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宇喜田秀家と『神の祟り』

2009年11月07日 00:14

992 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/06(金) 02:13:03 ID:tMfKk9i2
讃岐の国には、日本武尊を祭る神社があった(おそらく白鳥神社の事であろう)。
讃岐の大内郡、寒川郡、山内郡、香河郡の四郡はこの神社の神域として、

『この地域で鶴を取るものがあれば、神の祟りあり』

そう、言い伝えられていた。そのためであろうか、この地域にはたくさんの鶴が棲む事で
有名だったそうだ。

ところで、宇喜田秀家がある時、讃岐の領主、生駒親正の屋敷に遊んだ。
この折、秀家が尋ねる

「貴殿の領内に多くの鶴が棲む所があると聞きましたが、そうなのですか?」

「ええ、仰る様に我が領内の四郡に、鶴が多く群生しておりますが、そこは神の祟りを憚って、
狩を禁止しているのです。」

これを聞いて秀家
「なるほど、確かに讃岐の中の人間なら、そう言うものに憚りがあるのでしょうが、
他国の者がにはそう言う憚りは関係ないので、鶴を取っても大丈夫でしょう。
私の鷹をそこに遣わしますから、鶴を取らせていただけませんか?」

まあ、つまり秀家は、そういう禁忌を迷信であるとして、地元の人間には、昔からの風習でもあるし、
世間体などもあって、そういった禁忌を守る必要もあるのだろうけど、他国者にはそう言う
地元の風習を守る必要は無いのだから、狩をしてもいいでしょう?と言っているわけですね。

豊臣家ご一家でもある秀家の頼みである。生駒親正も「どうぞお心のままに」と言うほか無い。
秀家は早速、蒼鷹三羽に鷹匠を添えて讃岐に派遣した。そうして明日の狩の準備をしていたところ、
どうしたことかその夜、三羽の鷹は皆地面に落ちて動けなくなり、鷹匠たちも怪しみ、
備前へと戻っていった。

この事があってから程なく、宇喜多家では家老達との紛争が起こり、さらに関ヶ原で敗北し、滅びた。

これに讃岐の人たちは、「神域で鶴を狩ろうとしたため、神罰を受けたのであろう。」と、言い合った
そうである。




993 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/06(金) 02:39:30 ID:iTGB/2yY
実際に鶴を狩ったのならともかく、未遂で57万石没収&遠島か……
この神罰パネェw

994 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/06(金) 07:29:24 ID:kKhLh3ew
>>992
地元出身だが、いまや鶴なんてまったく見かけない。
鷺なら大量にいる。
数百年前にはいたのかなぁ。

995 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/06(金) 07:38:13 ID:HQdIirWb
鶴って今は釧路湿原にしかいない
タンチョウヅルのことでしょ。

水の少ない讃岐にも、昔は沢山いたんだなぁ。

996 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/06(金) 07:43:36 ID:nlT20loZ
昔はそんなにうどん茹でてなかったんじゃね?

997 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/06(金) 08:41:01 ID:XMMmeEfo
白い固まりを大量に茹でて食ってるのみて、鶴が怖くなって逃げちゅったんだなw

998 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/06(金) 09:30:56 ID:ru2Gdiw+
カラスは黒いものを見ると仲間がやられたと思って攻撃してくるというのにツルときたら

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/06(金) 18:25:42 ID:kKhLh3ew
前スレの讃岐の白鳥の話の件だが、讃岐は昔から溜池が多いので
湿地を好む丹頂鶴にとって生息しにくい環境というわけでもない。
郷土料理の中に泥鰌料理もあるくらい。

宇喜多秀家嫡男八郎の乳母と、その子澤橋兵太夫

2009年10月19日 00:10

546 名前:2/1[sage] 投稿日:2009/10/18(日) 02:00:04 ID:qJ8bat5+
宇喜多秀家が八丈島へと配流される時、その息子八郎も、共に島流しとなった。

この八郎には乳母がいたが、この女、八郎が幼少で自分から離れ、遥かな島まで
行ってしまうのを深く悲しみ、奉行所まで駆け走り、「自分も共に島へ送って下さい!」
そう、訴えた。

何の罪も無い人間を島に送るわけにはいかない。
奉行所ではそう言って許さなかった。乳母、それを聞くや
「この上は何のために生きろというのでしょうか!」と、自殺に及ばんとした。

官吏たちは慌ててこれを止めさせ、集まって話し合いをした。
「このまま放置すれば、あの女は結局自殺してしまうだろう。
そうなれば、それを見殺しにしたといわれ、その事が上聞に達し、『何故そのような事をした』などと
お咎めを受ける事にも…

よし!今から上の人間に聞いてこよう!上に話を上げておけば俺達の責任にはならないしねw」

まあそんなわけで上層部に話が上がり、なんのかんので「まあ婦人一人のことだし、
かまわないんじゃない?」と判断された。

許可を受けて乳母殿、大変に喜んだ。が、彼女には当時三歳の子があった。
彼女は秀家の内室である、前田利家の娘、樹正院(豪姫)の元に参り

「私は八郎様にお供して島へと参ります。この子はどうか、お側人にでも仰せ付けくださって、
人がましく育ててください。」

そう言って、その子を置いていった。

547 名前:2/2[sage] 投稿日:2009/10/18(日) 02:02:50 ID:qJ8bat5+
さて、この乳母の子、樹正院が自ら膝下にて撫育し、成長してからは樹正院の実家である
前田家に仕え、名を澤橋兵太夫と名乗った。

が、この兵太夫、明けても暮れても実母のことを思い、涙を流して暮らし、
ついには世をはかなんで出家してしまった。
しかしそれでも思いは治まらず、元和のころ、将軍秀忠が上洛した際、二条城に入るとき、
その駕篭近くまでよって、訴訟状を差し出した。

当然のことながら、慌てて供奉の者たちが間に入り、この不届き者を斬って捨てんとしたが、
これを見ていた駕篭の秀忠は「沙門を斬ってはならぬ。」と、訴状を受け取り、
後より召し連れてくるように、と命じた。

その訴状には、こうあった。

『私が三歳の頃、母は主家の宇喜多氏を慕って、八丈島へと行ってしまいました。
母を島に置いたまま、子である私だけがここに残っていると言う事実が、私はこのまま生きていて
いいのかという感情に苛むのです。

どうか、ご慈悲を持って母のいる島に私を送って下さい。』

これを見た秀忠は、「思いとどまるように説得せよ」と命じた。
幕府や、彼が使えていた前田家の役人達は何度も考えを変えるようにと言い聞かせたが、
兵太夫は聞き入れようとはしなかった。余りの思いつめように、秀忠も哀れに思い

「お前を島へと送る事は、法に反することであり、聞き入れることは出来ない。
母に島から帰るよう、説得の手紙を出してはどうか?」と、提案した。
そこで兵太夫は母に手紙を出してみたが、その返事は

『お手紙受け取りました。私はお前が三歳のとき、ご主君の先途を見届けようと
お上に願い、ここへとやってきたのです。

それなのに、今更お前の姿を見るため帰るなんて、そんなことがあるものですか!
なんと言う馬鹿馬鹿しい事でしょう。このような事、返答をするにも及びません!』

これを読んで兵太夫、今にも死にそうな面持ちとなる。
幕府の官吏達もさすがに同情を禁じえなく、「こ、この件で何か他に願いあげたいことがあれば、
お許しをいただけるよう我々も努力するぞ?」と言うと、兵太夫、

「…ここまで言われたら、私の所存など、もう申し立てすることもありません。
ですが、ただ一つだけ願い奉りたいことがあります。
前田家は宇喜多家と由緒のある間柄です。どうか、あの家より八丈島の宇喜多家に、
毎年援助物資を送れるようにしていただきたいのです。
そうすれば、母もきっと喜ぶでしょう…。」

幕府はこれを聞き届け、その物資を点検した上で、毎年島に送ることを、さし許した。

この後、兵太夫は孝子であると、多くの大名家から仕官の申し出があったが、
それらはすべて断ったものの、前田家からの帰参の申し出だけは断ることが出来ず、
藩士として復帰した。しかし程なく病にかかり、子を残さぬまま死去。
彼の家は断絶となったと言う。

いい話なんだか悪い話なんだかなんともいえない、
前田家が八丈島に物資を送るようになった理由のお話。




548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/18(日) 02:09:37 ID:Bt/bupZu
家が断絶したのは残念だけど、母子揃って忠心と孝心にあふれるいい話じゃないか


雑談・宇喜多秀家の八丈島でのエピソード

2009年10月10日 00:17

361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/09(金) 12:54:45 ID:z9ShmEPi
宇喜多秀家の八丈島でのエピソードを教えて

362 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/10/09(金) 13:43:21 ID:eatqjU1f
>>361
たぶん、まとめにあると思うけど
a)正則たんのための酒(備前産)を船の責任者に頼んで分けてもらった
b)島の役人に料理を恵んでもらった
c)大坂や島原まで泳いで参った

のみっつが、有名なエピソード(捏造含む)

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/09(金) 13:44:27 ID:ycChqS8l
>361
まずは八丈島まで泳いでから訊いてくれ


364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/09(金) 14:02:55 ID:WN0eMudG
八丈島でせっせと子作りに励み子孫も繁栄、おかげで「八丈島には眉目秀麗な人が多い」という
なんともいえない伝説を作り上げたw

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/09(金) 14:42:06 ID:fDKimdvu
これだから貴公子はw

366 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/10/09(金) 15:28:47 ID:UxOwRURv
皆ネタにしてるけど離島で50余年ってある意味凄いよ
映画化できる

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/09(金) 15:37:56 ID:smIvQYzy
>>366
>>364をもとに映画化してもらおう

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/09(金) 15:57:53 ID:qZCnGTEH
そんな大袈裟な。
別に無人島でも無いんだから。

369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/09(金) 16:00:23 ID:d7XU8oxl
大河ドラマ
宇喜多秀家の方が確率ありそう

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/09(金) 16:01:03 ID:Owu0nYmf
離島でもない九度山に10年余り蟄居した真田親子を思うと
離島に行って50年生き延びたってすごい気もするがなあ。
今とは時代も違うし。

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/09(金) 16:01:46 ID:HVm1FQbf
もちろん10話で関ヶ原で以降は八丈島生活な

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/09(金) 16:05:10 ID:YgcM4KU0
>>361
http://mltr.ganriki.net/faq22p.html#18439

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宇喜多秀家、遭遇したと思しき災害の数々

2009年09月29日 00:23

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 17:23:24 ID:SenUd9gb
宇喜多秀家の余生において、遭遇したと思しき災害の数々。

1604年12月 西国で地震発生。津波が八丈島を襲い、人家ことごとく流失。死者五十余。
1605年9月 八丈島噴火。田畑に多大な損害。
同年11月 火山活動収まらず、再度噴火。
同年12月 三度大噴火。一夜にして大山が出現する。
1642年3月 三宅島噴火。
1643年2月 三宅島雄山噴火。溶岩で村が焼失。
1652年3月 青ヶ島噴火。

このほか、八丈島にも関係しそうな地震、暴風雨も毎年のように記録が残っている
天寿をまっとうできた秀家は結構ラッキーだったのかもしれない

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 17:23:33 ID:p5c/HEq3
>>842
松永弾正
「プラズマですよ。 プラズマで説明が付く」

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 18:26:41 ID:Kk06/e8N
>>864
大仏「こいつだけは痛い目あわさにゃいかんな」

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 18:38:27 ID:J4DiWRcq
仏や天罰なんてありませんよ…
ファンタジーやメルヘンじゃあないんですから

867 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/09/28(月) 21:12:46 ID:P8dGGUoB
>>863
噴火・地震はいつおきるかわからないけど
暴風雨は毎年の行事だろw
そりゃ、余生送るには最適な環境とはいえないけどさw

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/28(月) 22:39:37 ID:BsAHcdGg
>>863
そんな環境で無事に過ごせたなんて凄いな。
こんだけ逞しい人だから泳いで参って欲しい・・・とか言われるのか・・・。
宇喜宇喜フェスタでは八丈島での生活も聞けるのかな。


良かった…本当によかった…… ・いい話

2008年12月12日 04:06

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/11(木) 01:02:28 ID:mJ9DCCTI
承応のころ、備前から東国へ向かう商船が嵐に会い、はるか南まで流された。

船は八丈島で修理と補給を受けたが、そこへ身なりはボロだが人品卑しからぬ老人が
やって来て、船員に岡山のことを詳しく聞きたがった。

「お城の北の林に私が建…いや、お伊勢様の分社があったが、それは今もあるかね?」

「へえ、確かにありやすが、あの辺りは今じゃ林どころか、池田候のご家来衆のお屋敷が
ビッシリと軒を連ねておりやすよ?」

「……戦国の世ならば国境ぞいに砦を築き、そちらに分けて家臣を置くゆえ、あんな林を
切り開いてまで城下に屋敷町を造る余裕はない……

…そうか…天下は収まり、世は平和になったのだな……良かった…本当によかった……」

(名将言行録)




206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/11(木) 11:24:51 ID:Tnx4Fmur
泳いで参った…(;ω;)

207 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/12/11(木) 12:01:50 ID:OuhLynZQ
>>205
直家さんところの愚息の話ですな


208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/11(木) 13:53:38 ID:Fm/OkYee
>>205
秀家「良い話だなー」

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/11(木) 17:38:00 ID:EL1PXXbo
秀家的に徳川の天下で良かったのかね?

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/11(木) 17:41:19 ID:HIajrCIQ
いまさら復権の目もないし、安定して平和な社会が実現されたのなら、
それはそれであの戦乱の時代を戦った人間としては、納得のいくものになるんじゃないかな?

ちょっと違うかもしれないが、太平洋戦争を戦った旧日本軍の人が、戦後社会を肯定するような感じで。

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/11(木) 18:23:37 ID:EL1PXXbo
随分とさっぱりしたな。
長年の流刑生活で毒気を抜かれたか?
朝鮮征伐~関ヶ原ではもっとギラギラしてたよな。

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/11(木) 18:30:13 ID:HIajrCIQ
宇喜多秀家はギラギラというより、正直なまっすぐ君って印象が強いなあ。良くも悪くも。
関ヶ原のあと命助けられたのも、根本的には「いい奴だから」って理由だし。

213 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/11(木) 18:41:36 ID:xRDRaWPe
>>207
愚息とは失敬な!

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/11(木) 23:34:41 ID:TeyFZcv3
>>205
中納言様ーーーーーーッ

八丈島の宇喜多秀家と前田家のちょっといい話

2008年11月28日 00:04

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/27(木) 15:15:55 ID:KlC+SqFo
宇喜多秀家と前田家ちょっといい話

宇喜多秀家は八丈島で、浮田苫という苫製品を製造、販売して生計を立てていた。
生活のすべを何も持たないお殿様ではなかったわけだ。

ちなみに宇喜多家、八丈島で秀家の死後七家に、後には二十家にまで分かれて繁栄した。

前田家は宇喜多秀家に毎年、米七十俵、黄金三十五両、衣料等を送り続けた。
それは秀家の死後も続き、なんと明治二年、新政府による宇喜多家放免まで続いた。

なんと言うか、封建時代っていろんな意味で凄い。




798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/27(木) 17:45:06 ID:SreTYZNK
>>796
ありがとう・・・
中納言様を支えた前田ありがとう・・・うう・・・

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/27(木) 18:03:32 ID:CAZ5n0h9
一方、福島正則は酒だけを送った。

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/27(木) 18:07:10 ID:SreTYZNK
いや、嬉しいよ?酒も
サンキュー、市松

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/27(木) 18:46:54 ID:fxanGVbd
生活支援もあって下手な大名より
良い暮らししてたらしいもんな秀家公
かなり長生きしてるし

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/27(木) 19:01:30 ID:S3mAGxcL
生活支援頑張って、お家騒動まで起きたのに
90超えた人もいたけどな

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/27(木) 19:20:16 ID:KWG5PbTz
>>801
いや島の奉行所だったかに呼ばれて御馳走を振舞われたとき
秀家がコソコソお持ち帰りしようとした時
奉行が「どうなされた?」と聞くと秀家は
「家臣達にも食わせてやろうと思いまして」と答え
恥ずかしそうに照れ笑いをした、とかいう話が有ったような
そんな秀家が哀れで奉行が泣いてしまったとか

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/27(木) 20:05:13 ID:AgIGQxq+
>>802
信之兄さんですか。

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/27(木) 20:08:00 ID:p2dZFX8r
>>802
相続争い調停してすぐに亡くなったんだよな
壮年期からずっと心労半端なかったろうに凄い人だよ

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/27(木) 20:13:57 ID:fxanGVbd
>>803
その話が上役に伝えられて
宇喜多家が生活に困窮しているとわかり
前田家や花房家の支援が始まったんじゃなかったけ

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/27(木) 20:19:33 ID:yNi6qKOf
うーむ・・・
秀家殿のつめの垢を飲ませたい御仁がおるのじゃが・・・

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/27(木) 21:15:24 ID:rdnKNKQ9
秀家殿は戦国時代には向かない人なんだろうな。
親父さんなら関ヶ原で小早川より早く寝返ってると思う。

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/27(木) 21:17:09 ID:Yp2oDNoT
親父さんなら戦場で寝返るなんて下手なことせずに、
どっちが勝っても美味しい立ち位置に居ようとすると思うw

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/27(木) 21:20:03 ID:KlC+SqFo
親父さんなら関ヶ原なんて起こすまでもなく家康か三成を暗さ…(ry

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/27(木) 21:21:40 ID:gt/rmCoj
宇喜多直家って若いときにかなり苦労してるんだよなぁ・・・
抜け目無い、節操の無い策謀家のイメージが一般的だけど
若いときの苦労が影響してるんだろう、と思ったり

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/27(木) 21:39:31 ID:Ngq4Sg17
策謀家と言われている武将は低い身分から苦労して這い上がった奴ばかりだよな。
大大名のボンボンに生まれたくせに策謀大好きな中二病患者もいるが…。

長船綱直(宇喜田家家老)・悪い話

2008年10月31日 00:00

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/30(木) 02:08:32 ID:htexb1Gt
>>212>>225
家康が宇喜田を見くびっていたのは理由がある。
というわけで、長船綱直(宇喜田家家老)の悪い話。

秀吉の朝鮮出兵当時、宇喜田家でも戸川達安、岡家利、花房職秀などの武断派の武将が参陣している。
中でも戸川達安、岡家利は、幼くまた大阪城に釘付けにされ国許に帰れない秀家に代わって国政を担っていた。
しかし戸川達安等の出兵中、長船綱直の伏見城普請の采配ぶりが秀吉の目に止まり、秀吉の声がかりで
出兵中の戸川達安等に代わって国政を担うようになる。さらには伏見城の働きの褒美に戸川達安の領地の一部を
長船綱直の領地にしてしまう。
秀吉が死んで朝鮮から引き上げてきた武断派の武将達はこのことを知り激怒する。
しかし秀家は長船綱直を信任してかばっていたため、宇喜田家家中は秀家&長船綱直vs武断派に二分される。
また豪姫がキリシタンであったため、秀家が家臣にキリシタン改宗命令を出したことも対立に拍車をかける。
そんな中、長船綱直が急死してしまい、これが戸川達による毒殺と見た秀家は戸川の暗殺を企てる。
ここに至って戸川等武断派武将達は武装して大阪の自邸に閉じこもり、大阪城下であわや市街戦の
一触即発の事態となる。ここで家康が仲裁に入り、武断派連中を家康が引き取るという形で決着させる。
この結果、宇喜田家には有能な武将が激減し、関が原では客将格の明石全登に指揮を任せざるをえない自体に陥る。
一方武断派連中は関が原に東軍方として参加し、一説によると戸川達安が島左近を討ち取る程の活躍をしている。

戸川達が宇喜田家に残っていたとしても関が原の結果が変わったのか怪しいものだが、
自家の主戦力を敵に追いやってしまった宇喜田家が滅亡したのは、当然のことと言えるだろう。



236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/30(木) 03:28:23 ID:FRSN0Opp
西軍で本気で奮戦してくれたのってどんくらいだろ

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/30(木) 05:06:53 ID:De9sfNhU
俺は結構本気だったけど、駄目だったな

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/30(木) 07:36:15 ID:rL2om7Gs

>>237
だれだよw

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/30(木) 07:52:40 ID:PCCIjP0a
弁当食ったくらいなんだよなぁ
思い出しても

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/30(木) 08:04:08 ID:v9DC4iAA
>>237
小西と見た

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/30(木) 08:46:42 ID:gxuM2hgq
>>237
大谷刑部さんですか

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/30(木) 08:51:32 ID:06+wu+AH
>>237
大岩祐夢先生じゃないですか
何やってんですかこんなところで
寺子屋で子供たちが待ってますよ

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/30(木) 08:55:21 ID:rL2om7Gs
>>242
。・゚・(ノД`)・゚・。

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/30(木) 10:11:33 ID:WBS6Ovur
大谷刑部は金吾の造反を予期しかなり奮戦してると思うが
まさかその裏切り対策用に配置した連中にまで裏切られてはなあ・・・

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/30(木) 12:09:15 ID:B5gvSfQp
>>237いいから渋柿くえよ


253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/30(木) 19:04:25 ID:WxPTxsJU
>>234
このお家騒動の処置を見ても秀家は人は良いかもしれないが
頭悪いよな家臣にキリシタン改宗命令とかありえないんじゃないかと思う
>>212の家康になめられてる発言をされてるのも仕方ない
石田も宇喜多も人心掌握ができて無くてさ

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/30(木) 19:28:02 ID:byHj0/8T
>>236
よくいわれてるのは石田、宇喜多、大谷(平塚、戸田)
小西もかなり必死で頑張ってるが大谷がやられて小早川が突っ込んできて崩壊
それなりに頑張ってたのが糟谷(七本槍唯一の西軍改易→息子が夏の陣で豊臣方として戦死断絶。弟系は残る)
撤退戦で異常に頑張ったのが長束
毛利、島津、長曾我部、安国寺他動かず(島津は動いても人数的に大勢に影響なさそうだが)
長曾我部って周囲に敵も味方もいないんだが・・・なにしにきたんだ?

本戦はともかく伏見攻城戦では結構頑張ってたのはいる
鳥居元忠討ちとった雑賀孫一(鈴木重朝)とか
お家再興に必死だった河野(嘉明にやられた)とか
むしろ大津戦や田辺戦や伊勢方面軍の連中のほうが戦意高いよね
大垣の連中はあれだが
秀秋に従わなかった松野隊と
完全中立で妹警護に徹した木下家定はある意味度胸あり
五島とかも本国でスルーしたけど

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/30(木) 19:57:55 ID:1tV2tKRk
>>254
ttp://image.blog.livedoor.jp/mansaku21/imgs/1/2/1265f5d1.PNG
長宗我部が動けなかったのはしょうがないよ。
吉川・毛利秀元・安国寺ら毛利勢が全く動こうとしなかったんだから長宗我部は身動き取りようがない。
合戦が開始して佳境に入っても動かないのでは毛利勢が西軍を裏切ったのでは?日和見してるのでは?
と勘ぐるのは当然で、旗幟を鮮明にしない毛利勢の大軍の横を通過なんてとても出来ないよ。
長束も長宗我部同様に身動きが取れない状態だね。

八丈島の宇喜多秀家・いい話

2008年10月20日 00:26

613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/19(日) 21:24:40 ID:mRNye0O9
八丈島のちょっといい話

八丈島に囚人視察のために、幕府の代官がやってきた。この2人は、特にかの元・五大老の一人、宇喜多秀家の様子を見てくるように言い含められていた2人である。
宇喜多秀家は、豊臣政権下では重職をつとめた男で、しかも秀吉からの寵愛ぶりもひとかたならぬものがあった。関ヶ原の合戦後も、しばらく逃げ回っており、
「再起をはかっている」とさえ言われていた。そんな男が、八丈島に流されてからは、おとなしくしているという。
だから、逆に幕府は怪しんだ。幕府としても、もともと「秀家が何か企んでいるのでは」と不安であった。まして、加賀の前田家などは、毎年のように差し入れをしている。
これは許可したものでもあるので、咎めはしないが、何か密約が交わされていては一大事である。
それゆえ、この代官2人は、秀家の様子を見ることを主命としてやってきたのであった。

2人は、とりあえず秀家に接触するために秀家を招いて宴会をすることにした。島の役人に一通り役目のことを話すと、役人を通じて秀家を呼んでもらった。
秀家は喜びの表情でやってきた。
「いやはや、かように過分の御饗応、まことにかたじけない。」
食事をしながら秀家は言った。代官2人は思った。「実によく笑うお人だ」。秀家は、一通り盛ってある分を食べ終わると、また笑いながら、
「申し訳ないが、もう一盛りいただけませぬか?」
と言った。代官2人は驚いた。仮にもかつて五大老という重職にいた男が、食事のおかわりを頭を下げて頼んでいる。2人は、一瞬唖然としたが、すぐに
「…あ、はい。それはもう。充分に用意してござるゆえ、ご遠慮ご無用にござる。」
と言って、食事を持ってこさせた。

つづく…

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/19(日) 21:25:37 ID:mRNye0O9
食事が再び、膳に並ぶと秀家は、サッと懐から手ぬぐいを取り出した。そして、またしても苦笑しながら言うのであった。
「いやはや、お恥ずかしい限りであるが、この島ではかようなご馳走はお目にかかれぬ。家で待っておる妻子にも食べさせてやりたいのでござる。」
秀家はそう言うと、照れながらも、堂々と食事を手ぬぐいに包むのであった。

代官2人は、その様子を見ていて、いっそ秀家が憐れになってきた。人生がこうも180度変わってしまうというのも、そうあることではあるまい。
お開きとなり、帰る前に秀家からしつこいくらいに礼を言われた2人は、あとで白米2俵を秀家のところに届けた。
もと五大老だった秀家に対して敬意を表したつもりであった。
しかし、やはり秀家は礼儀を心得ている。
「かような心遣いを受けながら、何も返礼ができませんが」
と言って、宇喜多家の家宝「内赤の盆」を贈った。
2人は「宇喜多どのの心に、未だ再起を図り、幕府の転覆を狙う心などない」と確信した。

ある時、秀家は、「旧領からの商船が八丈島に流れ着いた」という話しを聞き、現在の岡山周辺の様子をその船の乗組員に聞いてみた。その答えを聞いた秀家は、
「そうか、その様子ならば、まことに平穏な世がやってきたのじゃな。ならば、言うことはないな。」
とにっこりと笑ったという。




615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/19(日) 21:41:12 ID:/D9Vz8MR
何度か似た話を読んだことがあるけど、あわれさから、ちょっと泣けてくるね。

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/19(日) 21:42:12 ID:FRcaBzU1
秀家が生活に困ってて前田家と元家臣の花房家から援助がいった話は知ってたけど
援助が始まってからもまだ生活は苦しかったのかな

617 名前:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM [sage] 投稿日:2008/10/19(日) 21:51:21 ID:PSnOXuHY
高山友禅さんによれば、明治維新でご赦免になった宇喜多・浮田家は
7家75人いたらしい。これだけの一族を保っていたことを考えれば
宇喜多氏は取り潰されたのではなく八丈島に移封されたのではと思ってしまう。

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/19(日) 21:55:10 ID:3z/iW3Wt
5年ぐらい前に、八丈島にいったことがあるけど
秀家が一生を送ったのを想うと、感慨深いものがあったなー

島の資料館で初めて流刑の島だと知ったし 待遇は佐渡送りは地獄で
八丈島ははるかにマシだという内容の資料があって勉強になった
罪人も流刑地が八丈島だと聞くと内心ほっとしたらしい


619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/19(日) 22:35:25 ID:Oun5rSGf
うう・・・中納言様・・・
足を八丈島の方角に向けては寝れぬ・・・

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/19(日) 22:37:24 ID:ktp82Yeq
たまに泳いで江戸見物してたとか

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/19(日) 23:19:07 ID:jZ3KFViT
大名復帰も徳川に仕えるのをよしとせず断ってた
仁と義兼ね備えた秀家は凄い