度胸あるな!? くッ!!」
てな感じで凍らせちゃってたんじゃね?

『土気古城再興伝来記』より、土気&東金家大喧嘩のお話

2010年11月23日 00:00

700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/22(月) 09:51:01 ID:aHSadx3y

第一次国府台合戦の結果、生実御所(小弓御所)が滅亡。上総に北条家の勢力が少
しずつ進出してくる。
ある者は北条に従い、ある者は北条に対抗する為、常陸の佐竹家に助けを求めた。
一時は「上総の三分の二を支配する」とまで言われた土気酒井氏も、佐竹と北条に
圧迫を受け、その威勢は衰えて昔と比べるべくもなかった。

当時の土気酒井家の当主は、左衛門次郎玄治。初代越中守定隆の孫に当たる人物で
ある。
この玄治には息子が一人あったのだが、足に障害を抱えており、腰から下にくびれ
がなかった。(足の関節がなかったという事?)
それでも努力の末、家中に並ぶ者なしというほどの馬術の達人となった息子である
が、流石に当主として家中を纏めるのはどうか、と考え、重臣から養子を取って酒
井家を継がせる事となった。

この養子が中務丞胤治。障害を抱えた実の息子は別家を立て、板倉大蔵介と名乗っ
たという。

しかし、これに反発したのが同族の東金酒井氏。
家臣筋の胤治を総領と認める事が気に入らなかったのか、定隆の後を継いだ二代目
定治&東金初代の隆敏の代にまで遡って、
「我が東金家こそが定隆公の正当な跡継ぎであり、上総酒井家の総領である!」
と逆に土気家に対して臣従を求めてきたのである。

ただでさえ分裂し、がたがたになっている上総国の中、同族同士で争われては堪ら
ない。
特に実際に戦争となると、両家がそれぞれ他国の勢力を国内に引き込んでの争いに
発展しかねない。
当時勢力を伸ばし、「上下両総の旗頭」と呼ばれていた臼井城の原式部大輔の仲介
によって漸く和睦。最悪のシナリオだけは回避されたのである。


『土気古城再興伝来記』から土気&東金家大喧嘩のお話。
結局この後、両家とも北条に臣従。土気家は里見に寝返るものの、北条・東金から
の圧迫で降伏する羽目になっちゃうんですけどね。





『土気古城再興伝来記』より、上総酒井氏の出世話

2010年11月22日 00:00

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 16:43:24 ID:2hWSh0ji

上総国に酒井小太郎定隆という男がいた。
元々は遠江国の土豪だったのだが、知行が少ない事を不満に思い、戦乱の続く関東
で一旗挙げようとわずか三人の従者のみを連れて下向。鎌倉公方・足利成氏に仕え
たのだと言う。
しかし、公方家は鎌倉を追われ古河に逃亡。出世が望みであった定隆はそれを期に
足利家を見限り、上総国に渡った。

当時の上総国は安房国の里見義豊の支配下にあった。
諸国を見聞した浪人として義豊に面会した定隆は、各国の軍法や見聞きした戦の詳
細、大名の評判等を余す事なく義豊に披露し、その功で家臣に取り立てられる。

その当時上総を制したばかりの里見家は、下総からの執拗な攻撃に悩まされていた。
新参の定隆はまず、下総勢との最前線に投入される事になる。
この戦で定隆は活躍。上総、下総の国境地帯を押さえ、これ以上の敵の侵入を防ぐ
事に成功した。

これに喜んだ里見義豊・義弘の両将は、定隆に上総国の三分の二を任せる事にし、
越中守の名乗りを許した。
定隆は当時寂れていた土気の古城を再興してそこを居城と定め、上総を治めたと言
う。

大永元年(1521年)八十七歳になった定隆は土気城を長男・左衛門佐定治に譲り、
出家&隠居。隠居城となった東金城は後に三男・孫五郎隆敏が相続する。
これにより上総には土気・東金の両酒井家が並立する事になるのである。


『土気古城再興伝来記』から上総酒井氏の出世話。
通説では定隆は美濃国出身で、幕府の軍に従って下向。幕府から鎌倉公方家に乗り
換えて、成氏の命によって上総北部を平定した、という事のようですね。

この『土気古城再興伝来記』、中々面白い逸話が載っているんですが、あまり長文
なのも、連投での大量投下も、ウザいと思いますので、一日一~二話位のペースで
投稿させていただきます。いい話、悪い話合わせて計六~八話位かと思われますが、
よろしかったらお付き合いください。

……一つだけ言わせて貰おう。里見義弘はあからさまに年代が違うだろ!




418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 19:10:52 ID:88qvFQ00
>里見義弘はあからさまに年代が違うだろ!

里見の謎だね

419 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/11/21(日) 19:14:35 ID:djmKJfZM
http://stat001.ameba.jp/user_images/11/13/10130880841.jpg

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 20:13:05 ID:SIiAnx3i
>>417
連載是非にお願いつかまつる。

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 21:33:46 ID:XveU73MM
同名の別人じゃなくて?
伊達政宗だって9代目と17代目と二人いるじゃん

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 21:35:48 ID:4a70b2O8
島津家久なんて、ほぼ同時期に二人いたりするから・・・別に困らない。片方は、悪久の方で定着してるから

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/21(日) 21:36:04 ID:OW74PhoH
後年、義尭に味方する義豊の息子だったりして

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/22(月) 00:51:11 ID:b16A/BfL
河野通直に死角はなかった。