大友義鑑の死

2016年10月01日 19:10

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/01(土) 18:33:01.29 ID:hdHYlRFK
大友義鑑には3人の子があったが、惣領である義鎮(宗麟)に家督を譲ろうとしなかった。
彼の後妻が産んだ、到明子殿という末子に家督を譲ろうと考えていて、義鎮に対しては普段から
対面することもなく、到明子殿への本意は深かった。

身分の高い者でも低い者でも、継子継母の関係ほど難しいものはない。
到明子殿の母は義鎮を失わせ、どうにかして到明子殿を大友家の当主に立てたいと日夜胸を痛めており、
彼女は家老の入田丹後守親誠を頼った。丹後は心得、それからはいつもよりも義鑑に忠を尽くし、抜きん出た
奉公をして義鑑から高い信頼を得、義鑑は何事も丹後に相談するようになった。

ある時、義鑑は丹後を召して問うた
「義鎮については、私は思うところがある。到明子に代を譲るのはどうだろうか?」

丹後、畏まり
「ご質問でありますから申し上げます。ご兄弟の皆様は何れも御器用にてあられますが、中でも
到明子御曹司は世に超えた人物であるところ、人々は広く沙汰しています。大友中興の祖である
親世公の生まれ変わりではないかとすら思われます。」

などと様々に褒め上げると、義鑑は大いに機嫌を良くした。

その後、義鑑は義鎮に対し、湯治のため別府へ出かけさせた。
そして重臣である斎藤播磨守、小佐井大和、津久見美作、田口といった人々を召して言い渡した
「私は到明子に家督を譲ろうと考えている。」

この言葉に一同は驚き
「一体どういう理由で義鎮様を差し置いて、後末子の到明子殿に家督を譲られるのですか!?
御意ではありますが心得かねます!」そう、一斉に反対した。
これに義鑑は何も言い返せず、機嫌を悪くし、重臣たちはそれぞれ御前を下がった。

義鑑は
「あの者達を誅殺し心のままにせん」と、その日の暮れに斎藤、小佐井の両名を召して、大門において
誅した。
この時、津久見、田口の2人も召されたのだが、詐病をして登城しなかった。彼らは斎藤、小佐井が
殺されたことを聞くと、
「我々ももはや逃げられぬだろう。ならば」

彼らは密かに大友屋形の裏門から入って二階の間に入ると、「到明子殿に久しくご対面していない。
さぞかし成長された事だろう。少々御目見得をさせて頂きたい」警備の者達にそう言いながら奥の高間へと
強引に入ると、そこに居た到明子を一刀に斬り殺し、引き取る刀で彼の母も害した。
そして一の台にいた局たちを一人残らず切り伏せ、田口は二階の間から居間へと通り、義鑑が上段に居たのを
駆け寄って斬った。
田口はお側の衆に討ち取られたが、大友義鑑もこれで深手を負い、天文19年2月9日、遂に儚くなった。
どういう御分別だったのだろうか。実に浅ましい事である。

(大友記)



139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/01(土) 22:27:51.55 ID:+ELXDe/8
>>138
その後の宗麟の酷さを見ると義鑑の考えが正しかったような…。
いやそんな事があったから歪んだというべきか?

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/02(日) 12:14:42.18 ID:H2n6JpLG
>>139
一次資料だと案外まともなんだけどな宗麟は

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/02(日) 12:33:26.78 ID:zc7ZWW+f
>>138
頼朝「兄より」
信長「すぐれた」
秀忠「弟など」
(●∀゚)「存在しねぇ!!」

(´・ω・`)「弟など存在しない…」

146 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/02(日) 12:37:06.65 ID:zszeXnAQ
>>145
隆元「ウチは弟達の方が優れてましたよ(胃をキリキリさせながら)」

147 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/02(日) 12:49:26.79 ID:hxDXM2tQ
元就「兄より優れててすみません。皆さん弟は大事にしましょうね」

148 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/02(日) 13:55:37.76 ID:zszeXnAQ
>>145
TDIE「皆々様の仰る通りでございます。兄より優れた弟などこの世に存在致しませぬ」(鎖帷子を着ながら)

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天文8年、豊後の大友義鑑は激怒していた

2011年08月11日 23:15

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/11(木) 19:24:43.82 ID:WsobpzMg
天文8年(1539)、豊後の大友義鑑は激怒していた。何故か?

それは同じ九州の大名、肥前有馬氏と日向伊東氏が京の将軍足利義晴に対し、
大友氏と同ランクの官職を与えてもらえるよう密かに運動していたことが発覚したからだ。

大友義鑑は京の将軍に対し猛烈な抗議文を贈った。

『有馬や伊藤は、大友から見れば被官並の家柄でしかありません。
そんな者たちに我々と同ランクの官職など、決して与えてはいけません!』

しかし足利義晴は大友の抗議をあっさりの却下。有馬・伊東は官職において
大友氏と同格になってしまった。大友氏にとってこの上ない屈辱的事件であった。

この事件があってから大友氏はそれまで以上に将軍家に接近し、のち、ついに
九州における室町幕府の最高職である『九州探題』を得ることと成る。

戦国時代には直接の争いだけでなく、官職などにより家格を上げる競争・暗闘もあった。
その、九州での一例である。
(大友家文書録)




380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/11(木) 19:53:38.52 ID:BdJKr394
3つの家は実際に何の官位を得たの?

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/11(木) 20:04:54.13 ID:WsobpzMg
大友義鑑がもともと修理大夫で、有馬・伊東のどちらも同じ修理大夫もらたw

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/11(木) 20:12:55.13 ID:TXrF6nz+
三者の関係は修理されなかった