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二人の津田景康

2011年04月04日 00:01

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 01:52:02.97 ID:KrUk5c+1
伊達家臣の中に湯目景康(ゆのめ かげやす)という人物が居た。
伊達政宗の元服と同時にその側近となり、人取橋の戦い・摺上原の戦い・葛西大崎一揆鎮圧戦などに従軍し
活躍。天正19年(1591年)、政宗が岩出山に転封されると栗原郡の佐沼城主となる。

文禄4年(1595年)、政宗が秀次事件に関与したとして謹慎を命じられた際には、
中島宗求と共に伏見の”津田が原”にて豊臣秀吉に直訴し、処分を解くことに成功。
主君の疑惑を晴らそうと、熱誠をこめて切々と愁訴する武人景康の姿に秀吉は
「小十郎(片倉景綱)といい、伊達政宗は良き家来を持ちおるわ・・・」と呟いたとされる。

この功で景康は1,000石を加増されるとともに、政宗から津田が原に因んで「津田」の姓を与えられ
津田景康と改名。何とも変わった改名エピソードである。


その後、伊達家中で奉行職に名を列ね、政宗没後は2代藩主・忠宗より評定役に任命される。


伊達家の中でも忠臣としてその名を現代に残すが、実は江戸時代前期にもう一人の”津田景康”が存在する。


3代目・津田”玄蕃”景康である。(初代は津田”豊前”景康と区別される)
この3代目景康は初代景康のように忠臣としてではなくある騒動に巻き込まれた為に現代に名を残す。


景康は伊達家のお家騒動である”伊達騒動”の伊達宗勝派の中心人物と目されていた。
※義兄が原田(甲斐)宗輔であったというのも伊達宗勝派として景康が見られた。


そのため、寛文11年(1671年)大老・酒井忠清邸にて刃傷沙汰(寛文事件)が発生すると、
義兄・原田宗輔に連座して仙台城下の屋敷にて逼塞を命じら、延宝2年(1674年)
ようやく佐沼への帰還が許されるも、逼塞処分は解除されず、知行半分を没収された上で隠居。
弟・春康が代わって佐沼の領主となった。


初代・津田景康は草葉の陰で何を思うか・・・
祖父と孫の評価が変わってしまったおかしな話。




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