島津の琉球侵攻とある日本人武者

2011年02月07日 00:00

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 01:51:00 ID:LcxOVY3w
薩摩島津の琉球攻略、このとき琉球方として首里城正門(歓会門)で最後まで抵抗したのはある日本人武者でした。
彼は越前出身の医師で琉球に帰化し、剃髪し僧体ていたため法師武者と喜安日記には書かれています。

薩軍が首里城に迫ると琉球軍まず越来親方以下百数十人で迎撃にあたります。しかし薩軍の
雨のような鉄砲の前に死者続出。
やむなく退却し首里城にこもることにします。しかし薩軍の首里の町を焼きながらの進軍に琉球王家は
和平交渉を開始します。
那覇の町(首里は政治の中心・那覇は経済の中心)で和平交渉が始まったころ、交渉の最中にもかかわらず
法元二衛門を大将とする軍勢が首里城への攻撃を開始。
この攻撃を止めるべく薩将の市来織部と村尾笑栖が首里城へ駆けつけたところ、正門に立ち抗戦したのが
この法師武者でした。

この法師武者、正門の櫓の上に仁王立ちし
「薩摩の野郎ども、寄せて来たれども、何ほどのことあらん」
と櫓の上から巧みに矢を射掛け薩軍を近づけない。
この状況で薩軍は市来・村尾から、法師武者へは尚寧王より停戦の使者がとどき法師武者は法元に捕らえられます。

この法師武者、法元から
「汝は日本人なり。なぜ日本を忘れて我らと戦うのか?」
と問われ
「自分が琉球王から受けた恩は厚い。今、不幸にして捕虜となり死につく身だが、後悔することは何もない」
と答えます。これを聞いた尚寧王は金銀財宝を出し法師武者の助命を懇願、また法元も感心するにいたり助命された。

彼の名は喜安日記には載っていないが、その後子孫が琉球王朝の御典医・御典薬となったため
「山崎二休」と言う名が伝えられています。

まあ日本を裏切ったってことで悪い話の方に。
たぶん越前を脱出したころは「越前の狂犬」が暴れまわってたころじゃないかなと。





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