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先を越されて宿割をされた事

2021年08月04日 19:11

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/04(水) 16:47:42.11 ID:l4zrfRRo
朝鮮出兵により上杉景勝公が肥前名護屋へ向かう途中、芸州宮島にお泊まりという時、
陣場奉行衆に安田上総介(能元)を添えて、その準備のため先に宮島に参った。
総じて備大将衆が一組ごと順番に、陣割衆と両組にて先行し、陣場を準備して待つという
作法である故に、このようにされたのである。

ところが徳川家康公の御人数の宿割衆六、七百が、宮島の能き町を選んで既に
宿札を打っていた。これに対し安田らの衆は徳川の衆に向かい

「宮島に入るのは景勝の次に家康公であったのに、先を越されて宿割をされた事、
思いもよらぬことだ。あまつさえこの町の能き所を既に選び取っておられる。
それらを早々に明け渡して頂きたい。そこに景勝が本陣を打ち申す!」

これが口論となり、双方既に衝突しようという様子になったところで、
藤田能登守(信吉)、彼はいつも先陣であったので早くも追い付き、中人(仲介人)となって
双方の間を取り繕った。

「家康公の衆を残らず追い立てるというのも現実的ではない。だからと言って先陣である上杉勢の
本陣を立てるべき場所に、後陣の衆が先立って取り堅められているのを、そのまま黙認してしまうのは
大法に背くものであり、また景勝の宿割の者達への不調法にもなる。

そこで、景勝本陣と近習の陣所となる場所だけを明けて頂きたい。その場所の徳川勢の衆は、
軍陣に赴いている以上、後に下るのは不吉であり、先に進むのは吉事でありますから、繰り上げて
先に陣所を取るのが尤もであると存ずる。その他の徳川方の衆はそのままここに陣取られよ。」

これに対し、家康公の御内衆である村越茂助などを初め、その場に参っていた者達が相談し、
この提案を受け入れこの場は無事に相済んだ。

この事は後で家康公も聞き召され、藤田を御褒めになり、配下に対し「重ねてこのような事が
無いように。」と堅く仰せ付けられた。そして名護屋に到着すると藤田方へ、永井右近太夫(直勝)、
大久保七郎右衛門(忠世)の両人を使いとして仰せ下さり
「その方の取り持ち故に、我が方の者共は面目を失わずに済んだ。」
との事であった。

この事は、後に永井右近太夫殿が夏目舎人に直に語られた事である。また大久保七郎右衛門殿も
舎人に語られた事であり、相違無い。

管窺武鑑



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その方の被官を仕置したため、梟首

2021年08月01日 17:17

889 名前:1/2[sage] 投稿日:2021/08/01(日) 13:13:10.34 ID:rsFX6Ceo
小田原の役の時、上杉景勝の越後勢は碓氷峠を越えると、真田、蘆田ら信州衆の先に在る坂本に入った。

この時、越後勢において藤田信吉の相備えであった甘糟備後守(景継)の小荷駄の牛が放れ、
真田の陣所の馬草を食った故に、その牛を真田方へと奪い取った。
備後守はこれを聞くと、藤田に「この牛を取り返さなければならない」と相談した故に、藤田の方より。
先ずその牛を取った者の方へ使いを遣わし、

『此の方の小荷駄に付けた人夫が牛を取り放し、そちらの陣内に参ったのを捕らえ置いていると
言う事だという。こう言ったことは互いに有ることでもあり、お返しして頂きたい。』

このように藤田能登守が申したことを、夏目舎人方より申し遣わした。
ところがその者の返事に

『牛はこちらには参っていない。例え参ったとしても、そちらの作法が悪くて他陣に参った牛なのだから、
これを取っても苦しからぬ事であるのだから、返さないだろう。況やこちらには参っていない。』

と申し越したため、甘糟は「ならば無理にでも押し入って取り返すべし!」と申すのを、藤田が
これを抑えて、真田方へこれまでの経緯を申し遣わした所、執り成しの者よりの返事に
「安房守(昌幸)は散々の虫気(腹痛)にて臥せておりますので、その事については後ほど申し聞かせます。」
と申し越してきた。

このため藤田も立腹し、「牛一疋の事であるが、天下の大事である!甘糟も牛を奪われては堪忍ならず、
堪忍成らねば押し込んで取り返すべし。その時は真田は返し兼ねるであろうから、我らは真田を
踏み潰すより他無い。その所を分別できないような真田では無いはずだが、我々を浅く見てこのような
態度をとっているのだろう。この上は私が切腹に及んだとしても是非もない。押し入って取り返す!」

そして組中に触れを出したが、その内容は『物頭・物奉行の他は、刀脇差を初め刃物の携帯は無用である。
棒を持つように。』との事であった。

これは景勝公の御耳にも達し、「藤田の申し分尤もである。真田どもを一人も残さず踏み殺すように。」
と、加勢を仰せ付けられたが、「彼程度の者を殺すのに、藤田は加勢を請たのだ、などと言われるのも
如何かと思います。藤田の組中だけでやります。」と仰せられたのであるが、侍大将衆より若者共を
忍んで差し添えたという。

藤田の備え九千余り、何れも素肌(甲冑をつけない状態)になり、刃物を持たず、棒二、三本ほどを
腰に差し、手に持って真田陣へと押し寄せた。

そのような所に丁度、佐野天徳寺が景勝公見廻りとして坂本の町に参っており、真田は彼に景勝への
詫言を頼んだ。佐野天徳寺が藤田に会って申された
「真田は牛を取った本人一人を成敗すると申している。これで堪忍致されるように。」

藤田は同心申さなかったので、天徳寺は先ず真田陣へと向かう人数に、何れにも説得してその場に留めた上で、
景勝公に対面されて、直に真田よりの詫言を伝えた。これに対して景勝公は
「私が少しも関知する事では有りません。きっと藤田の覚悟なのでしょう。その事は藤田に仰せになって下さい。
関知しない事ですから、私が下知するわけにもいきません。」と仰せに成られた。

故に天徳寺はまた藤田の元へ行って申した、「景勝公さえ関知していない事なのだから、堪忍されるように。」
これに藤田は「この事のそもそもは、甘糟備後から起こった事であり、それは備後に仰せ聞かせて下さい。
私はともかくも備後次第です。」と申した。

故に甘糟の元に行って仰せられると、甘糟の返答は「私は切腹するしか無いと思い極めての事であり、
この件を起こした本人一人ばかりにての御詫言では承服出来ません。牛を取った本人の傍輩は申すに及ばず、
その主人と、また藤田方より真田方への使いの時、虫気に返事をした取次の者、これらを我が方へ渡し、
真田昌幸がここまで出て降参を仕れば、これほどに思いつめた事ではありますが、和尚様の御詫言もあり、
又合戦前でもあるのですから、堪忍いたします。」と、天にかけて誓った。

890 名前:2/2[sage] 投稿日:2021/08/01(日) 13:14:26.83 ID:rsFX6Ceo
天徳寺は真田方に戻り、様々に申し繕われた事で、先の三ヶ条の内、虫気の返事は真田昌幸自身が
申したことであったので、実行することは出来ないと、天徳寺よりまたこれについて御詫言があった。
残りの二ヶ条は甘糟の望み次第に任せるとの事であったので、藤田はたって甘糟に申して、彼に
堪忍させた。

天徳寺はこの事を真田に伝え、そうしてあの牛を曳かせ、牛を取った科人、その主従八人、
そのうち本人には縄をかけ、残る七人を放囚人にして、刀脇差を差させ、真田家家臣の丸子が同道して
召し連れて参った。甘糟はこれを請け取り申すべしと望み、自分の家臣の豊野伝左衛門、五十嵐十助などという
覚えの者十人を申し付けた。藤田方よりは検使として増毛田島、夏目舎人が出た。

両人、丸子と挨拶仕る内に、縄をかけた本人を、甘糟の小者である伝吉という者に請け取らせ、
残る七人の放囚人を、甘糟の衆が請け取りに出た時、七人の者共、一度に刀を抜いて斬り掛かってきた。
あの科人の主人は、増毛、夏目、丸子が相談している所に斬り掛かった。増毛は老功であったので、
その方を見向きもしなかった。夏目組の伊藤太佐衛門が立ち会い、この者に刃向かい、脇から
かの者を組み留めた。
その他の六人の放囚人の内、三人は即刻成敗し、三人は豊野、五十嵐、上坂藤兵衛、并びに舎人組の
者共が組み留め、主人共に四人を生け捕った。
藤田旗本の神保五左衛門も、この時甘糟に色々申して請取手に出、放囚人一人を斬り留めた。
神保も含めて味方十一人、真田方放囚人七人を請け取った様子は、このようであった。

さてまた、天徳寺が同道して、真田安房守(昌幸)は半途(両陣の中間)まで降参に出た。
この場に藤田、甘糟も出て、先に生け捕っておいた五人を安房守の眼前に引き出し成敗し、
一礼して帰った。その後科人八人の首を真田陣前に獄門に梟け、札を添えた。ここには
真田方への口上として『その方の被官を仕置したため、梟首した。』と断りが書かれていた。
故にさすがの真田と雖も、これを取り捨てることは出来なかった。

管窺武鑑

最初は甘糟景継が怒ってるのを藤田信吉が間に入って穏便に済ませようとしたのだろうけど、
相手の態度が気に入らず余計こじれているのがまた



891 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/01(日) 16:17:59.07 ID:KEXzl7pS
私のために争うのはモウやめて!

     AA
  /⌒▼⊂・・つ
*~L● ( (_ω)
  UU~UU

このような虎落一重二重にて

2021年07月31日 16:55

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/31(土) 15:20:33.79 ID:/kVgA5gC
小田原の役が始まり、関東へ向かう上杉景勝勢が途中、信州上田を押し通った時、
真田が申し付けたと見え本来、本街道は上田の町を通っているのだが、景勝の憎しみを受けている
真田であるので、定めてその下々が上田の人々に対して狼藉をすると考え、新道を本道の北の方に
造り。本道には虎落(もがり・竹を組違いに組み合わせた柵)を置いて封鎖していた。

この時、藤田信吉が先手としてここに行き当たったため、これを見て怒り言った

「真田の分際で、景勝公をこのような虎落一重二重にて防げようか!
たとえ鉄の柵を並べて籠もったとしても、我々に向かって来るのであれば、どうして踏み殺さないで
済むであろうか。しかり秀吉公が様々に詫言されたために、景勝公は真田の命を助け置かれたのだ。

そもそもこう言った機会を幸いと思い、自身は出陣していても、留守居に申し付けて我らに御馳走を
するという気概も無く、自身の臆病な心に引き合わせ、この機会に仇を討たれるのではないかと
景勝公について推察するとは。

我が方より、弓矢の習いに従って行動するのは格別である。然れば本道を避けて脇道を通るというのは
弱みとなる。」

として、真田方が拵え置いた柵木を引き倒し虎落を蹴散らして、上田城下の本道を押し通り、
一人も新道へ向かった者は無かった。

管窺武鑑



880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/31(土) 15:49:21.44 ID:e48q9Pkk
昌幸の仲介で沼田城明け渡して北条から武田に鞍替えしておいてこの言い草

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/31(土) 16:35:21.17 ID:hE2IjCkN
あれ藤田って関ヶ原直前の上杉征伐のきっかけ(もちろん家康の仕込みだろうけど)作ってなかったっけ?

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/31(土) 16:59:20.79 ID:e48q9Pkk
>>821のように管窺武鑑では藤田信吉は上杉家の忠臣扱い
なお信吉のもともとの姓である用土氏は藤田氏の分家なのに
管窺武鑑では、
藤田康邦が北条氏邦に藤田氏の家督を譲ったのちに用土氏と改姓し、幼い信吉を残して頓死した
つまり藤田信吉(用土新六郎)は藤田氏の嫡流である、と捏造している疑惑が

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/31(土) 17:43:18.51 ID:77g1fQyy
景勝時代の史料は捏造疑惑が多いな

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/31(土) 18:27:43.62 ID:LiriPFef
この資料の信憑性は置いといて
これらの逸話通りだと藤田は方々に仕えて重用される辺り有能ではあるんだろうけど
人柄的には些か難があるような

885 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/31(土) 19:53:23.48 ID:a1YBs5Gx
景勝への悪評の元ネタである奥羽永慶軍記こそ、その信憑性ってやつが・・

能州の武士道の吟味、諸人の勇気を励ます事、

2021年07月22日 17:08

326 名前:1/2[sage] 投稿日:2021/07/22(木) 09:42:43.72 ID:moX1rXdG
天正13年三月二日、藤田能登守(信吉)の家来で武笠藤兵衛という武士が、春日山下町において
上杉景勝公の御小姓衆と喧嘩を仕出した。武笠は郎党と二人で相手を三人斬り殺し、五、七人を
追い散らして町家の奥へ走り入り、小座席口のある所に取り籠もり、主従にて両口を堅めた。

この事を藤田の衆が聞いて駆けつけ町家を取り囲んでいた所に、奉行衆の者共も来た。
夏目舎人助も駆けつけ、様子を聞くとこれこれと説明された。
これに舎人助は
「他所の者が取り籠もったとしても、行きがかりの上は、状況によるにしても、見物で済ませるなど
出来ないことだ。況や藤田配下の者であり、手遅れして奉行衆の者に身柄を取られては名が廃る。」
と言って、その近隣にて木刀を一本取って差し、表口より押し入った。

籠もっていた者一人が「待ち受けたり!」と言って、飛び懸かって打ってきた太刀を受け止め、
引き組んで押し倒し、「取りたるぞ!」と言葉をかけた。そこにもう一人の取り籠もった者が
助け懸る所に、荒川山三郎という者が裏口の方に居たが、舎人の声を聞いて「先を越され口惜し」
と言うと裏口の板戸を蹴破り飛び入った。先のもう一人の男は、舎人に組まれた男を助けるのを止め
荒川に向かった。荒川も刀を抜かず、二尺余りの木刀を持ち、一つ二つ打ち合うと引き組んだ。
そこに、これも裏口から、彦部勘左衛門という者があったが、彼も荒川の跡に続いて押し入った。
荒川は早くも相手を組み伏せていたため、彦部は舎人の方へ助けようと駆け寄ったが、舎人は最初の者を
踏み伏せ、首に刀を当てて縄をかけた。

この様子を見て、また荒川の方を助け取り堅めたが、荒川は太刀、大脇差で、しかも抜けず、
科人の抜いたものは刀で、腰に挿していたのは、これも二尺ばかりの大脇差であったので、組んだ時の
役に立たなかった故、運の勝負を極めかね、剰え、上になり下になり、雌雄決し難く見えたため、
彦部は荒川を助け、共にこれを捕り固めた。

これらの科人のうち、舎人が絡め捕らえたのは下人で、荒川が捕らえたのが、主の武笠であった。
両人の大小を取り、二人の囚人を先へ遣わし、舎人はその後、春日山三の曲輪の藤田屋敷に帰った。

327 名前:2/2[sage] 投稿日:2021/07/22(木) 09:43:34.85 ID:moX1rXdG
然るに翌日、兼ねてからの約束にて藤田宅に、直江山城守(兼続)御近習の丸田周防、横目付の
山上三郎左衛門、その他五、七人が招待された饗宴があり、その場でかの武笠の喧嘩の事を語り、
最も無道にて重科であるとして、斬罪に決められた後、夏目舎人、荒川山三郎彦部勘左衛門
三人と、藤田の下の隊長・奉行が呼び集められ、これらの前で、藤田能登守が、かの武笠主従二人を
召し捕った事についての批評を述べられた

「今度の三人の働き、舎人助が第一、荒川が第二、彦部がその次である。
大勢押し寄せた中、一番に励んで押し入った性根は勝れている。相手は下人であったが、それは外からは
知り難かった。小座敷の両口を二人で堅めているというだけで、どちらに武笠が居るか知り難かった。
押し入るとそのまま楯突く者を相手にするとなれば、たとえ二人の者共が一所に立ち並び斬り向かったと
しても、少しも臆するような者だとは思われない。生死は運による事なのだから、たとえ討たれ斬死しても、
抜きん出た志は無類の誉れである。

荒川は主の武笠と組んだので、その功は上と言われるだろうが、常の作法とは吟味が違う。
常の法であれな、主従高下は遥かに隔たり、その状況での働きであれば、主を討ったものを上とし、
下人を討ったのを次とする。これは戦場、野合の場合である。それであっても、その場その時の緩急難易の
違いはある。殊更今回、主従の居所が解らなかったため、押し入った志の次第を吟味するに、
荒川は「舎人が組みたるを」という言葉を聞いて飛び入った。尤も荒川も心が臆していたわけではない。
待ち構えている所に、舎人が踏み入り、下人を取り詰めたのを、武笠がこれを助けようとした時に、
荒川に飛び入られて動転した所を、荒川は引き組んだ。舎人の働きほどではないが、普段から
「天晴人に劣るまじ」と心に油断無き故に、舎人に続いて間断なく押し入った故に、武笠も下人も
助け合う事が出来なかった。然れば第二の働きである。

彦部勘左衛門は、荒川が組み漏らさないとする所を助けて、取り堅めた事、勝負の結果の働き、
尤もの事である。であるが、舎人、荒川両人にて二人の者を組み、彦部には逢い手が無かった。
しかし荒川に劣らず急いで押し入った事であり、分別に於いて遅き心根では全く無い。今少し早ければ
必ず武笠と組んでいただろうが、それは荒川に越されたと言うだけである。一方で遅ければ、荒川は
禍に遭っていたかも知れず、それを助けたのは良き心繰りである。

さてまた、舎人は相手を一人で取り堅めたが、荒川は取り堅め難く見えるを以て、彦部はこれを助けて
ようやく両人にて取り堅めた上に、大勢が重なって刀脇差を奪ったという。荒川以外が太刀を打つのは
武士道不穿鑿である。

舎人の相手は舎人より力がなかった故に、抑えて縛ることが出来た。
荒川は武笠と力量が同じくらいであり、そのため取り堅めかねたのであろう。
人の力量は勇臆で異なるわけではない。その場その場の様子を以て、志の浅深を穿鑿して、勇の上中下を
定めることが尤もであると、私は存じている。各々は如何思し召すか。」

と申されると、一座の衆も、尤もと感じ入られた。この事は景勝公のお耳に達し、藤田を召し出され、
「少しの事にも、諸人が勇むように、善悪を能く批評して、勇怯を正しく穿鑿仕ること、偏に忠勤の
志浅からず。」と、呉服十重を下された、そのうち三重を舎人助に、二重は荒川に、一つは彦部に
配分された。能州の武士道の吟味、諸人の勇気を励ます事、このようであった。

管窺武鑑



328 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/22(木) 10:07:29.15 ID:3kVbbLt2
>春日山下町において上杉景勝公の御小姓衆と喧嘩を仕出した。武笠は郎党と二人で相手を三人斬り殺し、五、七人を追い散らして


最低でも景勝の小姓衆は8人は居たわけだけど、年端も行かない前髪だったとかで主従2人の武笠に遅れを取ったのかな?
8対2で遅れを取るって相当だけど小姓衆の顛末はお咎め無しだったのだろうか?また、喧嘩に至った発端も気になる。

花の慶次で景勝の小姓13人が慶次1人に全滅させられて、13対1で遅れを取るとは何たる醜態と兼続から評されてたけど、実際この事件で生き残った小姓衆も面目が立たない希ガス

藤田信吉の死について

2021年07月07日 17:06

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/07(水) 15:42:50.13 ID:t+nBfVAN
藤田能登守(信吉)は病気によって、信州諏訪で湯治をしたいと望み、執権の方々へ暇を請い、
江戸より信州善光寺へ行きそこで越年し、春になって諏訪で入湯した。
ところが三七日(21日)の後、腫気黄疸の症状が出て、煩悶セイ仲(持続的に起こる動悸)の
症状も加わった。それ故に、京へ上り養生を加えるべしとして、中山道を経て上ったが、
同国犀川と屋護原の間、鳥居峠の麓、奈良井にて、病は重篤に至り、医術応ぜず、
元和二年七月十四日に卒した。(五十九歳)

俗名藤田能登守従四位下平信吉、法名休昌院一叟源心居士。
奈良井の禅寺にこれを葬った。

嗣子無き故、今の水戸頼房卿の下に、私(著者)夏目軍八定房の兄に、吉江藤左衛門定景という
者があり、能登守は内々に彼を養子にしたいと考えていたのであるが、その事を未だ執権(幕府重職)に
伝えない内に卒去してしまった故に認められず、能登守の西方の領地は召し上げられ、家は断絶した。

管窺武鑑

藤田信吉の死について。これについては自害説もあるようで。



これは上杉家に対しても、忠と申すべきであろう

2021年06月24日 18:16

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/24(木) 13:47:00.23 ID:7F1zvHgc
関ケ原の御勝利後、家康公は上杉景勝公との和睦を調える事についての内談を行った折、
その上杉家を出奔した藤田能登守信吉は申し上げた

「上杉家は、越後以来代々の風儀正しく、たとえ滅亡に及ぶと雖も、弱みを見せて降参など
仕ることはありえないでしょう。
天下一統の御威光がありますから、終には滅亡するでしょう。ですが、よほど本気で懸らなければ、
すぐには滅ばないでしょう。」

この言葉により、家康公より呼びかけての御和談となった。
尤も景勝公は小身になられたが、家は絶えず、子孫長久となり、これは上杉家に対しても、
忠と申すべきであろう。

(管窺武鑑)



藤田信吉、沼田城を

2011年05月09日 00:00

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 01:30:00.26 ID:CWGiIk4L
天正10年(1582)6月2日、本能寺の変、起こる。

この報は6月9日、上野国厩橋城の滝川一益にも届いた。
俗に滝川一益はこの報を関東諸侯にありのままに伝えた、などと言われるが、
実際にはひた隠しに隠し、本能寺の風聞を聞き信長の安否を尋ねた上野の国人に
『京都の情勢に別状はない』との書状まで出している。

が、このように関東にも風聞としては既に広まり、6月11日には一益がこの事を
最も知られたくない人間、北条氏政も知るところとなった。
ちなみに氏政、翌12日には大喜びで国内に動員をかけているw

が、信長の死によって関東情勢も流動化する中、最初に一益への反乱を起こしたのは、
北条ではなくかつて北条も裏切った男、藤田信吉であった。

彼は沼田城に押しかけ、そこの城代をしている滝川一益の甥、滝川義太夫に対して迫った

「俺の城を返せ!」

義太夫「(;゚Д゚)ハァ?」

これには滝川義太夫もさすがにあきれ果てた。何故なら、沼田城が藤田のものだった時期など
一瞬とてなかったのだ。

確かに藤田は北条時代から武田時代まで、この沼田城に詰めていた。
だが北条時代は北条氏邦配下としてであり、武田時代は真田昌幸の配下として、沼田城代
矢沢綱頼の与力として、それぞれ守将の一人として勤務していたに過ぎないからである。

滝川義太夫はこう返答した

「そもそもこの城は、真田昌幸殿が我らに明け渡したのであるから、返せというなら
真田殿に返すのが筋である。少なくとも貴殿に返せと言われる筋合いはない!」

全くもって正論である。が、藤田はそんな正論に聞く耳を持つような、可愛げのある人間ではない。
彼は密かに越後の上杉景勝と連絡を取り、その支援を得て軍勢を集結、沼田城に攻め寄せ
たちまちのうちに水曲輪まで乗っ取った。

が、この時は未だ関東の滝川勢力は健在であった。義太夫からの報告でこれを知った一益は
6月13日、早速軍勢を率いて押し寄せる。藤田は滝川の大軍に沼田城攻めを諦め、越後の
景勝の元まで逃げた。

情勢の変化をいち早く見抜きいち早く行動しいち早く失敗した、ミスター上野国人、
藤田信吉と本能寺の話である。




88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 02:37:11.47 ID:tBaDcalj
関ヶ原の時といい急時になると元気な奴だな

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 08:43:51.60 ID:4jEqj5/V
そして、素早いだけで行動自体は空回りのあたりがなんとも

90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 08:58:54.30 ID:iz42pG+B
藤田さん、いち早く勝ち組についたのに何故か改易されてる。よくわからんな
目端は利くけど保身がヘタクソなというか

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 13:47:30.50 ID:Yxzp1z0j
>>90
大阪の陣の時に軍監権限でかってに軍を止めて藤堂井伊隊を見殺しにしかけて改易。
逸話見るに有能だがかなり身勝手な人物だったのかね

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 20:05:58.27 ID:eAI+U6WX
育ちが複雑だからなんとか一旗上げたくて空回りしてたのかなあ

余談だが藤田信吉のwiki、「歴史小説「戦国大乱」などでも奸物として描かれており~」と書かれててワロタ
それ歴史小説じゃなくてシミュレーション戦記(しかもスットコ超大作)…

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 23:06:31.09 ID:EU92LFgI
信吉は何の後ろ盾もない状況から、よく頑張ったと思うけどなあ

あと信吉に限ったことじゃないけど、wikiの作品の項目にゲームや漫画を載せるのも自重してほしい…

藤田信吉と北条氏邦

2011年04月18日 00:03

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/17(日) 08:21:54.63 ID:tF1cXnKq
関東管領山内上杉家の家臣、藤田康邦は、北条家の勢力の前に、ついにその軍門に下った。
北条家に下るにあたって、二人の息子がいたが、氏康の子・氏邦が姉の夫として婿養子に入った。
康邦は居城から退去し、長男は氏邦に毒殺されたと言われる。二男・信吉は恨みを抱えて武田家に寝返った。

時は流れて天正18年。信吉は再び旧領に姿を現す。
小田原征伐に際して、上杉家の先鋒として藤田(北条)氏邦が守る鉢形城に攻め寄せていた。
氏邦もよく守ったが、最終的には豊臣軍に降伏することになる。

このとき、父を追い、兄を弑した氏邦に対して信吉は何を思っただろうか。
未だに憎しみを持ち続けていたか、あるいは時がその感情を和らげたか。

氏邦は剃髪することで助命され、前田家の預かりとなった。
前田利家の助命嘆願があったといわれるが、信吉もまた助命を願ったとも言われる。




24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/17(日) 08:41:20.82 ID:eGQNx2oN
あの藤田信吉さんかぁ・・・