朝倉景綱「これにて御免!」

2011年03月22日 00:00

332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/21(月) 18:45:20.02 ID:6mZ7TAzX
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1296.htmlで目出度く「織田」を名乗った越前織田城主の朝倉景綱さん。
この人、なかなかの人である。個々の逸話については既に語られているが、まとめてみようと思う。

朝倉義景の従兄弟という系図もあるが、実際は一族とはいうもののかなり前に分かれた家の出であるらしい。
国内の要所である織田をまかされていた以上、冷遇されたわけではないが、朝倉義景全盛の頃はあまり記録に出てこない。

この人が記録に登場するのは、対織田信長戦の頃から。
元亀元年の越前侵攻の際は、500の兵を率いて河野口(現南越前町)を守ったとされる。
その後、義景に従い志賀の陣や小谷城救援に出陣するが、次第に劣勢となる義景に対し不安・不満を募らせていったらしい。
天正元年8月、浅井長政の救援要請を受けて朝倉義景は近江に出陣する。朝倉景鏡や魚住景固が疲労を理由に出陣を拒否する中、
とにかくも従軍した景綱の手勢は義景にとって貴重な戦力であったに違いない。

8月12日に前衛の砦が陥落すると、義景は小谷城救援を諦め撤退を開始。しかし、撤退を予想していた信長の追撃により、
朝倉軍は近江・越前国境の刀根坂で大敗、朝倉一族や重臣が多く戦死した。朝倉軍は織田軍かく乱のため、二手に分かれて
撤退したのだが、これが裏目に出て織田軍は雑兵ばかりの陽動部隊は目もくれず、義景本隊を攻撃したという。戦う前から
兵力を損じたうえ、敵の総大将信長が先頭切って向かってきたのだから敗戦もやむを得ない。

それでも義景も戦国武将である。越前を南北に分ける木ノ芽峠で敗軍をまとめ織田軍を迎え撃とうとした。

ところが、

「我らは殿の分別についてゆけぬ。これにて御免!」

景綱はこう言い放つと手勢をまとめてすたこらさっさ、織田城目指して去ってしまった。
この景綱の行動を見て、それまでとにかくも義景に付き従ってきた他の侍たちも「一族である景綱様までも・・・」と考えて
蜘蛛の子散らすようにわっと逃げ去ってしまった。残された義景直属のわずかな軍勢では、とても勝ち目はない。
自害しようとする義景を近習が何とか説得して一乗谷まで撤退した。義景のその後はご存知の通り。


この後、信長に降伏して晴れて(?)織田姓を名乗った景綱であったが、一年も経たぬうちに越前一向一揆が起きる。
一向一揆には組みせず織田城に籠城した景綱であったが、雲霞の如く押し寄せる一揆軍に恐れをなしたか、城兵を残したまま、
妻子だけを連れて夜陰に紛れて海路で敦賀へ脱出、二度目の「これにて御免!」である。呆れ果てた城兵は一揆軍に降伏した。


これだけのことをしでかしため、さすがにその後は景綱もその子も世に出ることはなかった。以後消息不明であるが、官途の兵庫助
を名乗る人物が京都で茶の湯の会に出た記録が残っているらしい(出典忘れた)。もしかしたら、わび住まいでも建ててある意味
幸せに暮らしたのかもしれない。




333 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/22(火) 12:36:23.85 ID:eHrW4eU/
壮年期の信長さまはアグレッシブだなぁ
断空剣とか使えそうだ

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/23(水) 21:32:00.18 ID:jmHr3jB1
>>332
島津家久が天正三年に上洛した時の「家久君上京日記」でしょ
家久が里村紹巴や明智光秀等と会ってる時に、「朝倉の兵庫助といへる人くハ々り候」って書いてある
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”織田”と”織田”

2011年02月19日 00:07

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/18(金) 00:15:46 ID:LspNf9sW
天正元年、朝倉家が滅亡した際に信長に屈して生き延びた朝倉旧臣は、前波吉継を越前国守護代として
再編成された。
その際、前波吉継が桂田長俊と改名したように、他の将も改名している。
自発的なものというより、信長の命令によるものだったらしい。
で、改名された名前は、桂田長俊以外はそれぞれの持ち城にちなんだもの。安易と言えば安易だけど、
信長が子供に対して発揮したネーミングセンスのことをおもえば文句はいえまい。
結果、朝倉の名は捨てさせられてこんな感じに。
朝倉景鏡→土橋信鏡(大野郡・土橋城主)
朝倉景健→安居景健(足羽郡・安居城主)
朝倉景冬→三富景冬(丹生郡・三富城主)

で、ここで問題?になるのが丹生郡・織田城主の朝倉景綱。

景綱「んじゃワシは、織田景綱ってことで、よろ」
信長「……」

丹生郡織田には、まさしく織田家の名乗りのルーツとなった織田剣神社があり、いわばこちらが「織田」の本家本元。
信長も駄目とは言えなかったと思うが、二人がどんな顔をしていたのか非常に見てみたい。

ただ、ここの織田は「おた」と濁らない読み。
なので、おそらく読み方は違ったと思う。

そんな織田景綱も、織田の名乗りをひけらかす暇もなく?、富田長繁が引き金を引いて巻き起こった一向一揆に
居城・織田城を攻められて逐電。その後、彼の姿を見た者はいない。




857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/18(金) 00:21:23 ID:pSXxe+mN
オタ景綱

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/18(金) 00:24:58 ID:5GhEqUAa
ニューオタ影綱

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/18(金) 00:29:20 ID:q0sE4SAb
>>856
問題なのは信鏡の方じゃねーの?

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/18(金) 06:25:11 ID:ZB+/DbHe
これからは織田信信と名乗るが良い

861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/18(金) 11:01:46 ID:RxJ9qyLT
織田信信殿は誠に果報者でござるな