640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/16(金) 07:47:46.53 ID:4lj8HkbF
舞鶴城と称された三春城を居城とする三春田村氏は、平安時代初期の征夷大将軍として高名な大納言・坂上田村麻呂の末裔を称していた。三春城下では次のような伝説が信じられていた。
「坂上田村麻呂の母・阿口陀媛は、夫となった坂上苅田麻呂が都に帰ってから子を出産した。阿口陀媛が下仕えをしていた家の主人が怪しく思い問いただすも、阿口陀媛は子の父の名を言わなかったため家の主人が子を捨てさせると、どこからともなく二羽の鶴が飛んできてその子を運んで育てた。人々はこの奇瑞に驚き、阿口陀媛のもとに子を戻して育てさせた」
鶴が育てたこの子こそ坂上田村麻呂であると信じられ、三春城下では鶴の包丁をしないという決まりごとがあった。しかし鶴の肉は縁起物として大変珍重されていたことから、鶴料理ができなかった三春田村氏や三春城下では鶴に見立てた三角形の食べ物で代用した。
愛姫生誕450年記念で舞い上がった地元が作ったアニメのパンフレットを眺めてて気になったちょっといい話
この話で真っ先に思い出したのは(●∀・)が家光を招待した時に鶴のつみれ汁を出してるし、同じく東北の伊達家では鶴料理に馴染みがあっただろうし
秀吉が天皇に鶴を献上して正月儀礼が鯉の包丁から鶴の包丁になって、公卿や大名にも正月儀礼の鶴の包丁が広まったりとか
伊達家に嫁いで以降に愛姫の前にも正月とか鶴料理が並んだことがあるのかな
641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/16(金) 08:25:23.02 ID:5kUSekXx
光秀が作った家康おもてなし御膳に鶴料理があった。御馳走だったんじゃないかな。
642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/16(金) 11:11:40.60 ID:uE7LJ6Tm
まとめの12366
伊達政宗とプロパガンダの影響
で伊達氏が坂上田村麻呂出生伝説を捏造して広めた話があったけど
影響はなかったのかな
643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/16(金) 15:01:47.11 ID:uE7LJ6Tm
よく考えたら阿口陀媛って「あくだ姫」だから
伊達家が奥浄瑠璃「田村三代記」を使って広めた「悪玉姫」の影響は受けてるようだ
(中世に流布していた「田村の草子」だと田村麻呂の母親は賤女とされる)
644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/16(金) 19:13:58.53 ID:SMG/JatR
三春町史なんかからまとめると
産湯とか遊んだ石とか大熊とか母を祀る社とか武芸を学んだ森とかが、戦国時代以前には阿武隈の坂上田村麻呂伝説として存在してたらしい
田村郡は一木一草に至るまで坂上田村麻呂伝説が宿ると言われるんだけど、阿武隈の伝説の要因は藤原姓田村氏も平姓田村氏も田村郡を支配したら真っ先に田村麻呂の子孫を名乗ってきた名残だとか
『田村の草子』の賤女が最も古いけど、三春田村氏は賤女を阿武隈伝説の阿口陀媛に変えて、田村麻呂の幼名を鶴に育てられた鶴子丸に改編して流布することで三春支配を強化した
この鶴子丸こと坂上田村麻呂をまーちゃんが利用するときに、領地で重要な伊達家ゆかりの熊野権現と千賀の浦(塩釜の浦、千賀の塩釜)から1字ずつとって幼名を千熊丸に再改編
田村大元帥明王から鹽竈神社に変更されてるあたりに戦国時代の権力の移り変わりが伺えるね
645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/16(金) 19:22:02.60 ID:SMG/JatR
>>641
鶴料理が普及したのは信長秀吉家康の頃なんだって
中国の影響で日本でも鶴は禁食だったけど、平安時代には既に公卿が隠れて食べてたり、鎌倉時代以降は狩りをする武士に食べられてたり
禁食を気にせず畿内で食べ始めたのは信長が家康をもてなしたあたりが転機で
秀吉が天皇に鶴を献上してから禁食じゃなくなった
家康の頃には鶴、雁、雉が三鳥として貴重な鳥肉扱いされたから乱獲されまくったけど各大名が禁狩礼を出して対応した
そこで鶴や雁が食べられない庶民や金のない大名は、鶴もどきや雁もどきで代用した
文章が変になったけどこんな流れらしい
鶴の包丁って本に載ってたんだったかな
646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/16(金) 20:53:24.71 ID:QFParjqv
記憶が確かなら、義植が山口に逃げたときに歓待した大内が鶴料理を出していたのをここで見た気がする
あと鶴の羹を出されて肝付が島津に激怒した逸話があるね
創作らしいけど
647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/16(金) 22:14:24.72 ID:vTbs50tw
その後鶴の汁にあたり申した
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10549.html
そういえば利家が鶴の汁を食べ過ぎてお腹が痛くなった話が前に出てた
648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/16(金) 22:39:44.95 ID:dGbp89+Z
寛永2年に伊達忠宗が仙台に入部した際政宗が忠宗に宛てた九ヶ条からなる覚書の一条にも
「鷹場之義、鶴・白鳥・鳫・鴨・うつら・ひはり、何にても少も無機遣、
何方をも身之遣ことくニ不苦候事、」
(鷹場では鶴・白鳥・雁・鴨・鶉・雲雀、何れも遠慮なく捕ってよい。
何処でも政宗と同様に鷹場を使ってよい。)
とあるし食べる機会は多かっただろうから普通に食してたんじゃないかな
649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/17(土) 01:44:13.52 ID:phvBLPVO
足利義植を饗応した大内義興は鶴の煎物(『明応九年三月五日将軍御成雑掌注文』)
徳川家康を饗応した織田信長は鶴汁(『天正十年安土御献立』)
後陽成天皇を饗応した豊臣秀吉は鶴あいの物(『行幸御献立記』)
徳川家光は大姫出産祝いで鶴の饗行、徳川吉宗は町奉行に御拳の鶴(将軍が狩りで獲った鶴)のあつもの、明治天皇の新年宴会に温物鶴……
室町時代前後から鶴食の例は増加してるけど鶴食せず神聖視してた三春の田村家は饗応がさぞ大変だっただろう
650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/17(土) 01:51:54.02 ID:phvBLPVO
「鶴はマナヅル、ナベヅル、タンチョウとあるがタンチョウは珍しく滅多にない」と記録が残るくらいタンチョウが貴重品だった
江戸時代初期には青山氏が松前から鷹と鶴を取り寄せる際、秋田藩主佐竹氏義宣に宛てて「松前から取り寄せた鷹と鶴が領内を通過するので協力をお願いします」的な書状が残ってる(『青山忠俊書状』)
盛岡藩が松前からタンチョウの活鶴をお取り寄せした際、松前藩への支払いはタンチョウ1羽10両で2羽購入、4日後に追加で1羽購入
約40年後、福井藩がタンチョウ1羽15両で購入してるため値上がりしていた
少し時代が違うがアイヌによる鶴の販売価格はタンチョウ1羽896文、並1羽672文であった、松前藩ぼったくり疑惑
戦国時代末期から明治時代の根室本庁と札幌本庁まで鶴の産出記録を残してるから面白いぞ
盛岡藩や津軽藩は松前を通じてアイヌから生鶴を買って飼育してたり
松前藩伝説の鶴職人岡田藤七は狩りで生涯300の鶴を獲ったけど卵から孵化させる境地まで達してたり
戦国から離れてくからこのあたりで
651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/17(土) 01:57:24.78 ID:phvBLPVO
ちなみに卵から孵化させた鶴なんかは特にだけど
生鶴で買ってきて飼育した鶴は懐いて後を着いてくるから死ぬまで飼うんだって
かの水戸光圀も飼い鶴に追いかけられたと残ってる
死んだら塩漬けにして肉や羽やを有り難く皆で分け合う
652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/17(土) 03:19:50.85 ID:PxjGZs6g
衛の懿公「呼ばれたような、嫌がらせされているような・・・」
653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/17(土) 12:16:05.25 ID:MAbhH7Td
>>652
利家「鶴を愛でても鶴にいくさをさせることはできないでしょ」
で鶴汁にして食べた結果が>>647
654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/17(土) 23:59:35.26 ID:nySHf8sO
利家は夜中、寝てる信長の警護を任されたほど信頼されてたと言う良い逸話なのに
下世話に男色関係だったとされてるなぁ…
655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/18(日) 16:11:36.19 ID:/O6R6YqR
腕枕して一晩中起きて守ってくれてるんだぞ
寝るまでピロトークなんかしてくれて
もう芯棒堪らんじゃないか
舞鶴城と称された三春城を居城とする三春田村氏は、平安時代初期の征夷大将軍として高名な大納言・坂上田村麻呂の末裔を称していた。三春城下では次のような伝説が信じられていた。
「坂上田村麻呂の母・阿口陀媛は、夫となった坂上苅田麻呂が都に帰ってから子を出産した。阿口陀媛が下仕えをしていた家の主人が怪しく思い問いただすも、阿口陀媛は子の父の名を言わなかったため家の主人が子を捨てさせると、どこからともなく二羽の鶴が飛んできてその子を運んで育てた。人々はこの奇瑞に驚き、阿口陀媛のもとに子を戻して育てさせた」
鶴が育てたこの子こそ坂上田村麻呂であると信じられ、三春城下では鶴の包丁をしないという決まりごとがあった。しかし鶴の肉は縁起物として大変珍重されていたことから、鶴料理ができなかった三春田村氏や三春城下では鶴に見立てた三角形の食べ物で代用した。
愛姫生誕450年記念で舞い上がった地元が作ったアニメのパンフレットを眺めてて気になったちょっといい話
この話で真っ先に思い出したのは(●∀・)が家光を招待した時に鶴のつみれ汁を出してるし、同じく東北の伊達家では鶴料理に馴染みがあっただろうし
秀吉が天皇に鶴を献上して正月儀礼が鯉の包丁から鶴の包丁になって、公卿や大名にも正月儀礼の鶴の包丁が広まったりとか
伊達家に嫁いで以降に愛姫の前にも正月とか鶴料理が並んだことがあるのかな
641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/16(金) 08:25:23.02 ID:5kUSekXx
光秀が作った家康おもてなし御膳に鶴料理があった。御馳走だったんじゃないかな。
642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/16(金) 11:11:40.60 ID:uE7LJ6Tm
まとめの12366
伊達政宗とプロパガンダの影響
で伊達氏が坂上田村麻呂出生伝説を捏造して広めた話があったけど
影響はなかったのかな
643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/16(金) 15:01:47.11 ID:uE7LJ6Tm
よく考えたら阿口陀媛って「あくだ姫」だから
伊達家が奥浄瑠璃「田村三代記」を使って広めた「悪玉姫」の影響は受けてるようだ
(中世に流布していた「田村の草子」だと田村麻呂の母親は賤女とされる)
644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/16(金) 19:13:58.53 ID:SMG/JatR
三春町史なんかからまとめると
産湯とか遊んだ石とか大熊とか母を祀る社とか武芸を学んだ森とかが、戦国時代以前には阿武隈の坂上田村麻呂伝説として存在してたらしい
田村郡は一木一草に至るまで坂上田村麻呂伝説が宿ると言われるんだけど、阿武隈の伝説の要因は藤原姓田村氏も平姓田村氏も田村郡を支配したら真っ先に田村麻呂の子孫を名乗ってきた名残だとか
『田村の草子』の賤女が最も古いけど、三春田村氏は賤女を阿武隈伝説の阿口陀媛に変えて、田村麻呂の幼名を鶴に育てられた鶴子丸に改編して流布することで三春支配を強化した
この鶴子丸こと坂上田村麻呂をまーちゃんが利用するときに、領地で重要な伊達家ゆかりの熊野権現と千賀の浦(塩釜の浦、千賀の塩釜)から1字ずつとって幼名を千熊丸に再改編
田村大元帥明王から鹽竈神社に変更されてるあたりに戦国時代の権力の移り変わりが伺えるね
645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/16(金) 19:22:02.60 ID:SMG/JatR
>>641
鶴料理が普及したのは信長秀吉家康の頃なんだって
中国の影響で日本でも鶴は禁食だったけど、平安時代には既に公卿が隠れて食べてたり、鎌倉時代以降は狩りをする武士に食べられてたり
禁食を気にせず畿内で食べ始めたのは信長が家康をもてなしたあたりが転機で
秀吉が天皇に鶴を献上してから禁食じゃなくなった
家康の頃には鶴、雁、雉が三鳥として貴重な鳥肉扱いされたから乱獲されまくったけど各大名が禁狩礼を出して対応した
そこで鶴や雁が食べられない庶民や金のない大名は、鶴もどきや雁もどきで代用した
文章が変になったけどこんな流れらしい
鶴の包丁って本に載ってたんだったかな
646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/16(金) 20:53:24.71 ID:QFParjqv
記憶が確かなら、義植が山口に逃げたときに歓待した大内が鶴料理を出していたのをここで見た気がする
あと鶴の羹を出されて肝付が島津に激怒した逸話があるね
創作らしいけど
647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/16(金) 22:14:24.72 ID:vTbs50tw
その後鶴の汁にあたり申した
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10549.html
そういえば利家が鶴の汁を食べ過ぎてお腹が痛くなった話が前に出てた
648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/16(金) 22:39:44.95 ID:dGbp89+Z
寛永2年に伊達忠宗が仙台に入部した際政宗が忠宗に宛てた九ヶ条からなる覚書の一条にも
「鷹場之義、鶴・白鳥・鳫・鴨・うつら・ひはり、何にても少も無機遣、
何方をも身之遣ことくニ不苦候事、」
(鷹場では鶴・白鳥・雁・鴨・鶉・雲雀、何れも遠慮なく捕ってよい。
何処でも政宗と同様に鷹場を使ってよい。)
とあるし食べる機会は多かっただろうから普通に食してたんじゃないかな
649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/17(土) 01:44:13.52 ID:phvBLPVO
足利義植を饗応した大内義興は鶴の煎物(『明応九年三月五日将軍御成雑掌注文』)
徳川家康を饗応した織田信長は鶴汁(『天正十年安土御献立』)
後陽成天皇を饗応した豊臣秀吉は鶴あいの物(『行幸御献立記』)
徳川家光は大姫出産祝いで鶴の饗行、徳川吉宗は町奉行に御拳の鶴(将軍が狩りで獲った鶴)のあつもの、明治天皇の新年宴会に温物鶴……
室町時代前後から鶴食の例は増加してるけど鶴食せず神聖視してた三春の田村家は饗応がさぞ大変だっただろう
650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/17(土) 01:51:54.02 ID:phvBLPVO
「鶴はマナヅル、ナベヅル、タンチョウとあるがタンチョウは珍しく滅多にない」と記録が残るくらいタンチョウが貴重品だった
江戸時代初期には青山氏が松前から鷹と鶴を取り寄せる際、秋田藩主佐竹氏義宣に宛てて「松前から取り寄せた鷹と鶴が領内を通過するので協力をお願いします」的な書状が残ってる(『青山忠俊書状』)
盛岡藩が松前からタンチョウの活鶴をお取り寄せした際、松前藩への支払いはタンチョウ1羽10両で2羽購入、4日後に追加で1羽購入
約40年後、福井藩がタンチョウ1羽15両で購入してるため値上がりしていた
少し時代が違うがアイヌによる鶴の販売価格はタンチョウ1羽896文、並1羽672文であった、松前藩ぼったくり疑惑
戦国時代末期から明治時代の根室本庁と札幌本庁まで鶴の産出記録を残してるから面白いぞ
盛岡藩や津軽藩は松前を通じてアイヌから生鶴を買って飼育してたり
松前藩伝説の鶴職人岡田藤七は狩りで生涯300の鶴を獲ったけど卵から孵化させる境地まで達してたり
戦国から離れてくからこのあたりで
651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/17(土) 01:57:24.78 ID:phvBLPVO
ちなみに卵から孵化させた鶴なんかは特にだけど
生鶴で買ってきて飼育した鶴は懐いて後を着いてくるから死ぬまで飼うんだって
かの水戸光圀も飼い鶴に追いかけられたと残ってる
死んだら塩漬けにして肉や羽やを有り難く皆で分け合う
652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/17(土) 03:19:50.85 ID:PxjGZs6g
衛の懿公「呼ばれたような、嫌がらせされているような・・・」
653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/17(土) 12:16:05.25 ID:MAbhH7Td
>>652
利家「鶴を愛でても鶴にいくさをさせることはできないでしょ」
で鶴汁にして食べた結果が>>647
654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/17(土) 23:59:35.26 ID:nySHf8sO
利家は夜中、寝てる信長の警護を任されたほど信頼されてたと言う良い逸話なのに
下世話に男色関係だったとされてるなぁ…
655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/18(日) 16:11:36.19 ID:/O6R6YqR
腕枕して一晩中起きて守ってくれてるんだぞ
寝るまでピロトークなんかしてくれて
もう芯棒堪らんじゃないか
スポンサーサイト