864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/10(金) 23:50:05.29 ID:2yQGbjqv
黒川道祐「
雍州府志 土産の部」から「定斎薬」
定斎薬
豊臣秀吉公、大坂城に在りし時、城下の薬店に定斎(
村田定斎)という者あり。
天性俳優を好む故、公猿楽を催す時、定斎狂言をなす。
かつて遊撃将軍・
沈惟敬、大明国より朝鮮国をへて本朝に来たる。
時に
沈惟敬、霊薬の方を秀吉公に授けたてまつる。
公、その方を定斎に授けらる。これを売りて恒産となさしむ。
この薬、諸病を治す。世に定斎薬と称す。
その孫、洛陽に来たり、東洞院綾小路に住す。今は青木屋と称す。
薬の行商人、定斎屋の起源について
沈惟敬がわざわざ秀吉に薬の処方を教えてくれたという話
865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/11(土) 00:36:27.04 ID:rA3d6hct
ついでに朝鮮で18世紀に編纂された野史「
燃藜室記述」の
巻之十七「宣祖朝之故事」から「秀吉、薬に斃す」
敷河という漢人の血を引く十二歳の者が捕われ、対馬に送られた。
「朝鮮の良家の子供を関白に献上する」と書に記されていたため、対馬の島主は秀吉に送った。
秀吉は敷河を熟視し「朝鮮の児も日本の児も変わらんな」と言い、通訳に対して「日本語をこの児に教えてやれ、理解させることができないようなら、児もお前も共に斬るぞ」と脅した。
三ヶ月後、敷河が日本語に通暁したため秀吉はこれを愛し、常に側に置くようになった。
平生、秀吉は三層の屏風でしきいられた中で過ごしており、左に鉄砲や刀、右に弓矢を備え、暇な時は近臣五人に故事を語らせ楽しんでいた。
秀吉には寵姫が五人いたが子供はなく、挙兵(文禄の役、壬辰倭乱)の年に一子・秀頼をもうけた。
丙申(1596年)秋、敷河は中華の使者・
沈惟敬が秀吉と会見した場にいた。
秀吉が宮殿で
沈惟敬を延見した時、
沈惟敬は座って丸薬をのんでいた。
秀吉がその薬について尋ねると沈惟敬は
「万里の海を渡ってきたので病がちになりました、しかしこの薬を飲めば元気が湧いて身体が軽くなります」
秀吉「嘘ではあるまいな」
沈惟敬「いやいや、まさか」と丸薬の入った袋を示した。
秀吉「わしも呑んでかまわんか?」沈惟敬「どうぞ」
秀吉は敷河に袋を取って来させ、中から丸薬を一つ取り出し、懐中から取り出した楊枝で二つに割り、
秀吉「では二人で呑むことにしようぞ」と片方を沈惟敬に渡し、二人で一緒に呑んだ。
翌朝、沈惟敬を引見するとまた一緒に丸薬を分けて呑んだ。
実は丸薬には毒が入っており、沈惟敬は秀吉のところから帰館すると他の薬を飲み、先の薬を体からくだしていたのだ。
秀吉はこの時から不調になり臥せるようになり、医者や鍼灸の効果もなく死んでしまった。
死に際して「わしの死を秘して喪も発するな」と遺言した。
死後、秀吉の内蔵は取り出され洗われた後また体内に戻され、酒甕に漬けられた。
有事の際は寵姫が決裁していたが、数ヶ月して臭いが甚だしく周囲にも噂が広がったため、秘密を守ることができず、喪を発することとなった。
秀頼はまだ七歳であった。
荒唐無稽とはいえ、秀吉が沈惟敬に薬をもらった点では上の話と共通しているのが不思議ではある。
866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/11(土) 12:44:13.71 ID:NYUYY1NT
ついでに秀吉が薬の袋を見たところ小さな字が書かれていて
秀吉「小さな字だの、日本では大きな字を好むのだが」
と言っているが、これも秀吉らしい気がする
867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/11(土) 13:15:03.68 ID:j1JDOPbO
老眼を認めないくそじじい典型
868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/11(土) 17:41:06.07 ID:tX6dLA0G
字が読めない可能性もある
870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/12(日) 23:26:37.51 ID:iquFBlEG
秀吉は直筆の書状と認められてるものもたくさんあるから読めないはありえないだろ
軍司令官勤めた時点で文盲はない
871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/13(月) 17:36:37.12 ID:i+cOcqlm
読み聞かせる人がいれば自分で読む必要がないな
872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/14(火) 13:14:27.39 ID:+oQNRbQ5
文盲かな