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日比半右衛門と米村市之丞

2022年12月22日 19:08

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/21(水) 20:02:33.26 ID:6asqkaLX
朝野雑載」から日比半右衛門米村市之丞

片桐且元の従士である日比半右衛門は武功ある者であった。
大坂冬の陣の時、大野の属兵・米村市之丞と闘ったが、半右衛門の嫡子・半十郎が横から出てきて、父と入れ替わって米村と斬り合った。
半右衛門は勝負を見物しつつ「討つも討たれるも武士の習い。踏み込んで勝負をいたせ」と言うと
半十郎は父の言葉を力にし、米村の肩先を斬った。
一方、米村も半十郎の左の頭に切りつけ、弱るところを斬り伏せて半十郎の首を取った。
息子を討たれた半右衛門は米村を引っ立てて
「今貴殿を討つのはたやすいが、その方にも父があり、今われが感じているように不憫に思うことだろう。
その方一人を討とうが助けようが戦の流れは変わらぬのだから、早く帰って恩賞に預かられよ」
と矢立を取り出し、半十郎の姓名を書きつけて与えた。
城内に馳せ帰った米村がことの次第を報告すると、秀頼公も感動し米村に黄金十枚を褒賞として与えた。
これを聞いた人々はみな「半右衛門の計らいは勇ありて情け深い」と感嘆した。

私(貝原益軒)が思案するに、半右衛門の計らいは主人の敵を討たず、他人の子を愛して自分の子を愛さないようなものではないか。
このような異常な行いを見て世人が感動すると言うためしがあるとは。
識者の論をまって是非を判断するべきだろうか。



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関ヶ原後の片桐兄弟と家康

2021年03月10日 18:41

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/10(水) 15:49:22.20 ID:QP7IHgBS
関ヶ原の時分、大阪城内では片桐市正(且元)・主膳(貞隆)を討ち果たそうとする企みがあったが、
両人はそれを覚悟し用心していたために、その身、恙無かった。

関ヶ原合戦の結果が知らされると、大阪より飛脚を以て大御所様(徳川家康)に市正・主膳は言上した
「関ヶ原、御利運という事で、早速大阪へ、御馬を入れて下さい。我ら兄弟が太閤様の御遺言を守って
大阪に罷り在った以上、御親様(淀殿)は違乱について関係ありません。」

その旨を申し上げると、大御所様は前々より相違なく、心中もご満足され、関ヶ原より直に大阪へ
向かわれた。尼崎の又右衛門家は古よりの御宿であったので、先ずそこに御着座され、市正・主膳も
お迎えに罷り出た。

権現様(家康)の御意に
「この家は町中であり、如何かと思う。主膳正は太閤様の仰せ渡しにより、内々の取次をもしている者で
あるので、兄弟とは申しながら、主膳にはよしみがある。狭くても苦からず、主膳の所を宿としよう。」
との事で、そのままそのようになった。この時、杉浦内蔵允なども御供であり、彼のことはよく
覚えていたので物語をした。この事は証拠として正しくあったことなので、書き付けておく。

翌日、秀頼公へご対面遊ばされ、直ぐに西の丸に大御所様が御座なされた。その時、片桐兄弟は
申し上げた
「太閤様に成りかわられて、御親様の事でございますが、御朱印を出される事然るべしと考えます。」
との旨を申し上げると、「尤もである」との御意で、即ち秀頼公の細工人である右京と申す者に申し付け、
主膳の所で御朱印を掘らせた。

大御所様が江戸に還御の時分に仰せ付けられ、大阪城中門々の番について、大御所様のお指図を以て
片桐兄弟の者達により所々を相堅めた。これは大阪一乱の砌まで、市正・主膳が大阪に在った内は、
その通りに相違なく勤められた。

片桐家秘記

関ヶ原後の片桐兄弟と家康について



622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/11(木) 01:18:26.28 ID:by81p93d
> 「太閤様に成りかわられて、御親様の事でございますが、御朱印を出される事然るべしと考えます。」

これってどういう意味?

勘文を書き換えて、『吉也』とせよ

2020年12月11日 17:11

487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/11(金) 16:03:56.52 ID:gLIIhIx6
源君(徳川家康)が秀頼卿を二条城にて饗したいとはかられた事に対し、母公である淀殿は危ぶみ怖れて、その時の
軍配者である白井龍伯が、占いに長じた者であったので、この龍伯に吉凶を見させた。

龍伯は七日間潔斎して、香を炊いてその煙気を見る事三度ながら、その三度共に『大凶』となった。
その趣を書いて片桐市正(且元)に知らせると、市正じゃ彼を私宅に呼んで、その故を聞いた。
龍伯は
「大凶であり、(二条城に)赴けば必ず害に遭うでしょう」と言った。
これに対して且元は

「私は煙気の事は解らない。ではあるが、もし秀頼公が赴かなければ、兵乱が起こるだろう。そして赴くことは
難しいことではない。これを以て見る時、勘文を書き換えて、『吉也』とせよ。」と言った。

これに龍伯は聞こうとしなかったが、且元が強いて「その咎は私が引き受ける」と言ったため、
已むを得ずして『吉也』と書き換えた。しかし「不慮の事が有れば如何せん」と憂うのを、市正は笑って
「秀頼公が害に遭い給えば、私も共に死ぬだろう。その上は、一体誰がお主に罪を問うのか。」と云った。

龍伯が淀殿・秀頼母子に勘文を奉ると、淀殿は大いに喜んで、秀頼卿を二条城に赴かせた。
そして無事に帰城されると、淀殿は龍伯を賞して、白銀百枚を給わった。またその他にもかれこれより金銀多く贈られた。
龍伯は市正の宅に行き
「今、このように多くの金銀を得たのは、貴公のおかげです。」
と拝謝した。そしてそれより気を見る術を止めて、閑居した。

或る人曰く、軍者の諸家は日取りを見る法を盛んに行うが、総じて見ると、ひと月のうち、その中の吉を取れば
悉く吉日と成り、凶を取れば悉く凶となる。しかしこれによって「元来吉凶無し」と言ってしまうと、物を破る
誤りを生ずる。また一方で「吉凶有り」と言えば事に惑う患が深い。故に、見る者をして独り悟らしむのである。

若州聞書



488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/11(金) 16:43:37.14 ID:jwmD+r7O
今孔明といわれた白井の一族かと思ったら分家の方だったか

方広寺鐘銘事件について

2016年09月03日 10:48

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/03(土) 10:00:07.73 ID:K223baAA
方広寺鐘銘事件について、難波戦記、片桐伝記、北川覚書などに記される所によると、
これが幕府から豊臣家を咎めた第一の理由であり、大坂の陣はこの事を理由に起こったように
記せられている。これは甚だしい妄説である。

幕府が片桐且元を召して告げた七ヶ条の御難題と、鐘銘事件は関係がない。
もちろんその七ヶ条の末の一ヶ条に、鐘銘に関東呪詛の文有りとの文言があるが、この事について
強く諌めてはいない。

いまここに、この鐘銘について記しているのは、世の人々皆が、この鐘銘より兵乱が起こったという説を
疑わず、童すらそう知っているためである。

この鐘銘の草案は前年の冬、片桐且元より本多佐渡守に遣わされ、「何か問題が有ればすぐに伝えてほしい」と
言いおかれている。しかしあえて供養の日に至って、板倉勝重より「関東調伏の文有りし故、供養は
延期するように」とその停止を求めた。これは本多正信板倉勝重らの謀臣がこのように謀ったのでは
ないだろうか?
その奥意は深く計り難い。

(慶元記)



56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/03(土) 19:52:23.95 ID:wB+53SAg
今でも通説だよね

道に叛くより義を守って滅亡するに敷かず

2016年04月26日 19:28

564 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/26(火) 05:12:43.08 ID:g3d8honN
摂津国野里村の三右衛門は、農民ではあるが勇を好み勢い強き故にて、一度兵を起こせば
隣邑尽くこれに属した。

片桐且元が大阪を脱出し茨木城に入る時、大阪より摂州堺の政所を攻めると聞いて、
騎歩ニ百ばかりを遣わして政所を救おうとしたが、三右衛門は近隣の郷民を集め、
この且元の軍の大半を討ち捕った。これに且元は歯噛みをして怒ったが力及ばず、
後に大御所(徳川家康)が天下を定めた時に、且元はなお鬱憤解けず、これを訴え
それによって三右衛門を召しこの事を責めた。

三右衛門は且元をキッと睨むと
「貴殿は故太閤の重恩を担い、権を取り威をも逞しくされたのだから、死を以って忠を
尽くされるべきなのに、危難にあたって君を忘れ身を顧みた。これは武臣の本意に非ず!

我らその時は貴殿が敵であるのか味方であるのか、その心中すら計りかね、そのため
貴殿の士卒を討ち捕ったのであり、あながちに罪とするべきではありません。
道に叛くより義を守って滅亡するに敷かず。いま貴殿は、自らを恥じないどころか、
却って人を讒言するとは言語道断である!」

そう、憚ること無く申すと、且元も閉口した。

大御所は三右衛門の言葉を聞くと
「弁才勇義があり、只者ではない。統治において道があれば、彼は良き締りにもなるであろう。」
そういって三右衛門を宥免したという。

(慶元記)



565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/26(火) 09:55:02.01 ID:Pv/ahYrZ
つ胃薬

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/26(火) 19:20:45.39 ID:Zj1szefR
武士が近隣の郷民に負けることも恥な気がするけど

且元の書状

2016年04月15日 18:43

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/15(金) 17:59:53.48 ID:Qv6X6gsX
大阪冬の陣の直前、片桐且元がその大阪屋敷から退去した時、その屋敷の床の中央に一通の書状が
置かれていたという。それは織田有楽斎宛のものであった。中を見てみると、こう書かれていた

『且元、計らざる災いにかかり、城中を追い出されてしまいました。
私は関東に対して、力を尽くして豊臣家を守ろうとした、その寸忠は全て仇となってしまいましたが、
私は、秀頼公の御身の上が今後もつつがなく渡らせられることを望むばかりです。

今、且元が大阪を退いたことが関東に聞こえれば、定めて御不審を持たれるでしょう。或いは乱の
基とも成るかもしれません。

この上は、外に策もありません。ただ御台所(千姫)を早々に本丸へと引き取ることが肝要です。
夢々ご油断あるべからず。』
しかし、大野治長らは早々にこの策を用いず、終にその意図を外してしまったのである。

御台のことは、難波戦記やその他の書にも、大阪落城の時に坂崎出羽守が盗みとって岡山の御陣へ
お供した、とあるが、その説は否定されるべきものである。

(慶元記)



是れ、大阪が社稷を失うの第一と成れり

2016年04月13日 15:16

519 名前:1/2[sage] 投稿日:2016/04/13(水) 11:54:58.69 ID:9iw9dGpA
片桐且元が駿府にて幕府との交渉にあたっていた時、大阪においては、「今回は秀頼公の御使者(且元)
ばかりにて淀様からの御使者が無い」と、前々より関東に下った経験があり物馴れた女中三人を下し、
ご機嫌伺いとして江戸駿府の様子を見てくるようにと、大蔵卿局(大野治長母)、二位局淀殿女中頭)、
正栄尼(渡辺糺母)の3人を八月二十三日に出発させた。八月晦日に駿府に到着すると、この三女は
早速片桐且元と対面し、そこから下向の理由を家康側室・阿茶局へと連絡すると、明日登城すべき旨
申し来たため、三女は喜んで用意した。

九月朔日、八つ時(午後2時頃)三女は徳川家康の御前に召し出された。家康は三女の口上を直に聞き、
「秀頼公夫婦、並びに母儀にも恙無く大慶に思う。」と答えた。
三女は謹んで申し上げた
「今度、鐘銘において韓長老が不調法を行ったため御機嫌宜しからず、供養などまで延期を仰せられた事は、
御母子も殊更困惑されています。」
これに対し、家康
「それは世上の聞こえを憚って一段と申し付けたまでの事であり、苦しからず思っておる。」
こう言う家康は機嫌も常と変わらなかったため、三女は大いに喜んで宿舎に帰り、早速飛脚を以って
大阪へ注進。翌日、江戸へと出発した。

そして江戸への御礼を終え、十一日に再び駿府へと戻り阿茶局と対面して江戸の様子を報告した。
阿茶局は御前より下されたという御菓子を贈りながら言った
「今後はあなた方とも、しばしばこの様にお付き合いできますね。ほんとうに嬉しい。」
「…は?どうしてそのように仰るのですか?」

阿茶局は意外そうに
「ご存知ありませんか?しかじかの事により、淀様が関東に下向なさること、片桐且元が大方お請けして、
品川表にて御屋敷の地までも願いの通りに許可されましたから、おっつけ御下向あるでしょう。
その折にはあなた方もお供として同行されるでしょうから、このように申したのです。

さらに且元は本多正信の縁者に仰せ付けられましたし、尚以ってめでたい事です。」

三女は聞くごとに耳驚き、挨拶もそこそこに暇乞いをして、十二日の早朝、駿府を立ち退いて道を急ぎ
遠州浜松の付近で且元に追いついた。三女は先ず万事を知らぬふりをして申した

「かねて案じていたのと違い、大御所の御機嫌も甚だ宜しく、互いに安堵いたしました。」
且元
「そうではない。関東には様々な思惑があって、今回且元には御難題を仰せ出され、私は甚だ迷惑している。」
三女が強いてその訳を尋ねると、且元は三ヶ条の趣き(豊臣家の大阪からの転封、もしくは秀頼の江戸への参勤、
又は淀殿の江戸への下向)を以ってこれを語った。三女は問うた

「この内何れを関東の意に任せるのでしょうか?」

520 名前:2/2[sage] 投稿日:2016/04/13(水) 11:56:09.09 ID:9iw9dGpA
且元は胸中に深慮有りといえども、天下の大事であるからここで軽々しく女に語るべきではないと考え、
あえて「これ皆天下の御大切である。であるが御所替にもまた御参勤にも及ばぬよう、淀様が御下向の儀さえ
御得心あれば、事済むものである。各々帰られれば、この段たって申し上げて欲しい。」と申した。

三女は心に思った。『且元は駿府で既にこの事をお請けし、その上本多正信の縁者になったので、万事関東の意に
叶うよう取り計らうのも当然だ。』そう察すると、先ず「尤もの事です」と同意したふりをして、
そこからいよいよ且元の所存を聞き出そうと同道して上った。近江国土山に宿した夜、且元は三女に申した
「私は去る八月大仏供の延期についての交渉で関東に下り、久しく駿河に逗留していたため、今度の駿府の模様を
板倉伊賀守殿に報告すべきことがある。次の機会にしようとすればまた延びのびになってしまうので、ここから
直に京都に立ち寄り用事を済ませて大阪に下る。あなた方は先に大阪に上られよ。」

こうして三女は土山から直に大阪に登り、九月十九日到着。そして関東のあらまし、また且元の方針を
散々に讒言した。
日頃から関係の悪かった且元の事であるから、三女は言葉を揃へ、中でも正栄尼が申したのは、
「仄かに聞いたことによると、淀様を大御所の御台にもなされるとか。将軍の御台所と御連枝の淀様が
左様な儀は人倫の道にあるまじきこと!これも且元が申し勧めているそうです。その証拠に、淀様が
関東へ下ることが決定すれば品川にて御屋敷地を下さると固く約束なされたとのことです。これは
阿茶局が申していました。その上且元は、君にも伺うこと無く本多佐渡守と縁者に成りました。
これは上を蔑ろにする行為です!」

このように言葉巧みに申し上げると、淀殿も甚だ怒り「私は賤しくも織田信長の姪、浅井備前守長政の娘であり
秀吉にまみえたことさえ常々口惜しく思っていたのに、今関東に人質として下される事思いもよらぬ!
その上家康の妻と成るなど、無念の至りである。秀頼、もし私を関東に下すというのなた、生きて恥を
抱えるより、ここで剣に伏せるにしかず!」そう涙を流して訴えた

秀頼も「母を売って何の面目があるだろうか。それは考えもできないことだ。片桐が登城すれば
その実否を正そう」と発言した。

大野治長、渡辺糺といった奸臣たちは、普段から且元を強く憎んでいたため、折を得たと様々に
讒言を構えた。

是れ、大阪が社稷を失うの第一と成れり。

(慶元記)


片桐且元の「十一ヶ条」

2016年04月12日 16:37

516 名前:1[sage] 投稿日:2016/04/11(月) 23:05:09.37 ID:IoCtMYLU
いわゆる方広寺鐘銘事件への対応で駿府の家康のもとに交渉に赴いた片桐且元は、家康よりの豊臣家への
糾弾に対し、本多正純へ次のように反論した

「今度御前において七ヶ条の仰せを蒙り、甚だ困惑しております。このこと、帰国を許されれば
秀頼公に委細申し上げたく思いますが、ここであなたにお尋ねしたいことが有ります。
問題がなければ、貴殿より大御所様にお聞かせして頂きたい。

一、慶長五年の関ヶ原合戦のあと、大阪の蔵入りを百万石と定められ、秀頼公を外様大名にように
  扱われていることは、御母子が常に憤られていることです。これが一つ。
一、七手組を警備に用いているのはひとえに大阪警護のためであって、専ら秀頼公を敬っているように
  見えますが、その実は却ってそうではなく、関東に対して別心のある者が出た時、それを速やかに
  防ぐためなのです。なので幕府の懸念は我々には理解できません。これが二つ。
一、我々兄弟は執事として大阪に在りますが、諸人はまったく心服しておらず、その職を全うできる
  状況ではありません。先に大仏殿再興に関する奉行をしていた時も、ただ空しく長い月日を
  浪費していただけでした。これらは家臣である私の身ではどうにも出来ることではなく、ただ
  困惑しながら日を送っている有様です。
  今の立場は私に対し、関東のご指図によって俄に仰せ付けられた物ですから、そのせいでも有るでしょう。
  一体私に何の過怠があって、大阪に付けられたのでしょうか!?今はただ、御役御免して頂くことを
  ひとえに願い奉るところです。これが三つ。
一、二代将軍(秀忠)の将軍宣下、ならびに氏の長者の御綸紙が関東に下りましたが、この際大阪には
  一応のお届けもありませんでした。大御所の将軍宣下の際は、秀頼公も未だ弱冠にも至っていません
  でしたから話もわかりますが、秀忠公においては大阪へのお届けの儀も有るべき筈なのに、絶って
  その御沙汰はありませんでした。
  そもそも古今の武将たるもので、この征夷大将軍の職を重要視するのは、一人秀頼公に限ったものでは
  ありません。誠に、枯骨が蘇生した喜びも、この職に勝るものではないでしょう。だからこそ秀頼公は
  これを常に羨み、母君はまた憤っていますが、これもあながち理のないことではありません。
  先日、御前において左近中将様(松平忠吉)が亡くなられた時、そのお悔やみに日にちを得て後に
  平侍を以って御追悼を申し上げたのは失礼であると、ごもっともな仰せが有りました。然るに、
  将軍の宣下があったのに大阪に在る大小名に、皆駿府、江戸への参勤をすべしというお届けが無かったのは、
  何れに用捨があるのでしょうか?これ四つ。
一、太閤殿下が薨去のみぎり、五大老三老五奉行、そのほか列侯牧伯には各々盟約を捧げ、秀頼公15歳に
  成られたら天下の政を知らしむべしとのこと、これ天地にあるもの皆知らぬということありません。
  ですが殊更に虚談を構えて、秀吉公が
  『秀頼公15歳とならば天下の政道を任すべし。但し、もしその器に非ずんば譲ってはならない。
  天下は一人の天下にあらざるなり。』
  そう遺言されたと云々されています。
  はっきり言いますが、秀吉公は堯舜のような君主ではありません!どうして我が子を捨てて他人にこれを
  与えるでしょうか!?このことは最も大切な儀であります。これ五つ。
一、朝鮮人、オランダ人らが来訪の時も、直に皇都へ至りそこから江戸駿府に下って礼をなしました。
  異域からは長らく来朝の事ありませんでしたが、太閤の武威を以って朝鮮人を日本に来訪させることを
  得ました。であるのに先年の来訪の時も大阪へは入りませんでした。また毎年オランダ人が来ていますが、
  大阪に来ることはありません。これらの事、秀頼公の恥辱は日本ばかりか外国までの恥辱です。これも
  母子が常に鬱屈しているところです。これ六つ。
一、この事は砂を噛むような瑣末な事であり、もとより言うに足らぬものですが、四座の猿楽から絵所に至るまで
  皆駿府に呼び寄せられ、大阪には一人も置かれません。これらも御無礼と成るのではありませんか?

517 名前:2[sage] 投稿日:2016/04/11(月) 23:05:36.34 ID:IoCtMYLU
一、先日御前において、秀頼公に対し、福島正則、加藤清正、黒田長政、浅野長晟、加藤嘉明といった
  諸大名が別して御入魂である事は、秀忠公に対して無礼であるとの仰せが有りました。ですが、彼らは
  あなたも御存知の通りみな太閤お取り立ての大名であり、今は数少ない大家です。であれば、禽獣は
  いざしらず、いやしくも人倫たる者は誰が秀吉公の御恩を忘れる者が在るでしょうか?故に
  秀頼公には四季時々の御礼、又は国の産物を差し上げるのです。関東でもし、譜代の輩が突然
  ご奉公を怠ればそれをお許しないでしょう?大阪であってもそれは同じです。太閤の御恩を厚く
  蒙った人々の内、秀頼公に粗略になった者達には、秀頼公も処罰を仰せ付けたいと思っているのですが、
  現在の状況はただ穏便にしようという他なく、時勢を守っているのです。
  この件に関してこの且元の心底には、少しも弁じ難い所はありません。これ八つ。
一、兵具を調え武芸を習っているという指摘は御尤もですが、鎧の毛を抜き、鞍の損じを繕い、
  武具馬を整えて常に武芸を学ぶことは治に乱を忘れざるの所であり、古来良将が常に兵を鍛錬するのも、
  一旦事ある日に即座に備えられるようにしている為です。ただし、徳川の御家には、弓を袋にし
  太刀を鞘に納め、飽煖の安きに居て金革を布くの苦しみ、矢石を侵す危うき等を知らざるを以って
  善とされるのでしょうか?
  軍の勝敗は瞬間の間にあって、治世の政とは異なるものです。だからこそ武芸のことは常に鍛錬しなければ
  ならないのです、であるのに、独り大阪城中の士ばかりは女童の勤めのみを成せばよいのでしょうか?
  これ九つ
一、将軍御父子には、秀頼公に対し御粗略にすることはないと仰せに成りましたが、近年御上洛あっても
  大阪へは御下向の御沙汰これなく、殊に秀頼公と御台所(千姫)との御仲不和の事を、昼夜思召して
  忘れずと仰せに成ったことは、これは御孫姫君の事ですから勿論のことですが、大阪よりは毎年、
  念頭の御礼として七手組の内一人と、淀殿の御使として局一人、姫君の御使として女中一人は必ず
  関東へ下っています。これは御縁者たるの礼儀を重んじているためです。一方、関東からは旗本の士
  一人を登らされますが、女房の御使はかねて沙汰すら聞いたことがありません。姫君がいらっしゃるの
  ですから、これは在るまじきことです。
  また去々年の秋、大阪の河口が、舟入が悪いため川床を浚っていたところ、江戸よりお咎めあれば
  工事半ばにして中止しました。その時、泰平には要害はいらぬという仰せでした。ならば、現在の
  江戸城の御普請は一体何の為なのでしょうか?これ十。
一、江戸城普請の人足には天下に千石夫を仰せ付けられ、また遠近につき五百人夫を仰せ付けられました。
  ところが大阪はそこから除外されました。しかしこれは大阪を敬しているようで、その奥に深い
  意味があります。武威を示す為に諸侯に仰せ付けられるだけでは、太閤の時代に大阪、伏見城を
  築かれたのと変わりません。
  また大阪城では仮に少しの破損があっても、そのままにして差し置いています。これは関東に対しての
  御遠慮なのです。これ十一。」

以上の十一ヶ条の外は末代への規範にも成らず、また豊家の瑕瑾にもならざる事ですから差し控え、
今この条々は現在天下の人の知るところです。しかしこれを直に申し上げるのは甚だ恐れある事ですから、
あなたからお伝え下さい。但しこれは、先に仰せに成られた七ヶ条への、豊臣家としての返答ではありません。
ただ全く、この愚臣が考えたことです。」

518 名前:3[sage] 投稿日:2016/04/11(月) 23:05:56.35 ID:IoCtMYLU
この発言にさすがの本多正純も且元の識量にとりひしがれたのか、否の問答もなく、暫くして言った
「結局、この議論に関しては太閤の御遺言についてだけが大切であり、その他は枝葉のことです。
しかしその実情を知る人は一人加賀利家でしたが、彼も亡くなってしまった以上、どうにも出来ません。
ただし、天下の政道は人力でどうなるものではありません。必ず天道の能くするところなのです。
天下万民の父母と成り、万機を心に任せる将軍の宣う所は、もとより常人の行いが及ぶべくもありません。
神明とても知るや知らずや、ただ天道の自然と存ずる所です。

その器に非ざるにして天下の政道を取ろうとすれば、どうして終始を全うできるでしょうか?
秀頼公を始め、その他の諸臣もここに気づいて頂ければ、却って幸甚です。
昔秀吉公の、岐阜中納言(織田秀信)へのなされ方をみれば、秀吉公はよくその事を知る人物であったと
存ぜられますが、こういった事は総じて容易のことではなく、私の判断の及ぶべきものではありません。
今、貴殿の申された十一ヶ条は詳細に大御所に言上いたします。そうすれば必ず、近いうちに
召しだされるでしょう。その時は御前において、貴方からさらに詳しく申し上げるべきです。」

こう伝えて正純は帰っていった。
(慶元記)

大坂の陣の前、徳川との交渉での、片桐且元による反論についての記事である。



片桐且元が時々に異見していたため

2016年04月06日 11:21

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/05(火) 23:06:15.09 ID:OD6R1q59
関ヶ原により家康の天下となると、自然諸国の大名はみな駿府へと参勤した。慶長10年の春、徳川家康
上洛、大納言徳川秀忠は3月27日に、前田利長、結城秀康を供として上洛した。
この時、徳川家康が伏見城の舟入の楼に上って秀忠の京着の行裝をご覧になるということだったので、
御供の面々は綺羅を輝かせ美麗を尽くし、見物の貴賎は巷に満ちて、目を驚かすばかりであった。

4月26日、徳川秀忠は参内し、叡感あって正二位内大臣征夷大将軍淳和奨学両院別当源氏長者に宣下された。
この時、結城秀康にも正三位権中納言に任じられ、源家の繁栄は日比に越えた。
これより徳川家康は、大御所と称し、秀忠は新将軍と称し天下の大小名は何れも妻子を引き連れ、
江戸と駿府とに相詰めた。

このような中、豊臣家の衰退は日に顕れ、豊臣秀頼の権威も日に衰え、哀れなる有様であった。
殊に徳川家康は、関ヶ原以後は上洛しても大阪に下向すること無く、ただ使番などを以ってその旨を
伝えるだけであった。

大阪には摂津河内両国意外に蔵入地も無くなったため、諸国人は勿論、あるいは絵所、或いは四座の
猿楽に至るまでおおよそ技芸のある者達は、みな大阪を去って関東に罷り下った。
なかんずく、慶長12年、朝鮮国の信使が来朝した時も、直ぐに関東に下向して、大阪には登城すること
なかった。

豊臣秀頼、淀殿を始めとして豊氏恩顧の輩は、何れも憤慨を差し挟むこと少なくなかったが、独り
豊臣家執権の片桐且元が時々に異見していたため、これによって表面化するに至っていなかったのである。

(慶元記)

豊臣家の不満を片桐且元が抑えていたという、慶元記の記事である



493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/05(火) 23:14:19.67 ID:QEURfml4
秀忠は源氏長者にはなって無いんじゃなかったっけ?

494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/06(水) 11:18:32.94 ID:dN10VpVF
源家って河内源氏の嫡流(頼朝の家系)に使う言葉じゃねえの?

片桐市正(且元)家に伝わる話によると

2015年07月11日 18:22

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/10(金) 21:02:20.19 ID:ch6c9HIJ
大阪夏冬の陣の事について、片桐市正(且元)家に伝わる話によると、
豊臣秀頼に対し、片桐且元・貞隆兄弟より常に御異見申し上げた

「太閤様末期に及んだ時、家康公に対し御遺言なされた。その時は既に末期に及んでいたので、
直接に仰せ置かれた。その内容は、

秀頼公は幼少であるので、家康公を親と頼み思し召され、随分御介抱遊ばされ、秀頼公成長の上、
15から20歳までの内に、天下をも知り召されるご器量であれば、天下を返されるように。
今日より天下の裁量は家康公にお渡しなされる、ということであった。

この他には誰にも、別の御遺言は無いということを、誓紙に血判され家康公に直にお渡しになった。
家康公からも、その座にて牛王を請ぜられ、御遺言相違うこと無く相守るべしとの、御誓詞血判遊ばされ、
太閤に進上された。その誓詞は太閤様の棺に入れるよう仰せ付けられ、その上にて、異国までも隠れなき
御馬印である金の瓢箪を家康公に譲られ、『秀頼が天下を返し遣わされた時に、この馬印もお渡し
あるように』と、また約束された。

その後縁組までも遊ばされ、御親様と頼み思し召した上は、末々までも慎まれるべきである所を、
関ヶ原の一戦のこと、石田治部少輔の謀反とは申しながら、この方より太閤様の御遺言を破られたように
家康公は思われる事態でしたから、家康公が必ずこの事に腹を立てていることを、秀頼公にも
覚悟していただかなければならないと考え。これについて不断の御異見を申し上げたものの、
特にお袋様(淀殿)が、家康公と私が一味してそのように申しているのだと横ざまにお考えに成り、
このため万事相違し、一乱(大阪の陣)が起こってしまったのだ。

先年の関ヶ原の折に既に、且元・貞隆兄弟を討ち果たすという企みが在ったが、我々は用心したため
無事であった。その頃、大阪から飛脚を以って、両人より家康公に言上仕ったのは、『関ヶ原で
御勝利した上は、早々に大阪に御馬を入れられますように。我々両人は太閤の御遺言を相守り
罷りありまる』という内容で、これに家康公は、前々より相違ない心底に満足しているとの事で、
直に大阪にお越しなされた。

尼崎又右衛門の邸宅は古くからの家康公の宿舎であったので、一旦そこに着座され、
且元・貞隆兄弟がお迎えに上がった。その時家康公の御意に、『この家は町中であるので
不都合も有る。主膳正(貞隆)は太閤より命ぜられ、私との内密の取次をも任されていた。
兄弟とはいえ主膳とはよしみが有るので、狭くても構わない。』と仰せられ、貞隆の邸宅へと
お移りになった。この時は、杉浦内蔵充もお供したが、彼についてもよく覚えておられたので、
様々に物語などされた。

翌日、秀頼公にご対面なされ、直に西の丸に入られた。この時我々が申し上げた。
『太閤様に成り代わられ御親様という事でありますから、御朱印を出されるべきです。』
そこで秀頼公の細工人である忠景という者に申し付け、貞隆宅にて御朱印を掘らせ、所々に
これを押した文書を配らせた。

家康公が江戸に帰る時、大阪城中の門々の管理を我ら両人に硬く仰せ付けられ、茨木城に関しても
貞隆に留守居をするよう言い渡され、出発の前日夜には、且元・貞隆両人に、密かにご意見なされた
事には

『これ以後、謀反の輩が大阪城内に有るときには、お主たち兄弟は必ず無実を主張し、切腹など
申し付けられた場合は、いかようにもして高野山に行くと言い、その上で茨木城に兄弟とも参るように。
この事、必ず違えないように』と言い渡された。」


今度の大阪の陣においても、最初は高野山に行くと言って大阪を立つその朝に、不意に茨木城に
行くことを言い出した。これは片桐兄弟ともども、常々覚悟していたため、ためらいなく茨木に
罷り越したということである。

(明良洪範)




片桐且元の軍才

2013年10月08日 19:50

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/08(火) 02:24:50.38 ID:rqh6E1Wa
投下がないようなので

且元の軍才

「長々の在陣、辛労是非に及ばず候、よって帷(かたびら)一を下され候…」
という且元あての手紙が残っている
文禄の役も終わりにさしかかったこのとき、且元は朝鮮で一軍を任されていた

このとき彼の下に配されていたのは譜牒余録によると弟の貞隆のほかに
古田重勝、太田一吉、加須屋武則、新庄直定、高田治忠、藤掛永勝、岡本重政、牧村政吉、小野木公郷
らで、そこには当時五千石に満たなかった且元より所領の多い大名まで含まれていた

且元は彼らをまとめて堅固な晋州城の包囲網に参加し、成果を挙げていたので冒頭の手紙につながる
且元にこうした軍事的才覚があることを、秀吉は見抜いていたのだろう

残念ながら、中央を巻き込んだ一大政局・浅利事件の調査を任された且元はこの後大きな軍事行動に関わっていない




267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/08(火) 04:19:29.41 ID:PDWPLzCZ
且元さんはこう、関ヶ原や大坂の陣辺りの創作物だとだいたいどんなもんでも典型的な
「小心者の中間管理職」
みたいな描かれ方するよな

268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/08(火) 10:46:01.36 ID:efQn1taG
まぁ立場が完全な板ばさみだからな。

現状を理解出来て解決のために苦慮する才覚があるから辛いんで、
馬鹿だったらそんな苦労もないんだが

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/08(火) 10:55:43.16 ID:RNb3QAYB
辛労をねぎらう書状って、実際は同じ文面のが宛先を変えただけで
コピペのように在陣諸将に出されてるよね。

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/08(火) 11:34:19.06 ID:mNrLwWdr
桜井佐吉・石川兵助「七本槍に列して名も残して贅沢言うな」

271 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/10/08(火) 11:59:43.90 ID:Hnvh7biB
>>一大政局・浅利事件 てなんじゃらほい?

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/08(火) 12:20:40.40 ID:RNb3QAYB
浅利頼平と秋田実季の紛争じゃないかな
中央政局としてはさして意味は無い事件だけど

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/08(火) 13:18:32.96 ID:d4c9gQKO
陳情に向かった浅利が変死してうやむやに終わるらしい
浅利側には浅野長政、秋田側は佐々行政がついてたそうな

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/08(火) 16:05:43.96 ID:rqh6E1Wa
浅利事件では且元は長束正家と協力して調査を進めていたらしいんだよね
ただ、そこに前田利家や浅野長政が浅利氏側の立場で介入してきたから
「大納言(利家)様や弾正殿(長政)がこの事件を斡旋する意図があるなら、さらに裁定を~」
と露骨に不快感を示してる

当時の且元の政治的な立ち位置とか、地位がこの辺からも結構垣間見えるっていうか

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/08(火) 16:16:51.50 ID:vho2ofyV
あれ、浅利事件って家康もかかわってなかったっけ 浅利側で

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/08(火) 16:40:47.24 ID:rqh6E1Wa
手元の資料だと家康の動向はわかんないけど、
秀吉死後の慶長四(1599)年4月2日に、家康に浅利事件の顛末を且元が直接報告してる
だから家康が浅利事件に強い関心を持ってたのは間違いないと思うー

277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/08(火) 16:59:46.01 ID:2YLZqCWu
浅利というと女武将の板額御前とあさりよしとおの間の子孫か

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/08(火) 17:28:51.53 ID:RNb3QAYB
奥州仕置や九戸の乱などでガツンとやられたのに
この時期になっても散発的に合戦しちゃう東北は本当にコワい

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/08(火) 20:56:31.31 ID:4XWaudwP
>>273
佐々行政って鷹匠だったの?

織田信雄、片桐且元に内通す

2013年07月04日 19:57

10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/03(水) 20:55:54.74 ID:axVL+PD8
方広寺鐘銘事件などから豊臣家と幕府の関係は急速に悪化し、駿府での協議から
帰ってきた片桐且元は『私案』として、「豊臣秀頼自信が江戸に行く」「淀殿を江戸へ人質に出す」
「大阪城を放棄し他国への国替えを願い出る」の3つの考えを伝え、これに大阪城内では
大きな反発が起こった。

慶長19年(1614)8月22日夜、大坂では大岡雅楽頭の邸宅において、大野修理(治長)、
木村長門、渡邉内蔵介と言った人々が、徳川との対決を決める談合が行われた。

しかしこの事を、織田常真公(信雄)の家臣である、生駒長兵衛、梅心の二人が知り、
23日、織田常真は片桐且元の元へ内々の書状が一封遣わされた。これに返書はいらないとのことなので、、
且元はこの書状の使いに、家来である小島庄兵衛と申す者を添えて常真の元へ返した。

常真は小島庄兵衛が来ると、彼に直に言った

「市正(且元)の身の上に関する大事の事であるので、これから言う事を市正殿以外に
他言してはならぬ!其方、金打ちをせよ!」

金打ちとは、固い誓いの印として、金属製の物を打ち合わせる行為である。
武士は刀の刃、または鍔を打合せた。

「それは一体どういうことでしょうか?」

小島が尋ねると、常真は

「大阪城の本丸や、その他でも若き者どもが談合して、今度、市正の提言した三ヶ条の内、
一つも同意することは出来ないから、市正を騙して駿府に差し下し、その後で市正の妻子以下、
そして市正の弟である主膳正(片桐貞隆)も自殺させ、徳川への敵対の色を立てようとか、
市正を先々切腹させよう、などとの話し合いが行われている。

昨夜あった談合で決まったことは、市正に対し『御袋様(淀殿)が市正と対面して相談したいことが
あるので本丸に参るように』と伝え、本丸に入った所を、廊下で取り押さえて切腹させ、
主膳は千畳敷にて殺し、その後市正・主膳の屋敷に攻め懸かって妻子、並びに家来の者たちを踏み潰し、
屋敷に火をかけ、その上で籠城の態勢を取ろう、と言う内容らしいのだ。

私はこれに驚き、市正を殺しては成らぬと思い、今このように、内通する事にした。」

小島庄兵衛も大いに驚き
「忝い御意であります。そしてこの件に関して、市正が承服出来るように、常真様のお墨付きを
頂きたいと思います。」

「それは尤もなことである。しかし徒に時間をかけてはいけない。さあ、金打ちをするのだ。」

と、常真から誓言をした上で、金打ちをし、小島も金打ちをした。

そして小島庄兵衛は急ぎ帰ると、且元に委細を伝えた。
これにより片桐且元は『にわかに病気となった』と言い出し、その日より大阪城への出仕を取りやめた。
(片桐家秘記)

大阪冬の陣直前、織田信雄片桐且元に内通をしたその時を描いた記録である





大阪城明け渡しの提案について

2013年03月04日 19:51

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/03(日) 21:05:29.51 ID:SOYj+wSV
方広寺鐘銘事件が紛糾し、弁明のため片桐且元が駿府に赴いたが、
この時片桐且元は本多上野介(正純)、成瀬隼人正(正成)、安藤帯刀(直次)、伝長老(金地院崇伝)を
前に、このような提案をした

「今回の鐘銘のことは、秀頼公並びに母公(淀殿)が全く存ぜぬことです。
とにかく、大阪の地が日本第一の名地であり、そこに秀頼公が居住されているため、
世上に様々な風説が起き、それが大御所様(家康)のお耳に入るのでしょう。

であれば、秀頼公が大阪を明け出て、何方へも代わりの領地を遣わされ、その上江戸に屋敷を拝領し、
そこに秀頼公と母公が交代に参勤される。この考えをいかが思われますか?」

これに対して先の面々は相談したが、

「それを我々から促しても、秀頼公がお聞き入れになるのは大変難しいだろう。
秀頼公ご自身がそのように望まれるのであれば、その時は公のお心次第に我々も対応する。」

と返答し、結果的にこの提案での事態の落着には至らなかった。

所でこの、片桐且元が申し出た提案は且元自身が考えたことではない。
実は亡くなった加藤主計頭清正がかねてからこの考えを語っていて、それを聞かされていた且元が
この度申し出たというのである。
(村越道伴物語留書)

鐘銘事件の際の、大阪城明け渡しの提案についての記録である







農民三右衛門と片桐且元・悪い話

2008年11月29日 00:04

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/28(金) 00:12:42 ID:WBe8c8bb
農民三右衛門と且元

摂津国野里村に三右衛門という血の気が多い農民がいた。

大坂冬の陣で、片桐且元が秀頼を裏切り茨木城に帰ると、且元は大坂方に攻撃さ
れている堺に200の援軍を派遣した。

それを聞いた三右衛門は、近隣の農民を召集して義勇軍を結成し、且元の軍勢と
交戦した。且元は「農民ごときに負けられるか!」と歯噛みしたが、且元の援軍
は農民軍に壊滅させられた。

大坂の陣も終結した後も且元は三右衛門への恨みを忘れられず、ついに決断所に
訴訟を提起した。

被告の三右衛門は原告の且元を睨み付け、
「旦那様は太閤様に恩を受けながら、土壇場で殿様を裏切った。旦那様は真のさ
むらいでねえ。偽物のさむらいを討ち取っても罪にはならんじゃろが。
それどころか、旦那様は自分を恥じることなく、おらを訴えた。ホンマに面の皮
の厚い旦那様じゃな。」と憚ることなく言い返した。
これには且元も答えようがなかったが、その様子を見ていた家康は大笑いして、
「三右衛門は農民ながら勇気もあり、さらには弁才もあるではないか。こやつは
只者ではないゆえ、許してやれ。」
と言ったという。
(武将感状記)

戦も訴訟も農民に負けた且元のかっこ悪い話


片桐且元と占いの結果・いい話

2008年10月20日 00:24

609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/19(日) 12:29:57 ID:14eHSeUh

片桐且元と占い師

慶長十六年(1611)、徳川家康は豊臣秀頼に、二条城での会見を要求した。
淀殿は秀頼の身を案じ、軍配者(戦の吉兆を占う者)である白井龍伯にその事を占うよう命じた。
彼は香をたいて煙に現れる気を3度見たが、すべて大凶と出た。それを片桐且元に連絡したところ、
且元は

「私は占いの事は良くわからない。が、秀頼様が二条城に行かなければ、戦になること、これだけは解る。
良いか、占いの内容を吉と書き換えるのだ。」

しかし龍伯はこう反論した
「そんなことを言われて、もし秀頼様に何かあったら、書き換えさせたあなたの責任になりますよ!?」

且元は笑って答えた
「秀頼様が殺されれば、私も一緒に死ぬ。誰に罪を問うというのだ?」

こうして、占いの結果は吉と書き換えられた。淀殿は秀頼を二条城に送り出し、対面は無事、果たされた。
龍伯には豊臣家より褒美として、白銀100枚が下賜された。が、彼はこれを期に、一切の占いを止めたと言う。



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使者、片桐且元と長宗我部信親
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