700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/27(月) 20:05:01.88 ID:Am4WQ7/T
17世紀後半に成立したと思われる「浜松御在城記」から「松平信康処刑時の半蔵の落涙」について
天正七年(1579年)九月十五日 三郎様(松平信康)、二股にて御生害(御年二十一)、御討手は渡辺半蔵(渡辺守綱)・天方山城守(天方通興)に仰付けらる。
渡辺は落涙し斬ることを得ずして、天方山城守討ち奉る。
△三郎様御傅役は平岩七ノ助親吉であり、権現様に諫言を申し上げた。
権現様も悲しまれたが信長公の心に背いては大敵勝頼に対抗できないと思し召し、是非なく御生害を仰せつけられたという。
説あり。害せざるとも存じ奉る。
この平岩親吉は後に薩摩守忠吉様の御傅役となったため(実際は尾張徳川家の徳川義直)、附家老として尾張犬山城に居住した。
701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/27(月) 21:08:02.84 ID:Am4WQ7/T
訂正
介錯したのは天方通興の息子の天方通綱
「三河物語」では天方山城と服部半蔵に命じたことになってるから渡辺半蔵ではないはず。
ついでに享保に書かれた「柏崎物語」では
「服部鬼半蔵正成とは馴染み深かったため、三郎様も古馴染故に物語をし御伝言をなさった。
半蔵は涙に沈み頭を上げられず、三郎様が御腹を召しても半蔵は頭を上げられず嘆きいった。
そこで天方は検使であったが、御苦痛を取り除くために自分の刀で御介錯つかまつった。」
と服部半蔵も涙に沈んだとあるので「浜松御在城記」が半蔵違いをしただけ。
703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/02(木) 16:47:03.26 ID:SwTQ5Dg8
国立公文書館デジタルアーカイブの「柏崎物語」では
>>701のように服部半蔵がもともと介錯することになっていたけど
大正4年刊の日本国史研究会「東照宮御実紀附録 第1」の「柏崎物語」出典の話では
「三郎殿、二股にて御生害ありし時、検使として渡辺半蔵守綱・天方山城守通興を遣さる、
二人帰りきて、三郎殿終に臨み御遺託ありし事共、なくなく言上しければ、君何と宣ふ旨もなく、御前伺公の輩は、いづれも涙を流して居し内に、本多忠勝・榊原康政の両人はこらへかねて、声を上げて泣き出せしとぞ、
其後山城守へ、今度二股にて御介錯申せし脇差は、たれが作なりと尋給へば、千子村正と申す、
君聞召し、さてあやしき事もあるもの哉、其かみ尾州森山にて、安部弥七が清康君を害し奉りし刀も村正が作なり、
われ幼年の比、駿河宮が崎にて、小刃もて手に疵付けしも村正なり、
こたび山城が差添も同作といふ、いかにして此作の当家にささはる事かな、
此後は御差料の内に、村正の作あらば、皆取捨てよと仰付けられしとぞ、初半蔵は三郎殿御自裁の様見奉りて、おぼえず振ひ出でて太刀とる事能はず、山城見かねて御側より介錯し奉る、
後年君御雑話の折に、半蔵は兼ねて剛強の者なるが、さすが主の子の首打には腰をぬかせしと宣ひしを、
山城守承り伝へて、ひそかに思ふやうは、半蔵が仕兼ねしを、この山城が手にかけて打奉りしといふは、君の御心中いかならむと思ひすごして、
これより世の中何となくものうくやなりけむ、当家を立去り、高野山に入りて、遁世の身となりしとぞ、(柏崎物語)」
となっているので、渡辺半蔵が討ち手のバージョンの「柏崎物語」もあるようだ。
村正については家康の代では気にしてなかったようだけど。
17世紀後半に成立したと思われる「浜松御在城記」から「松平信康処刑時の半蔵の落涙」について
天正七年(1579年)九月十五日 三郎様(松平信康)、二股にて御生害(御年二十一)、御討手は渡辺半蔵(渡辺守綱)・天方山城守(天方通興)に仰付けらる。
渡辺は落涙し斬ることを得ずして、天方山城守討ち奉る。
△三郎様御傅役は平岩七ノ助親吉であり、権現様に諫言を申し上げた。
権現様も悲しまれたが信長公の心に背いては大敵勝頼に対抗できないと思し召し、是非なく御生害を仰せつけられたという。
説あり。害せざるとも存じ奉る。
この平岩親吉は後に薩摩守忠吉様の御傅役となったため(実際は尾張徳川家の徳川義直)、附家老として尾張犬山城に居住した。
701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/27(月) 21:08:02.84 ID:Am4WQ7/T
訂正
介錯したのは天方通興の息子の天方通綱
「三河物語」では天方山城と服部半蔵に命じたことになってるから渡辺半蔵ではないはず。
ついでに享保に書かれた「柏崎物語」では
「服部鬼半蔵正成とは馴染み深かったため、三郎様も古馴染故に物語をし御伝言をなさった。
半蔵は涙に沈み頭を上げられず、三郎様が御腹を召しても半蔵は頭を上げられず嘆きいった。
そこで天方は検使であったが、御苦痛を取り除くために自分の刀で御介錯つかまつった。」
と服部半蔵も涙に沈んだとあるので「浜松御在城記」が半蔵違いをしただけ。
703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/02(木) 16:47:03.26 ID:SwTQ5Dg8
国立公文書館デジタルアーカイブの「柏崎物語」では
>>701のように服部半蔵がもともと介錯することになっていたけど
大正4年刊の日本国史研究会「東照宮御実紀附録 第1」の「柏崎物語」出典の話では
「三郎殿、二股にて御生害ありし時、検使として渡辺半蔵守綱・天方山城守通興を遣さる、
二人帰りきて、三郎殿終に臨み御遺託ありし事共、なくなく言上しければ、君何と宣ふ旨もなく、御前伺公の輩は、いづれも涙を流して居し内に、本多忠勝・榊原康政の両人はこらへかねて、声を上げて泣き出せしとぞ、
其後山城守へ、今度二股にて御介錯申せし脇差は、たれが作なりと尋給へば、千子村正と申す、
君聞召し、さてあやしき事もあるもの哉、其かみ尾州森山にて、安部弥七が清康君を害し奉りし刀も村正が作なり、
われ幼年の比、駿河宮が崎にて、小刃もて手に疵付けしも村正なり、
こたび山城が差添も同作といふ、いかにして此作の当家にささはる事かな、
此後は御差料の内に、村正の作あらば、皆取捨てよと仰付けられしとぞ、初半蔵は三郎殿御自裁の様見奉りて、おぼえず振ひ出でて太刀とる事能はず、山城見かねて御側より介錯し奉る、
後年君御雑話の折に、半蔵は兼ねて剛強の者なるが、さすが主の子の首打には腰をぬかせしと宣ひしを、
山城守承り伝へて、ひそかに思ふやうは、半蔵が仕兼ねしを、この山城が手にかけて打奉りしといふは、君の御心中いかならむと思ひすごして、
これより世の中何となくものうくやなりけむ、当家を立去り、高野山に入りて、遁世の身となりしとぞ、(柏崎物語)」
となっているので、渡辺半蔵が討ち手のバージョンの「柏崎物語」もあるようだ。
村正については家康の代では気にしてなかったようだけど。
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