644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/30(金) 21:38:25.49 ID:RkTmXovu
享禄五年八月、改元があり天文となった。
この年、一揆が起こり、細川晴元の衆と本願寺門徒たちとの関係が悪化し、
同年八月四日、晴元衆及び木澤左京亮長政方へ、一揆方より街道にて喧嘩が仕掛けられ
合戦に及ぼうとした。
これによりその日、晴元衆は堺の東、浅香の道場という本願寺門徒の寺とその近郷に放火した。
門徒衆は激怒し、大和、河内、和泉、摂津にて一揆を語らい、一斉に蜂起し、明けて五日には
堺に押し寄せ晴元を攻めた。
しかしこれに木澤長政は「何ほどの事があるか!」と、自身で斬って出て
「狼藉なり雑人ばら!一人も逃すまじ!」
そう防戦し、散々に蹴散らしたため、一揆勢は打ち負け、蜘蛛の子を散らすようにバラバラに
逃げ散った。
直接に戦った相手に打ち勝って、木澤は気分良く帰っていった。
しかしあちらこちらで一揆は蜂起し、晴元は窮地に陥った。
同日、摂津に一揆が起こり池田の城へ攻めかかったが、これを落とすことが出来ず講話して
帰陣した。
このような中、近江の六角定頼は晴元の舅であったので、彼に味方し門徒の本拠である
山科本願寺へ押し寄せ攻めかかった。長原太郎左衛門、進藤山城守、馬渕源左衛門、横山と
いった者たちが先陣にて進み、一方の門徒たちも、諸檀那と共に、命を弥陀の名号にかけ、
ここを先途と防ぎ戦った。
このような時に、常に本願寺門徒と関係の悪かった法華衆廿一箇寺、並びに諸檀那が合同で
決起し、本圀寺、本能寺、妙願寺以下残らず軍勢を催し寄せ手に加わり、山科本願寺へ
新手を入れ替え入れ替え切り込んだ。
こうして、同八月二十四日、山科本願寺は遂に陥落し、一宇も残らず焼き払われた。
この寺は久しく門徒の渇仰していた場所であったから、財宝も山のごとく満々とあったが、
富貴の下に久しく居ることは出来ず、いまや一時の煙と成って燃え上がった。
そして寺に有った僧尼も尽く討たれた、真に無残な事どもであった。
上人(本願寺証如)は命からがら落ち延びた。
(足利季世記)
山科本願寺陥落について
享禄五年八月、改元があり天文となった。
この年、一揆が起こり、細川晴元の衆と本願寺門徒たちとの関係が悪化し、
同年八月四日、晴元衆及び木澤左京亮長政方へ、一揆方より街道にて喧嘩が仕掛けられ
合戦に及ぼうとした。
これによりその日、晴元衆は堺の東、浅香の道場という本願寺門徒の寺とその近郷に放火した。
門徒衆は激怒し、大和、河内、和泉、摂津にて一揆を語らい、一斉に蜂起し、明けて五日には
堺に押し寄せ晴元を攻めた。
しかしこれに木澤長政は「何ほどの事があるか!」と、自身で斬って出て
「狼藉なり雑人ばら!一人も逃すまじ!」
そう防戦し、散々に蹴散らしたため、一揆勢は打ち負け、蜘蛛の子を散らすようにバラバラに
逃げ散った。
直接に戦った相手に打ち勝って、木澤は気分良く帰っていった。
しかしあちらこちらで一揆は蜂起し、晴元は窮地に陥った。
同日、摂津に一揆が起こり池田の城へ攻めかかったが、これを落とすことが出来ず講話して
帰陣した。
このような中、近江の六角定頼は晴元の舅であったので、彼に味方し門徒の本拠である
山科本願寺へ押し寄せ攻めかかった。長原太郎左衛門、進藤山城守、馬渕源左衛門、横山と
いった者たちが先陣にて進み、一方の門徒たちも、諸檀那と共に、命を弥陀の名号にかけ、
ここを先途と防ぎ戦った。
このような時に、常に本願寺門徒と関係の悪かった法華衆廿一箇寺、並びに諸檀那が合同で
決起し、本圀寺、本能寺、妙願寺以下残らず軍勢を催し寄せ手に加わり、山科本願寺へ
新手を入れ替え入れ替え切り込んだ。
こうして、同八月二十四日、山科本願寺は遂に陥落し、一宇も残らず焼き払われた。
この寺は久しく門徒の渇仰していた場所であったから、財宝も山のごとく満々とあったが、
富貴の下に久しく居ることは出来ず、いまや一時の煙と成って燃え上がった。
そして寺に有った僧尼も尽く討たれた、真に無残な事どもであった。
上人(本願寺証如)は命からがら落ち延びた。
(足利季世記)
山科本願寺陥落について
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