黒田と細川が不仲に成ったわけ

2015年09月19日 12:28

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 21:03:25.49 ID:Vnj4IQdC
稲葉丹後守が諸侯を饗応したことがあった時、細川越中守、黒田筑前守を上座と定めてた。
その当日に至って、取持ちの一人が気づいて言った

「細川黒田は代々音信不通の間柄である。今日の対座、如何すべきか…」

そう評議している所に「両家が到着された」との知らせがあり、ともかく上座へと案内したが、
それから膳部など出たものの、互いに挨拶もなく不興のままであった。

両家がこのような関係になった理由は、島原の一乱にあったという。
この時、細川黒田の両家とも江戸城において出陣の命を蒙ったが、細川家より黒田家に相談があった

「これより直に出立すべきだろうか、それとも一旦帰宅して、それぞれの用意をして今日中に
出立すべきだろうか?」

「我々はひとまず帰宅して夫々の準備をし、出立しようと考えている。」

そう云うので、細川は屋敷に帰った。ところが黒田はそこから直に品川へと出るので、
家来たちに直ぐに品川に駆けつけるようにと命じ、品川に出ると餅の類、その他携帯に便利な食料を
みな買い取って出立した。

その後にやって来た細川家は、既に黒田家が出立していることを知ると、急いで後を追ったものの、
終始追い付くことは出来ず、その上黒田の大人数が、行く先々で食物を皆買い切ったため細川家は
大いに差し支えたという。そして島原に着いても半日出陣が遅れた。

これより両家は不快の仲になったという。しかし近年、和解したそうである。

(明良洪範)

細川家と黒田家の仲が悪いことについて、江戸時代にはこういう説も在ったらしい、というお話。




336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 22:33:14.89 ID:AN7xn6ev
食い物恨みかよ

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 23:11:07.16 ID:X61MWy+V
細川家のあとに出立した家は大丈夫だったのだろうか、とマジレスしてみる。

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 23:14:25.97 ID:dvVVq3zU
一緒に走ろうねって言って裏切るのと同じやな あるある

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 23:26:57.69 ID:xuujyMtY
こういう補給のことを全く考えずに出陣を下命すればそれで終わりっていう幕府が無能なんだよな。
現代の感覚で言えば

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 23:55:50.68 ID:AN7xn6ev
あほなの?

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/19(土) 02:06:03.87 ID:+P7FxBVx
お前がね

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/19(土) 02:41:04.79 ID:vrpbk1yq
細川くん「テスト勉強した?」
黒田くん「いや全然してない(ほんとはめちゃくちゃしてる)」
テスト前の高校生かよ

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左文は、剣術は名人だが

2014年09月10日 18:58

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/10(水) 01:49:57.32 ID:OGA+UiPN
黒田忠之の家士に林田左文(左門)という者がいて、戸田流の剣術の名人だった。
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3278.html

彼は足軽20人を預かっていた。ある時、その足軽のうちの6人が一味して人を
殺し、出奔した。この時、左文は馬に乗って馬場にいたのだが、この事を告げて
来たので、左文はこれを聞くとそのまま馬を飛ばして追い、

たちまち足軽たちに近付いた。足軽たち一同は立ち止まって左文に向かい、
「我々は他国へ参っても、追い付かれたと申すつもりはありませんので、御身様に
おかれても追い付かなかったということにして、ここからお戻りください。さもなくば、
敵対いたします」と、言った。

左文は静かに馬から下りて「私がここまで来たのは、お前たちを捕らえて帰り、
必ず処罰しようと思ってのことではない。是非を糺すためである。いざ来たれ」
と言った。6人の足軽は無言でいたが、やがて1人が刀を抜いて切り掛かった。

左文は抜く手も見せず、その者を即時に切り倒した。そして「皆々騒ぐな。
この者は敵対したので、止む無く切り捨てたのだ。敵対せぬ者をどうして切る
ことだろうか。早く来たれ」と、言った。

すると、また2人が切りかかる。左文は「はてさて、愚かな奴だな」と言いつつ、
2人とも切り倒した。残りの3人は一同に抜き連なって掛かったが、左文は1人を
切り捨て、2人に怪我を負わせた。これは6人一同に掛かってくれば面倒であろう
と思い、静かに言葉をかけて、6人の者の覚悟を決めた気を緩めさせたのである。

さて、左文は手負いの2人をその帯で縛り、乗って来た馬に乗せ、自らその馬を
引いて帰った。これにより「天晴れの者である」と言って、筑前の士の多くはこの
左文の門人になった。

ところで、馬爪源右衛門という鉄砲の名人の士がいた。鉄砲の他にも総じて武芸を
好んだ者だったが、彼は左文の門人にはならず、諸人がその理由を問うても、ただ
笑って答えなかった。その後、左文は罪あって刑せられた。

その時、源右衛門は親や数人に「左文は、剣術は名人だが、その性質は大奸邪だ。
ゆくゆくは何事を仕出すかも計り難いと思って門人にはならなかったのだ。師弟に
なった時に、もしも『奸曲に組せよ』と言われて組しなければ師に背くし、組すれば
主君に背くことになる。これが“愚者も千慮の一得”である」と、笑って語った
ということである。

――『明良洪範』



192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/10(水) 19:46:54.76 ID:dPTJdtfR
>>185
そういう落ちか
なんだこいつ意味が分からない…と思いながら読んでたが

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/10(水) 20:00:31.37 ID:speW8beY
>>185
山田風太郎がこれを元に「妖剣林田左文」
って小説を書いてたな
栗山利安がしょうもない死に方してた覚えがある

これより両家は不快の仲となったのである

2014年09月03日 18:52

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/03(水) 00:37:37.74 ID:BVaVGKK7
稲葉丹後守(正往か)が諸侯を饗応することがあった時、細川越中守(綱利か)
と黒田筑前守(綱政か)を上座と定めなさった。

既にその日になって取持衆の一人は気付いて、「細川と黒田は代々音信不通だ。
今日の対座はどうしたものだろうか」と申し、評議する間に、両家ともに入って
来たと申すので、上座へと案内した。

それから食膳などが出たけれども、互いに挨拶も無く不興だったそうである。

その理由は島原一乱の時にある。細川と黒田は両家とも出陣の命を受けた。

細川(忠利)が「これから直ちに出発いたすべきか、帰宿して出発いたすべきか」
と言って相談になり、これに黒田(忠之)は「ひとまず帰宅いたして、それぞれの
用意をし、今日中に出立しよう」と言うので、その約束により細川は屋敷へ帰った。

すると黒田は「これより直ちに品川へ出るので、家来はすぐに品川まで駆け付けよ」
と申し、直ちに品川へ出て、餅の類やその他便利な良い食物を皆買い取り出発した。

その後で細川がやって来て聞いたところ、「黒田は先刻出立した」と申したので、
それから細川は急いだけれども、始終黒田の後になった。かつ黒田の大人数が
先々で食物を皆買い切るため、細川は大いに差し支えがあったということである。

島原へ着いても半日出陣が遅れ、これより両家は不快の仲となったのである。
しかし、近年和親になったとのことだ。

――『明良洪範』



118 名前:117[sage] 投稿日:2014/09/03(水) 01:55:56.69 ID:BVaVGKK7
>>117
本筋に関係ないけど「便利な良い食物」じゃなくて「便通に良い食物」
と解釈したほうが正しかったかもしれない。(餅類其外便利能食物)

黒田長政の教育方針

2014年06月07日 18:55

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/06(金) 20:58:52.46 ID:WQc45Zw+
黒田忠之が幼少の時、父・長政は介保として林五介を付け置いた。

長政より五介のに与えた書状には

一,飯の食いざま以下、しつけ方については権之丞(岡本秀広か)に習わせるように。
一,手習いに油断の無いように。文面が届いたら私自身が見届ける。
一,読み物のこと、論語についてはもう済んだそうだから、そういう事なら
  大学でも三略でも読ませるように、吉祥院に申し遣わしておいた。
  法印が患っている場合は等寂がしかるべく行うであろう。五郎大夫玄春でも構わない。
  そのあたりは法印と相談するように。
一,しかし法印に祈念祈祷の事を学んでは、必ず悪しきことと成るだろう。
  成人した後仏法を聞き、禅を悟り生死を分別することは武士にとって肝要なことである。
  だが、身の過ちから逃れようと、自身で数珠を振り神仏に宿願し、
  巫女や山伏の様になってしまっては、散々のことである。
一,論語は、私の赤表紙の本を読んだのであるから、本の破損などについて言わなくて良い。
  孟子も写本しておいた。大学・中庸は今度林道春より、写し終わり次第こちらに贈ってくれる。
  七書は前から我家にある赤表紙でいいだろう。
一,盤上の遊びは固く禁ずる、その他は如何様にも、お前次第で遊ばせ、心が縮こまるような事が
  無いようにせよ。

しかし黒田忠之が幼少の頃より、長政は様々に心を用いた教訓などは、
全て役に立たなかった。事多ければ、漏れてしまうのである。
(此外忠之の幼少より、さまざま心を用ひ給ふ教訓ども
あげて計ふべからず。事多ければもらしつ。)
(黒田家譜)

黒田家譜より、長政の教育は役に立たなかったよ、というお話し。






465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/07(土) 09:54:18.22 ID:c49uaYUC
461は最後の解釈が間違ってる気がする。
「長政が忠之に与えた教訓はいろいろあるけど、一々取り上げない。省略する」
という意味だろう。

466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/07(土) 13:04:43.71 ID:eoM9LEc5
そうだね、
あげてかぞうべからず、だし
いちいち数えてられない、てことか

467 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/06/07(土) 19:31:58.81 ID:MvLAcy23
忠之に良い逸話って無いの?

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/08(日) 12:00:20.24 ID:FEO+qID0
>>467
そういや見たことがないな…
黒田騒動のインパクトが強すぎるのかな

黒田忠之・出生の秘密?

2011年07月31日 23:01

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/31(日) 01:12:23.06 ID:OFnW17nu
黒田忠之と言えば、黒田如水の孫であり、黒田長政の嫡男である。
長政死後に筑前太守となったものの、家臣団と衝突を起こし、
筆頭家老の栗山大膳に嘘の謀反を訴えられるという黒田騒動の主役の一人である。

忠之は長政が筑前に入封して後、継室である栄姫との間に生まれた子である。
のだが、この忠之の出生について"一部で"こんな異説が伝わっているらしい。
忠之誕生の時、長政は三十五歳、娘が一人いるものの、男子に恵まれず、
加えて彼のたった一人の弟は数年前に事故死しており、
とにかく黒田家には世継ぎが待望されていた。
そこで栄姫の懐妊が発覚するのだが、今度こそお世継ぎの誕生かと盛り上がる黒田家、
「次も女子ならば捨ててしまえ」とまで言い出す始末。
ところが、栄姫の産んだ子は女の子だった。
家中ではお世継ぎの誕生が切望されている。
困った栄姫、側近たちに同じ日の生まれた男の赤ん坊を探させます。
すると、ちょうど同じ日に箱崎の貧しい庶民の家に男子が産まれたことが発覚。
栄姫は自分の産んだ娘とこの男の赤ん坊を取り替えさせます。
そして、黒田家の嫡男・万徳丸として養育されたのが、黒田忠之である。

といったような異説が肥前は佐賀藩の鍋島家中にて囁かれていたそうです。
黒田家と鍋島家は長政の時代まではとても良好な関係を築いていたのですが、
忠之と勝茂が絶縁して以来、国境問題もあり関係は最悪。
つまり、如水長政を貶めないように黒田家を叩く理由付けをしたのではないかと思われます。




247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/31(日) 11:54:12.12 ID:6/pO09H2
>>245
NGMSと忠之の肖像画比べればすぐ親子だってわかるのになw

248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/31(日) 12:03:34.86 ID:27QM8Dgn
>>247
あの肖像のそっくりさ加減は、逆に親子じゃないって言われた方が驚愕するわなw

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/31(日) 12:12:43.90 ID:caHuuPC+
>>247-248
あの肖像画は忠之死後50年くらい経ってから描かれたもので、おそらく長政像をベースにしてるから似てて当然
忠之生前に描かれた寿像が存在するがぶっちゃけあんま長政とは似てない
丸顔で目は切れ長でなよっとした女性的な感じ

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/31(日) 13:20:14.49 ID:yBQ/CJuL
黒田忠之は生まれが平和な時代でよかったよな
織田信長の時代なら黒田家滅亡してたかもしれん

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/31(日) 15:27:34.95 ID:3yD4qKaz
>>250
無意味な仮定

島原の乱と黒田長政の息子たち

2011年07月11日 23:20

956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/11(月) 00:29:41.64 ID:exXdob9v
ハイハイ、安心と信頼の黒田家クオリティ次世代編だよ。

寛永十四年、大坂の陣から二十二年の後に起こったおそらく最後の戦が島原の乱である。
この大規模な一揆を鎮めるために九州の諸侯に出陣命令が出ました。
もちろん黒田一門も参加することとなりましたが、知っての通り件の突撃大名はすでに故人。
黒田長政には正室との間に三人の息子がいましたが(もう一人側室腹がいますが既に他界)、
長男忠之に本藩を継がせ、三男長興に5万石、四男高政に4万石を継がせていました。
彼らは皆関ヶ原の後に生まれた子であり、もちろん父の戦場での猪ぶりなど知る由もありません。

さて、長男にして本藩を継いだ黒田忠之36歳。
彼は一応大坂の陣に出陣しておりますが、病身のため特に戦功もなく、これが初陣のようなものです。
寛永十五年二月二十一日、黒田・鍋島・有馬などの陣営に一揆軍による夜襲がありました。
忠之のいた本陣は現場からは離れていましたが、彼は陣営を率いて一揆軍を追撃。
しかし、一揆軍は城際まで城内に引き上げるところでした。
忠之は城内に突撃する気満々で重臣郡正大夫に意見を仰ぎます。すると、正大夫
「それもよろしいかもしれませんが、せっかくなので戦歴豊富な黒田美作に相談するのがよろしいかと」
と提案します。さっそく忠之は美作に意見を求めたところ、
「城内にはどんな罠がしかけてあるのかわかりません。
それに、まだ夜も空けそうになくとても危険だと思われます。
城内まで追撃するのはおやめください。」
しかし、追撃する気満々の忠之である。
美作正大夫の二人が止めるのも聞かず馬に鞭を叩きます。
この時、高尾彌五左衛門という男が忠之の馬の口にすがりつきました。
「ええい!離せ離せ!」
いきり立つ忠之は彌五左衛門を怒鳴りつけながら鞭で叩きます。
「絶対に離すでないぞ!」
美作に強く言われた彌五左衛門は必死に馬を抑えつけ、忠之の突撃を阻止したのでした。
後日、冷静になった忠之からとても感謝されたそうです。

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/11(月) 00:57:10.05 ID:exXdob9v
そんなわけで家臣に止められて突撃を控えた長男ですが、
実は父親そっくりの猪武者ぶりを発揮したのが末息子の黒田高政27歳。
彼は父の形見としてあの一ノ谷兜を貰いうけていました。

件の夜襲の時、高政の陣所も少し現場から離れていましたが、彼が駆け付けた時はまだ退却し始めたところで、
小川のほとりから駆け付けた高政隊に向かって鉄砲を放ちました。
これに高政、体に流れる黒田の血が目覚めたのか、士卒に先立って突撃。
自ら檄を飛ばして一揆衆と戦います。
すると、一揆衆が鍋島隊の攻め口に火をかけ、あたりは一気に明るくなります。
"市正(高政)着られたる一谷の冑かゝやきわたつて見えける間"、
その一ノ谷兜をめがけて一揆衆は鉄砲を放ちます。このため高政の兜には銃痕が三つあったそうです。
周りの家臣たちは高政を守ろらねばと彼の前に立って一揆衆を攻撃、
これには一揆衆も退却を余儀なくされます。
しかし、いったん火のついた黒田の血は止められるはずもなく、高政は川を渡って追撃しようとします。
さすがにこれはまずいと思った吉田右馬大夫は高政を強くいさめます。
しかし、すっかり興奮した高政はそれくらいでは止まらず、右馬大夫は高政にすがりつきます。
右馬大夫、先ほど一揆衆に石を投げつけられて歯を折られ大流血中。
"此時口より流るゝ血、市正着られたる白羅紗の羽織に染て紅になりけれは、殊にはなやかにみえたまふ。"
そういうこともあって右馬大夫はなんとか高政を止める事が出来ました。
夜が明けて、この様子を見ていた幕府の上使は高政の勇戦を褒め称えたそうな。




958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/11(月) 09:52:06.74 ID:7TC8RFJG
如水も跛じゃなかったら突撃馬鹿になっていたんだろうな

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/11(月) 10:50:50.98 ID:jCIikCdH
外交・調略の部分で突撃馬鹿と言われても仕方ない面はあるな

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/11(月) 12:36:25.40 ID:6OrlSrdq
つまり性格が突撃馬鹿なんだな

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/11(月) 12:45:04.60 ID:fx6EecAZ
それで兜飾りが牛の角ってのが面白いね


962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/11(月) 21:05:18.20 ID:Wasc1/SF
「兜飾り」って五月人形かよ。

福岡城の話

2011年04月25日 00:01

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 10:51:05.93 ID:EP2Dgz5h
時代が戦国から外れてるかもしれないけど…黒田長政の息子の話
オカ板「日本史における不思議な出来事、奇談。」から転載


668 名前:本当にあった怖い名無し[sage]投稿日:2007/05/13(日) 15:23:13 ID:LBTA/qBP0
福岡城の話

黒田長政の子の忠之のころ、家臣に明石四郎左衛門というものがいて
忠之に気に入られていた。妻はお綱という名だったが
嫉妬心が強く主人の帰りが遅いとやきもちを妬き、荒れ狂うことが多かった。

そんな折、忠之が参勤交代のときに大坂で見初めた芸妓を
福岡につれて帰ったものの家老に諌められ、結局明石に下げ渡した。
明石も殿様の命とあっては断るには行かなかったので第二夫人とした。
そして明石は芸妓の美しさにのめり込んでいった。
そして、第二夫人が本宅にあがり、本妻のお綱が子供二人と下人とともに
下屋敷に移された。そして、本宅は毎日酒宴を挙げているにもかかわらず
仕送りも滞っていki
屋敷も荒れて下人もいなくなっていった。

ある年の端午の節句の日にせめて雛祭りはと残っていた下人を使わしたが
明石は「すでに絶縁」と取り合わず、下人は奥方を合わせる顔が無く、
また哀れに思い、そして主人に絶望し、首を吊った。



670 名前:本当にあった怖い名無し[sage]投稿日:2007/05/13(日) 15:24:12 ID:LBTA/qBP0
それを知ったお綱は逆上し、二人の子供を殺して、
腰に子供の首を入れた風呂敷を巻き、夜の街を本宅に向かった。

しかし、明石は留守で城にいて第二夫人しかいなかったので
第二夫人に斬りかかったが、果たせず留守を預かっていた浪人の浅野というものに
斬られ、眉間と腕を斬られた。
それでも明石のいる城に向かって進んだが城の東御門のところで
門が閉まっていたため土塀に飛びついたところで絶命した。

明石はその一年後熱病で死に、浅野はある時、盗人の疑いをかけられて処刑された
その絶命した東御門はお綱門と呼ばれ、現在は無いが触ると熱病にうなされるうわさが絶えなかった
そしてお綱と子供を供養する祠が建てられた。

福岡城は廃藩置県後多くが取り壊されたが、お綱門は祟るのを恐れ供養した場所に移した。
しかし空襲によって焼失してしまった。

現在その地点には家庭裁判所が建つが昭和のある時
その裁判所で離婚の調停をしていた夫婦がいたが
急に夫が妻を殺害する事件がおきた。因縁めいた事件としかいいようがない




861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 11:20:02.22 ID:bmJQVJP7
浅野さんとんだとばっちり