fc2ブログ

総じて武士の殉死には

2017年08月17日 17:13

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/17(木) 04:15:30.84 ID:fm2rTd/F
ある老人の話によれば、「総じて武士の殉死には様々あって、義腹・論腹・商腹がある。

君は礼をもってし、臣は忠をもってす。主君のために心を尽くし、軍陣では主君の危機
を救い、太平の時は賞禄を目に掛けず無二の奉公を致し、もし主人の死去あらば二世
の供を致す、これが義腹なり。

昔、相馬長門守利胤の家士の金澤備中と申す者は相馬家代々の忠臣で、すでに備中
まで11代が戦場で討死したのであった。その子・忠兵衛という者は、将門より26代目
の大膳太夫義胤(中村藩第2代藩主・相馬義胤)が病死なさった時に申して、

「私めの先祖より亡父・備中まで11代は、いずれも御馬前で討死致した。ところが今は
天下太平なので、そのような御用にも立ち申さず。せめて二世の御供でも致し君臣先祖
の忠孝に備えるとしよう」

と、相馬の城下中村で殉死した。「これこそ誠の義士と言うべきだ」と、諸人は誉めた。

また、同格の傍輩が殉死するのを見て、「我も劣るまじ」として腹を切るのを論腹という。
また、さしたる恩もなく、死なずとも済むはずのものを、「我が命を捨てれば子孫の後栄
にもなるだろう」として腹を切るのを商腹という。

また、いつもは「主君に万一のことがあれば一番に命を捨てる!」と罵りながらその期に
臨んではとやかく言ってその場を外す者もいる。これは論ずるに足らず」

――『明良洪範』


スポンサーサイト



相馬義胤の秀吉への臣従

2017年01月02日 20:56

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/02(月) 08:19:11.54 ID:TySr3gnB
豊臣秀吉公は天正10年、明智日向守光秀を討ち取った後、天下を順次掌握した。
天正18年、秀吉公は諸国において私の争論そしてはならぬと、固く禁制としたことを触れられた。
そのため伊達と相馬の間の調略は、互いに停止した。

同年、秀吉公は相州小田原に発向され、北条の門族を征伐されるということが、この国までも確かに
聞こえ来た。そのため「将軍(秀吉)の御支配に預かるなら本望である。ともかく小田原に参陣然るべし」
と、相馬義胤は相州へ参上し、浅野弾正少弼長政を頼りこれを言上した。

秀吉公は相馬に対し、少々悪印象を持っていた。しかし石田治部少輔三成が殊更に懇意があり、
浅野長政以上に頼りと成り、これによって相馬の言い分は疎意なく巨細に上聞に達し、故に秀吉公は

「相馬は小身ではあるが武勇の士将にて、大身の敵に向かって度々の戦功有りと聞いた。」

と仰せになり、義胤の謁見を許した。

その後、義胤は妻子とともに上洛し、北野の千本に屋敷を給わりそこに居住した。
この年、後の相馬大膳亮利胤は11歳であった。
またやがて佐竹修理太夫義隆の御母堂となる桂雲院殿は、天正19年にこの千本の屋敷にて
誕生されたのである。

(奧相茶話記)

相馬義胤の秀吉への臣従について。石田三成に世話になったことをこれだけハッキリ書いているのも珍しい。

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/02(月) 09:01:51.94 ID:wVQJxPkt
なるほど

おかげで、世界史上でも有数の長期に渡って領土を治めた名家が存続できたのか

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/02(月) 09:24:49.35 ID:93XZxViO
そりゃ利胤も初名は三成から偏諱を貰って三胤ですからな。

487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/02(月) 14:08:23.09 ID:LNdqipkQ
浅野を頼るか石田を頼るかで命運が別れる東北の大名たちw

盛胤にとってこの嫁は叔母である。

2016年12月08日 17:21

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/08(木) 08:50:13.30 ID:1Y7hC+6p
相馬義胤13歳の時、小高城において能を催した。これは伊達稙宗が居城である丸森より
小高を訪問したので、その歓迎の為である。
稙宗はこの趣向に殊の外喜び、そのあまり即座にこう提案した

「私には秘蔵の娘がある。義胤殿をその婿にしたい。」

父親の相馬盛胤はこれを承諾し、その年、永禄2年にこの姫を迎え取った。この時姫は15歳であったという。

ところで、伊達稙宗の長女は、相馬顕胤の妻であり、すなわち盛胤の母であった。
その妹が義胤と結婚するということは、盛胤にとってこの嫁は叔母である。
昔はそういった義別が無い世の中だったという。

この本文には永禄2年で義胤13歳とあるが、正確にはこの年では12歳である。
但しこの嫁取りは永禄3年だったのではないか。

(茶話記異説改選集)



相馬義胤、大阪遅参

2013年04月12日 19:50

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 19:40:46.52 ID:j1BlCTDN
慶長20年(1615)3月、江戸の幕府は再びの大阪攻めのため全国の大名に参集するよう命じた。
大阪夏の陣の勃発である。

奥州の相馬利胤もこれに応じ上方へと上ったが、駿府において病にかかり、十死一生というべき
重体に陥った。無論病臥したまま軍勢を動かすことは出来ず、それ故急遽、隠居していた
父・義胤が人数を率いて参陣することとなった。

4月、義胤は隠居所である標葉郡(現・、福島県浜通り)泉田の城を出立し、まず江戸に向かった。
この時義胤が近習や外様の面々に言ったことには

「太閤様以来、天下一統して安静の世になったため、我が身も畳の上で朽ち果てることに成るのかと、
毎晩眠る時に口惜しく思っていたのだが、このように不意の出来事によって、天下の武将の御為に
命をかけて戦うことになった!
これは誠に老いの果報!老後の大幸、一体何事がこれに優るだろうか!?枯れ木に再び
花が咲くというのはこの事である!」

そのように大いに喜ぶこと限りなかった。
義胤は次男の左近及胤、そして3男の越中久胤(この時16才)を伴い進軍した。

義胤はこの年66歳であったが、その頃下々は喜胤の事を
「謡の平家物語を聞かれるにも、常に修羅場を好んで聞かれて、その時は御心も浮き立っているようであった。
この度は真の修羅場であるのだからその浮き立ちもひとしおであろう。」と言い合っていた。
その時分は家中にも戦場を駆け巡った老巧の者達が存命していて、義胤と共に従軍していた。

さて、相馬義胤の軍勢は5月9日、近江草津に到着した。ところがここで衝撃的な情報が

「大阪城は一昨日の7日に落城しました。」

諸勢は既に帰陣を始めており、兵卒たちも口々にこのことを語っていた。

これには義胤を始め老若上下、進み勇んでいただけにガックリと力を落としたが、

「と、とにかく大阪までは参陣しよう!」

そう言って先へと進んだが、その道々で人々に
「なんだこの軍勢は?戦場の掃除に行くのだろうか?それとも城番に行く者達だろうか?」
などと言われ、一行は恥ずかしさのあまり顔を見られぬよう、横向きになって通ったのだという。

この様にどうしようもない状況であったため、醍醐の方に宿陣すると、佐藤丹後を使いに立て、
佐竹義宣に「どうすれば良いだろうか?」と尋ねた。

義宣からは「とにかく人数のうち過半は国元に返して、義胤殿はそのまま醍醐に居てください。
遅参についての詳細は私の方から幕府の老中に伝え、両御所様(家康・秀忠)のお耳に達するよう
取り図っていただきます。」との返事であった。

そうしている内に利胤も病から回復し、上洛したのであるが、彼も醍醐で父と合流した。
こうした所で、大御所様並びに将軍家からも「特に気にしていない(無御別心由)」とのことで、
佐竹義宣が同道して、二条城において相馬家父子4人お目見えがかない、その後親子ともども
帰陣したとのことである。
(奧相茶話記)

相馬義胤大阪遅参、というお話





225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 21:25:10.60 ID:1xdXtEFu
おれは平家物語の修羅場だと『信連』が好きかな
長谷部信連が1人で300人迎え撃つ話
信連は長続連たち能登長氏の先祖

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 22:49:38.68 ID:NLBTYAWT
>そう言って先へと進んだが、その道々で人々に
>「なんだこの軍勢は?戦場の掃除に行くのだろうか?それとも城番に行く者達だろうか?」
>などと言われ、一行は恥ずかしさのあまり顔を見られぬよう、横向きになって通ったのだという。

カワユスw

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 22:54:44.90 ID:eEJD0fni
相馬さんガンバ

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 23:50:04.41 ID:9j5yzmzt
横向きってまさか蟹歩き…
まあ、顔背けてるだけかw

相馬義胤の意地

2013年04月10日 19:52

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/09(火) 22:41:04.27 ID:mVgV5xwJ
関ヶ原の役が進行している中、北では伊達政宗が上杉方の白石城を攻略すると、
中立を決めていた相馬家は動揺し、水谷式部を始めとした重臣たちは相馬義胤
このように申し上げた

「この戦、最終的には家康公が天下を掌握なされるでしょう。
そうであるのに、我が相馬家は家康公に対してお味方する験を一事も成しておりません。
ここはせめて家康方の伊達政宗に内通だけでもしておかなくては、末々御家の御ために悪しきことかと
考えます。」

しかし義胤はこれを聞くや
「家康公に御味方する験が無いから申し分が立たないというのなら、家を滅ぼしてしまえ!
あの政宗に内通し、その下知を請うなど、考えもできないことだ!
この事、重ねて申し出すことならぬ!」

そう、怒りの色もあらわに言い切った。
憎むべき敵で在り続けた政宗に、膝を屈し情けを請うなど、義胤には耐えられぬことだったのである。

重臣たちは義胤にこのように断言され、再び集まって相談し
「ご嫡男である利胤様は若年でも有り、これが政宗に内通しても、苦しからざることではないか?」
と考え、これを義胤に申し上げると

「彼は若者であるから、その身の振り方はお前たちに任せよう。
私は、例え家康公より仰せ付けられたとしても、政宗の下知には絶対に従わない!
…しかしお前たちは自分自身の考えによって、一族のために成るよう働いてほしい。」

こうして、相馬利胤伊達政宗と通じ、政宗の指示により福島を攻めた。
この時の政宗からの指示の書類など今も残っているが、相馬家が一旦改易された時、
それらの書類はなんの役にも立たなかったとの事である。
(奧相茶話記)




220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/10(水) 11:39:22.38 ID:BPhl7Pl/
>>212
なぜ秀康ではなく政宗なんだろう

相馬義胤の決意

2011年03月27日 00:00

相馬義胤伊達政宗、出くわして、コメント欄より
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5249.html

相馬と被災地応援の気持ちで投下。

相馬義胤は法名から「外天公」と呼ばれ、地元の人達に親しまれているらしい。
初陣(1563年)からの約30年間に30回伊達氏と合戦している。
(相馬野馬追も特に伊達家に対抗できるよう「武芸技術を研ぎすましておくようにと続いた」と自分も聞いた事がある。)

伊達政宗が蘆名・二階堂両氏を滅ぼした天正17(1589)年、
相馬氏からも駒ケ嶺城を奪って、相馬氏への総攻撃を進めた時の事。
政宗への服属を勧める書状が宮城県伊具郡の武将から届いたが、
これに義胤は「政宗に従って家名を残して汚すよりは、
屍を砂礫にさらすとも名は汚さない」と徹底抗戦を主張したという。

この決戦はしかし、
豊臣秀吉の小田原攻めによって時勢が急変、回避されたらしい。

以上『武者たちの舞台 ふくしま紀行 城と館(上下巻) /福島民報社刊』より。



相馬義胤と伊達政宗、出くわして

2011年03月25日 00:01

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/24(木) 12:30:34.63 ID:fKau0LAV
寛永2年(1625)9月、相馬利胤が父・義胤に先立ち、世を去った。

後を継ぐべき嫡男の虎之助は未だ六歳、領内泉田村に隠居していた義胤は孫を後見するため現役復帰。
まもなく八十に届こうという老体に鞭打って、再び働き続けた。


寛永6年5月、ようやく虎之助は元服。手塩にかけて育てた孫に対し、義胤は己の名乗り『義胤』を譲り渡した。

元服後の初御目見えのため、老人と孫が江戸城に登城すると、ちょうど伊達政宗が退出してくる所に出くわした。
駕籠に乗りかけていた政宗は、下馬して城内へと向かう相馬家一行を、立ったまま何をする訳でもなく、見送った。


「あれで良いのだ。」
尊敬する祖父に対する政宗の態度に、不満気な顔を浮かべたままの孫に向かって、義胤は声をかけた。

「我らは若い頃、仇敵同士であった。武士たる者、仇敵に対して構えるのは当然のことだ。
今の若者も、日ごろ親しい人であっても、気を抜かずに用心して付き合うべきなのだ。」




497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/24(木) 13:23:18.18 ID:ZA1o8lKB
相馬さんも揺ぎ無くめんどくさい武士じゃのう。

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/24(木) 13:25:44.68 ID:ogWsox2P
下手に政宗に絡まれる方がめんどくさいって知ってるからだろ

499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/24(木) 13:35:20.00 ID:Hr7NaFEn
ふむ・・・・

絡まない:自分がめんどくさいと評価される
絡む:自分がめんどくさい目にあう

よし、酒に酔った市松の前横切ってくる!むろん挨拶とかガン無視で!!

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/24(木) 13:45:19.18 ID:KesQ7rse
政宗がおべっか使ったら使ったで「あれは奸計だ騙されるな!」とか言うのか
確かにこれで良いのかもしれん

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/24(木) 16:16:36.66 ID:9+oewzJl
そういや相馬さんとこの地元、今大変だよね

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/24(木) 21:31:31.92 ID:xgB9DlKu
相馬さんは死ぬ時も伊達領の方を向いて立ったまま葬られたんだっけ?

伊達と相馬、累代の敵国

2011年03月20日 00:00

410 名前:1/2[sage] 投稿日:2011/03/19(土) 10:49:23.69 ID:IVblgCDc
慶長5年(1600)6月のこと、上杉景勝征伐が行われようとしている時である。

これに伊達政宗は本国より会津を攻めるため、大阪より急ぎ帰国の途に付いた。
だが白川から白石に通る道は敵によって塞がれている。常陸国を廻り、岩城相馬を経由して帰国を果たそうとした。

しかし、これに従う家臣たちは大変不安に思った。伊達家と相馬家は累代の敵国である。その相馬領をつつがなく
通り抜けられるとは思えない。しかも今、政宗が従えているのはわずかに50騎ばかりである。

常陸国を経て岩城と相馬との境に至ると政宗、先ず相馬のもとに使者を立て、こう言上させた

『今度徳川殿、上杉景勝を征伐することとなり、政宗は領国より会津の搦手を攻めるよう命ぜられました。
白川の方からの道はすでに塞がっており、東側の道を通って漸くこの国境へと至りました。
しかしここまで、余り道を急いだため士卒ともども疲れきっております。願わくば城下に旅館を用意していただけ
ないでしょうか?馬の足を休めて、明日、我が国に入りたいと考えています。』

これを聞いたのは相馬家16代当主、相馬長門守義胤である。彼は大いに喜んだ

「あいつの運も遂に尽きたか!只でさえ伊達は相馬年来の敵であり、また我らが味方している上杉を討とうとする
一方の大将!今夜夜討ちをし、土地の案内を知らぬ者達をここかしこに追い詰めて一人も残さず討ち取り、
年来の仇に報い、今度の戦役での手柄としようぞ!」

急ぎ民家を旅館として伊達一行を迎え入れ、同時に家臣を集め夜討ちの謀議をした。

と、この謀議の席において、末座より進み出て声を上げたのが水谷三郎兵衛尉胤重である。

「遥か末座の者が進み出てご意見すること、大変恐れ多いことですが、この謀議の席に参加している以上
自分の考えを申し上げなければその役目の意味が無いと考え、ここに申し上げます。

世に”窮鳥懐に入れば猟師もこれを殺さず”と申します。今、伊達政宗ほどの大名が年来の恨みを捨て、
君を頼んで来たというのに、それを謀って闇討ちにするのは、勇者の本意とする所ではありません!
我が相馬家の、長き弓矢の瑕瑾となってしまうでしょう!

それから、ここを注意してください。我が城から伊達領までの行程はわずかに3里(約12キロ)でしかありません。
今は未だ未の刻(午後1~3時)を過ぎていません。政宗が国境に至ろうと思えば、本日日の暮れる前に
たどり着くことも可能だったわけです。

さらにあの僅かな勢でここに留まること、あの政宗のことですから、何か裏に謀り事を秘めているに違い有りません。

ここで我々は、警備を全うして今夜一晩彼らを守り、今回は本国へと返してやりましょう。その上で重ねて合戦と
なった時は正々堂々と戦って、勝負を両家に天運に任せるべきではないでしょうか?」

これに満座の衆、賛同し、相馬家は政宗の旅館の側に食料から馬の飼料、藁束まで積み上げこれを提供し、
夜に入ると旅館の四面に篝火をたかせ兵士たちに徹夜の警備をさせた。

411 名前:2/2[sage] 投稿日:2011/03/19(土) 10:54:27.99 ID:IVblgCDc
が、その警備の者達もそこは相馬家の者たち、憎い伊達政宗の警備を命ぜられて心は穏やかではない。
また政宗があまりに落ち着いていることも気に入らない。そこで政宗の驚き慌てた姿を見てやろうと、
夜更けに馬の1,2匹の綱をわざと切って放ち、これに驚いた雑人たちが走り逃げ、深夜に騒ぎ罵る声が響いた。
するとここに政宗、白い小袖を上に打ちかけ、左手に刀を携え、小童一人に燭を持たせて現れた。

「相馬殿の人々であるか?相馬殿の人々であるか?」

「左様でござる!」

「なにやら騒がしいが何事であろうか?政宗の雑人たちが狼藉を働いたのであれば、よく静めておくように。」

とだけ言い、また寝所へと下がっていった。


そして夜が明ける。だが政宗の一行はなかなか出立せず、巳の刻(午前9時頃)になって相馬義胤の元に
使いを出して感謝の念を伝え、その上で静かに馬を出し国境へと向かった。
これを相馬家の者が密かに着けると、国境の駒ヶ嶺のあたりには、伊達家の軍勢が雲霞の如く満ち
政宗を出迎えていた。


さて、関が原の合戦が終わり、相馬は佐竹に連座し改易となる。
ところが、ここに意外な人物が相馬の弁護に奔走し、徳川家に働きかけた。伊達政宗である。
彼は言う

「相馬はこの政宗の年来の敵であります。さらに上杉石田らに与する事を決定していたと言いますが、
彼らにはこの政宗を打ち取る機会があったというのに、私が家康公の仰せを承り馳下るという説明を聞いて、
たちまち古き恨みを忘れ新しき恩を施してくれました。
これは彼らが、野心を挟まなかった証拠ではないでしょうか!?

また相馬家は累代の弓矢の家。その家を現代に至って断絶するのは、まことに良いこととは思えません!
どうかかの家の本領安堵のこと、お許し頂きたい!」

このような事を折に触れて嘆願した。この事もあり慶長7年(1602)10月、ついに改易は撤回、本領安堵とされた。
この時から相馬家の評定始では、満座の輩、一々に水谷胤重の子孫の座の前に進みより、
「水谷殿のご意見、違うことあるべからず」
と宣誓して罷り出づる事が長く佳例となったという。


さてさて、その後に政宗、井伊直孝を仲立ちとして義胤の嫡男、相馬利胤に、伊達相馬両家の仲直りを打診した。
利胤これを聞くと言下に

「我が家はすでに伊達殿の芳志をいただき、本領を安堵することが出来ました。
ですが、我らは累代の敵国、今私が私的に仲直りをするのは憚りがあります!」

と、遂に両家が仲直りすることはなかったという。

長く争った伊達と相馬の、関ヶ原前後におけるエピソードである。
(藩翰譜)





413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/19(土) 13:14:18.64 ID:Zf/4Cio3
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1697.html

こっちの話より生々しいなw

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/19(土) 14:06:43.99 ID:eQy7oi6G
それはそれ、これはこれ って感じかなw

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/19(土) 18:23:52.04 ID:aRvmxkqN
この頑固っぷりはいかにも坂東武者の流れを汲む関東武士らしいなw

「相馬の九曜紋にはどのようないわれがあるのか」

2011年03月16日 00:00

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/15(火) 14:02:52.17 ID:sIRLWHrA
豊臣秀吉が相馬義胤にたずねた、というから、小田原北条攻めか、それ以降であろう。
「相馬の家紋は九曜紋であるな。どのようないわれがあるのか」

相馬義胤、答えて
「九曜紋とは九つの星、すなわち北極星、北斗七星、輔星であります。
相馬の祖先は平将門であります。
将門が戦いに敗れて葦の中に身を潜めていたとき、北斗の化身である妙見菩薩が現れて
将門を助力し、脱出させたばかりか勢力を盛り返して関東を席巻させました。
その後将門はおごって朝敵となったので神の加護を失いましたが、
子孫であるわれらは妙見菩薩を変わらず崇拝しているのであります」

相馬義胤、九曜紋由来を語るの巻。

でも、考えたら秀吉はなぜそんなことを聞いたんだろう。家臣に調べさせればすぐわかりそうなのに。
きっとあれか、話題のない相手に話しをふって、気分よくお家自慢をさせたのかもしれない。
というわけで、しゃべらせ上手な秀吉の話。

ちなみにこの話、源頼朝と千葉常胤が同じ会話をしているらしいので、信憑性は察してほしい。




337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/15(火) 17:15:37.98 ID:e/7eWDSA
相馬市がはやく復興しますように

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/15(火) 18:04:43.43 ID:tV/8iuSg
>>336
頼朝スキーの秀吉がその逸話を知っててなぞったのかもしれないな

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/15(火) 18:58:08.38 ID:+yDHCx+e
秀吉って頼朝のこと、同じ天下人だけど血筋も門地もなしで切り取った自分のが優秀ですんでwww
ってディスりまくってなかったっけ

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/15(火) 19:07:52.69 ID:KQmMeH9O
>>342
いや、
頼朝公とオレが日本史上の武功ツートップだろうな!!
で、まぁ、でもオレの場合スタートの条件が違ったからな!!
どうよ?

くらいな感じ