問註所統景の孤軍奮闘

2011年07月04日 23:41

466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/04(月) 07:18:28.60 ID:3JQA4VCG
大友氏の忠臣といえば衰退する本家を筑前から支えた立花道雪・高橋紹運らが有名だが
筑後国にも大友義鑑の時代から大友家に仕えた国人領主・問註所氏があった。

筑後というところは昔からこれといって突出した大勢力がいない国で、室町時代初期から
大友氏が守護職を得て(途中、今川了俊や菊池氏に守護職が移った時期もあるが)
代々大友氏の影響が強い地域ではあったが、大友氏は守護代を置いて任せる程度の緩やかな支配で
筑後十五城主と呼ばれる小勢力が点在していた(ちなみにその中で一番の勢力だったのは蒲池家)。

そんな筑後国も戦国時代の荒波の中で小勢力たちは翻弄されていくことになる。
大内氏や毛利氏の筑前侵攻、立花鑑載・高橋鑑種の反乱、筑紫や秋月はしょっちゅう裏切る。
問註所氏は秋月領に近いこともあり、秋月の動きを大友に伝える監視役として働いた。
しかし大友氏が耳川の合戦で大敗、筑後国は竜造寺氏の台頭により風雲急を告げる。
大勢力の蒲池氏を始めとして筑後勢力のほとんどが龍造寺方につく中、当主の問註所統景は
本当によく頑張った。一族で龍造寺側についた鑑景や、龍造寺方についた星野氏、
筑前からは秋月氏などが連合して何度も領内に攻め入るも、その度に撃退。守るだけでなく
星野氏の白石城を攻め取ったりもした。そんな中「肥前のクマー」龍造寺隆信が蒲池鎮漣を誘殺、
蒲池一族を皆殺しにし、筑後勢力の多くが龍造寺に反感を持ち始める。
さらにクマーが沖田畷で戦死、そうなると今度は龍造寺を離れて島津方につく勢力が頻出。
筑後国内は龍造寺方・島津方・大友方(問註所氏と五条氏のみ)の3勢力に分かれていった。

そうする内に今度は島津軍が本格的に北進を開始。島津方についた勢力どころか、
龍造寺本家も島津に味方して大友家を攻めることになったため、筑後国内で問註所氏は孤立。
しかしそんな絶体絶命の状況でも統景は孤軍奮闘。島津本隊が筑紫広門の篭る肥前の勝尾城や
高橋紹運の筑前岩屋城を辛くも陥落させ立花山城に攻め入る。ここで豊臣本隊の九州上陸の報を受け
島津軍は本国へ退却するが、この間統景は長岩城に籠城して島津方の攻勢から居城を守りきったのだった。

大友家臣として島津の侵攻に耐えた「忠臣」として筑前の紹運・宗茂父子、豊前の志賀親次は
よく取り上げられるけど、筑後に問註所統景という武将がいたことも覚えておいてあげてください。




468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/04(月) 09:04:45.09 ID:3JQA4VCG
補足ですが、問註所統景は秀吉により本領安堵されますが領地は以前の1/5ほどに減らされ、
筑後入国した小早川の家臣となりますが、太閤検地の際にさらに転封を命じられ本領を明け渡すことになり、
泣く泣く居城・長岩城を明け渡します。その後朝鮮の役で戦功を挙げるも、当地で弟の正白とともに戦死。
嫡男に政連がいましたがなぜか父の領を継ぐことができず浪人します。どうやら豊臣政権下で国人領主に対する
締め付けが厳しくなり(検地で大きな不満が出て肥後国人一揆が勃発したように)筑後国でも同様だったようです。
問註所氏もあるいは計画的に潰されたのかもしれません。元々の小早川家臣への領地も必要ですからね。
しかし、立花家や筑紫家が大名に取り上げられているのにこの仕打ちはひどい・・・。

ちなみに、小早川家臣にはならずそのまま大友家臣の身で朝鮮の役に臨んだという話もあります。
この場合統景の死とともに主家・大友義統の例の敵前逃亡による改易で、政連は浪人になることに。

政連は後に筑後を治めた立花宗茂に仕官し家臣となります(統景のおばが道雪継室で、ギン千代の母。
さらに統景の正室・政連の実母が宗茂の実方従姉妹という関係)。政連は宗茂に従い関ヶ原にも参戦、
戦後宗茂は改易され、政連は他の家臣らとともに加藤家のお世話になります。
その後、宗茂が赦されて筑後に戻ってきた際に再仕官、問註所は柳川藩士として続くことになります。





467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/04(月) 08:07:37.26 ID:E2DI015g
島津自重しろ

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/04(月) 12:09:31.11 ID:i83WCuqg
戦国時代の筑後は不思議だよねほんと
肥後も国人の力が強かったけど阿蘇とか甲斐とかいたし
他にも国人領主がめいめいに支配していた国ってあったっけ

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1190.html
蒲池さんとこは家兼じいちゃんとクマーを大友側にも関わらず助け
「義心は鉄のごとし」と言われた鑑盛さんがその名に偽らず大友氏の殉じ耳川で戦死
それを機に以前から龍造寺と手を結びたがってた鎮漣(鎮並)がすぐに動いたわけだけど
(母の姉妹が龍造寺家臣の田尻鑑種、妻が隆信の娘というのもあって)
隆信は大友の頃みたいに緩やかじゃない直接的支配を目指したもんで反発したようだ
それにしてもクマーは・・・>>467じゃなく龍造寺自重しろって話だ

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/04(月) 12:51:24.84 ID:i83WCuqg
ざっと調べてみると筑後十五城のほとんどが九州征伐その他諸々で
滅亡に近いくらいまで衰退しているね
一部は子孫の代で立花、鍋島あたりの藩士になったりもしてる
高橋紹運の高橋家もこの筑後十五城なんだけど統増は立花に改姓して高橋家も消滅
まあ全国の国人領主も似たようなもんかもしれん・・・

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/04(月) 14:58:50.52 ID:4v6XOxaM
もし義統改易で浪人の方が正しかったら
朝鮮で死んでも死に切れないよなあ

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/04(月) 15:14:13.10 ID:4v6XOxaM
十五城主の河崎氏と黒木氏は同じ調氏出身なのに犬猿の仲だったらしい
河崎の居城が犬尾城というのに対抗して、新しく建てた黒木の居城は猫尾城と名付けたほど
犬猫の仲だな


479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/05(火) 00:09:16.27 ID:g60gBxWE
>>469
豊後と筑後は山はさんで東西だけど、肥前と筑後は筑後川挟んで真向いだからなあ
隆信としても筑後で自由にやられるのも困ったもんだったんじゃないのかしら

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/05(火) 12:51:10.58 ID:sIf5AJj1
>>479
そうだろうね
蒲池討伐には嫡男の政家を差し向けるくらいだったし
肥前は山と海に囲まれてて身動き取りづらいから
直接筑前・肥後・豊後へ自由に動ける筑後を
どうしても手に入れたかったのは間違いない
大友は筑後への進軍が難しく影響力を出そうとしても出せなかったのかも

それにしてもだよ・・蒲池への酷い仕打ちのせいで
どんどん悪い方向に向かったしなあ

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/05(火) 13:54:17.70 ID:iqB3pKqH
>>484
相良に対して援軍送らなかったのがでかいってのも聞くなあ
島津が肥後の方に勢力伸びてくれば有馬がひよるのもわかるし

488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/05(火) 23:12:10.03 ID:IxEo2vtb
>>493
豊後から筑後は移動が難しいのに、筑後から豊後は移動が自由なの?

489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/05(火) 23:31:35.77 ID:O07eooBE
肥前から豊後へ直接向かうのは大変だろ
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