985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/09(木) 21:08:31.55 ID:4dZgJChl
(1/2)
ちょっと出遅れてしまいましたが、勇ましい奥さん(の旦那)の話
島津家の家臣に桂忠詮、通称を神祓という者がいた。
九州征伐時の折に平佐城を預かっていた彼は、義弘や歳久と同じように
秀吉への降伏には猛反対。泰平時での和睦の後も頑なに平佐城に篭り続けていた。
さてこの平佐城、シラス台地を削って作った崖を城壁代わりに持つという
薩摩独特の城であった。
未だに反抗的な態度をとる忠詮の元に小西、脇坂、加藤らの7000の大軍が押し寄せた。
対する忠詮の軍はわずか300、だが忠詮はこの大軍に臆することもなく
近所の坊さんや宮司を呼んで酒宴を開き、自若たる者であった。
これを憎らしいと思ったか、小西らの大軍、どっと城に攻めかかったが
先述のシラス台地の崖が、文字通り立ちはだかった。
そもそもシラス台地とは火山灰が降り積もって出来た台地である。
非常に歩きにくく、慣れていなければ平地でも足を簡単にとられてしまう。
まして平地ではなく崖である、登るのは容易ではない。
対して相手は薩摩隼人。シラス台地の歩き方をかって知ったる者たちである。
登ろうとすれば矢を射られ、足をとられた所を打ちのめされ、
小西ら豊臣勢は散々に追い返される始末であった。
それでもさすがに大軍である。多大な犠牲を払いながら粘り強く攻め立ててくる。
ここでいよいよ注進が飛ぶ。「城の命は刻々迫りつつあります」
酒宴中の忠詮は盃もおかず「副将の谷山紀伊と宇都宮和泉はどうした」ときけば
兵卒は「両名、なおも勇を奮って奮戦中であります」と答える。
忠詮は「ならば問題なし」と盃をあおり卒にも「まあ一杯やっていけ」とねぎらう余裕振りであった。
986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/09(木) 21:08:50.78 ID:4dZgJChl
(2/2)
そして敵軍がもうすぐ崖を登りきろうか、というときにようやく忠詮は動いた。
奥方を呼ぶと「かねての手はずどおりに頼む」と言うや、手勢数十名を引き連れ姿をくらましてしまったのである。
さて、ようやく崖を登りきった豊臣勢、城門を打ち壊して島津方を一挙に屠らん…
というところで城門が開いた。何もしてないのに。
だが変化はそれだけでは終わらなかった。
開いた城門の先には奥方率いる侍女の鉄砲隊が身構えていたのである。
これまでの飛び道具は弓矢にとどめ、ここまで温存しておいた弾に火薬、
一気に使いきろうという勢いでゼロ距離射撃である。
豊臣勢はたちまち壊乱、先の副将二人に散々追い散らされ崖から突き落とされる始末である。
崖の麓に命からがら逃げてきた兵も安堵は出来なかった。
「さて、仕上げにかかるか」悠然と一隊を率いて現れたのは、先ほど姿をくらました桂忠詮その人であった。
まだ6000人以上の豊臣勢、本来なら恐れる必要もない数十人の手勢に追いまくられる。
その大勢は近くの沼沢に追い落とされた。
そこに崖の上から谷山に宇都宮、そして奥方まで合流したのだから、後はもう一方的である。
みな思いのままに首級を上げた。その戦果は自軍と同じ300。
彼方へ敗走する豊臣勢に忠詮は大声で告げる。
「ここでお前たちを討つは容易いが、それでは伝言役がいなくなってしまう。
帰って猿面冠者に伝えよ『主君義久公が受けた屈辱はこの忠詮が雪ぐ。首を洗って待っておれ』と」
まあ、この後どうなったかというと義久の頼みで渋々降伏したり、
秀吉から宝寿の短刀はありがたく拝領するけど、直臣のお誘いは一蹴したり、
とデ新納さん同様の結末をたどっております。
さらにその後、桂忠詮は義弘の供をして朝鮮へ渡海したり、
関ヶ原では山田有栄と殿の役を競い合ったり、
といろいろ武勇伝を残しているのですがそれはまた別の話。
999 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/10(金) 15:57:06.16 ID:QC5lVJJh
>>985-986
おもしろかった、寡兵で大兵を打ち破る話は気持ちがいいな
(1/2)
ちょっと出遅れてしまいましたが、勇ましい奥さん(の旦那)の話
島津家の家臣に桂忠詮、通称を神祓という者がいた。
九州征伐時の折に平佐城を預かっていた彼は、義弘や歳久と同じように
秀吉への降伏には猛反対。泰平時での和睦の後も頑なに平佐城に篭り続けていた。
さてこの平佐城、シラス台地を削って作った崖を城壁代わりに持つという
薩摩独特の城であった。
未だに反抗的な態度をとる忠詮の元に小西、脇坂、加藤らの7000の大軍が押し寄せた。
対する忠詮の軍はわずか300、だが忠詮はこの大軍に臆することもなく
近所の坊さんや宮司を呼んで酒宴を開き、自若たる者であった。
これを憎らしいと思ったか、小西らの大軍、どっと城に攻めかかったが
先述のシラス台地の崖が、文字通り立ちはだかった。
そもそもシラス台地とは火山灰が降り積もって出来た台地である。
非常に歩きにくく、慣れていなければ平地でも足を簡単にとられてしまう。
まして平地ではなく崖である、登るのは容易ではない。
対して相手は薩摩隼人。シラス台地の歩き方をかって知ったる者たちである。
登ろうとすれば矢を射られ、足をとられた所を打ちのめされ、
小西ら豊臣勢は散々に追い返される始末であった。
それでもさすがに大軍である。多大な犠牲を払いながら粘り強く攻め立ててくる。
ここでいよいよ注進が飛ぶ。「城の命は刻々迫りつつあります」
酒宴中の忠詮は盃もおかず「副将の谷山紀伊と宇都宮和泉はどうした」ときけば
兵卒は「両名、なおも勇を奮って奮戦中であります」と答える。
忠詮は「ならば問題なし」と盃をあおり卒にも「まあ一杯やっていけ」とねぎらう余裕振りであった。
986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/09(木) 21:08:50.78 ID:4dZgJChl
(2/2)
そして敵軍がもうすぐ崖を登りきろうか、というときにようやく忠詮は動いた。
奥方を呼ぶと「かねての手はずどおりに頼む」と言うや、手勢数十名を引き連れ姿をくらましてしまったのである。
さて、ようやく崖を登りきった豊臣勢、城門を打ち壊して島津方を一挙に屠らん…
というところで城門が開いた。何もしてないのに。
だが変化はそれだけでは終わらなかった。
開いた城門の先には奥方率いる侍女の鉄砲隊が身構えていたのである。
これまでの飛び道具は弓矢にとどめ、ここまで温存しておいた弾に火薬、
一気に使いきろうという勢いでゼロ距離射撃である。
豊臣勢はたちまち壊乱、先の副将二人に散々追い散らされ崖から突き落とされる始末である。
崖の麓に命からがら逃げてきた兵も安堵は出来なかった。
「さて、仕上げにかかるか」悠然と一隊を率いて現れたのは、先ほど姿をくらました桂忠詮その人であった。
まだ6000人以上の豊臣勢、本来なら恐れる必要もない数十人の手勢に追いまくられる。
その大勢は近くの沼沢に追い落とされた。
そこに崖の上から谷山に宇都宮、そして奥方まで合流したのだから、後はもう一方的である。
みな思いのままに首級を上げた。その戦果は自軍と同じ300。
彼方へ敗走する豊臣勢に忠詮は大声で告げる。
「ここでお前たちを討つは容易いが、それでは伝言役がいなくなってしまう。
帰って猿面冠者に伝えよ『主君義久公が受けた屈辱はこの忠詮が雪ぐ。首を洗って待っておれ』と」
まあ、この後どうなったかというと義久の頼みで渋々降伏したり、
秀吉から宝寿の短刀はありがたく拝領するけど、直臣のお誘いは一蹴したり、
とデ新納さん同様の結末をたどっております。
さらにその後、桂忠詮は義弘の供をして朝鮮へ渡海したり、
関ヶ原では山田有栄と殿の役を競い合ったり、
といろいろ武勇伝を残しているのですがそれはまた別の話。
999 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/10(金) 15:57:06.16 ID:QC5lVJJh
>>985-986
おもしろかった、寡兵で大兵を打ち破る話は気持ちがいいな
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