信長のきてはやぶるる京小袖

2016年11月11日 11:12

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/10(木) 23:19:34.25 ID:K23paop2
摂津国高槻の城主である和田という侍。
信長公の御前で出世し出世頭となった。


信長のきてはやぶるる京小袖     わたがさしでてみられざりけり

信長から貰ったため着過ぎて破れてしまった京小袖 
綿が出てきて(和田が出しゃばって)見られないものになってしまった
                                  
(醒睡笑)





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白井河原の合戦 和田惟政の最後

2011年05月14日 00:00

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/13(金) 17:46:07.00 ID:1EOL3Cdz
白井河原の合戦 和田惟政の最後(1)

フロイスの日本史において何度も触れられる和田惟政、
彼はキリスト教の布教に大いに協力した。
フロイスに信長との会談を何度も取り次ぎ、その教義にも耳を傾け続けた。
が、遂には授洗しないまま最期を迎えた。終焉の地は白井河原であった。
1571年、当時の摂津であるが、名目上諸侯、国人は信長に臣従しつつも、
互いに牽制、鎬を削る緊張状態であった。
特にこの地の旧家池田勝正を放逐した荒木村重、及びその茶仲間でもある中川清秀、
それに対する和田惟政と茨木茂朝とが敵対し、遂には信長の配下同士が勝手に合戦をする
というということになってしまった。
和田惟政が白井河原の戦場に到達したとき、彼の配下はわずかに馬回り200名に過ぎず、
500以上の主力は息子の惟長と共に到着が遅れたのであった。対する荒木村重勢は2500である。


144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/13(金) 17:48:45.41 ID:1EOL3Cdz
困った和田惟政、河原の草むらに軍馬を隠し後続の到着を待つことにした。(2)
この時の和田惟政のいでたちは、南蛮風白銀造の鎧、胸に十字架、
兜の上にイエズス会、カブラルから贈呈された帽子をかぶっていた。
枢機卿の帽子の如く、高価な羅紗でできた真っ赤な幅広帽、ひどく目につくものであった。
目ざとくこれを見つけた荒木村重、大音声で遥か川向う、身を潜めたつもりの和田惟政に声をかけた。
「されもきらびやか、派手やかな和田殿の大将ぶり、見事なもの。さえど臆されたようでござるな、
尋常に勝負をいたそうではないか、なんなら大将同士でもよいぞ。なんだ、なんだ、隠れたつもりでござるか、
耳が遠くなるにはまだ早いのではござらぬか、聞こえているはずだが、
急に耳の具合が悪くなったのでござるか?南蛮の教えならよく聞こえるのでござろうがな。」

両陣の兵、荒木村重の軽妙な挑発に、どっと哄笑を上げた。
これにみるみる赤面し激した和田惟政、周囲の諫めに耳を貸さず、決戦に応じてしまったのである。

善戦するも、和田惟政、村重の鉄砲で深手を負い戦場からの離脱を図るが、これまた村重の目にとまる。
村重が、討ち取ったものには恩賞を約すると、中川清秀が馬を駆け、惟政の首を上げたのであった。

信長に西摂津守護を任じられた和田惟政のあっけない最後






146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/13(金) 18:00:34.65 ID:LGVCBko7
両陣って味方にまで笑われたのか?

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/13(金) 18:07:27.06 ID:V6VEQzNH
元亀二年に南蛮鎧・・・

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/13(金) 20:55:16.21 ID:sIauZOqv
和田惟政討ち取ったり、本願寺に兵糧をこっそり売って
荒木村重謀反のきっかけをつくったり
妹がゲヒ殿の嫁だったりとなかなか面白い中川清秀

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/13(金) 21:10:23.02 ID:sFpiHO4U
>>147
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1163.html

さすが良く御存じ、この時代には南蛮鎧ありませんでした。

黒木了「荒木村重、惜命記」に載っていたのを鵜呑みにした間違いです。