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古処山城、どのぐらいの要害か

2012年04月02日 21:29

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/02(月) 09:51:08.81 ID:wbOZ/ZBD
まとめの『秋月文種と小野九郎右衛門』にあるけど、内応によってあっけなく落ちた古処山城。
要害と書かれていたけど、どのぐらいの要害か皆さんご存知だろうか?
wikiの古処山城には書かれてないけど、古処山の方に記述がある。

ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%87%A6%E5%B1%B1

鎌倉時代、この地を治めた秋月氏の祖原田種雄が本拠地として『頂上』に古処山城を築城(wikiより)
で、この山の標高って859.5 mだったりする。

そりゃ、内応で落とすしかないよなと納得した話。
なお、登山道も整備されていて、一時間半程度の道のりだそうな。




533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/02(月) 12:44:43.96 ID:T6qtK1za
か…景勝地
そんな高い山に築城する一部始終をこの目で見てみたかった
ケガ人も出そうだし大変なんてもんじゃなかったろうに

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/02(月) 16:13:42.38 ID:gbxNgd65
標高差が重要とマジレス

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/02(月) 16:37:07.17 ID:b25i5gvc
俺の実家の近くにも山城があるんだけど
戦の時だけ山城にいて普段は平地の屋敷に暮らしてた。

その山城の石垣とかはすぐ近くの古墳を解体して再利用してたらしい。

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/02(月) 16:45:33.24 ID:mxjitE2D
>>533
最近の信長の野望で富士山山頂に築城出来たのがあったなw

537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/02(月) 18:51:18.94 ID:bPaTqvM2
どう考えても流刑地

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/02(月) 18:58:26.59 ID:dsJsO2Z6
むしろ死亡確定

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/02(月) 19:15:27.65 ID:1qT7XhZs
実は標高1000メートル以上にある山城ってけっこう全国にあるんだよな。
ほとんどは住民の避難用だったらしいが。

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/02(月) 19:19:04.73 ID:7zOnnDhu
所謂、城=集会所寄合処ですな。観音寺城なんて諸説入り交じってワケワカメですし

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/02(月) 22:47:18.80 ID:0yvmRTSM
平野に唯一ポツンとある丘こそが最重要拠点だ
小牧山、茶臼山

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/03(火) 00:07:49.77 ID:xNjPnlaO
戦国より遥か昔の時代でも、
鬼ノ城みたいに結構急峻な山に城作ってたりするからな。

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/03(火) 00:15:20.50 ID:rXkSUB3Z
古い神社が山の上にあるのは、古代には拠点に神を祀ったからだとか。
拠点がなくなって神だけが残って神社になると。

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/03(火) 00:32:42.34 ID:moON/Nkb
山そのものが信仰の対象でもあるし

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/03(火) 17:26:58.39 ID:xSWOqCfm
>>541
小牧山に登ると木曽川まで見えるからその重要性がよく分かる

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/04(水) 09:49:43.61 ID:kM3xNST2
松倉は一番標高の高い城らしい
実際には裏切りで秀綱は逃げ出したわけだけど、万全の態勢で籠城できていたらどうなっていたかな


553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/04(水) 18:16:11.10 ID:08A3RUcL
>>536
そんな所に城造っても佐々さんくらいしか城主になれる人おまへんがな
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秋月文種の御供衆任官運動

2011年08月13日 23:00

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/13(土) 16:13:52.86 ID:NlIHsOTA
天文9年(1540)のこと。筑前の秋月文種は将軍足利義晴の『御供衆』に任じられることを欲していた。
しかしこの頃、秋月氏が属していた大内義隆は、なかなかその事を幕府に推挙してくれない。
そこで、である。
秋月文種はついに、大内氏に黙って内々に、幕府への運動を始めたのだ。
しかも将軍家に求めたのは、後で大内氏との関係がこじれ無いよう

『あくまで将軍が秋月文種の忠義に喜び、自発的に御供衆の地位を授与した形にしてください』

というものであった。

「こんな都合のいい話が認められるか」
と将軍が思ったかどうか。結局、運動空しく秋月文種は御供衆の座を手にすることは出来なかった。

そして翌天文10年、秋月文種は驚愕する

自分と同じ筑前の国人で、同じく大内氏に属する麻生氏が、大内義隆の推挙により御供衆の座を授与されたのだ。

秋月文種は慌てて大内義隆に「自分も御供衆に推挙していただきたい!」と懇願した。
ところが義隆

「麻生氏はもともと、将軍直臣の家柄なので御供衆に推挙したんだが、秋月はそういう家ではないから
御供衆に推挙することはできないね。しかし五番衆なら推挙して差し上げられるのだが…」

五番衆は御供衆より格下なのである。同じ筑前の国人として、麻生氏より下だとされてはたまったものではない
ではないか!
どうも大内義隆、秋月文種が自分を通さず独自に幕府に接触したことを知り、そこでこのような目に合わせた節がある。

この後も秋月文種は大内義隆に、御供衆への推挙を懸命に働きかけたが、それを得ることはついに出来なかったという。

まさに藪をつついて蛇を出す結果となった、秋月文種の御供衆任官運動の顛末である
(常興日記)




402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/13(土) 17:27:00.02 ID:uAix8GJx
御供衆になると何かメリットがあるの?

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/13(土) 17:46:29.38 ID:NlIHsOTA
>>402
一番簡単なメリットを言えば公的な「信用」が違ってくる。
例えば今の社会でいえば、同じ事業をするにしても、公的な肩書きが何も無い人と、
元国会議員とか元高級官僚とか、そう言った肩書きを持っている人とではやはり後者の方が
広く信用され有利に成るでしょ。多くの人はその肩書きの後ろにある経験や人脈を見るから。

あと戦国時代で言えば、実力で圧倒していれば肩書きの影響は少ないが、実力で拮抗していれば
一般的にやはり肩書きのランクの高い人間の方に人は集まるんだよ。
これも現代も一緒だと思う。

もっといろんな意味や理由があるけど、とりあえず一番直接的なメリットはそういったところだな。

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/13(土) 18:52:14.95 ID:VHD2YWD7
高い官位や役職は、そのための付け届けに必要な財力の証明であったり、
仲立ちをしてくれる人との親密さのアピールであったりするんだよ。

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/13(土) 19:09:57.92 ID:Gl8YjL7n
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E4%BE%9B%E8%A1%86#.E7.BE.A9.E6.99.B4.E6.9C.9F

ここに秋月種方って文種の別名が載ってるけど、どういうことなん?


406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/14(日) 14:36:15.94 ID:2ddWbF0U
さーっと見てみると、番衆あるいは供衆になったと書いてる所があるから、なんらかの役職に就いたんじゃないの
ただ中央の記録に残ってないからよくわからないとかだったりしてw

秋月文種と小野九郎右衛門

2011年03月10日 00:00

秋月文種と小野九郎右衛門

筑前は秋月氏の居城・古処山城は天然の要塞であった。豊臣秀吉の九州遠征において当初徹底抗戦の
構えを見せたのもこの古処山城の要害があったからで、それほど自信ある秋月氏最後の砦だった。初代の鎌倉時代から
十七代当主種長の時代に日向へ転封されるまで古処山城とともに秋月の地に代々住み続けた秋月氏であったが
一時期滅亡寸前にまでなり、秋月の地からも離れていた時期があった。弘治3年(1557年)の秋月の戦いである。

概要としては、「大友二階崩れの変」による大友氏の動揺、陶晴賢謀反などによる大内氏衰退と毛利氏の台頭などで
筑前の豪族たちの周辺も慌しくなってきていた折、毛利元就お得意の謀略が筑前に伸びてきた。
当時筑前の二大巨頭であった筑紫惟門と秋月文種に「一緒に大友討とうぜ!」というお話である。
ホイホイ乗ってしまった二人は密議を交わしていたが、この悪巧みが新当主になったばかりの大友義鎮にバレてしまい
義鎮は大激怒、戸次鑑錬・高橋鑑種・臼杵鑑速らに命じて討伐に向かわせた。その数2万。秋月の軍勢は千数百で
あったため篭城するも5日ほどで落城。後に筑紫惟門も敗れ毛利氏の元に逃走した。しかしいくらこれだけの
戦力差があったとはいえ秋月自慢の古処山城がたった5日で、惟門のように逃げ切れもせず討ち取られたのか。
そこには秋月方から裏切り者が出たからだと言われている。

秋月文種の近習に小野九郎右衛門という侍がいた。彼の従弟は後に立花双璧として並び賞される小野和泉。
まだ若い頃の小野和泉は大友家臣として仕えていた。彼は要害・古処山城をただ攻めるだけでは自軍への被害も
甚大になると考え、ある策を思いついた。開戦前、ひそかに九右郎衛門に会い、主君義鎮自筆の書を取り出して見せた。
「今度の合戦に内通して大友の兵を城内に手引きしてもらえるならば、恩賞として豊後上田二千貫(約二万石)を与え
その上、義鎮公ご寵愛の美女を賜る」というような内容だった。この美女とは元々は豊前田川郡の農家の娘で、
その頃に九右郎衛門と深い約束を交わした仲だったが、義鎮の側女として連れて行かれたのだった。
そのことを知っていた小野和泉はこの策を考えたのだった。親戚の言うことでもあり、九右郎衛門はまんまと乗った。

こうして九右郎衛門は前もって大友の忍者をに城中の地理、人数の配置、水の手などの詳細を渡し、
さらに大友の兵を手引きして城内に引き入れたため、要害を誇った古処山城はあっけなく攻め落とされた。
城主文種は側近に守られて山伝いに落ちのびようとしていたが、途中で後をつけていた九右郎衛門に不意に襲われ
首を取られてしまった。大友の陣営に首を差し出した九右郎衛門は、約束どおり内通しただけでなく、
文種の首まで獲ってきたのだから、大層な褒美を貰えるだろうと喜んだ。しかし小野和泉は怒っていた。
「手引きのことは頼んだが、主人の首までとは言わなかったはず。いかに欲心からとはいえ、恩ある主人を殺し
その首を敵に売るとは、あさましき所業である。」和泉は数名の兵に命じ、夜盗のように装わせて
九右郎衛門を待ち伏せし襲わせた。やがてなぶり殺しにされた彼の惨死体が発見されたが、
これを見た秋月の人々はみな「天罰が下ったのだ」と言ってあざけって通ったという。
小野和泉もいくら従弟とはいえ「こんな奴が味方になったらいつ裏切るか分からん」と思ったのか、
それとも最初から殺すつもりだったのか。ある意味戦国時代らしい「悪い話」だと思う。

こうして一度滅亡し(かけ)た秋月氏だったが、毛利氏の元に逃げ落ちていた文種の子種実が
旧臣・深江氏の働きと毛利氏の援助により、永禄二年(1559年)正月に秋月の地に復帰した。
種実は九右郎衛門の所業を恨み、秋月に戻ってすぐ彼の一家眷属を探し出して皆殺しにしてしまった。
そのため一時秋月では小野氏受難の時代が続き、同姓の者はみな名を変えて、身を潜めていたという。




176 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/03/09(水) 22:13:34.22 ID:dpNlltL2
なんか「悪い話」のお手本のような話だなw後日談含めて
三国志にも同じような裏切り話たくさんあるし

177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/09(水) 22:28:33.93 ID:F74B19ax
まあ、戦国の世ですからね
何でもアリですよw

178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/09(水) 22:29:06.87 ID:LUD80ioS
種実「待ちに待った時が来たのだ!
   多くの英霊が無駄死にで無かったことの証の為に・・・
   再び秋月の理想を掲げる為に! 星の屑成就のために!
   古処山よ!私は帰ってきた!! 」



179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/09(水) 22:35:38.44 ID:cAU9SFVs
そして居城に核撃つんかいw

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/09(水) 22:37:58.81 ID:EQNsbaZG
ついでに地元住民も皆殺しにして星の屑成就か