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三左衛門が中納言殿を薩摩へ下したことを

2021年04月12日 18:03

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/12(月) 16:27:43.98 ID:8nMd6PWi
関ヶ原の合戦の後、宇喜多秀家は近江に潜伏していたが、ここにおいて三右衛門(進藤正次、実際には
三左衛門。以下三左衛門とする)が申し上げた

「大阪へ参上したいと思いますので、御状を遊ばされますように。」

そう言って四寸四方ほどの神に書状を書いて頂き、これを編笠の緒に拠り付けて、二日に大阪に行き着き、
中納言殿(秀家)の屋敷の御台所に這い入ったが、流石に大名の御台所であり、人も多く夥しい様子で
あったが、先の御合戦の沙汰をする人も無く、また殊に三左衛門は新参者であり、誰に申し継ぎを
伝えれば良いかも知らず、一日の間、朝から台所の庭に立ち休んでいたが、これを改めようとする者も
居なかった。

台所より奥へ参った所に番の者が有り、その人を頼み「御局(豪姫)に御目に掛かりたいと呼び出して
頂きたい。」と申した所、程なく局が出て会われた。編笠の緒に撚り結んだ御状を取り出し
広げて見せると、一見された後奥に入られ、黄金二十五枚を持って出てきて、三左衛門へ渡された。
彼は金を受け取り首に掛け、夜通し大津まで走り着いた。この時大御所様(徳川家康)は大津城に、
先手の衆は醍醐山、山科辺りに陣取っていた。

三左衛門は大津の海辺(琵琶湖の浜辺)に出て「船にて参るべきか、陸を行くべきか」と思案したが、
「黄金能き程有り、(このまま秀家を見捨てて逃げて)これを元にして世渡りしても成るだろう。また
中納言殿が御座候所に参りても、もし既に失わられ給っていれば、一体どうすればいいのか。」と
思い悩み、先へ二歩進んでも跡に三歩下がるほどであった。
しかし

「とにかく、中納言殿は新参の私を頼みに思し召されたのだ。船では海上がどのようになるか
解らない。」と、思い切って陸地を歩み、その日に潜伏先に参着したところ、中納言殿は無事であった。

そこで三左衛門はその家の亭主に黄金二十枚を与え、残りの五枚は自分が持ち、翌朝、中納言殿を
駄賃馬に乗せ編笠を着せ、大津、醍醐を通り過ぎ、伏見京橋にて川船に乗せ、大阪天満において、
黄金一枚にて船を借り、「この人を薩摩まで御供申し、あちらに無事着かれたなら、御状を取って
戻るように。」と約束して、黄金二枚を中納言殿にお渡しした。これは、中納言殿が生まれつきの
大名であったため、黄金一枚がいかほどの用を調えられるのかもご存知無かったためであった。

彼を薩摩に送った船主は、御状を持ち上がるようにとの約束の通り、船主は大阪に、御自筆の御状を
持ち帰った。三左衛門の手元に残った二枚の黄金は、江州から大阪まで御供をした折の路銀に遣い、
余ったのもはそのまま自分が持った。

中納言殿が薩摩に落ちられたことを承ると、本多上野介(正純)の所に出て、
「備前中納言殿の最期まで付き従った者であります。」
と罷り出た。秀家が死亡した証拠を尋ねられたが、この時宇喜多家相伝の刀である鳥飼國次を
取り出した。

大御所様は三左衛門に、伊勢国にて知行を与えると仰せに成った、知行の高は御意無く、
これにて心得あるべしとの事であった。

三年過ぎて、三左衛門が中納言殿を薩摩へ下したことを諸人も知った。

この時代は万事大雑把であったので、三左衛門が大阪において中納言殿の台所の庭に一日
立ち休んでいても、これを改める者が無く、また奥に参る入り口の番衆も局を呼び出し、
用所を調えるという事がうまく行ったが、これは天下の大小名共に、同じようなものであった。
この頃は屋敷より下々の出入りの札も無く、目付という事もなく諸国は治まり、上下はその
治世を楽しんだ。商人百姓もそれぞれに楽しんでいた。

慶長年中卜齋記



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宇喜田騒動とその後の波紋について

2021年04月02日 18:26

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/02(金) 15:27:20.49 ID:I1Do2lfE
その頃(慶長四年冬)、備前中納言殿(宇喜多秀家)の家老、浮田左京亮(坂崎直盛)、戸川肥後守(達安)、
岡越前守(貞綱)、花房志摩守(正成)の四人が、秀家への申し分が出来、この四人の衆、面々屋敷に
居ることは叶いがたしとして、高麗橋東北の角に、浮田左京の屋敷があったが、ここに引き籠もり髪を剃り、
家臣の者共を大阪町家の詰り詰りに遣わして、『屋敷に鉄砲の音が鳴れば、町中所々焼き立てるように。』
と、覚悟を定めていた。

これに対して扱い(調停)人として、大谷形部少輔(吉継)、榊原式部大輔(康政)、津田小平次の三人が
当たったが、式部大輔の扱い様悪しきとして、家康公の御気色を蒙り、関東に追い下された。
一方、大谷刑部少輔、津田小平次はこの時は家臣ではなかったため、御構い無かった。
大谷刑部少輔に対しては、殊の外御懇ろにて、折々に御相談の相手に成っていたのであるが、この頃より
御相談相手とされることは止んだ。彼が後に敵と成ったのも、この時の意趣からであると云われた。

(後の関ヶ原の折)、小山まで浮田左京、戸川肥後守は御供をした。岡越前守、花房志摩守も罷り下りたいと
様々に申し上げていたが、家康公は思召し有りとして、大阪に残し置いた。
そして四奉行が敵と成った時は、両人大和の郡山で、右衛門尉(増田長盛)の元に付け居られた。
これは、元より右衛門尉が家康公と裏で通じ合っていた故(下心能御座候故)である。

慶長年中卜齋記

宇喜田騒動とその後の波紋について



宇喜多秀家の身柄受け渡し

2020年12月25日 17:00

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/25(金) 15:58:29.84 ID:I0dSoLUQ
慶長七年、島津忠恒は上洛し関ヶ原での事を謝罪、家康は島津を本領安堵とした。
そして御暇を下され帰国の時、島津家との取次である山口勘兵衛(直友)に対し、このような内談をした

「備前中納言(宇喜多)秀家は、関ヶ原の敗北以後、薩摩に逃げ下り我らを頼って来た故に黙し難く、
領地の端に押し籠めています。どうか彼の一命を御助けに成るよう、次回にも御訴訟申し上げたいの
ですが、いかが仕るべきでしょうか。」
これに対し勘兵衛は「これについては本多佐渡守(正信)と内談し、重ねて申し越します。」と申した。

その後、勘兵衛の与力である和久甚兵衛が差し下され、『秀家を直ぐに差し上がらせるように。訴訟に
ついては本多佐渡守が取り持つ。』との旨を忠恒方に申し越した。
これにより、家臣の桂太郎兵衛という者に警護致させ、正興寺文之と申す出家を相添えて、秀家を
差し上らせた。慶長八年、八月六日に薩摩を発足し、同月二十七日、伏見に到着し、山口勘兵衛の
所まで案内した。

その頃、本多佐渡守は関東に下っていたが、本多上野介(正純)まで勘兵衛より連絡すると、
上野介より上聞に達し、
『秀家については、叛逆の棟梁であり本来は助け置くべき者ではないが、島津家よりの訴訟
黙し難く思し召され、死罪を宥し、駿州久能に召しおくべき』旨の上意があった。
これにより、忠恒より、一族の島津摂津忠政を以て御礼申し上げた。

その後秀家については、八丈島に流罪になったと承っている。

島津家譜

宇喜多秀家の身柄受け渡しについて



「宇喜多の狐憑き」について、甲子夜話

2019年05月25日 19:26

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/25(土) 09:39:09.14 ID:rLzlw2E3
『雑談集』に曰く、宇喜多中納言秀家は備前一ヶ国の太守であったが、故あって一人娘(実際には妻の豪姫)に
妖狐が憑いて、様々なことを尽くしても退かず、このため秀家も心気鬱して出仕をも止めてしまった。

これを豊臣秀吉が聞かれ、かの娘を城へ召し、速やかに退くよう命を下すと、狐は忽ち退いたという。
かの狐は退く時このように言った

『我は車裂きの罪に逢うとも退くまじと思っていたが、秀吉の命を背けば、諸大名に命じ、西国、四国の
狐まで悉く狩り平らげるという心中を察したが故に、今退くのだ。我のために多くの狐が命を亡くすこと
如何ともしがたき故なり。』
そう涕泣して立ち去ったという。

翌日、秀家は礼射として登城し、その始末を言上した。秀吉は頷いて微笑したという。
(巻二十二・十九)

安芸の宮島には狐憑きというものが無く、また他所にて狐に憑かれた者をこの島に連れて来ると、
必ず狐が落ちる。また狐憑きの人を、この社頭の鳥居の中に引き入れると、苦悶大叫して即座に狐は
落ちる。霊験かくの如しで、近頃私(松浦静山)の小臣も、これは実説であると言っていた。

これによると、昔宇喜多氏の女が蟲狐が落ちず、太閤秀吉が西国四国の狐狩りをせんと言ったという話は
疑わしい。宇喜多氏の領国である備前と宮島はさほど離れていない。であるのに秀家は鼻の先程の場所にある
霊験を知らずに、憂鬱に日を重ねていたことに成る。実に訝しい。(巻二十二・二十九)

(甲子夜話)

「宇喜多の狐憑き」についての甲子夜話の記事



65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/25(土) 10:53:54.78 ID:pkUWqy7a
狐のくせに四国には狐がいないを知らないとか

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/25(土) 11:07:47.02 ID:SLI61bsq
>>64
>蟲狐
なんかすげー怖い…。

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/25(土) 11:19:44.25 ID:8K1a1MKB
こきつね

【ネタ】このスレの民は、そのニュースを聞いて、ほぼ全員

2018年05月01日 21:09

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/01(火) 08:02:07.25 ID:gjR9drO4
「海を泳いで渡った」愛媛・今治の脱走受刑者 逮捕の地点は島から西に70キロ

ttps://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180430-00000513-san-soci


某「泳いで参った」


ちょっと悪いどころじゃないですね、すいませんm(__)m


702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/01(火) 11:23:42.98 ID:h+IK6oFg
>>701
このスレの民は、そのニュースを聞いて、ほぼ全員その言葉が浮かんだと思うよ w

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/01(火) 14:26:37.41 ID:f58LFITG
戸部新左衛門「なぜか人を斬りまくったとか、蛙だけは斬れなかったとか変な伝説が残ってしまった」
花房すけべえ「泳いでこないでいいです、ちゃんと米あげますから」

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/01(火) 17:47:12.27 ID:r3vDUENS
戦国立志伝では秀家復帰があったよね
大阪の陣にも参戦する仮想なかったっけか?

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/01(火) 21:46:50.46 ID:GEYW4P21
山を越えてまいった佐々成政と海を泳いでまいってない宇喜多秀家
どこで差がついたか

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 07:53:12.40 ID:Rfh9zVr+
泳いだのは仙谷だろ

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/02(水) 12:39:33.02 ID:kAASAv65
>>707
それは政治家だ

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/03(木) 20:19:30.90 ID:RbxcQx5/
???「空を飛んで参りたかった」

宇喜多秀家流罪に及びしこと

2017年02月17日 21:21

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/17(金) 00:53:42.57 ID:29qev1l+
宇喜多秀家流罪に及びしこと

 ある人が曰く、
宇喜多秀家は関ヶ原では毛利上杉佐竹と同じである。
他は皆今の領土となったが、
秀家ただ一人が遠流に処されたのは神祖に憎まれることがあったためだとか。
 秀家は法華宗を信仰していて、その時領していた備前備中備後から諸宗を追い立てて悉く日蓮宗の寺とした。
もちろん浄土宗の寺院も押し退けられており、そのため
浄土宗である神祖から憎み怒られていた。
関ヶ原後に、もはや極刑にもなるべきところを島津氏の御歎きから流罪となったという。
 またかの国の諸寺でもその事実を裏付けることを聞いたが、
皆忘れてしまったので、ここではそれを書くことができない。

(甲子夜話三篇)

なぜ島津が、それも家康に意見を言う立場で出てくるのか?



606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/17(金) 00:57:21.76 ID:7heINWbt
島津が宇喜多を匿っていて
家康に許された時にそれを申し出たから
島津の顔を立てるためでしょ

そして今もまだ生きていると聞いている。

2016年11月19日 14:24

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/18(金) 19:46:27.75 ID:7E1FHg/r
宇喜多殿というのは、元来備前の武士であった、当時は浦上という者が備前美作領国の主人であり、
宇喜多直家は浦上の家臣であった。しかしこの直家は悪性の人物で、国郡を持つ人と縁者などに成り、
後に殺して奪い取ることを度々した。浦上も殺して、遂には備前美作の主となった。

八郎殿(秀家)はこの宇喜多直家の子である。太閤秀吉と親密な関係に成ったのは、秀吉が備中高松の
城を攻めていた時、明智反逆の事が知らされたが、引き取りたいと思っても自由にならない状況であった。

この時、八郎殿が秀吉に一味して力を合わせた事で、秀吉は高松の城主に腹を斬らせ、その上で
巻き返して上京出来たのである。

この忠功により両者の関係は良く、秀吉は彼を聟に取った。しかし秀吉に娘はなかったので、
前田筑前守(利家)の息女を養子にして、八郎殿を聟に取った。

但しこの時分、八郎殿はまだ10歳ばかりであった。直家も当時まだ生きていたと言うが、瘡毒のため
人前に出ることも出来ず、八郎殿を国主分としていた。
そしてその下には、五万石、三万石といった大きな所領を有する家老たちがあり、彼らが談合して
高松の時も秀吉に味方する方針を決定したのだという。

八郎殿は太閤秀吉の聟と成り、また官位も上がり、宇喜多中納言殿と呼ばれた。
しかし治部少輔乱(関ヶ原の役)に至り、彼は治部方であったため、東照宮(家康)の勝利にて
この乱が終結すると、八丈島へと流された。そして今もまだ生きていると聞いている。

これは老人(江村専斎)が癸卯の年(1663)、九十九歳の時に語られた話である。

(老人雑話)

宇喜多秀家は1655年に亡くなっているので、その部分は正確ではないのですが、
当時の江戸でも「宇喜多中納言ってまだ生きてるらしいよ」「すげー」みたいな話題のネタに
なっていたのでしょうね。



318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/18(金) 21:03:28.64 ID:865MJPbR
>>317
どこのアーサー王だw

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/18(金) 21:06:53.08 ID:Limq/1QQ
さっきまでやっていたヒストリアが「戦国一のワル」の回だった
このタイトルで松永や宇喜多じゃなく、最上義光回だったけど
目新しいネタはなかったな

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/18(金) 21:58:59.29 ID:gql9sLLB
>>317
泳いで参った!の伝説もあったんだろうか

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/18(金) 23:33:46.68 ID:Ad/x7wny
2ch発祥ネタじゃねえか

進藤三左衛門正次の節義・別バージョン

2014年09月16日 18:52

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/15(月) 23:39:17.67 ID:y4jijLvH
宇喜多黄門秀家は関ヶ原の決戦に負けて後、伊吹山へ逃げ入った。この時付き従ったのは、家臣の
進藤三左衛門正次と言う者ただ一人であった。

正次は秀家にこう申し上げた
「日頃、君が御身に付けられし鳥飼国次の脇差は衆人の知るところです。
これを私に賜れば、私は徳川殿の元に参りこれを謀りたいと考えています。
御身はこの地を逃れ、薩摩方に下ってください。」

そう勧めて、正次はその脇差を持って本多忠勝の陣へと参り、
「私は主人の秀家を手に掛けその死骸を深く埋め、差料の鳥飼国次の脇差しを
持参しました。」

忠勝は「なにゆえ検使を受けずして、密かに死骸を埋めたのか?」と問うと、

「厚恩の主でありますから、例え我が手にかけるといえども、どうしてその首級を
敵に渡し、梟木にかけることが出来るでしょうか?
この脇差は、秀家が常に愛して身から離さなかったことは、内府公(家康)にご存知のはずです。
これを御覧にお入れください。」

忠勝がこれを家康の御覧に入れると
「たしかにこれは本物の秀家の脇差である。彼も秀家を害さなければ、よもや当家に降ることはないだろう。」
そう言って進藤正次を御家人に召抱えた。
しかしその頃の人々これに、「主人を害して己が功にするとは、後にはいかなる御誅伐に遭うか図りがたし。」と
囁き合った。

さて、秀家は虎口を逃れ、かろうじて薩摩へと逃れたが、後にそれが発覚し、薩摩へと仰せ言が下り
秀家は召喚された。そして進藤正次の前言との齟齬も究明された。

正次はこれに
「いかにも、はじめは秀家を逃すために偽りを申し上げました。主人のためにこの身を失うことは
元より期しております。この上はいかなる重罪にも処し給われ。」

この事家康も聴き
「己が一命を捨てて主人を救おうというのは、天晴忠義の者ではないか。」
そう賞賛して俸禄をそのまま与えた。

秀家が八丈島へと遠流された後も、正次は旧恩を忘れず、しばしば船舶の便に米金を送っているということも、
後にまた家康の耳に入り、御感に預かり五百石が加増された。

(武家閑談)

進藤三左衛門正次の節義
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8615.html
これの別パターンですね




進藤三左衛門正次の節義

2014年07月17日 18:51

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/16(水) 22:16:02.06 ID:i5spjsh6
宇喜多秀家の家臣に進藤三左衛門正次という者があった。
彼はかねてよりよく知られた武士であり、関ヶ原の合戦の後、秀家とともに逃亡したが、
やがて捕らえられ、家康より秀家の行方を尋問された。

正次は「私は秀家が敗走して後3日ばかり付き従いましたが、その後は主従別れ別れに隠れ忍んで
行方知れずと成りました。」と答えた。

家康はこれを聞くと「正次は君臣の義を重んじるが故に、その隠れる所を申さない事に疑いない。」と
却ってその忠義の志に感じ入り、金10枚を与え自分の元に留めおいた。
この時「秀家が秘蔵していた鵜飼國次の脇差しはどうなったか?」と尋ねたが、これに関しては
正次は関ヶ原の辺りで探し当て、家康に献上した。

さて、慶長8年8月、宇喜多秀家は潜伏していた薩摩から召し上げられた。
この時、本多正純、徳山則秀が彼を尋問したが、進藤正次に関して、彼は伊吹山中にて、
秀家を50日間に渡り深く隠し忍ばせたと、秀家は答えた。

先に正次は3日秀家に付き従ったと証言しており、その言葉と一致しない内容に、家康は
「その主を思うこと厚きが故に、己の美を殊更言い揚げなかったのだ」
と深く感じ入り、正次に500石を与え御家人に加えた。

(徳川実記)

徳川家康宇喜多秀家の旧臣に感じ入る、というお話し。

関連
進藤三左衛門正次の節義・別バージョン


宇喜多秀家遠島始末

2013年06月22日 19:58

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/22(土) 15:18:50.34 ID:/wrYC/HC
関ヶ原の敗北の後、宇喜多秀家は伊吹山に隠れ、その後忍んで大阪に向い、そこから船で薩摩に下って
島津を頼んだのだが、このことが徳川家康の上聞に達し、秀家を差し出すようにとの旨が薩摩に仰せ下された。

しかし島津はこれを承ると
「古より、我が家は我々を頼み来た人物を、差し出した例はありません。このような事ですので、たとえご不審を
被ることになろうとも、その仰せを受けることはできません。」
と言上した。

ところが秀家はこれを知ると
「私のことで、島津家に大事を起こすのは本意ではない。速やかに出て、誅に服したい。」
と言い出した。

ここで島津家は又
「秀家殿の一命をお助けに成るにおいては、その身柄を差し出します。」
と申し上げ、これを家康が許諾したため、秀家は死罪一等を免じられ、遠島となり、
子息の侍従殿、並びに次男とその子の計3人、供侍5人(姓名失念)と、八丈島に流された。
この時宇喜多秀家は剃髪し、名を休福と改めた。

秀家は長寿で、80歳あまりまで島に在った。
寛永年間に二人の子息、そして供侍も先に死に、秀家は獨父となって後年亡くなった、と云う。
(戸川記)





宇喜多滅亡の端

2013年06月21日 19:50

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/20(木) 20:59:56.66 ID:CjYL87PR
文禄4年(1595)の夏、宇喜多秀家の妻(豪姫)が病に伏せた。その病状は物の怪に取り憑かれたようであり、
医者ではどうすることも出来なかった。そのため秀家は祈祷するようにと日蓮宗の僧徒に申し付け、
彼らは皆丹精して数日祈ったがその験無く、その後山伏が加持して平伏した。

秀家は日蓮宗に対して大いに怒り、「今後家中の者達は日蓮宗から改宗し、他の宗派になるように!」
と申し付けた。

この時、明石掃部頭(全登)はキリシタン宗を勧め、伴天連を呼び下したため、我も我もと
この宗派に傾かない者はないほどの状況となった。
しかし戸川肥後守(達安)は殊更に日蓮宗への尊崇が厚かったため、秀家に断りを入れて
そのまま日蓮宗を信仰した。その他、浮田左京充、岡越前守、花房志摩守、花房助兵衛、以下、
家中の半ばは戸川達安の一党と成った。

一方の長船紀伊守方には、中村次郎兵衛、浮田太郎左衛門、延原土佐といった者達が一味した。

明石掃部頭はこの宗門を広めただけで、両派いずれにも加わらなかった。

この様に宇喜多家中は和することが無くなり、常に騒動する状況となり、
そして遂にはこれが、宇喜多滅亡の端となったのである。
(戸川記)




904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/20(木) 21:19:33.40 ID:AzboqeYI
浮田左京亮はキリシタンだよなぁ

宇喜多騒動に至る混乱の始まり

2013年06月19日 19:50

890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/18(火) 20:24:14.97 ID:XgG5EsJu
宇喜多秀家の下で、中村次郎兵衛と言う出頭人が有ったが、これは秀家の妻の実家である
加賀前田利家の下より来たものである。また浮田太郎左衛門という先代からの用人があったが、
これも秀家の下で出頭した。

この両人は重臣の一人である長船紀伊守(綱直)と入魂の間柄となり、様々に密談して
伏見に登り、御内々を伺い、文禄4年(1595)春、家中に対して不意に『倹約のためである』と号して
宇喜多の分国悉く検地を入れ、かつ譜代の拝領した地では、良い土地は取り上げ所替りが申し付けられた。
これは皆、中村次郎兵衛の仕業であり、故に家中の者達は皆次郎兵衛を憎んだ。

さらに中村次郎兵衛達は、自分に親しいものを推挙し、疎い者達はほんの少しの事で閉門や遠慮が
申し付けられ、あるいは身上を滅ぼす者さえ有った。

家中の者達は薄氷を踏むような心持ちであったが、これらは皆、国元に居ない秀家からの上意として
命ぜられていたために、如何ともすることが出来なかった。
(戸川記)

家中騒動の原因で一番大きいのはやはり検地による所領問題なのだなと感じさせる、
後の宇喜多騒動に至る混乱の始まりについての逸話である。




891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/18(火) 21:22:14.65 ID:CNn15Bhn
検地を使っての大名権力強化はリスクも高いな。

大名自身の移封が伴うならマシだけど、同じ封土の中での所替は
一所懸命の地を奪われる国人や家臣団の反発が大きくなる。

島津、宇喜多は典型的な失敗例だろうなぁ。
佐竹のような成功例は意外に少ない。

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/18(火) 21:37:04.31 ID:itwpMhOP
佐竹は豪族年始に託けて集めて皆殺しにしたからな

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/18(火) 21:44:27.95 ID:CNn15Bhn
南方三十三館なら検地よりだいぶ前だけど、他にもあったっけ?

猪口佐治兵衛、手柄なる死に様

2013年05月10日 19:52

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/10(金) 07:35:31.39 ID:PxVdPn1x
備州宰相宇喜多秀家殿の家中に猪口佐治兵衛という侍が有った。
剛強の士であり、筑紫陣(九州征伐)、四国陣にても度々の誉れ有る侍であったが、
些かの事があって、秀家より、山村、有岡、片瀬、一原といった歴々の侍に、彼を討つよう
命ぜられた。

この四人、猪口は屈強手柄の者であるので、計略によらねば彼を討つことは出来ないと考え、
互いに相談した上で、次の日の早朝、四人揃って猪口の家を尋ねた。

早朝のため猪口は未だ起きていなかったが、先に起きていた猪口の女房がこれを見て、
「歴々の方々がおいでになりました」と猪口を起こして、下女に献茶を沸かせた。

そうしているうちに猪口も起きてきて、大脇差をキッツと反らせて差し、
「あなた方は早々に御出でになられて、どうしたのか?まあとにかくお上がり下さい。」
と、四人を家に上げた。彼ら、座して言うには

「実は今日は暇になりまして、あなたを驚かせようと早朝に出てきたのですが、
あまりに早くなりすぎました。そんな事なので特にお尋ねするようなことも無く
こちらに罷り越したのです。」

ここに女房が「どうぞごゆっくり。御茶を沸かしましたので、ぜひ一服して行って下さい。」
と四人を留めて座敷を自ら片付けている所に、猪口の脇差も取って勝手に置き、それから
茶を出した。

四人はこれを飲みつつ雑談などして時刻も過ぎる。この間猪口の隙を伺っていたが、
用心厳しく、討つべき隙を見出すことは出来なかった。
とにかくこれは首尾が悪い、今回は無理だと考え、
「ではそろそろ帰ります。明日またお目にかかりましょう。」
と、おいおいに立ち上がると、猪口は
「早々のお帰り、名残惜しいことです」と彼らを見送りに庭へと出、四人に向かって礼をした所、

「!」

有岡、刀を即座に引きぬいて打ち付ける!猪口、頭から肩にかけて骨まで達する傷を受ける

「心得たり!」

猪口そう叫ぶと刀引き抜き、弓手(左)の肩を斬り下げ、二の太刀にて無二無三に斬って懸ると
有岡は深手を負って退いた。残る三人、門の外で刀を抜き猪口に掛かろうとする。

猪口は女房に「この傷を結わえよ!ふらめいて悪しきぞ!」と、家の中で手ぬぐいで傷を結わえさせると、
二尺七寸の太刀を引きぬいて出、三人を相手に散々に斬り合う。

ここで女房は、火を炊いたばかりの熱い灰をかき集め、夫と斬り合っている三人に向かって浴びせかけた!
灰は彼らの胸に入り目を潰し、方角を見失った所に猪口踏み込み、死狂いに斬りまくり、終に刺客の四人全てを斬り伏せた。

宇喜多秀家は猪口を仕損じたことを聞くと、百人ばかりの勢を出して猪口の家を弓鑓にて八重に取り囲む。
猪口はここで「今は思いつく敵は尽く討ち取った!もはや思い残すことはない。」と、腹を掻っ切って死んだ。
これを見聞きした人々、「このような手柄なる死に様はない」と言って、褒めぬ人は居なかった。

その後猪口の女房は召し捕られたが、
『こんな女もあるものか。彼女はあの事態の中少しも取り乱さず、亭主を却って取り回し、
置き灰を浴びせかけ歴々の者を討たせた。男であっても中々出来る事ではない。急ぎ家財を返還し
故郷に戻すべし』とされて、親元へと送られた。

これも大変名誉のことであると、褒めぬものは居なかった。
(義殘後覺)





585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/10(金) 10:49:16.49 ID:aRwiAAEQ
直家「下手じゃのう」

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/10(金) 10:55:57.85 ID:+w/xDqSI
義輝「猪口とやらには共感を覚える」

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/10(金) 14:57:54.03 ID:D/MFbD91
>>584
>些かの事があって
省略される程度の事柄で討ってしまうには惜しい侍だな・・・

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/10(金) 18:42:15.84 ID:8RwOjXbu
歴々、なんて書かれる以上彼等も手練れだろうに、行き当たりばったり感満載で、四人に全く歴々感がないな……

雑談・「秀家は“イケメン”で毎日~」

2011年10月10日 22:02

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/10(月) 01:04:09.69 ID:FEtpyh3C
【岡山】戦国の貴公子・宇喜多秀家フェス-秋のおかやま桃太郎まつり
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1318170215/
http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2011100914061382/

>開会式には、関ケ原の戦いに敗れ、秀家が身を寄せた現在の鹿児島県垂水市から尾脇雅弥市長が招かれ、
>「秀家は2年3カ月を垂水で過ごした。“イケメン”で毎日100人ほどの女性が会いに来たと伝わる」と紹介した。

イケメン過ぎて吹いたw




27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/10(月) 12:41:00.81 ID:e88ZHWgL
ハーレムというか種馬あつかいだったんじゃねw

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/10(月) 12:45:08.58 ID:pAe/LEC5
名家の血が欲しいてきなノリだろうね

29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/10(月) 17:01:19.51 ID:SuUpNvQq
宇喜多はさほどの名門じゃないんだがなぁ

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/10(月) 17:09:52.12 ID:rGjYpr2Y
どこから貴公子なんてイメージがついたんだろう
肖像画はすっきりしたイケメンて感じだけどさ
もしかして性格イケメンてことか

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/10(月) 17:28:44.85 ID:TtMC7Kev
血筋というより
・備前岡山57万石の太守で
・秀吉の猶子にして養女婿で
・五大老の一人
っていう地位のブランドかねえ

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/10(月) 17:31:02.82 ID:rGjYpr2Y
あと五大老で一番若い ってのもあるのかな

33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/10(月) 17:31:30.34 ID:pAe/LEC5
確かに名家っていうよりは有名人的な感じか

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/10(月) 17:35:54.14 ID:ZPuOiCQZ
>>31
それに加え西軍の主力として戦ったという点。
ちょっと前以来、女(歴)オタというと西軍びいきと相場は決まっているしね

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/10(月) 17:39:18.90 ID:1pidI2ut
悪久「秀家Jr大量生産の暁には徳川軍などあっという間だ」

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/10(月) 18:31:42.78 ID:CyP1LWUJ
海から江戸を直撃できるな

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/10(月) 18:44:17.81 ID:6hEMia+Q
>>29
自称だが百済王家の末裔

わしが離島に流されておる世に、蜂須賀の家はなぜ

2011年08月29日 22:43

582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/29(月) 19:56:56.85 ID:J74Cp+SV
ある時、八丈島に江戸への廻船が漂着した。さっそく宇喜多秀家がやって来て、船頭に本土の事を聞いた。

「ほほう、江戸へ荷を運ぶ舟か!して、どこからの荷を運ぶのだね?」
「はい、阿波からの荷を運んでおります。」
「阿波か……今、阿波のご領主は、どなたかな?」
「松平阿波守様でございますね。」

秀家は、小首をかしげた。
「……?聞いた事のない家だ。徳川殿のご親戚か?」
「おや、ご存じない。なァに、蜂須賀様のことですよ。公方様から、松平姓を下賜されておいでです。」

ますます秀家は、首をひねった。
「わしが離島に流されておる世に、蜂須賀の家はなぜ今も存続している……?」(想古録より)


一方その頃、蜂須賀家政は伊達政宗に『阿波の古狸』と呼ばれていた。




583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/29(月) 20:13:16.48 ID:N3FqdAgo
>ある時、八丈島に江戸への廻船が漂着した。さっそく宇喜多秀家がやって来て

また酒をせびりに行ったのかと思ったよw

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/29(月) 20:29:52.40 ID:G7S70noy
>>582
蜂須賀家と宇喜多家って何か確執あったっけ?

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/29(月) 20:30:31.28 ID:q5Apfb6S
漂着した船に最初に近づくのは宇喜多秀家と決まっていたと想像させるなw

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/29(月) 20:36:02.04 ID:EzRAhmuq
何も無くて暇なんだろうな…

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/29(月) 20:36:37.99 ID:HzqxeYRg
>>584
「えっ、あのおっさん西軍やったやん?」くらいじゃねーかな?

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/29(月) 20:55:35.78 ID:eG7S93P8
関ヶ原時は家政は高野山にひきこもり、息子の至鎮は東軍についたから
西軍じゃなくないか

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/29(月) 20:56:32.12 ID:YhD5zXjH
>>582
そういや秀家が知ってるのは「湯漬け三杯食ったと思ったらいきなり領地返上して高野山に引きこもった」ところまでだったな。

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/29(月) 20:58:32.01 ID:EzRAhmuq
>>589
西軍に攻められてあっさり城明け渡したから
事情詳しくない人には加担したと見られてもおかしくないかも

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/29(月) 22:07:47.30 ID:CSlBG1Vt
しかも至鎮が率いていたのは、十数人程度の小勢じゃなかったっけ?

593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/29(月) 22:22:08.48 ID:e96XCm4/
阿波国内は毛利氏の家臣団が占拠された上、家政自身は逼塞を余儀なくされたみたいだし、
蜂須賀家政が西軍という認識は秀家にはなかったと思うけど、おそらくは蜂須賀といえば正勝以来の
豊臣家にゆかりの深い家だっただけに、「あれ、取り潰されてないんだ」という違和感を持ったって話かな

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/29(月) 22:35:12.20 ID:YhD5zXjH
蜂須賀黒田浅野といえば、ちょっとでも胡散臭い大名には無理やり羽柴姓を名乗らせた秀吉から羽柴姓を押し付けられなかった譜代中の譜代だからな。
一方で揃って松平姓押し付けられてるけどw

595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/29(月) 22:46:34.91 ID:N6m879jK
秀家が流刑になったの1606年だから知ってるでしょうよ

596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/29(月) 22:48:24.16 ID:eG7S93P8
福島正則の改易前なら、同じく家康の養女をもらっている
蜂須賀が取り潰されと思うのは変な気も
改易後なら・・・酒をせびる相手がいなくなったから、新しい標的にしようと思ったんだろうか

597 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/29(月) 22:50:28.97 ID:q5Apfb6S
秀家「あれ?酒は?」  って話じゃないの?

598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/30(火) 01:49:45.84 ID:oJQXviBU
羽柴姓受領と豊臣を名乗ることは
この時期どの位の価値があったのかよくわからん
豊臣朝臣清正って名乗ってなんで怒られたの?

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/30(火) 02:20:33.82 ID:tHRXCUMQ
>>598
朝鮮役の頃は豊臣姓授与が武功への一種の褒美として与えられていたようで(だから陪臣でも
豊臣姓がやたら居る)勝手に豊臣姓を名乗るというのはその褒賞秩序も破壊する行為に成る。

宇喜多騒動への庶民の反応

2011年04月25日 00:00

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 15:59:36.58 ID:PzyMXXmf
慶長4年(1599)、大阪での市街戦にまで発展しかけた宇喜多騒動。
これにより宇喜多家から宇喜多詮家(坂崎直盛)、戸川達安、岡越前守、花房正成といった
多くの有力家臣が出奔。宇喜多の威勢は大きく減退したという。

さてその頃、京大阪ではこのような狂歌が広まったそうだ。曰く

『 われて後 つがれぬ物は備前鉢 つかふものにも用心をせよ 』

つまり、「一旦関係が悪くなればもはや修復できないのが備前を領有している宇喜多家である。
宇喜多の武士は自分たちを使っている宇喜多秀家に用心をせよ。」と言う意味を込めている。

そんな、宇喜多騒動への庶民の反応である。




866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 16:57:35.51 ID:xvelVM71
直家時代を考えると本当に悲しくなるな


867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 18:13:36.90 ID:4ai3Vkfb
直家の時の恐怖政治の反動が出たんじゃね
あんな恐ろしい主君に仕えた後じゃ、穏和な秀家をなめきってもおかしくない

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 18:18:37.52 ID:l6fjEoYG
領主としての秀家は割と残念

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 18:55:03.01 ID:xDvUGg8V
>>867
直家は主家や同僚に対してはえげつないが
家臣に対しては普通にいい殿様だぞ

離反した家臣は直家が苦しい時代を支えたいわゆる譜代格が多いから
家臣は国元を顧みない秀家がはがゆく、秀家はうるさく諫言してくる国元家臣がうとましい
それが積もり積もって爆発したのが宇喜多騒動

870 名前: 忍法帖【Lv=12,xxxPT】 [sage] 投稿日:2011/04/24(日) 19:18:37.95 ID:OrbDoNVM
中央集権化を進めようとした藩は多かれ少かれ家臣団と対立してるからね。
宇喜多の場合はそのための官僚団を前田家から来た連中中心に上方で組織しようとしたり、
キリスト教問題が絡んだりしたので、対立の落としどころが無くなって爆発したんでしょう。

仙台伊達藩なんて江戸時代になっても中央集権化できなくて、やろうとしたら伊達騒動で
挫折。結局、幕末まで寄り合い所帯で、意思決定が不十分なまま戊辰でグダグダになる。

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 21:09:01.56 ID:Q3nTHzMJ
>>869
策謀に使った家臣を外聞気にして使い捨てたりしないで功績に応じて厚く報いるあたり家臣にはいい殿だよな

弟者のあれは娘婿たちの扱い見てればある意味当然の警戒だしw

872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 23:25:04.68 ID:iSxkNBar
つーか「いい殿様」じゃないと生き残れないのが戦国

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 23:27:03.85 ID:MCS/5IRz
>>872
鬼武蔵「喧嘩売ってるのか?」

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 23:32:52.87 ID:CbktiT65
武蔵さんも家臣と仲良くやっていた印象がある
上司とも上手くやっていたし

宇喜多詮家(坂崎直盛)と戸川達安、大垣の宇喜多秀家に

2011年04月24日 00:01

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/23(土) 18:50:56.49 ID:QTs71zTs
宇喜多騒動で主君宇喜多秀家と袂を分った宇喜多詮家(坂崎直盛)と戸川達安
彼らは関ヶ原戦役が勃発すると、東軍に属し美濃にまで駆け上った。
と、ここで、旧主秀家が大垣まで出てきている、ということを知り、二人はすぐに
秀家のもとに使者を派遣した。
使者は二人の言葉を伝える

「御家の大事は今この時です。どうか内府公のお味方をしてください!
そう決意してくだされば我々はすぐに江戸までそのことを伝えるでしょう。」

これに秀家は激怒し、使者に言い放つ

「あの両名にこう伝えよ!私に降参しろと言うのは、お前たちに似合いの分別である!
たとえお前たち二人が我が陣に来て首を並べて諫言したとしても、
私は決して思い通りにはならない!
また、重ねて使者をよこすことも無用である!もしまたよこせば、不憫ではあるは
その使者の首を斬って捨てる!」

使者は急ぎ陣へと帰り、宇喜多詮家、戸川達安にこの事を報告した。
秀家の伝言を聞いた二人はしばし考え、そして使者の男に向かって

「すまないがその方、今回の合戦で天晴な討死をすると思って、再び秀家様の陣に
行ってほしい。そしてこう伝えるのだ

『秀家様の仰せには一理あるかと思います。ですが佞人である石田に従われて
御家を滅ぼされるのは、近来になく不本意なことです。
どうか、只々我ら両人に、その御身上をお任せください。』

これをお聴きいただけるまで、再三申し上げるのだ。」

使者は覚悟を決め、再び秀家の陣を訪れ、秀家のこの事を伝えた。

ところが秀家、今度は少しも怒ること無く、この使者を近くまで寄せ語りかける

「両人が昔のよしみから、二度も異見を言って来てくれることは嬉しい。
だが、八幡大菩薩もご照覧あれ、私が内府に属することはない。
この事をよくよく申し聞かせ、二人に承知させよ。
…これは汝に与える。」

と、この使者に刀を与え帰させた。

帰ってきた使者からこれを聞いた宇喜多詮家、戸川達安は、「この上は力及ばず」と、
秀家を説得することを諦めた、と言う。

この話は宇喜多秀家の領地であった備前の国人、吉村氏が語った事だそうだ。
(関ヶ原軍記大成)




849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/23(土) 19:14:51.73 ID:Zki/sycl
内府もこの時点で秀家に寝返られても迷惑だろうな
東軍の諸将に分け与える領地が減ってしまうから
ヘタすると合戦終了後毛利のように因縁つけられて改易食らうかもしれん

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/23(土) 20:14:29.23 ID:d+RVSjSu
848>>
それ、ちょっといい話じゃね?


852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/23(土) 20:30:33.80 ID:X0H5tkue
秀家の聞き分けが悪い話?

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/23(土) 20:36:21.24 ID:7OqboPtY
どんなグロイ処刑されるかと思ってたのに普通にいい話だった・・・

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/23(土) 20:41:52.13 ID:cSwhQj+y
このあと、宇喜多詮家、戸川達安は二人とも宇喜多家を見限って出奔するんだっけか
主君も主君なら家臣も家臣で剛情だのう

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/23(土) 21:10:50.92 ID:KjvW7OM3
関ヶ原前だから既に出ていってるんじゃないの?


856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/23(土) 21:13:04.33 ID:JFEwaJzc
まあ、泳ごうぜ!

857 名前: 忍法帖【Lv=11,xxxPT】 [sage] 投稿日:2011/04/23(土) 21:39:18.31 ID:CD2zk5HC
>>854
見限ってというか、喧嘩別れして出奔したけど、お家の大事を思えば放っておけなかった二人のいい話と、
武門の意地にかけて寝返りなどできなかったが、二人の赤心はちゃんと受け止めた秀家のいい話だな。

宇喜多氏って、坂崎とか滅んでるけど、旗本で残った家とかあるの?

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 00:07:47.15 ID:R33w7FLf
坂崎さんが、後に千姫強奪事件を起こすとはこの時誰も知らないのであった・・・

859 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/04/24(日) 09:02:25.58 ID:Wfvtl/9r
>>857
戸川家、花房家、角南家等は存続してる
まあ肝心の御大将が流罪で生存してるから
元家臣団も他家に仕官なりして存続してる方が
多いんじゃないかな

薩摩に休復と名乗る人物がいた

2011年02月11日 00:00

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/10(木) 14:27:56 ID:9mbnNtWa
薩摩に休復と名乗る人物がいた

休復「琉球とか言う国が調子こいてるみたいだね
許しが貰えるなら俺が凝らしめにいって薩摩の臣にしてやろうか?
分かってるって、島津も徳川から沙汰を待つ身でそんな余裕が無い事なんて
だからよォ、俺達だけでヤってやんヨ!」
そう言うと休復は密かに船を借り自らの家臣と颯爽と琉球へ向かうのであった


その後

船は大風で破損し琉球にたどり着く事なく休復は薩摩にトンボ帰りする

休復「あぁ、なんて俺は不運なんだ何もかもが空しい!!」

こうして休復は琉球征伐を諦めました
めでたしめでたし

『西藩野史』から





因みに休復とは宇喜多秀家が使った偽名




680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/10(木) 14:35:12 ID:T7cOEd3F
どうせ誰かが言うんだから先に言っておこう。
泳いで行け。

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/10(木) 15:58:33 ID:GnXdaISt
秀家元気いいなあw

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/10(木) 20:20:57 ID:YSnkna1A
難破したから泳いで帰ったのではないのか。

宇喜多騒動顛末

2010年10月23日 00:00

955 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/10/22(金) 21:01:41 ID:Jq2pG63p
宇喜多騒動に関する話を一つ。
秀吉没後の1599年、宇喜多家内部で御家騒動が発生した。原因は秀家の素行に問題があったことのほか、
宇喜多家の執政であった長船綱直や中村次郎兵衛らの専横への他の重臣の不満、さらに宇喜多家では
日蓮宗徒の家臣が多かったが、
秀家は豪姫がキリシタンであったことから家臣団にキリシタンに改宗するように命令するに至ったため、
家中で騒動が起こった。
秀家はこの騒動の首謀者を戸川達安としてその暗殺を図るが、秀家と仲が悪く対立していた宇喜多詮家
達安をかばって大坂玉造の自邸に立て籠もるに至り、
両者は一触即発の事態となる。結果的に徳川家康が解決し内乱は回避されたが、この騒動で宇喜多家の
優秀な家臣が居なくなり宇喜多家は弱体化してしまう。
さて、前置きが長くなりましたがここからが本題です。長くなりそうなので分けます。



956 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/10/22(金) 21:27:24 ID:Jq2pG63p
続き
宇喜多家の調停には当初、大谷吉継と家康の家臣である榊原康政が請け負っていた。どうやら最初は
吉継一人だった所に吉継が康政に依頼したらしい。
しかし、これをよく思わない者がいた。康政の主君、家康本人である。何故なら家康としてはこの騒ぎで
宇喜多家が弱体化してくれれば儲けものだからだ。
ここで騒ぎを沈静化させられたら不味いと思い、康政に手を引くように言った。しかしこの板の住人の皆さんも
ご存知の様に三河人は律儀で義理堅いのだ。
康政もこの例にもれず
「男子たるもの、人に頼まれた以上は最後まで問題の解決に努める所存でござる。」とこれを断った。
そこで家康は策を巡らせた。

家康は周りの者に
「子平太は最早、交代の平岩親吉が大阪に入ったにも関わらず居残り、他家の揉め事に何時までも
首を突っ込んでおる。
 これは上手く問題を収める事で貰えるであろう謝礼に目が眩んだとしか思えぬ。」と愚痴る事で康政が
自ら手を引く様に仕向けた。

無論、康政としては単純に頼られた事を意気に感じ、純粋に宇喜多の騒動を収め様としていた。
だが、謝礼目当てと言われては心外であった。そして康政は吉継の下を訪れ、

「役に立つ事無く、半端に引き下がるのは誠に遺憾ですが、金に汚いと言われては武士の一分に関わり申す。」
と礼を尽くして江戸に帰ったという。

こうして取り残された吉継も手を引かざるをえなくなって調停は破綻し、家康自ら裁断を下したという。
以上、宇喜多騒動に関する逸話。長文になり、申し訳ありません。

 



957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/22(金) 21:31:48 ID:V4VGphNs
マスコミによるイメージ戦略みたいだな

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/22(金) 21:36:16 ID:EUbbdrvZ
実際はこれ真逆で、康政が手を引いたために家康が責任持って介入せざるを得なく
なっちゃったんだよね。

家康が権威の確立を考えていたのは確かだが、宇喜多家の弱体化を狙っていた、なんてのは
その後の関ヶ原の結果から逆算した、一種の陰謀論だね。

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/22(金) 21:53:29 ID:Th8MoU92
つか既出のような気も

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/22(金) 21:58:38 ID:C1Yfu4/Q
>>956
確か司馬遼太郎が同じような事書いてたね

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/22(金) 21:59:37 ID:5R8nHzWc
少なくとも日蓮宗対キリシタンという筋書きには無理があるらしいね。

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/22(金) 22:48:35 ID:0VwW8p0i
>>959
宇喜多騒動の調停を大谷吉継が請け負ったというのも
戸川らの秀家と対立した一派が吉継に依頼したということだし、
これ以前の前田利家と家康との対立以降懇意を深めていた吉継を通じて
家康の仲介を求めていた節がある、という説をどっかで見たな

実際、吉継と康政が仲介をしても秀家がどうしても引かなかったために
戸川ら寄りの調停自体が二進も三進もいかなくなっていたし、
秀家が軍隊率いて上方に登ってる以上、家康が出ざるを得なかったと見る向きもある

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/22(金) 22:57:17 ID:+ZYPvPzT
>>962
坂崎出羽はキリシタンだったようだし、少なくとも宗派対立ではないのは確かだろうな。
宇喜多氏の場合、直家の代に被官化したような国人が殆どで、秀家の集権化志向に
反発したという面が強いみたい

宇喜多秀家と矢野五郎右衛門

2010年06月07日 00:01

593 名前:sage[] 投稿日:2010/06/06(日) 20:38:14 ID:9Q28q30v
以前読んだ本にあった話だけどタイトル失念
ウロ覚えの部分はサイト検索で補完して投下してみる

関が原の戦場を脱出した宇喜多秀家公と家臣たち
伊吹山中を北上するうちに道に迷ってしまった
一方、近在の村々には触れが回って腕に覚えのある猟師たちが落武者狩りを始める
猟師たちのリーダーの名は矢野五郎右衛門
そして兵糧も尽きて二日間何も食べていなかった秀家公一行と矢野たちが山中で出会う
身なりを見て「これは大物だ」と思った矢野だったが何やら気後れして手出しが出来ずにいると
秀家公自らが矢野に話しかけた

秀家公「ワシは先の戦の副大将で権中納言宇喜多秀家じゃ。すまぬが湯漬けでも振舞ってくれぬか。
その後であれば引き渡すなり何なりと自由にせよ」
堂々と名乗り、何の気負いも無い自然な秀家公の声音に矢野は圧倒されてしまった
矢野「と・・とても討つことなどできぬ」
秀家公の威に感じ入った矢野は逆に匿う決心をし自分の家の穴蔵に案内した
矢野はリーダーになるだけあって猟師たちから信奉があったらしい
宇喜多一行が潜伏していることを誰も口外しなかった
秀家公と家臣たち数名は40数日間に渡り匿われた
一説によると矢野は元前田家臣で宇喜多家臣、進藤の縁戚にあたる縁で匿ったとも言われている

10月半ば、秀家公を重病人に仕立て乗り物を用意し大坂に潜入
備前宇喜多屋敷で愛妻、豪姫と奇跡の再会を果たす
進藤が秀家公自害の偽装工作をして徳川家の追及を誤魔化しと云うが
その辺りは講談などで美化されてて真相はよくわからない
とにかく秀家公は薩摩に脱出することとなった

矢野に感謝した秀家公は黄金(枚数には諸説あるそうです)を褒美として与えるとともに
「自分が他日、再起したときには必ず訪ねよ」と言って朱印状を渡した
その後、みなさん御存知の通り秀家公は八丈島に流罪となって朱印状が役立つことは無かったのだが
矢野家では大切に保管し秀家公の高貴な人柄を子孫に語り継いで行ったそうだ


話が出来すぎてる?
そりゃ子孫フィルターで多少の美化はあるだろう
だが全くのデタラメでない証として「朱印状」は現存しており
八丈浮田家と矢野家の子孫は今でも交流があるそうです

以上、中納言様が泳いで参ったら仕官するはずだった男の話