53 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2010/03/26(金) 22:08:04 ID:pyjzUikH
大久保彦左衛門の第一次上田合戦
ある時とうとう真田と徳川が手切れとなり第一次上田合戦が始まった。
コレにはまだ若かりし頃の徳川二十八将の一人、大久保彦左衛門(当時は大久保平助)も、
元気に参加していた。
ちなみにこの合戦、真田家には昌幸と信幸が大将として参加していたが、
徳川家も負けてはいない。鳥居元忠、平岩親吉、諏訪頼忠、保科親子(正直と正光)そして、
「金の揚羽蝶」大久保忠世と「銀の揚羽蝶」彦左衛門の面倒くさいブラザーズなど
そうそうたるお歴々といいうより、天下に名を知られていた人たちである。
とはいえ、結果はご存知の通り徳川の負け。上田城の二の丸まで攻めたものの砥石城からの逆襲
で側面をつかれて敗走したらしい。我らが信幸兄ちゃんは砥石城にいたそうなので、要は
信幸兄さんにこてんぱんにやられたと言うことです。かっこいいですね。
さて、ここで彦左衛門さんは敗走する徳川軍の中で精一杯戦っていたところ真田の家来で
日置五右衛門尉という武者が、なんと、真田軍と思いこんで入ってきたのを彦左衛門が発見した。
彦左衛門「標識がない。敵だ!突き落とせ!」
日置「ちょ!まて!よく見ろ八幡だ!俺!オレ!オレだよ!日置五右衛門だよ!敵じゃねえ!」
日置さん・・・・ここ徳川軍です。
つづく
54 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2010/03/26(金) 22:08:55 ID:pyjzUikH
>>53
大久保彦左衛門は槍で突こうとしたものの、日置の従者に邪魔されてつけなかったので
近くにいた兄貴の家来の気多(ケタ)甚六郎に突かせたがコレも腰あたりに命中し失敗。
日置の首を取れなかったのだが・・・
日置「河中嶋衆之早く助けたりと思ひ、味方と心得て敵之中を通りける処に、大久保七郎右衛門尉弟の平助に突かれたる」
(意訳:味方助けに来たら敵じゃねえか!大久保忠世の弟の彦左衛門に槍で突かれちまった!)
彦左衛門「いやいや、我も突いてあれ共、我が突く鑓は捲けられて、五右衛門尉にあたらず。気多甚六郎とて
七郎右衛門尉者が鑓があたるなり、我にはあらず。」
(意訳:俺も突いたが失敗して兄貴の家来の気多のが当たったんじゃ!俺じゃねぇ!)
というわけで、この勝負、
大久保彦左衛門「刺突失敗」(引き分け)日置五右衛門尉「負け逃げ」
と締まらないことになっていたところ、これまた敵と知らずにやってきた真田兵と
同僚の天野小八郎が戦っていたのを見てみたら、相手は何と17か18才くらいだった。
彦左衛門「倅にて有ぞ。むごきに、赦せ。」
(意訳:まだガキじゃねえか。勘弁してやれよ。)
この勝負
天野小八郎(大久保彦左衛門預かり)真田の少年兵
である。助けてしまったんですなって、よくこんな余裕有ったな彦左衛門!
というわけで、大混戦の中で敵兵の命を助けた彦左衛門であった。
後に彼はこれを回想して三河物語に書く。
この少年兵を討たなかったのは、
『若気の至り』
であったと。
それにしても、ボロ負けした中でもちゃっかり自分の戦いは三河物語で自慢する彦左衛門さんであったが、
この時、神ならぬ彦左衛門のみならず参加した徳川兵全員だけではなく
勝利をかみしめた真田家全部ばかりか真田昌幸も、いや、真田信幸に至っては自分に降りかかることで
あるにもかかわらず気付かなかったことがある。
徳川四天王の本多忠勝が娘の小松の嫁入り先に頭を抱えていたという事実を!
そしてコレがずーーーーと後に信幸にとって・・・・・・・・・・・
この話の原典は
日本思想体系第26巻「三河物語 葉隠」(岩波書店)の三河物語(大久保彦左衛門著)で
お送りさせて頂きました。
業務連絡
ここで出てきた「日置五右衛門尉」って、どなたなんでしょうか?
三河物語にも「真田家内」となっているので真田家の武将というのはわかるけど。
まさか、歴史に残る著作に自分の間抜けぶりがのせられるとは・・・・
関連
真田信幸、大久保彦左衛門忠教に呼び止められる
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3924.html
57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/26(金) 23:11:19 ID:f/G7pzD0
>>54
真田側の記録だと日置五右衛門は三河出身の旧武田家臣
「依田助十郎」とともに大久保忠世の首を狙って潜入したが、彦左衛門にバレて
五右衛門は逃亡、助十郎は討たれたことになっている
真田が身内をかばってるのか、彦左衛門の記憶違い(?)かは不明
日置五右衛門の子孫は沼田藩で大小姓組頭百五十石取り
同心十五人持ちの御先手鉄砲組頭衆と同格なので、なかなかの家格
58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/26(金) 23:17:42 ID:TQXd8Uql
>>57
もしそれが事実なら、彦左衛門の性格からして嬉々として触れ回るんじゃないか?
60 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2010/03/27(土) 00:16:15 ID:Wf9R/XXk
>>57
おぉ!ご指摘サンクスコにござる!
日置さん討っておけば出世出来たのにね。
「依田助十郎」の記述は三河物語にはないので
別方向か突入時に彦左衛門の見えないところで
戦死かもしれませんな。
>>58
どうもこの時は、退却戦による大混戦で
首までは取れる状況ではなかったそうです。
三河物語にも『頸をば取らずして』踏ん張った
事が記載されています。
大久保彦左衛門の第一次上田合戦
ある時とうとう真田と徳川が手切れとなり第一次上田合戦が始まった。
コレにはまだ若かりし頃の徳川二十八将の一人、大久保彦左衛門(当時は大久保平助)も、
元気に参加していた。
ちなみにこの合戦、真田家には昌幸と信幸が大将として参加していたが、
徳川家も負けてはいない。鳥居元忠、平岩親吉、諏訪頼忠、保科親子(正直と正光)そして、
「金の揚羽蝶」大久保忠世と「銀の揚羽蝶」彦左衛門の面倒くさいブラザーズなど
そうそうたるお歴々といいうより、天下に名を知られていた人たちである。
とはいえ、結果はご存知の通り徳川の負け。上田城の二の丸まで攻めたものの砥石城からの逆襲
で側面をつかれて敗走したらしい。我らが信幸兄ちゃんは砥石城にいたそうなので、要は
信幸兄さんにこてんぱんにやられたと言うことです。かっこいいですね。
さて、ここで彦左衛門さんは敗走する徳川軍の中で精一杯戦っていたところ真田の家来で
日置五右衛門尉という武者が、なんと、真田軍と思いこんで入ってきたのを彦左衛門が発見した。
彦左衛門「標識がない。敵だ!突き落とせ!」
日置「ちょ!まて!よく見ろ八幡だ!俺!オレ!オレだよ!日置五右衛門だよ!敵じゃねえ!」
日置さん・・・・ここ徳川軍です。
つづく
54 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2010/03/26(金) 22:08:55 ID:pyjzUikH
>>53
大久保彦左衛門は槍で突こうとしたものの、日置の従者に邪魔されてつけなかったので
近くにいた兄貴の家来の気多(ケタ)甚六郎に突かせたがコレも腰あたりに命中し失敗。
日置の首を取れなかったのだが・・・
日置「河中嶋衆之早く助けたりと思ひ、味方と心得て敵之中を通りける処に、大久保七郎右衛門尉弟の平助に突かれたる」
(意訳:味方助けに来たら敵じゃねえか!大久保忠世の弟の彦左衛門に槍で突かれちまった!)
彦左衛門「いやいや、我も突いてあれ共、我が突く鑓は捲けられて、五右衛門尉にあたらず。気多甚六郎とて
七郎右衛門尉者が鑓があたるなり、我にはあらず。」
(意訳:俺も突いたが失敗して兄貴の家来の気多のが当たったんじゃ!俺じゃねぇ!)
というわけで、この勝負、
大久保彦左衛門「刺突失敗」(引き分け)日置五右衛門尉「負け逃げ」
と締まらないことになっていたところ、これまた敵と知らずにやってきた真田兵と
同僚の天野小八郎が戦っていたのを見てみたら、相手は何と17か18才くらいだった。
彦左衛門「倅にて有ぞ。むごきに、赦せ。」
(意訳:まだガキじゃねえか。勘弁してやれよ。)
この勝負
天野小八郎(大久保彦左衛門預かり)真田の少年兵
である。助けてしまったんですなって、よくこんな余裕有ったな彦左衛門!
というわけで、大混戦の中で敵兵の命を助けた彦左衛門であった。
後に彼はこれを回想して三河物語に書く。
この少年兵を討たなかったのは、
『若気の至り』
であったと。
それにしても、ボロ負けした中でもちゃっかり自分の戦いは三河物語で自慢する彦左衛門さんであったが、
この時、神ならぬ彦左衛門のみならず参加した徳川兵全員だけではなく
勝利をかみしめた真田家全部ばかりか真田昌幸も、いや、真田信幸に至っては自分に降りかかることで
あるにもかかわらず気付かなかったことがある。
徳川四天王の本多忠勝が娘の小松の嫁入り先に頭を抱えていたという事実を!
そしてコレがずーーーーと後に信幸にとって・・・・・・・・・・・
この話の原典は
日本思想体系第26巻「三河物語 葉隠」(岩波書店)の三河物語(大久保彦左衛門著)で
お送りさせて頂きました。
業務連絡
ここで出てきた「日置五右衛門尉」って、どなたなんでしょうか?
三河物語にも「真田家内」となっているので真田家の武将というのはわかるけど。
まさか、歴史に残る著作に自分の間抜けぶりがのせられるとは・・・・
関連
真田信幸、大久保彦左衛門忠教に呼び止められる
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3924.html
57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/26(金) 23:11:19 ID:f/G7pzD0
>>54
真田側の記録だと日置五右衛門は三河出身の旧武田家臣
「依田助十郎」とともに大久保忠世の首を狙って潜入したが、彦左衛門にバレて
五右衛門は逃亡、助十郎は討たれたことになっている
真田が身内をかばってるのか、彦左衛門の記憶違い(?)かは不明
日置五右衛門の子孫は沼田藩で大小姓組頭百五十石取り
同心十五人持ちの御先手鉄砲組頭衆と同格なので、なかなかの家格
58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/26(金) 23:17:42 ID:TQXd8Uql
>>57
もしそれが事実なら、彦左衛門の性格からして嬉々として触れ回るんじゃないか?
60 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2010/03/27(土) 00:16:15 ID:Wf9R/XXk
>>57
おぉ!ご指摘サンクスコにござる!
日置さん討っておけば出世出来たのにね。
「依田助十郎」の記述は三河物語にはないので
別方向か突入時に彦左衛門の見えないところで
戦死かもしれませんな。
>>58
どうもこの時は、退却戦による大混戦で
首までは取れる状況ではなかったそうです。
三河物語にも『頸をば取らずして』踏ん張った
事が記載されています。