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木下延俊の不運

2010年08月22日 00:00

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 18:42:01 ID:S858GWjf
木下家定の三男で細川忠興の妹婿である木下延俊。

彼は関が原の戦いの際兄弟が皆西軍に味方する中、義兄に従い一人だけ東軍に属し
居城姫路城を防衛、丹波福知山城攻撃にも参加する等、そこそこの戦功をあげた。

そして戦後、これらの功から三十五万石を与えられることになった。
当時彼は二万五千石の小大名だったため、大出世だった・・のだが
加増する旨を記した朱印状を持った使者が賊に襲われて朱印状を奪われるという事件が起こる。
このせいで加増は取りやめになってしまい、彼は最終的に豊後日出3万石の小大名として生を終えた。




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木下延俊と長澤市之丞と国松丸・いい話

2008年10月15日 14:30

101 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/01/04(金) 00:24:23 ID:nSXe2Dkn
豊後日出藩で伝えられる豊臣秀頼の遺子国松丸の話はどうでしょう?
初代木下延俊(ねねの甥)は遺言で日出藩3万石の内、1万石を嫡男俊治の弟
延由に分け与えるように江戸家老長澤市之丞に告げるが長澤は「かしこまり
ました。5千石を延由様に分けます。」と答え「違う1万石じゃ。」と主君
から言われるも「5千石確かに承りました。」と応えるのみで、遺言として
5千石を延由に分封した。
日出藩では延由は島津に助け出された秀頼が一子「国松丸」を延俊が自分の
子として匿っていた。との言い伝えが有り、その真偽は定かでは無いが長澤
市之丞は主君延俊の死後22年を経て徳川幕府から正式に延由の分封を認め
られるのを見届けると「切腹」して自ら命を絶っている。
日出藩3万石の内1万石までの分封で幕府から見咎められるのを恐れ、遺言を
変えて5千石にし、朱印を幕府から頂く事で自らの役割を果たし主君の命に背
いて5千石減らしたお詫びに切腹したのではなかろうか?
ちなみに幕府へ「延由」を延俊の弟「延次」として申告している。