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土屋重治、徳川家康の危機に

2011年08月08日 23:02

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/08(月) 15:17:14.10 ID:uTGcN1aw
永禄7年(1564)正月11日、三河一向一揆、上和田の戦いでのことである。

一揆軍の攻勢に味方が危機と聞いた徳川家康は、単騎でその救援に向かった。
しかし一揆軍の優勢は止まらず、ついに家康自身も危機的な状況になった。
この時家康には二発も鉄砲の弾が命中したが、鎧が頑丈であったため助かったという。

さて、その時

一揆軍の中に、土屋長吉重治という者がいた。
彼は家康の姿を見ると激しく狼狽し、叫んだ

「私は宗門に味方している!しかし、今まさに主君が危機にあるというのに、
それを助けないというのは不本意というものではないか!
もしこの事で地獄に落ちる事になろうと、私はそれを厭わない!」

土屋は、味方である一揆軍に攻撃を仕掛けた。

突然の裏切りに一揆軍は動揺した。家康はこの機を逃さず巧みに指揮をし、
ついに危機から脱出する。

土屋は味方への突撃の後、討ち死にした。

戦後、家康は石川守成に土屋の死骸を探させた。
そして運ばれて来た遺体の手を取り、激しく嘆き悲しんだ。

家康は上和田の地に土屋の墓を作り、彼を篤く弔ったという。

一揆に参加し敵対していながら、自分の命と引き替えるかのように主君家康の危機を救った、
土屋重治についての逸話である

(徳川実紀)




29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/08(月) 18:12:33.53 ID:R6zgO21k
死に損だよな?

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/08(月) 18:29:43.68 ID:qipLCUJJ
そもそもそれだけの忠心があるのなら一揆に参加するなよと
まあ複雑な心境だったんだろうけどさ

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/08(月) 19:04:12.30 ID:kXLIvt+k
主君救ったのが死に損だったら、死に損じゃない討ち死に探すのは難しくないか?
まあ、だったら最初から一揆側につくなよというのはあるかもしれないけど
信仰ってのは難しいからなあ

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/08(月) 19:49:57.15 ID:/8Bv8BFK
身内を取り立てたとかはないの?
墓だけで済ましたのか?

33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/08(月) 19:54:27.38 ID:JDPturvg
身内は一揆勢に居て死んでるんじゃね?

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/08(月) 21:29:23.99 ID:9NWWZRhY
後の四万五千石である

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/08(月) 21:43:45.45 ID:6nC3OKPw
こういう三河武士的な話、やっぱりいいなあ
頑固で陰険で閉鎖的って欠点込みでもそう思う

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/08(月) 22:24:25.61 ID:CdzVoE2n
なんか三河のめんどくさい人達の話を聞いていると
徳川家というより家康個人に忠誠を誓っているように見える人が多い希ガス
人質時代から一緒に苦労した人とかなのか?

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/08(月) 22:47:13.97 ID:OWs3tzcB
話がそれてすまんがやっぱ足利の三河軍団もそんな連中だったんかねえ?


38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/09(火) 02:47:38.88 ID:Togfk+uu
>>37
三河幡豆郡今川荘が苗字の地である今川氏の今川了俊の『難太平記』は、
主家への自分たちのそれまでの忠義を強調し子孫へもそれを求め、ライバルはケチョンケチョンに
描き、さらに「子孫以外に読むな。門外不出」と言いつつ世間の目を意識しまくった描写で、
事実了俊の生前から世間で読まれていたフシがあるなど『三河物語』の大久保彦左衛門
そっくりの行為をしている。

というか、大久保彦左衛門は今川了俊を真似した部分があったと思われる。
武将としては了俊のほうがだいぶ器は大きいがw

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/09(火) 10:24:22.68 ID:eQJaVZCO
三河一向一揆って

家康本陣と対決

主君に弓は向けられねえ!

なんだか三河者らしい行動に出る

がテンプレになってるよな。

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/09(火) 17:30:39.76 ID:csQRiIQs
『戦国武士は「恩の死はせねど、情の死はする」といって、
知行をたくさんくれた主人が死んでも自分は死なないが、
「この男こそわが主人」と惚れた主人のためなら死ぬのである。
これをひっくり返せば、気に入らない奴をやっつけるためならいくらでも死ぬということである』
津本陽 武将の運命 朝日文庫 より抜粋

前に読んだこの一節を思い出した。
著者の想いが入りすぎているきらいはあるが、
戦国武士にはそういう一面もあると言えると思う。
葉隠には恩だの情だの分別するな!と言われそうだけど

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/09(火) 18:39:22.74 ID:V+frVMj+
必死で敵に立ち向かう家康を見て、はたと目が覚めたんだろうか。
俺は主君のために死ぬつもりだったのに今まで何やってたんだろう、みたいな。

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/09(火) 19:08:14.13 ID:6yE62ni4
一揆に参加することで門徒としての筋を通し、主君をかばって死ぬことで家臣としての筋を通した。ということか。

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/09(火) 23:15:40.33 ID:mKoL+rOT
一揆に参加することで主君を裏切り、主君をかばって死ぬことで門徒として中途半端。ということでもある。

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/09(火) 23:17:39.71 ID:csQRiIQs
理屈だけで生きられる人間はいない

45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/09(火) 23:25:44.75 ID:RbH50BIh
逆に一向一揆を潰す為の埋伏の毒だったのだと考えればいい
家康の姿が見える所まで敵を引っ張ってきて・・・
やっぱり主君を裏切れませんといって一揆勢に襲い掛かる
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