829 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/14(日) 04:12:44.36 ID:QlETwww8
山田有信の祖父、有親は島津宗家より独立を図った出水の島津実久に味方し、降伏後に切腹させられた。
有信の父、有徳は島津貴久に仕えるも家中では「逆臣の子」と蔑まれていた。
そして有信自身も「逆臣の係累」とよばれ家中では白眼視されていたのだった。
しかし有信はそんな事を気にせず忠勤に励む。その結果、宗家の信頼を勝ち得て
各地の地頭職を任され勤め上げていく。
1577年には島津義久は有信を対大友の最前線、日向新納院高城の地頭に任命している。
「逆臣の係累」と呼ばれた有信だが、義久は信頼したからこそ最前線を任したのであろう。
そして有信自身、義久の信頼にしっかり答えていくことになる。
翌年4月大友の大軍4万が南下し日向に殺到、有信の居城高城も包囲され3千VS4万の
壮絶な籠城戦を戦うことになった。
籠城中に嫡男有栄誕生の知らせを聞いた有信は
「これで家が絶えずにすむ。おかげで城を枕に存分に戦い討ち死にすることができる」
と喜んだという。家中では「逆臣の係累」と呼ばれた彼だが忠義を守って討ち死にする覚悟であった。
11月まで籠城戦を戦い抜いた有信のもとに義久の援軍が到着、
耳川の戦いにより島津が九州の覇者となった。また有信自身も高名をあげている。
それから9年後、今度は豊臣秀吉の九州征伐軍を迎え撃つことになる。
このときは豊臣秀長率いる10万の軍勢を相手に籠城戦を戦い抜くのであった。
高城は主君義久が降伏するまで落ちず、義久からの使者に説得されて降伏開城と忠義を貫き通す有信。
この戦いは豊臣勢に激賞され秀吉本人から「天草4万石を与えるから直参にならないか」との誘いを受けている。
義久への忠義を尽くす有信はこの申し出を断っている。
そんな有信を義久は老中に抜擢、島津家中の最高職を任すのだった。
1609年老齢の義久が病に倒れると、有信は自分が身代わりになると自害して果てた。
病が言えた義久は有信の棺を内城に召し寄せ焼香し
「はちす葉のおきこぼしたる露の玉のおわりや君が為にすてけん」
との和歌を送っている。
「逆臣の係累」と呼ばれた男は「無二の忠臣」と呼ばれ死んでいったのである。
830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/14(日) 04:13:54.72 ID:QlETwww8
山田有信の子、山田有栄もまた無二の忠臣である。
有栄は朝鮮出兵などで島津義弘の下で戦い戦功を立ててきた武将である。
そんな彼の主君義弘が関ヶ原の戦いのさい「我ら無人」と嘆くほど手勢が足りずに困っていた。
本国で前領主の島津義久が中立を唱え上方での参戦を禁じたからだ。
義弘の窮状を知り上京を決意した有栄は配下32人と共に義弘の下にはせ参じる。
昼夜を問わず駆け続け義弘の下にたどり着いたのは関ヶ原の戦いの2日前である。
義久はいわゆる「島津奔る」の結果駆けつけた有栄の手を取って喜んだという。
関ヶ原ではいわゆる「島津の引き口」において常に主君義弘の傍らにおり、
「軍功並ぶものなし」と言われたのだった。
そして有栄は1630年には出水の地頭に任じられている。
山田家因縁の地、出水へ出向く有栄。
曽祖父の有親が出水の島津実久に味方し「逆臣の係累」と言われるきっかけを作ってより
実に100年近い年月がたっていたのだった・・・
逆臣の係累から忠臣の係累になった親子の話でした。
831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/14(日) 04:29:53.11 ID:QlETwww8
なんで悪い話かと言えばIDがwwwだから
山田有信の祖父、有親は島津宗家より独立を図った出水の島津実久に味方し、降伏後に切腹させられた。
有信の父、有徳は島津貴久に仕えるも家中では「逆臣の子」と蔑まれていた。
そして有信自身も「逆臣の係累」とよばれ家中では白眼視されていたのだった。
しかし有信はそんな事を気にせず忠勤に励む。その結果、宗家の信頼を勝ち得て
各地の地頭職を任され勤め上げていく。
1577年には島津義久は有信を対大友の最前線、日向新納院高城の地頭に任命している。
「逆臣の係累」と呼ばれた有信だが、義久は信頼したからこそ最前線を任したのであろう。
そして有信自身、義久の信頼にしっかり答えていくことになる。
翌年4月大友の大軍4万が南下し日向に殺到、有信の居城高城も包囲され3千VS4万の
壮絶な籠城戦を戦うことになった。
籠城中に嫡男有栄誕生の知らせを聞いた有信は
「これで家が絶えずにすむ。おかげで城を枕に存分に戦い討ち死にすることができる」
と喜んだという。家中では「逆臣の係累」と呼ばれた彼だが忠義を守って討ち死にする覚悟であった。
11月まで籠城戦を戦い抜いた有信のもとに義久の援軍が到着、
耳川の戦いにより島津が九州の覇者となった。また有信自身も高名をあげている。
それから9年後、今度は豊臣秀吉の九州征伐軍を迎え撃つことになる。
このときは豊臣秀長率いる10万の軍勢を相手に籠城戦を戦い抜くのであった。
高城は主君義久が降伏するまで落ちず、義久からの使者に説得されて降伏開城と忠義を貫き通す有信。
この戦いは豊臣勢に激賞され秀吉本人から「天草4万石を与えるから直参にならないか」との誘いを受けている。
義久への忠義を尽くす有信はこの申し出を断っている。
そんな有信を義久は老中に抜擢、島津家中の最高職を任すのだった。
1609年老齢の義久が病に倒れると、有信は自分が身代わりになると自害して果てた。
病が言えた義久は有信の棺を内城に召し寄せ焼香し
「はちす葉のおきこぼしたる露の玉のおわりや君が為にすてけん」
との和歌を送っている。
「逆臣の係累」と呼ばれた男は「無二の忠臣」と呼ばれ死んでいったのである。
830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/14(日) 04:13:54.72 ID:QlETwww8
山田有信の子、山田有栄もまた無二の忠臣である。
有栄は朝鮮出兵などで島津義弘の下で戦い戦功を立ててきた武将である。
そんな彼の主君義弘が関ヶ原の戦いのさい「我ら無人」と嘆くほど手勢が足りずに困っていた。
本国で前領主の島津義久が中立を唱え上方での参戦を禁じたからだ。
義弘の窮状を知り上京を決意した有栄は配下32人と共に義弘の下にはせ参じる。
昼夜を問わず駆け続け義弘の下にたどり着いたのは関ヶ原の戦いの2日前である。
義久はいわゆる「島津奔る」の結果駆けつけた有栄の手を取って喜んだという。
関ヶ原ではいわゆる「島津の引き口」において常に主君義弘の傍らにおり、
「軍功並ぶものなし」と言われたのだった。
そして有栄は1630年には出水の地頭に任じられている。
山田家因縁の地、出水へ出向く有栄。
曽祖父の有親が出水の島津実久に味方し「逆臣の係累」と言われるきっかけを作ってより
実に100年近い年月がたっていたのだった・・・
逆臣の係累から忠臣の係累になった親子の話でした。
831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/14(日) 04:29:53.11 ID:QlETwww8
なんで悪い話かと言えばIDがwwwだから
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