武者之助と”信昌”

2014年07月29日 18:50

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/28(月) 23:30:41.17 ID:BsmDQudM
長篠の戦いで、長篠城を守り切った奥平貞昌であるが、その後岐阜へ参上し織田信長に謁見すると、
信長も大変に彼の功を賞し、

「貞昌の今度の勲功は武士の模範とも成るものであるから、今後は”武者之助と改名せよ!」と命じた。

そして自分の諱から一字を授け、信昌と名乗らせた上に、様々に引き出物も与えたのである。
(貞享書上)

ちなみに平山優『長篠合戦と武田勝頼』によると、奥平貞昌は武田氏に属していた時点で”信昌”を名乗っており、
信長から偏諱を与えられたというのは、後世の由緒の作り替えだったことが明らかになってしまいました。
武者之助の方は良く解らない。




806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/28(月) 23:37:51.81 ID:x22v6+Li
そうするとすねえもんの件もますます怪しいな

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/28(月) 23:51:39.00 ID:BsmDQudM
>>806
鳥居強右衛門の逸話に関してその実在を疑う史料は無いよ。

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/29(火) 03:09:05.33 ID:e+lsAxNH
それは悪魔の証明ですな

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/29(火) 07:35:58.36 ID:sbrNR4O7
長篠の戦いの基本史料になっている「三河物語」に記述されてる話を疑うのなら
それ相応の根拠を出してもらわないと

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/29(火) 16:14:37.18 ID:RxBownd+
鳥居強右衛門の息子の信商が安国寺恵瓊を捕縛して200石貰っとるじゃんね

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/29(火) 16:38:17.13 ID:xo35E/EU
信長「信昌には我が名より「信」の拝領を許す。只今より信信と名乗るがよかろう。」.

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/29(火) 17:05:25.69 ID:Wp1J/1RO
覇王伝かよ

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/29(火) 17:26:31.76 ID:minMzll6
シンシン

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/29(火) 17:26:35.32 ID:ZmAExvn7
晴信の信の線はないかな、やっぱ

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/29(火) 17:50:08.43 ID:Vr+xRufE
あるでしょ

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奥平九八郎定昌への報奨

2013年01月02日 19:59

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/02(水) 17:58:47.11 ID:+IA7Ri5i
長篠の籠城後、奥平九八郎定昌が徳川家康に召し出された。
家康は「定昌は若年の身で、数日の間小勢をもって大敵を引き受け、
城を保ったこと、誠に例なき働きというべし」と、大いに感心した。

またその七人の家長等を召し出して今回の忠節を賞し「お前たちの
子孫は後代に至るまで見参を許す」と仰せ付けた。今、奥平の家人が
毎春謁見を給わるのはこの例に由来するという。

定昌には知行が下されたほかに、姉川の戦いで家康が織田信長より
授けられた大般若長光の御刀が下された。また信長の意見により
家康の長女・亀姫が定昌に降嫁された。

その後、定昌は岐阜へ参り信長に謁見した。信長もいたく定昌の功を
賞して「定昌の勲功は武士の模範である。よってこれからは武者之助と
改名せよ」と言い、自らの一字を授けて奥平信昌と名乗らせた。
その上、様々な引出物が与えられた。

――『徳川実紀(貞享書上)』




944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/02(水) 18:33:43.02 ID:FXzR3J1h
奥平さんちって家康の若い頃からの家臣なのに微妙に影うすくない・・・?
信昌なんかかなり活躍してるはずなのに

945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/02(水) 18:40:09.26 ID:/+rp+lf6
そういえばお笑いコンビの学天即ってのが前々回のTHE MANZAIでやっていた漫才の落ちが

「あ、そうだもう一人大河ドラマでやりたい役があるんですわ」
「ほー、で誰や?」
奥平信昌、初代京都所司代」
「だから誰やねん!」
「「どーもありがとうございましたー」」

それなりに有名のはずなのに

奥平信昌と奥山流

2012年12月05日 20:41

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/04(火) 23:47:45.25 ID:0sXiHcq5
姉川の戦いで奥平信昌は二騎を斬ってその首を実検に備えた。徳川家康が感心して
「若年の小腕で寄功を奏したな」と言うと、信昌は「戦闘の道は剣法の巧拙にあります。
筋力の強弱にはよりません」と答えた。家康が重ねて「お前は誰に剣法を学んだのだ」
と問うと信昌は「奥山流を学びました」と答えた。

「ではお前の家臣の急加斎に学んだのだな。私も若い頃はその流派を学んだが、
近頃は軍務が忙しいので久しく怠ってしまった。こたび帰陣のうえは必ず彼を召して対面しよう」

急加斎は奥平貞久の四男で孫次郎公重と称し、上泉秀綱の門に入り神影流の剣法を学んで
奥義を極め、三河奥山明神の社に参籠して夢中に秘伝の太刀を授かりこれより奥山流を唱える。

かつて家康はしばしば岡崎に急加斎を召して演習したが、この後に信昌より召して
重ねて急加斎に学び、誓書を下して家臣に召し加えるとの御書を賜った。

また家康は三河で有馬時貞は新当流の剣法の達人と聞き、時貞を召してその奥義を伝授させた。
家康は時貞に青江の御刀を下して領地を与えたが、後に時貞が死んで嫡流が絶えると庶孫の秋重に
家を継がせ、紀伊家に附属させた。

――『徳川実紀(奥平譜、貞享書上)』




678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/05(水) 00:26:51.09 ID:1p817mw8
奥平って、姉川のあとすぐに武田に付いちゃうんだよね
まあ仕方のないことなんだけど

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/06(木) 00:08:05.84 ID:+8ZHISA4
あれ、関ヶ原で小早川の目付に奥平ってのがいたような

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/06(木) 01:35:49.57 ID:s2KfBwvj
いるよ
なぜか部隊長にさせられて戦死しちゃったけど
いきなり自分のじゃない部隊の大将にさせられても誰も守ってくれないもの
そりゃ戦死するよなあ

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/06(木) 08:45:09.89 ID:JWker3cg
>>680
なんて不幸な

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/06(木) 13:37:35.30 ID:9PC/hN//
いや、奥平貞治は軍監なのに(むしろ軍監だからか)自ら率先して
小早川隊の前線に立っちゃったからね

正しく獅子奮迅の働きだった
でも悲しいかな貞治に子は居らず居その戦傷死するほどの働きに報いる
恩賞を受け取れる人は老いた母が1人だけ

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/06(木) 14:39:10.03 ID:OQszhWaW
確か生母に恩賞与えていたはず1000石だったかな?
老母一人ではかなりの贅沢が出来るな軍役もないだろうし
でも母親からしてみれば恩賞無くても生きて帰って欲しかっただろうな

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/06(木) 15:30:22.99 ID:jLcJ7819
正純さん失脚の遠因のばっちゃんとはまた別の人なのね~

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/06(木) 16:14:35.98 ID:9OcRHLoP
小早川隊の先鋒の松野主馬が
「寝返り(・A・)イクナイ!」
って戦線離脱してしまったので、代わって奥平貞治が松野隊の指揮を
とることになったんだよね

徳川からの再三の催促の末にやっとこ小早川を動かしたという経緯上、
徳川からの軍艦という立場的に、こりゃ俺が死ななしゃ~ないな、と
いう感じだったのではないかと

徳川の軍監死なせて、ぬるい戦い方はできないからね、小早川も

あと、貞治って途中で、ラスボスに乞われて引き抜かれて黄母衣衆に
なってたことも
よっぽどの武者だったんでしょう。

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/06(木) 17:56:22.86 ID:MO3aVlm3
>>685
改めて思うけど生き死にに関してこの時代の人は凄い考えだよな…

奥平貞昌(信昌)妻、おふう

2011年06月08日 00:00

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/07(火) 16:08:59.69 ID:EE+9r9yY
有名な話だがまとめに載っていないようなので。
もし既出だったらすまぬ。


奥平貞昌(信昌)は長篠の戦で長篠城を守り抜き、戦後、徳川家康の長女亀姫を嫁に貰い、
目覚しい出世を遂げるに到ったが、実は亀姫を迎える以前に既に妻がいた。
先妻は一族である日近奥平貞友の娘でおふうと云った。

元亀年間の奥三河地方は、武田信玄の侵攻により揺れ動いたが、信昌の父貞能は武田に
降ることを決意、その証として人質を要求され、おふうは貞昌の弟の千丸(千千代)らと共に
甲斐へ差し出された。

元亀4年4月、武田信玄没。信玄の死を察した貞能父子は密かに旧主家康と連絡を取り、
徳川家帰参を決意する。しかし貞昌はおふうに未練があったのだろう。土壇場になって
貞昌はおふうを離縁する。最早、自分の行動には無関係だから助けて欲しい、という
想いからであった。だが、そんな理屈が通る訳も無く、おふうは千丸らと共に奥平氏の
本拠にほど近い鳳来寺口で処刑されることとなった。天正元年9月のことである。

処刑の前、おふうはこう述べたという。

「来世で自分は畜生に生まれたいと思います。
 畜生はおのれに正直に生きていけますが、人は互いに騙し合わねば生きていけません。
 人は畜生以上に浅ましいものでございます。」

そして、義弟とともに二人とも取り乱すこともなく磔になったという。
この時、おふう16歳、千丸13歳。

おふうの言葉を貞昌らはどのような思いで聞いたのだろうか。
一説によると、おふうは貞昌の妻と偽って人質として差し出されたともいわれるが、
それが事実だとすると、より一層重く感じられる。


おふうの首は彼女の乳母らの働きにより、故郷の日近城まで運ばれて供養された。
よって、墓は処刑地と故郷との二つ残っている。





545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/07(火) 19:36:51.52 ID:BloaH9dB
武田勝頼の小説で同じの読んだな

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/07(火) 19:38:15.63 ID:N4zy4Swr
山岡徳川家康でも読んだ気がする
…あれ?畜生がどうののくだりあったっけかな…

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/07(火) 20:09:47.14 ID:TToERA0w
悲しす…。

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/07(火) 22:06:45.98 ID:dXyWWEq/
宇喜多直家 <なんと酷いことを・・・

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/08(水) 00:11:15.21 ID:upmz04nA
宇喜多さん、暗殺した相手の子供や暗殺の実行者に気を使ってるからなぁ

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/08(水) 00:21:32.07 ID:PoAllp5c
って、世間に思わせるのが宇喜田の実に巧みなところ

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/08(水) 00:47:02.74 ID:wdbSehIQ
印象操作も万全とは直家恐るべし
大悪人と呼ばれて開き直ったあげく、爆死した弾正とは一味違った腹黒さ

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/08(水) 01:03:45.42 ID:wZQevNR4
心しらぬ 人は何とも 言はばいへ 身をも惜まじ 名をも惜まじ

こんな清々しい心境だったのかもな

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/08(水) 03:36:14.40 ID:oEEbxcpv
>>540
立花宗茂はこれをどんな気持ちで聞いてたんだろうな

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/08(水) 04:09:46.12 ID:i6mo1kAZ
>>553
宗茂に関しては、関が原の後、豊臣家は立花家を見殺しにしようとしたからなあ。

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/08(水) 08:03:14.75 ID:vCKzNtt+
関ヶ原当時の豊臣家って誰がトップなん?淀殿?

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/08(水) 08:08:13.26 ID:FyUU9oWf
マジレスすると家康

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/08(水) 08:54:17.47 ID:mJgqwUK5
他の五大老はみんな自領へ戻ってたんだっけ
各家それぞれ事情があって長く領地から離れてるのは難しかった
家康だけ全てを任せられる息子がいた

559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/08(水) 09:01:56.84 ID:vCKzNtt+
豊臣家が家康に乗っ取られてたから、家康のやりたい放題だったわけか
耄碌してたんだろうけど秀吉も馬鹿だねぇ

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/08(水) 09:24:47.12 ID:8Na+Ks+J
豊臣家、というのなら淀かね
豊臣政権、というのなら利家死去・七将襲撃・三成引退以降は家康

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/08(水) 09:30:55.93 ID:RJpf3ei7
どうも日本史は権力構造を把握するのが面倒だよな
朝廷内の一貴族である足利将軍の管領の細川氏の宿老三好家の家来の松永久秀が真の支配者とか
傍から見たら訳が分からんぞ

562 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/08(水) 09:33:48.93 ID:eYDIUQvS
現代に至るまで
日本じゃ一番有能な奴がトップに立つことが少ないし。

563 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/08(水) 11:08:31.01 ID:SyJAfvx0
どの国もそうなのかもしれないけど、トップが御輿になっちゃうんだよな
皇室ー藤原家
鎌倉幕府ー北条家ー長崎家
尊氏にしたって、高兄弟が足利家を飲み込みそうな場面があったもんな

564 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/08(水) 11:24:03.72 ID:WmDUoNU+
>>553
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4873.html
の逸話とか見てると「義を捧げ賭ける場所で全てを出し切らずに今更何やってんだ」みたいに思ってるかもね。

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/08(水) 11:29:12.50 ID:PoAllp5c
偉い人は神棚に、みたいなとこがあるからなぁ日本は
位の高い人が有能とは限らないから権威だけもたせるっていう知恵なんだろう
今では偉くて有能な人って待ち望まれてる気配があるけどw

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/08(水) 11:40:00.09 ID:WRD7uC62
実は徳川幕府はかなり将軍に権力が集中する仕組みだった。
鎌倉幕府における得宗家、室町幕府における京兆家のような、将軍家を越える
門閥家系はついに現れなかったし、機構上の責任者である老中よりも、将軍の近習である
側用人等のほうが権力を持ち得たのも、将軍の君主権が仕組みとしても強大だったため。