けんむし坂

2014年06月09日 18:51

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/09(月) 18:22:39.55 ID:2WRF1aVQ
けんむし坂

天正18年(1590)、6月のことであった。
秩父の柳生端から柳生台地へと登る坂道を、一騎の武者が駆け登っていった。
主城の鉢形城落城を、支城の根古屋城へ知らせる使者である。(鉢形城開城は6月14日。)

使者は坂を途中まで登って行ったが、そこで使者の前に一匹の巨大な毛虫が出現した。
しかし、使者は馬上で鞭を振るうと、ただの一打ちでこの毛虫を打ち払い、そのまま根古屋城へと走った。
この様子を見ていた土地の者が、鞭の一撃で死んだ巨大毛虫の死体を棒で担ぎ、
その重さを量ってみると、なんと三貫目(約11kg)もあったという。

後に、土地の人々はこの坂を「けんむし坂」と呼び、毛虫の重さを量った棒を投げ捨てた所を
「棒ヶ沢」というようになった。
根古屋城は、北条氏邦の家臣の渡辺監物が城代として守っていた。
城代は普段柳生に住んでいたので、土地の人たちはこの屋敷を「けんもつ屋敷」と呼んでいた。
ケンムシ坂は、ケンモツ屋敷の下にあったので、ケンモツがケンムシへと変化したのだろうともいわれる。

「秩父の伝説」


戦国の秩父に巨大幼虫出現す、というお話。



486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/09(月) 20:37:23.92 ID:dYE8Put+
何のために現れたのかも分からないまま流れるように殺されてしまった

489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/09(月) 21:32:00.50 ID:U2I0lW9p
>>485
戦場では陸戦型モンスターの跋扈する関東じゃ巨大芋虫ごときなのか・・・

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/09(月) 22:55:24.26 ID:HIGFkVrt
>>485
使者の名前も分からず巨大芋虫が出た理由も分からず
殺しても特に呪いとかも無いこのブッタ切り感
こういうのが口承伝承の醍醐味なんだよな

491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/09(月) 23:27:49.70 ID:rtv4SlvC
素材剥ぎ取りは成功しなかったのか…

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/10(火) 02:02:21.10 ID:8OXkcZh0
>>489
坂東じゃ金棒が必須アイテムだもんね
毛虫も金剛の身体か隼のような身のこなしをもってしなければ対抗できんじゃろ
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幻の東国寺

2014年06月05日 18:56

82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/04(水) 19:54:47.23 ID:8o5FeML3
幻の東国寺

秩父の小鹿野町に、権現堂原と呼ばれる丘がある。
元はここに東国寺という、大きな修験道場があったと言われているが、
永禄12年、甲斐の武田軍が秩父に侵入し、寺社に対して焼き打ちを行った際に、
東国寺も戦火に遭い、幻の寺となってしまった。
村人たちは、燃え上がる東国寺をただ唖然と見つめているしかなかった。
その焼き打ちの際、武田軍の「風林火山」の旗にも火が燃え移りそうになったので、
近くの池に旗を浸してはまた旗を押し立てていたという。
寺を焼いて勢いづいた武田軍であったが、寺の焼け跡に立ち尽くす村人たちを見ると、
流石に気がとがめた。

そこで武田軍は、
「武田の天下になった時には、必ず立派な寺を立ててやろう。その証だ。」
と言って幟旗を池のほとりに埋めて立ち去ったという。この旗を埋めた塚は「旗塚」と呼ばれるようになった。

その当時、秩父を治めていた鉢形城主・北条氏邦は信仰心に厚く、寺社の修理や再建を行っていた。
この氏邦には東国丸という名の息子がいたが、惜しくも早死してしまった。
息子を失って嘆き悲しんでいた氏邦は、同じ名前を持つ東国寺が焼き払われたと聞き、
今の寄居町(鉢形城下)へ再建し、下吉田赤柴の金剛院4世・酒雲全伯和尚を招いて、東国丸の冥福を祈ったという。


「秩父の伝説」




83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/05(木) 07:06:50.75 ID:dNlZtKzI
村人「あの、ここ、ここへは誰も何も建ててくれないの、、、」

北条さんちの氏邦くんからお手紙届いた。

2010年08月05日 00:01

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/04(水) 06:45:06 ID:2mnPCtjx
北条さんちの氏邦くんからお手紙届いた。

「この度出仕してくれたのは大変めでたい!今後キミに文句を言うヤツが居たら、ボ
クの所に直接訴えてくれて構わないよっ!っつーか、別に小田原の連中とはキミが付
き合う必要なんてないから! 氏邦より矢野孫右衛門殿へ。」

……氏邦さん、小田原のお兄ちゃん達となんかあったの?(^^;

ちなみにこの矢野孫右衛門さん、ちょっとググッてみたら徳川vs真田の上田合戦の
際、真田方として同じ名前が挙がってますね。
上・信州辺りの国人で、真田同様に去就が定まらず、北条家内で反感を買っていたと
いうコトでしょうか。

……それにしても「小田原衆とは付き合わなくても良い」ってのはないだろ、小田原
に従っているのに。




300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/04(水) 17:20:42 ID:TQgxRsyK
>>288
黒田基樹氏などが詳しく研究してるけど、北条氏の支配体制はかなり独特で、
氏照・氏邦・氏規の兄弟で、担当する土地をきっちり分割して、それぞれが攻略や支配・外交を受け持ってた。
ちなみに、上州・信州・北武蔵は、鉢形の氏邦の担当地域だ。
小田原の本社に直接連絡せずに、鉢形の支社を窓口にしてね、ってこと。

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/05(木) 01:23:08 ID:AdAOgUNs
>>300
権限を分担しすぎたために、勝手に真田領に攻め込んで破滅した

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/05(木) 07:40:21 ID:pZ9P3zMt
>>320
猪俣宛に出された氏政の書状なんかも残っていて、>>300で言ってるような
権限分割はホントにされてたの?猪俣は氏邦と氏政、両方の指示を仰ぐ身分
だったんじゃね?と言う説もあるよね。
実際にはケースバイケースで、>>288の矢野は猪俣と違って氏邦だけに仕え
てれば良いよっていう通達だったのかな?

323 名前:300[sage] 投稿日:2010/08/05(木) 09:31:07 ID:MlLGL7j2
>>322
>300で言ってるような権限分割はホントにされてたの?

さあ?
黒田氏はそう書いてるけど、どこかに黒田氏を批判してる人もいるかもね。
探して読み比べて、判断してください。

北条氏の行政機構や支配体制は、戦国大名の中で随一と言っていいほど進んでいるが
所詮は戦国時代の話なので、職掌が今の企業や役所ほど厳密に区切られてるわけじゃないんだろ。
小田原から上野方面への伝令の道筋は、どのみち鉢形を経由する必要があるわけで
猪俣宛の書状と一緒に、氏邦宛の書状も出したと考えるのが自然じゃないか。

324 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/08/05(木) 18:18:49 ID:O3J/l9r+
なるほど、ためになる

北条氏邦配下、阿佐見伊賀守と朝見姓・いい話

2009年04月17日 00:09

774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/16(木) 12:33:25 ID:/GxCoSMz
>>769
似たようなちょっといい話。

北条氏邦の配下に阿佐見伊賀守という武士がいた。
武田家と抗争中という時期、昼に夜に警戒をしていた。
とある払暁、北条方に奇襲をかけるべく武田家の軍勢が
移動しているのを見つけた阿佐見はすぐさま氏邦に報告、
この報せのおかげで余裕を持って撃退することに成功した。
氏邦「よし、その方、これから浅見改め朝見と名乗れ!」
それ以来、阿佐見氏は朝見姓を名乗るのであった。




参考
竜造寺四天王、戸田賢兼の百武姓・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1848.html