おどけ者・中山大和守

2011年08月12日 23:05

72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/11(木) 21:59:35.79 ID:BC0UACuH
「細川越中殿ご内室、大坂屋敷にて自害!」
「上杉軍、最上領へ押し入る気配あり!伊達殿・堀殿、最上家へ後詰との事!」
「豊後にて大友義統、挙兵!黒田如水殿、これと対する由!」
「加藤主計殿、肥後にて小西摂津弟・隼人正と戦に入った模様!」
「・・・・・・!」
慶長5年(1600)7月、石田三成挙兵の報を受け、上杉征伐から取って返した徳川家康のもとに
各国から来る報告は、急を告げるものばかりであり、家康とその周囲の機嫌は思わしくなかった。

そんな時、家康家臣の中山大和守という、坊主頭なのに僧籍に入っていない男が、弁慶の格好をして
(木材で七つ道具まで作る凝りよう)、一尺六寸の大指物を背負い、額に赤い鉢巻を締め、取次の者に
「中山大和守、参上!殿にお取次ぎ願いたい!!」と、音声で名乗った。

常々おどけ者として知られる男だけに「また大和殿のなさることよ。」と誰も取り合わなかったが、
その大音声は家康の耳まで届いており、目通りが許された。

御前にまかり出た中山は、腰の脇差を外して、家康に見せた。
「これぞ今度、石田治部の首取る脇差なり~!」
言うが早いか脇差を抜いた中山、「やっ!やっ!そいやっ!!」と、三度続けて突く真似をしたあげく、
庭に飛び出し大立ち回り?を始めてしまった。

機嫌の悪かった家康も、これには大笑いして気分をほぐし、落ち着いて対三成の策を練る事ができた。
(慶長年中卜斎記より)

この中山大和守、元は下野宇都宮氏の一門だったという。関が原の戦いの後は家康の御伽衆となり、
家康の良き話相手として、皆から『談伴(たんはん)』と呼ばれ、楽しい老後を過ごしたそうな。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-581.html

かと言ってただの道化者ではなく、慶長4年1月、三中老の家康詰問の時に、奉行衆が家康屋敷を
攻めるとの噂が流れた際には、本多三弥正重と
「いっそ、石田治部に降参・・・するフリして、近づいて刺してやろうぜw」などと話していたという。




75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/12(金) 12:43:34.73 ID:xXOg0fub
>>72
なんか一途すぎて逆にユーモラスって感じだなw
三河者にはよくあることと思ったら宇都宮氏一門って名家出身なのね

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/12(金) 21:16:06.19 ID:kvYsXv6g
>>72
中山さん可愛いなw こういう緊張の場を解きほぐせる人って貴重だよね
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