かの国に我が軽便なる仮名文を

2017年02月15日 18:31

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/15(水) 01:40:39.18 ID:4CNYhBVK
豊臣秀吉が朝鮮を征せんとして都を出発した時、ある人が秀吉に、

「かの国に渡るのに、漢文を得意とする者がいなくては、日本の恥辱
ともなりかねませんから、宜しく漢文を得意とする者を従えなさることが、
しかるべきでありましょう」

と言ったところ、秀吉が笑って言ったことには、

「我の此度の行動は、かの国の難渋な鳥跡の愚文を学ばんとするに
非ず。まさに、かの国に我が軽便なる仮名文を用いさせることにある」

とのことであった。その勇気、もっとも称えるべし。

――『常山紀談(異本に拠る)』



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膳も飯碗も

2017年01月25日 09:23

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/24(火) 22:04:30.02 ID:LDvcfYRS
伏見城にて豊臣秀吉が諸大名と雑談するとき、料理の出る時間と成ると、
ここには茶の湯坊主が10人ばかり居たのであるが、そのうちの3人から5人くらいが
給仕をした。

この時、秀吉の膳は掛盤であった。そして徳川家康も同じ掛盤。飯の鉢も秀吉のものと
全く同じであった。その他の相伴衆は普通の鉢と平膳。前田利家も家康と同じ組の
咄の衆であったのに、平膳であった。

徳川家康の膳は秀吉のものと少しも違わず、雑談のときも「家康公」と呼んでいた。

(慶長年中卜斎記)

秀吉の、家康に対する待遇についてのお話。



537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/24(火) 22:09:26.68 ID:Uf4J9IDv
これはかなり興味深い話だね

秀頼の件を考えると、「ちょっといい話」とは言いがたい気がするけど

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/24(火) 22:56:41.64 ID:mdUNMSiV
妹を家康の嫁にやって秀康を養子にして江を養女にして秀忠の嫁にして秀忠の娘と秀頼が婚約して、
遺言の事とかも考えると秀吉は家康というか徳川を自分の一門と思ってたんじゃないだろうか。

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/24(火) 23:18:03.47 ID:UecvBDf4
>>538
忘れられがちだが信吉は木下勝俊の娘を娶ってる。

豊臣家の台所

2017年01月09日 17:46

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/08(日) 19:39:56.89 ID:XKOv1VuV
豊臣秀吉公の時代、台所の衆は朝の日の出に参った。台所の詰め所の前に鐘があり、
この鐘を突いて、料理人や遣いの荒子などを集め、その人数を帳に付けた。

その後七つ半(午後4時頃)で業務を終え、朝の鐘の場所に再び集まり、それぞれが人数帳に
記載されていることを確認すると、台所の扉を外から閉じ、鎖の掛かった鍵を下ろして宿へと帰った。
この中に男は一人もなかった。

(慶長年中卜斎記)

秀吉の時代の城内の台所の様子、である。



水手(かこ)切りと厚藤四郎

2017年01月02日 20:59

487 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/01/02(月) 11:15:43.31 ID:/Gyz7fw9
水手(かこ)切りと厚藤四郎

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2043.html?sp&sp
↑に纏わるお話

天正20年(1592年)7月、母大政所が危篤という報を受けた秀吉が、肥前名護屋城から水路上洛中、舟が豊前の沖(関門海峡)で浅瀬に乗り上げ、転覆しそうになり秀吉は海中へ投げ出された。
この浅瀬は、地元では「篠瀬(しのせ)」と呼ばれ、満潮時には波の下に見え隠れするために恐れられており、別名「死ノ瀬」とも呼んでいたという。これに加え、この地域独特の「戸ノ上下ろし」と呼ばれる激しい突風が合わさり、古来難所として知られていた。
秀吉は危うく遭難する所であったが、護衛にあたっていた後続の毛利秀元の船に救い出されて難を逃れ、この功により秀元は名物「厚藤四郎」を拝領した。

太閤肥前名護屋より帰洛の節赤間ヶ関にて乗船座礁したる時秀元僅かに十四歳小船を漕寄せ太閤を救ひまへらせしにより海岸の砂原にて秀元に賜りし由物語にあり

この時秀吉は、海難と大政所の臨終に間に合わなくなるという怒りから、水手の頭明石与次兵衛をこの時佩刀していた、備前三郎国宗で手討にしようとしたと伝わる。

その為、この備前三郎国宗に水手(かこ=船頭または船乗りの意)切りの名が付いたと言う。

488 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/01/02(月) 11:21:21.59 ID:/Gyz7fw9
異説として、この際毛利秀元の懇願により、明石与次兵衛は打首ではなく切腹(当時の武士としては名誉の死)に処されたという。
明石与次兵衛は柳ヶ浦の浜で自害するが、地元では与次兵衛の不運を哀れんで遺体を浜に手厚く葬り、目印に一本の松の木を植え、
後に「明石松」と呼ばれたという。また篠瀬も同様に「与次兵衛ヶ瀬」と呼ばれるようになったという。
のち、慶長5年(1600年)に黒田孝高の後に細川忠興が豊前に入部する際、この明石与次兵衛が事故当時に細川家の組下であったことから、
与次兵衛の死を悼みまた航海の安全を祈願して、船が座礁した暗礁に明石与次兵衛の塔を建てさせている。
その後この石塔は何度も流されるが、そのたびに建てなおされている。しかし文政11年(1828年)の嵐の際に大波にあおられ、ついに海中に流されてしまったという。
文政年間に柳ヶ浦一帯の民の手により再建されるが、大正年間に旧日本海軍が航路を確保する目的で暗礁を爆破する際に、石塔は海中投棄されてしまった。しかし戦後、昭和29年3月に門司郷土会の有志によって海中から引き上げられ、現在は和布刈めかり公園に建っている。

水手切りはこの明石与次兵衛切腹の際、介錯に使われたとも言われる。

与次兵衛は元は明石(石井)与次兵衛といい、播磨国明石を拠点としていた海賊衆。
その後豊臣秀吉の水軍の将となり、石井の姓を与えられ、四国攻めや九州攻め、小田原攻めなどにおいて活躍したという。


490 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/01/02(月) 11:35:13.41 ID:/Gyz7fw9
>>487の追記として、毛利秀元は秀吉を自らの舟で救助した際、家臣共々秀吉に逆心無き事を示す為、
この時佩いていた自分達の刀を海に投げ捨て、その気遣いや手際の良さから秀吉からその器量を認められ、
後に秀吉養女の大善院(秀長娘)を妻として迎える事になったり慶長の役で若輩にも関わらず病身の輝元の代わりに右軍総大将を任されたと言う。



羽柴秀吉朱傘

2016年12月14日 16:59

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/13(火) 22:22:58.00 ID:8cn/idtk
羽柴秀吉朱傘


織田信長は中国攻のとき、羽柴秀吉を大将として行かせた。
朱傘を与えてこう言った。

「陣中にこれをささせて我がように武威を張ること、
この傘の開くようにしろ。」

秀吉はかしこまって退去し、直ちにその傘をささせて出て行った。
信長は櫓上から望み見て、

「彼に陣中で武威を示せと命じたが、早くもここから人目を輝かせた」

と喜び賞したという。


(甲子夜話)



侍妾等宗旨の話次、太閤の宗旨の尋に当惑せし事

2016年12月03日 09:01

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/03(土) 01:07:04.40 ID:YNCSQY1u
侍妾等宗旨の話次、太閤の宗旨の尋に当惑せし事

 一笑のことを記す。
ある夜、予の書机の傍らで待妾等が居て話しているのを聞いた。
「私は何宗です。」、「私は何宗ですよ」...等と言っていた。
やがて予に向かって、

「公儀の御宗旨は何ですか?」

と質問してきた。

「御先祖の頃から浄土宗である。
上野の寛永寺は天台宗だが別に理由がある。」

と答えた。そして、こうも質問してきた。

「ならば太閤様の御宗旨は何ですか?」

予は返答に当惑した。
思ってみると、足利は尊氏以来禅宗だというのは世の知るところで、
信長も総見寺のことをみれば同宗である。しかし太閤に至ってはまだ知らない。
よって「全く知らない」とその場では笑って過ぎた。

 それから明日天祥寺に詣でたときに、和尚二人に出逢ったのでこのことに及ぶと、
両和尚の答えもあれやこれやで的を射たものでなかった。
また林氏(述斎)へも便りにこのことを問うと

「御宗旨は大仏殿などのものと同じかもしれない。
しかし私は元来儒家で、釈子のことには関わっていない。
なので審査しないので答辞に及ばない。」

そこで隣宅の荻野長に問うた。

「高野山行人方の木食高山上人のことについて、黒田如水の覚書に記した文に、
『御所様はまだ御小身の御時から、高野山行人の衆を御信仰と云々』というものがあります。
また高山上人の取り成しにより豊太閤の助勢を得て、高野山は再興しました。
ゆえに今も高野山奥院大師の廟は行人方で管理しています。
行人方は秀吉の取り立てで高山寺を頭頂としましたので、
学侶は青厳寺を本寺としたようです。
阿弥陀が峰も高山寺の持ちであります。
今は妙法院でお持ちになられていて、慶長十二・十三年の頃から天台座主のお持ちとされたそうです。」

ならば秀吉は真言宗である。

『秀吉譜』で云う
「十八日、前ノ関白秀吉伏見の城に薨ズ。洛東ノ南辺阿弥陀ガ峰ニ葬る。
木食興山上人経始之事ヲ監ス。墓を其巓ニ築キ、祠ヲ其麓ニ構フ。
廟社既築、後妙法院ニ於テ、秀吉之月忌毎ニ必ズ諸宗ノ僧徒ヲ聚メ、斎ヲ設ク。
聖護院門跡道澄ヲ以ッテ大仏殿ノ住持ト為ス。
〔院号ヲ改テ照高ト曰フ〕」

(甲子夜話続編)

確か、方広寺の大仏殿で秀吉の先祖の供養ために
不受不施派以外に宗派を呼んだたしいので、
秀吉は不受不施派以外全てであるでも正解かもしれません。



伏見馬揃えの事

2016年11月29日 09:05

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/28(月) 21:25:08.51 ID:TtoGbpWs
豊臣秀吉が伏見指月の城に天守や御殿を夥しく建設した理由は、当時朝鮮よりの遣いが来るため
異国への外聞故であった。

朝鮮より明軍の遊撃将軍(沈惟敬)が来るとの情報が聞こえると、秀吉は彼に馬揃えを見物させよと
仰せ出し、このため諸大名は多勢の準備が必要となり、これら人数を置く場所を請い、それらは
草津、石山、大津、坂本などに置かれた。

徳川家康の用意した人数は五千。これらは鞍馬、八瀬、木船、嵯峨、西ノ岳その他の場所に分散して
置き、それらから一備づつ押し出し伏見へ乗り入れる計画であった。

秀吉は、遊撃将軍がこの馬揃えを見物する場所は大仏山門と定められた。そして馬には鎧を掛け、
馬面、馬上には大小の金の熨斗を着け、騎馬の者達も全員甲冑姿になるようにと命じた。
そして遊撃も来日し、馬揃えは閏7月18日と決定。諸大名には近日までに待機場所へ行くようにと
命令があった。

そのような中、閏7月12日夜半、大地震が起こった。

この時、大仏は黄金に鍍金してあったが、揺れに寄って破損した。
伏見天守も上の二重が崩落した。
御殿の棟木は飛び、破風の作り物の狐格子は落ちて中まで丸見えとなった。
諸大名屋敷の御成門も損壊し、大手の二階門も揺れ崩れ、一庵法印という番衆も死んだ。
徳川家康の屋敷の2階建ての長屋も崩れ、加賀爪隼人も死んだ。
伏見中で家長屋が潰れ、死者は数知れないほどであったが、歴々で死んだのは一庵と加賀爪の
二人だけだった。

地震によって御殿、天守、諸大名の屋敷などは崩損し、この事に豊臣秀吉は以ての外に立腹した。
伏見に入っていた遊撃将軍も、夜中に伏見を退去したという。仔細の有るべきことだが
どういう理由かは知らない。

(慶長年中卜斎記)



357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/29(火) 18:57:27.86 ID:69pTnGMp
>>356
中国では政治が乱れると災害が起きると言われてるが、まさにw

東照宮聚樂にて秀吉公に御対面の事

2016年11月17日 10:32

330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/17(木) 00:45:43.15 ID:nsYOTjzX
東照宮聚樂にて秀吉公に御対面の事


 東照宮が聚楽で秀吉に御対面され饗礼が有った日に、
秀吉は白い紙子を羽織に縫ったものを着られていた。
その頃三十二歳だった蒲生氏郷が狐紙子と名付けそう呼ばれていたという。

浅野弾正長政が東照宮に「その羽織を御所望してください」とささやいた。
東照宮はみだりに人の物をもらう事となるからと断ったが、

「御所望されましたら秀吉様は大いに喜ばれるでしょう。
この羽織はもともと具足の上に着るために仕立てられたものなので、
一旦は断られるかもしれませんが、そこをなんとか羽織を求め手に入れてください。
秀吉様はこれにまさることがないほど喜ばれるでしょう。」

と長政は重ねて申してきたので、
東照宮はやむをえず言葉に従うことになった。

 そして聚楽の城門で毛利宇喜多を始めとした者と居並んで拝謁し、
さて茶を献上された後、東照宮はかの羽織の事を仰せられた。
秀吉は喜んで羽織を自ら着せられ、大名に向かって、
「わたしに具足を着させまいとの事である。
秀吉は誠に天の冥加に叶ったものである。」
と語られた。

 東照宮は帰られた後、長臣達に聚楽の事々を話されたときに、
「私に羽織を贈った後に秀吉は『私に具足を着させまいとの志である』と
諸大名に向かって言われた。
『これからは私が具足を着て出向くことになるのだから、秀吉の鉾先に向かうこと誰ができようか。』
と中国四国に語りつがせるためである。
広く世人の口にされることとなり、筑紫の末まで聞かれることになるだろう。
天下の大名に威を示す謀略である。
その遠大な謀をたやすく計ることはできない。
秀吉のこの計略には力で推し量ろうにも及び難い。
されども私が志すところは別にある。」
との仰せがあったという。
(常山紀談)


秀吉にいいようにつかわれ、プロパガンダに利用される家康....
この年は天正14年(1586年)なので、蒲生さんは三十一歳なのでは?



331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/17(木) 07:56:39.35 ID:GDJQT7/A
>>330
聚楽第だったという設定なら天正15年だから合ってるでしょ。

呼坂という名は

2016年10月12日 14:08

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/12(水) 13:38:56.99 ID:/BWvja7B
寛政十二年、作者の松浦清が冬になってから、平戸から江戸に出発したときの紀行から。


 十月二十五日 周防国の呼坂を出発した。
宿の主に、呼坂という名はどうのような由縁があるのか聞いた。
主は、

「豊臣太閤が朝鮮を伐ちなさった時、ここで従軍の兵卒を呼びなされたことから
名づけられたと聞き伝わっています。呼坂とはここの前にある坂を申します。
またここらへんに勝間村という村があります。
そこには勝八幡という祠があります。これは式内の社で、かつの神社とか申すと聞いています。
太閤がこの地を通られた時、この社に詣で、名を問われたので、"かつの社"と答えたら、
喜んで

『発軍に勝をいうのは吉兆である。また八幡の御神は軍神でおわしますので、
かたがた勝利の瑞である。』

と、その地の竹十二本を取って旗竿として、神祠には厚く敬礼されたとか。
またこの道は初めは花岡の駅から高森までで、南のほうを海浜の沿っていました。
太閤が薩摩を征されたときはその道を通られたが、
朝鮮を伐たれるときは新たにこの道を開かれた。」

との話をした。

(甲子夜話続編)




太閤の耳塚は

2016年10月11日 16:51

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/11(火) 13:58:34.44 ID:cmvPSgmJ
 荘の近所にある御勘定所に、中村某なる者が住んでいる。
去冬から上加茂下加茂貴船御修営のことを役目として上京し、
この夏帰府した。兼ねて懇ろな人だったので、
ある日その宅を訪ねて京話を聞いた。
さてもさても、都といい、また旧山川といい、一感一喜珍しい面白いことどもが
湧くようであった。
そのうちのいくつかを留めた。

予は第一に問うた。

「大仏殿の石垣には、そのころの諸家から寄進された大石があり、
その献上された大名の家紋が彫られているという。
きっと予の祖先の紋もあるはずだと、京地の人や通行した人から聞くがはっきりとしない。
実際あるのか?」

「紋はもとから無い。かの石垣というのは、二間三間におよぶ自然石を、その石のまま重畳し、
石垣としたものである。紋所というのは見えない。」

大仏石垣の話のときに、予は問うた。

「文禄朝鮮攻めのときの耳塚は、先年の大地震に崩れたという。本当か?」

「そうではない。年が古いので誰も見るもの無く、草木が生い茂り、その上からそびえて見える。」

などと答えた。


 さて『閑田次筆』〔伴蒿蹊著〕というに挙げられているのは

「讃岐由佐邑の人、菊池武矩『つくしの記行』に、
筑前国、浜男という所の近くに耳塚が有る。神功皇后が三韓を打たれた時、
その国の人の切り、耳を埋められた所であるという。
これが本朝の耳塚のはじめで、この後源義家朝臣、奥州の戦に打ち勝ち、
河内国に耳塚を築き、耳納寺を建てられた。これが二度目である。
豊臣公、京大仏に耳塚を築かれたのは第三度目である。」

 このことによれば、太閤の耳塚は神功の古例に拠ったのか。
しかし神功は征伐である。豊臣氏は残忍である。
その応報は、ある人曰く、阿弥陀が峰の豊臣公の墓は、
後代に至って、頑民が悉く奪い去り、今はわずかに地底の骨棺のみ存すと。

(甲子夜話三篇)



203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/12(水) 04:41:40.18 ID:6gGIiIHG
豊臣氏は残忍である
???

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/12(水) 07:57:24.56 ID:zRqAX6S/
秀吉は残忍じゃなきゃいけないんでしょ

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/12(水) 14:14:27.40 ID:Ml1Xcr10
>>204
『耳鼻削ぎの日本史 』で清水克行先生も、「やっぱ秀吉って残忍だわ」って書いてるな

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/12(水) 19:42:48.08 ID:zRqAX6S/
特別なことでもないって記述をネットでは見かけるけどそうでもないってことなのかな?

しろみず坂

2016年10月10日 14:06

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/10(月) 12:47:54.48 ID:yHgP8rQJ
 箱根の関のこなたにしろみず坂というものがある。
小田原城の見える所なのに城不見(しろみず)というのは、
豊臣太閤が北条攻めのとき、ここまで来て城を見ないで止まられた。
近侍の人が何故に城を見られないのかと不審がると、
「いやいや、城を見たら大砲の恐れがあるので見ない。」
と話されたという。
これからその地の字となったとか。
(甲子夜話続編)

北条方も大砲を持ってたんですかね



234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/10(月) 13:54:15.70 ID:M8uKGH4G
総大将を狙撃するための流言かもしれないから用心したんでしょ

秀吉はこの榎の大木でばかり

2016年08月07日 13:37

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/07(日) 08:07:56.09 ID:Bz19eD8x
秀吉が幼少の時に手習いなされたところは尾張萱津の横笛山光明寺である。
その門前に三島の社がある。社の辺りには榎の大木がある。

土俗の伝えによると、秀吉はこの榎の大木でばかり遊んでおられたという
ことである。この理由は、手習いを嫌ってのことである。

成人してその事を思い出されたのであろうか、あるいは、幼年といえども、
大志の人だから、その樹下で何事か将来を思慮されたのだろうか。信長公
に仕えて士に列せられた時に至り、秀吉は“木下”と称号した。

その榎は今も繁茂しているという。これは光明寺の所伝である。

――『明良洪範』



天守御櫓の事

2016年08月04日 14:04

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/04(木) 13:11:25.50 ID:NivR6Jne
天守御櫓の事

この頃、大城天守の図として示す者がいた。
御天守は今は無いが、図で見ると、その壮観を知ることができる。
予はある人に尋ねた。
「これは一城郭である。この中に水があればなお堅固を保てるのではないか?」

その人は

「大阪の御天守も以前天火のために焼けて今は無い。
しかしながらこの御天守の中に井戸がある。黄金水と称す。
常にこれを汲むことを禁じて、夏土用の中三日では許していた。
よって御城代の家臣、その他奴僕に至るまでこれを汲むと、
よってその清潔さは氷のような名水であった。
また井戸の深いことは数仭で、俗に伝わるところでは、井中のかわは金で造ってある。
よって水性の美をなし、かつ黄金水と呼ぶ。」

豊公の勢をもってすればこのこともあるだろう。
また天守の内にはかく水が有ることはもっともなことであろう。
しかし地の利は人の和にしかず。格言である。

追記する。
この天守の中の井戸は、すでに石山本願寺の二世顕如上人の時に、上人が掘ってあったという。
この上人も猛勢であったことは人の知るところであるので、太閤の掘ったものにも劣らないだろう。

また江戸城の御天守にも御井戸があったそうだ。かつ清泉だったとか。
今も御天守番の人は、時々汲み帰る者がいるという。


(甲子夜話)



43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/04(木) 16:35:31.12 ID:kfD42Jl/
黄金水と聞くと、ついあっちの方を連想してしまう

太閤の家において三奉行とは

2016年07月19日 18:47

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/19(火) 02:53:44.13 ID:wR6zY0cc
太閤の家において三奉行とは、石田治部少(三成)、増田右衛門(長盛)、
長束大蔵(正家)のことである。

四奉行は、先の3人に徳善院(前田玄以)を加えたものである。五奉行は
先の4人に浅野弾正(長政)を加えたものである。

――『武功雑記』



奈良かしや

2016年05月28日 11:09

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/27(金) 19:30:34.87 ID:8hj2j5oy

秀吉公の御時、ならかし(均し・徳政)という事があった。
貸した者が原金を失った上になお、放埓を働いた罪科は軽くないと、
再び黄金を出させましたので、

奈良かしや この天下殿 二重どり とにもかくにも ねだれ人かな
(醒睡笑)



奈良坂や 児の手柏の二面 とにもかくにも ねだれ人かな

の本歌取り


大坂落城の時、豊臣秀頼は

2016年05月27日 17:52

654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/26(木) 23:09:30.66 ID:YW3TXSxA
 大坂落城の時、豊臣秀頼は秘かに薩摩に行かれたという一説がある。
このことは異域でも聞こえていると見えて、『湧幢小品』に(明の朱国禎が著したもので、第三十に見える)
「秀頼が敗走して和泉に入り城を焚て死す。又逃て薩摩に入ると言ふ者有り。」
と書かれている。「和泉に入る」とは誤聴である。

 また何で見たのだろうか、落城の時、神祖は天守に火がかかっているのをご覧なされて、
「早く場所を他に移せ。」
と仰せられた。
左右からは
「まだ秀頼の安否が分かっていません。」
と言上があったが、
「天守に火がかかれば落城である。」
との仰せなので、すぐに場所を移されたという。

 またある人が言うに、秀頼が薩摩に行った後、大酒で所々で困ったという。
酒の負債が多くあったともいう。


因みに、今高崎候の居間の襖には秀頼の画というものがある。
金地に老松を描き、その上に一体に空き間もなく廉を描いてある。
廉外に見える体である。もっとも着色である。
その筆は雅楽助、山楽などと見える。
(甲子夜話)

秀頼作の絵というものを一度は見てみたいですね



655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/26(木) 23:33:24.77 ID:aTn+OOyq
明の人「似たような話を聞いたことがあるな
父親が乞食から成り上がって天下とった後、子供のために粛清しまくったら
父親の死後、息子が叔父に(一応旭姫の夫だし)攻められ落城
焼死したということになってるが、実はどこかで生存しているという話を」

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/27(金) 18:48:52.10 ID:/TJu3MHx
>>654
秀頼作
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/df/Maple_viewers.jpg/1280px-Maple_viewers.jpg
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狩野秀頼だけど

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/27(金) 19:30:34.87 ID:8hj2j5oy
>>656
そっちは"すえより"なんだよなあ

速やかに退去せよ。

2016年05月22日 11:00

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/21(土) 18:39:05.74 ID:MJ+Dsnbs
備前中納言殿(宇喜多秀家)御簾中(豪姫)が、最近産後のご病中に、物の怪が憑いたとあい見える。
きっと野狐の所為と太閤殿下は思し召され、御朱印を以ってこのように決定された。

日本の領域において、誰が公儀を軽んずるだろうか。天下において生命あるものから生命無きものまで、
すべて上意を重んじている。いわんや畜類がそれを畏れ従わないということが有るだろうか。
速やかに退去せよ。

こうなった上は、尚も取り憑き、この物の怪のために不慮の事態が出来すれば、当社(伏見稲荷社)は
即座に破却する。その上で日本国中に狐狩りを毎年かたく仰せ付けられ、その類を断ち、尽く殺し果たす
旨を御意として表明された。

社人はその旨をよく理解し、肝胆を砕いて御簾中が回復する為の祈祷をする事に専念すべきである。
恐々謹言


拾月廿日       石田治部少輔
               三成(花押)
           増田右衛門尉
               長盛(花押)

(伏見稲荷社宛文禄四年書状)

有名な秀吉による、豪姫狐憑きに対する反応である。



642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/21(土) 18:55:34.87 ID:DObW0O0V
産後鬱だったんじゃないのかね

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/21(土) 20:56:51.50 ID:pHCqulG8
ラスボスの恫喝が怖い

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/21(土) 21:53:32.60 ID:teJVoUjd
犬千代がラスボスから 国宝大典太光世を借りパクする
ためのイベント

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/22(日) 00:49:25.25 ID:3/b36sce
>>642
今でいうとそういう医学的な言い回しがあることでも、
当時だと経験的にそういうことがあって原因は「物の怪じゃないかな」って話結構あるのかな

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/22(日) 08:43:01.02 ID:00wt5hra
レビー小体型認知症が知られたのって結構最近
幽霊見たって話は大抵これで説明出来る

関白任官の理由

2016年04月29日 18:33

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/29(金) 17:06:55.08 ID:ffZrOZ+L
大坂の陣が起ころうとする時、大阪の豊臣家は島津家に対して援兵を募ったと、浪華軍記、村越覚書等に
記されているが、これに対して島津家からの返答はなかったという。
そもそも島津家、伊達家、上杉家といった家は従来、自己の武功を以って治め来たりし国であり、
太閤秀吉の与えたものではなく、この点、加藤福島といった人々とは別である。故に秀吉自身も、
天下の武士の心を察して、自ら征夷将軍とはならず、関白に任官したのである。

これによって秀吉は、天下の大名に上洛を促し、聚楽へも参勤をさせた。
この国に在る者は、誰が神系(天皇家)を尊ばないものが居るだろうか?
故に、もし秀吉を疑って上洛を遂げぬ者があれば、直ちに朝敵であるとの名を付け
之を討とうとの謀であった。
小田原の北条父子の事などは、こういう視点で見るべきである。
これ故に、天下の諸侯もやむを得ず在阪するもの多かったのである。

(慶元記)



だからこそわざと隣同士において

2016年03月13日 18:50

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/13(日) 05:23:41.44 ID:J76LvMUu
この年、天正19年は改元して、文禄元年となった。
諸国の軍兵は豊臣秀吉の命を受け、筑紫に赴き、朝鮮に入る準備をした。

12月28日、近江中納言豊臣秀次は関白に任じられ、天下の政治を掌握した。
そして秀吉は太閤と称した。

秀次はこの日参内し、日本中の大小名の内在京しているものは、尽くこれに供奉した。
その行列は予め定められ、1番に蒲生氏郷、2番に伊達政宗、3番が山形(最上)出羽守義光であった。
ところがこの事に対し、蒲生氏郷が秀吉に訴え出た

「山形は源氏の末裔であり、また伊達政宗に対して母方の伯父であります。それなのに義光が
政宗の跡に立つのは本意に非ずと、出羽守は頻りに嘆いています。」

秀吉はこれを聞くと
「誠に私の過ちである。山形は源氏、政宗は藤原氏。山形は伯父、政宗は甥である。
また山形は忠節人、政宗は降参人であるので、山形を先にするのが道理である。」

こうして義光が政宗の先に立つことに決まった。
義光は大いに喜び、蒲生氏郷に対し
「天下に面目を立てることが出来ました。一生この恩は忘れません。もし会津に一乱有れば、
必ず義光が救いに参ります。」
その証人として、息子の駿河守を人質として会津まで送ったが、氏郷はこれを丁重に送り返した。

さて、伊達政宗は、これに間に合うよう年内に上洛していたのに、その甲斐もなく義光が
行列の2番に立つことになった。政宗はこの顛末を聞くと、蒲生氏郷を憎むこと骨髄に至るほどであった。

蒲生氏郷伊達政宗の関係が、水と火の如くであることを、秀吉はよく知っていた。
だからこそわざと隣同士においてその境を守らせたのである。

(伊逹秘鑑)

蒲生氏郷伊達政宗の悪関係、実は秀吉が煽っていた、というお話



秀吉・お祢に口答え候はば、一日一夜縛り申すべく事

2016年01月30日 17:43

60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/30(土) 12:34:06.81 ID:OQaqTFvJ
   おきて

一、足さすり候とき、居高なるていをし候者においては、ふちふち十石返させ申すべく事
一、湯殿の裏への供番、代わりたるべく候事
一、秀吉・お祢に口答え候はば、一日一夜縛り申すべく事
以上

天正十三年十一月廿一日 でんか

( 豊臣秀吉文書集二 1757 足さすり等掟)

ちょっとブラックな豊臣家が垣間見える掟
(読みづらいので原文より漢字を増やしてます)



61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/30(土) 14:30:24.35 ID:g4DmB2LH
>>60
この時代はどこもこうだったのか、それとも厳しい方なのかわからん。

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/30(土) 14:59:09.43 ID:ZGufmnku
天正十三年十一月だと関白になって四国平定した後くらいかな