三拍子の五郎

2011年12月22日 22:00

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/22(木) 01:06:10.30 ID:WM21BRAy
浦上清宗の弟に>>474の妹が嫁ぐんだけど、
結局そっち(誠宗)も宗景の差金で殺されちゃうんだよな



483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/22(木) 19:22:34.05 ID:POTl/Tuh
>>477の詳細を含んだ逸話を。


三拍子の五郎

室津城主の浦上政宗らが赤松政秀に暗殺されたのち、室津で権力を握ったのは江見河原五郎という男であった。
この五郎は政宗の三男である浦上清宗を擁立し、また清宗を黒田職隆の娘と婚姻させるなど家の復興に努めた。

しかしながらそんな播磨の浦上家の所領を備前の浦上宗景(政宗の弟)は我が物にしようと企んでいた。
宗景は五郎に対して「清宗を討ち、首級を差し出せば恩賞を与えよう」と調略を仕掛けた。
すると五郎はなんとあっさり宗景に寝返って清宗を殺し、その首級を持って備前へと去っていったのである。
この時、五郎は室津に自分の母を残したままであったので、五郎の母は報復とばかりに串刺しにして殺された。

そんな話が民にも広まると五郎が鼓打ちが上手であった事からこんな狂歌が詠まれた。

『三拍子そろひてけりな江見河原 主うち親うち鼓さへうつ』


なお、この清宗と黒田の娘との間にはわずかな結婚生活の中で一人の男児が生まれており、
この事件以降は母方の実家である黒田家で育てられた。
これが宇喜多直家謀反の時に打倒浦上宗景の旗頭として担がれた浦上久松丸である。

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/22(木) 19:26:42.61 ID:POTl/Tuh
「清宗さっき死んでるじゃん」と思われるだろうが「備前軍記」だとこっちが清宗になってるので・・・

多分誠宗の間違いだと思うけど一応原典に忠実に。




485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/22(木) 19:59:58.75 ID:tfOCzpSa
地味に歌が上手い

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/22(木) 20:01:20.03 ID:1yW4B2Ym
浦上さんちは名前が似てる人多すぎw
こんなのみてたら直家さんの思考があんなんなっても不思議ないと思えちゃうw
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旗本の備え

2011年04月18日 00:02

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/17(日) 12:24:28.89 ID:tAbEBbmc
旗本の備え


天文22年(1553年)3月のこと。
備前の小領主浦上宗景は尼子氏に反感を持つ勢力を焚きつけて動員した15,000の兵を率いて、
30,000人近い兵で美作へと押し入った尼子晴久の軍勢と対峙する。
同月中旬に激突した両軍は緒戦は一進一退の攻防が続きひとまず引き分けに終わり、
互いに引き上げて再び睨み合った。

3月22日、尼子軍2,500が前進。これに浦上に味方した播磨の小寺美濃や黒田某率いる3,000の兵が
対抗したが敗れ、これは見た美作の国人衆2,000が入れ替わるように尼子軍に突撃した。
これに対して尼子軍も更に1,500の兵を前進させると、浦上軍は一気に播州勢5,000を前進させる。
すると尼子軍の新手10,000の大軍が更に押し寄せたものだから両軍入り乱れての大乱戦となった。
しかしながら数では尼子有利。4時間ほどの野戦の末に大勢は決し、浦上軍は敗れて備えも無く
前後も一つになってただ敗走した。

ただ、戦にまだ加わっていなかった宗景率いる約5,000の兵はこの時健在であったものの、備えを崩さず
情勢を見守るばかりで、前線の崩壊を見た浦上賢能斎という老人はしびれを切らして宗景に進言した。
賢能斎「今こそ御旗本の軍勢をもって先陣の救援に当たらせましょう。敵軍も乱戦状態ですから、
今軍勢を繰り出せば勝利は疑いありませぬ。」

これに宗景はこう返す。
宗景「自分の旗本勢をもって乱戦の敵を追い打ちすればこれを打ち崩すことは必定であろう。しかし
   自分の旗本勢が備えを崩したのなら、尼子がその旗本勢をもって攻めかかって来ることも必定。
    その時は誰が我が旗本勢を助けるであろうか?そうなれば味方は総崩れとなり、生き残るものも稀であろう。
   旗本さえ堅固に備えておけば、たとえ先手が敗れても総崩れになるということはない。」

こうしてついに宗景の軍は動かず先陣は潰走したが、尼子晴久も浦上の旗本勢が備えを万全にして
後ろに控えている様子である事から、
自らの旗本は繰り出さず、また深追いもせずそのまま一旦引き上げた。そしてこの撤退によって
猶予の生まれた浦上軍は敗残兵を再編して再び尼子軍に備えることが出来たのである。

結果としてこの度の戦で浦上軍は敗退し、美作の多くの城を失うなど宗景は辛酸を舐めたが、
今戦っても勝利はないと考え、ただひたすら尼子の勢力域の境目の守りを固めた。
尼子軍の攻勢はその後も続いたが備前の沼城は抜けず、やがて宗景の同盟者であった
毛利元就に後背を脅かされた尼子軍は本領へと兵を返したが、
浦上軍はその機を見て兵をあげて、やがては失陥した城を全て取り戻したのであった。




30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/17(日) 17:48:55.56 ID:+ZKmRz8J
>>26
直家「浦上っていつも自分は戦わないので他の人に危険な役目やらせるよね」

35 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/04/17(日) 21:04:55.63 ID:2ODNUDRa
>>30
今川、織田に最前線でコキ使われたからこそ三河武士は最強になったのだと思う。
平家に対しての源氏、幕末の薩長(会津、桑名も強かった)。
結局、時代が動くのはこのパターンな気がする。
やっぱ最前線で戦ってる集団は強くなるわね

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/17(日) 21:20:48.55 ID:keOis7QZ
>>35
それ以前の時点でも、畿内の戦争に傭兵として出稼ぎに行ってた歴戦の強者どもだったみたいですしね
家康のひい爺ちゃんは500の兵で、北条早雲率いる1万の軍勢を撃退してたり

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/17(日) 21:20:48.55 ID:keOis7QZ
>>35
それ以前の時点でも、畿内の戦争に傭兵として出稼ぎに行ってた歴戦の強者どもだったみたいですしね
家康のひい爺ちゃんは500の兵で、北条早雲率いる1万の軍勢を撃退してたり

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/18(月) 00:30:07.53 ID:Y6HJ5iZY
>最前線でこき使われ

国が疲弊しきらない事が前提だな。信濃・甲斐・土佐…みーんな消耗しきって肝心な時にアボン

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/18(月) 00:34:55.28 ID:GWywuu1v
第二次小豆坂の時とか岡部隊の奇襲を成功させるために最前線に突っ込まされて潰走してたりとか
そんなんばっかりだよな、三河衆w

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/18(月) 02:19:24.59 ID:T8gz1kvh
浦上がどうして沼城とか砥石城とか景気良く宇喜多にあげたのかって、要するに欝陶しくなってきた
三村・毛利と手切れするから「攻めて来たら先鋒はお前らに任せた」って事だよな。

まさかこれで後々足元掬われるとは思ってなかっただろう。

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/18(月) 02:46:50.69 ID:afYiGjBM
しかも二度も掬いに来るからな

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/18(月) 03:25:23.85 ID:GWywuu1v
適当に風除けに使ってやろうと思ってたら難敵相手に勝ちまくって
所領が大きくなるというのは予想外だったろうな

45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/18(月) 11:10:30.13 ID:fv3gBUEm
やる夫では宗景に抱かれてるような書き方をされてたけど、直家にはそういう噂があるの?