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「賞功不踰時」というのはこれなり

2019年03月05日 18:08

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/05(火) 17:59:17.91 ID:kXHf7c1b
(柴田勝家討伐後)

今回の柳瀬表で秀吉が切り崩した時の一番槍はことごとく近習の輩である。

その面々は、福島市松正則・脇坂甚内安治・加藤孫六嘉明・加藤虎助清正・平野権平長泰・片桐
助作直盛(且元)・糟屋助右衛門尉(武則)・桜井左吉(家一。原注:秀長近習也)である。

石河兵助一光(石川一光)は一番に駆け入り、冑の内を突かれて討死した。これにより、舎弟の
長松一宗を召し出して家督となしたものである。

その9人はよき席を設け盃を下して領知を遣わし、添えて黄金羅帛と感状あり。その文言に曰く、

 今回の三七殿御謀叛により濃州大垣に陣替えした時、柴田修理亮は柳瀬表に至り出で立った。
 そのため一戦に及ぶべく秀吉が一騎で馳せ向かうところに、心掛け浅からぬ故、早々と駆け
 つけて、眼前で一番槍を合わせた。比類なき働きなので褒美(原注:あるいは3千石。ある
 いは5千石)となして宛がう。ますます今後も軍旅の忠勤を抜きん出れば、勲功を計るもの
 である。よって件の如し。

  天正11年(1583)7月1日 秀吉判

軍書に曰く「賞功不踰時」というのはこれなり。

――『天正記(柴田退治記)』



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これにより杉原・荒・仙石が先をなし

2019年03月04日 18:27

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/04(月) 17:51:38.81 ID:5DaS4Rjq
さて、羽柴筑前守秀吉は舎弟の小一郎秀長を伴って、さる天正6年(1578年)に播磨へ下り、
別所と対峙して以来、西国征伐の軍主を奉り、備前美作の守護・宇喜多は手に属し、播磨・但馬・
因幡以上五か国の人数を引率し、天正10年(1582)3月15日、備中国へ向かって冠城に
押し寄せた。敵の備はもっとも剛強なり。

さてこの城は、たとえ人数を損おうとも無二に攻め破り西国の響きにする旨を、かねてより定めて
いた。これにより杉原七郎左衛門尉家次・荒木平太夫(木下重堅)・仙石権兵衛秀久が先をなし、
かの地で肝要の践をなして水手を攻め入りこれを取った。

秀吉は感悦して3人ともに馬・太刀を遣わしたのである。城からはとりどりに懇望を尽くしたが、
これを聞かずに万牛五丁の攻めをなして即時に乗り込み、ことごとく首を刎ね終えたのである。

――『天正記(惟任退治記)』

わざわざ名前が挙がるあたりこの3人当時は期待されてたのかなぁと思った。


天下は秀吉の掌握に帰すといえよう

2019年02月26日 17:16

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/26(火) 17:11:13.36 ID:nQUz9yBO
(『柴田退治記』の成立した1583年11月頃)

・賤ヶ岳の戦いの時、毛利輝元は一旦和談せしむといえども、心を許すべきにあらず。これにより、
宮部善浄坊(善祥坊継潤)を因幡に置いた。仙石権兵衛(秀久)は四国の押さえをなすため、淡路
へと返した。池田紀伊守(元助)は根来・雑賀の警戒をなしたものである。

・柴田勝家の討伐後、北陸の新属の国々は掟を改め、政道をもっぱらにした。その時、越後守護の
長尾喜平次景勝(上杉景勝)は秀吉に降をなして幕下に属したので人質を取り、5月17日に安土
へ至ったものである。

・このような時に東国においては徳川家康と北条氏政(続群書類従版には氏政の名は無し)、北国
においては長尾景勝、西国においては毛利輝元が、皆秀吉へ輻湊(方々から集まって来ること)す
る。天下は秀吉の掌握に帰すといえよう。

・備前美作守護の宇喜多直家は先年に播磨別所謀叛の時に西国に背き、秀吉に一味して危うきこと
度々に及ぶも、無二の覚悟で秀吉と入魂をなす。これにより、直家逝去の後に嫡男を召し出して婿
君と賞し、名字を分けて“羽柴八郎秀家”と号し、分国の他に所々に領地を賜ったものである。四
国においては、十河や安富などが秀吉の幕下なり。土佐国の長宗我部元親は懇望致すといえども、
秀吉の許容ならず、かの国を取り、さしあたって忠の侍に与えるとの由を定めた。

――『天正記(柴田退治記)』

柴田退治記より、天正11年当時の諸大名との関係



勝豊は内々恨みを含んでいた

2019年02月21日 10:15

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/20(水) 19:51:45.68 ID:CW5ADGE9
(長浜城攻めの時)

かの地(長浜)は秀吉が長く居住した要害である。このため、秀吉は長浜の案内を知っており、敵の
痛所を思惟して付城を構え、内側を繰り破るべく列をなす。

勝豊(柴田勝豊)は越前の援兵を頼みにするも、頃日の雪は例年を超過した。寒威は実に綿を透かせ、
風力はまさに酒を凍らせんとす。住む者は籠り伏し、来る者を凍え殺し、ことこどく人馬の通行は絶
えた。ここに至って勝豊は釈近謀遠しても労をなして功は無く、秀吉へ降参に至ることを考えた。

ところで、勝豊の本素は他名なり。勝家(柴田勝家)の養子となしたものである。只今秀吉に降参し
て一味することは、すこぶる本意を失うようなものだ。しかしながら、佐久間玄蕃助盛政はかの分国
において権柄を執ること実に甚だしく、これによって勝豊は内々恨みを含んでいた。

秀吉はその由来を知って疑わせること無く勝豊を引き付け、すなわち美濃へ向かった。これに従った
面々は惟住五郎左衛門尉長秀(丹羽長秀)・筒井順慶・長岡越中守忠興(細川忠興)・池田紀伊守之
助(元助)・蜂屋伯耆守頼隆、その他諸国の軍兵を引率して都合3万余騎。これが大風を凌ぎ深雪を
分けて、岐阜に至り押し寄せた。

国中の凶徒は、あるいは追罰を加え、あるいは降参して従い、日を経ずして残るは一国一城となった。
信孝はこれに惨憺して、ひとえに和与を嘆き慕う。そうして信忠の御若君(織田秀信)に信孝の老母
と息女を添えて、人質に出したのである。

秀吉はこれを見て古を思い、なおも憐憫奉る志あり。秀吉は囲みを解いて12月29日に美濃を去り、
山崎城へと至って、かの地で越年した。

――『天正記(柴田退治記)』


秀吉はこれを識量して

2019年02月20日 18:17

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/19(火) 18:28:01.04 ID:rzhsIc24
そもそも羽柴筑前守秀吉は天正10年(1582)10月15日に将軍(織田信長)の御葬礼を勤め、
以来帝都の未申の角、山崎の上に一城を拵えて五畿内を直下し、生民を鎮撫した。そして先の秋田城
介平朝臣信忠の御若君(織田秀信)を迎え取り、安土に安置し奉って守護せしめんと欲したのである。

そんな折に織田三七信孝は、柴田(勝家)・滝川(一益)に相談して言った。

「若君を秀吉に渡しては、彼一人が天下を計り、欲しいままに権威を振るうだろう事は眼前である。
そうなってはどうして秦の趙高の専横や、唐の楊国忠の災いを招かないことだろうか」

そう言うと、信孝らは一味同心して御若君を介抱した。これにより秀吉は、一旦将軍御子弟の礼を厚
くし、かつまた誓紙の恐れを思って条々の懇書を呈したといえども、信孝の心には許容されず、あま
つさえ内々に敵対の計策を企てたのである。

この時、柴田修理亮勝家は同名伊賀守勝豊をもってこれを謀り、和平の調停をさせ、前田又左衛門利
家・不破彦三(直光)・金森五郎八(長近)を京都に上らせた。その故は、越前国は初冬から残春に
至るまで雪が深いために、糧を運ぶのが困難だからである。只今干戈が起こっては、人馬の疲れ百姓
の労、実に国の虚であると思ったのだ。

秀吉はこれを識量して調停を止め、臘月の初めに長浜に至り出張した。

――『天正記(柴田退治記)』


天が秀吉を祐けたのだ

2019年02月18日 17:36

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/17(日) 21:17:30.62 ID:9bBq3pfH
豊臣秀吉は、天運に乗った人であった。

賤ヶ岳の戦いの折、織田信孝は岐阜の城に拠って秀吉と対したが、柴田勝家は信孝と通謀して
「堅く義父岐阜を守れ、秀吉必ず来たり攻めん。我柳ヶ瀬の麓を回って前後より挟み撃てば、
一戦にしてその頸を見ん」との約を定めた。

秀吉は勿論これを知らず、岐阜城を攻め囲もうとした。ところがここで、その夜より水瓶を返したような
大雨となり、呂久、郷戸のニ川、俄に激浪滔々たれば、渡ること能わず、川の此方に陣した。
そこで勝家が柳ヶ瀬を出発したとの情報を得、秀吉は川を渡らず岐阜を捨てて、柳ケ瀬へと軍を進めた。
しかし洪水の故に、信孝もこの秀吉の軍を追撃することができなかった。
勝家の謀は却って自ら不意に遭う端緒となってしまったのである。

これ天が甚雨、洪水を以て秀吉を祐けたのだ。

(武将感状記)

この時大雨で秀吉が岐阜城囲めなかったのは史実なのね。



682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/18(月) 19:58:27.32 ID:aeCHFtum
神戸具盛「堅く義父を守れ、か……さすが柴田はいい事言うのう」

秀吉は摂津国大坂において城郭を定めた

2019年02月17日 16:38

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/16(土) 18:06:07.30 ID:SKjhiH3w
(『柴田退治記』の成立した1583年11月頃)

秀吉は摂津国大坂において城郭を定めた。かの地は五畿内の中央にあり、東は大和、西は摂津、南は
和泉、北は山城、四方は広大にしてその間は高くそびえ立つ山岳である。

麓を廻る大河は淀川の末に大和川の流れが合わさって、その水はすなわち海に入る。大船が日々着岸
すること幾千万艘と知らず。大坂は平安城(京都)から10余里、南方の平陸には天王寺と住吉、堺
津へは3里余り。いずれも町店屋の辻小路が立ち続き、大坂の山下をなす。五畿内をもって、かの地
の城主の警固のために外構をなすものである。

故に大和には筒井順慶、和泉には中村孫平次(一氏)、摂津には三好孫七郎秀次(豊臣秀次)、茨木
には中川藤兵衛尉秀政、山城槇島には一柳市助直末がいる。

洛中洛外の成敗を司る者は、半夢斎玄以(前田玄以)である。玄以は若年より知恵は深く私曲がない。
秀吉はこれを知っているので玄以を奉行に定めたのである(従若年知恵深而無私曲。秀吉依知之定奉
行者也)。もしまた法度にないような理非を決断できないことがあれば、秀吉が糾明するものである。

現在行われている大坂の普請は、まず天守の土台である。その高さは莫大にして四方八角は白壁翠屏
の如し。良匠が墨縄をもって斧斤を巡らせても、これ以上のものは作れない。

30余ヶ国の人数が近国遠郷より散らばって、陸地船路より大石小石を集めて来る様子は、蟻の群れ
が蟻塚に入っていくようだ。まことに古今奇絶の大功なり。皆人はただ耳目を驚かせるばかりである。
諸国の城持衆や大名小名も尽く大坂にいるのである。人々が築地を構えて軒を連ね、門戸を並べてい
ることは、奇麗荘厳を尽くすものなり。

――『天正記(柴田退治記)』


秀吉はまことに前代未聞の大将なり

2019年02月16日 17:31

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/15(金) 18:10:30.03 ID:eLOuuDtR
そうして滝川左近太夫(一益)は秀吉に懇望して身を任せ、長島城を渡すことで許容となった。

このような時(出典の成立年。1583年)に、東国においては徳川家康北条氏政、北国において
は長尾景勝(上杉景勝)、西国においては毛利輝元が、皆秀吉へ方々から寄り集まっている。天下は
秀吉の掌握に帰すといえよう。

漢の高祖が天下を取った時に三傑あり。戦に優れたのは韓信なり。糧を巡らすのは蕭何なり。謀を巡
らすのは張良なり。源頼朝が日本を治めた時に三賢あり。義経は戦功をことごとくし、梶原景時は世
勢をもっぱらにし、北条時政は政道を行った。これはすべて良臣の諫めによって成し遂げたのである。

今は秀吉が一心で謀を巡らし糧を蓄え、戦をもっぱらにする。まことに前代未聞の大将なり。

――『柴田退治記』



744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/15(金) 20:26:06.18 ID:IC6boHOF
義経、景時、時政を頼朝の三賢とかいうと微妙な気分に

義経=韓信といえば白話文学「喩世明言」で楚漢戦争の英雄を三国演義の英雄に転生させる話を元にした
江戸時代の「英草紙」で源平盛衰記の英雄を太平記の英雄に転生させた話でもネタにしてるな

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/15(金) 21:44:28.69 ID:L99+733I
>>744
フェイトの元ネタの魔界転生の元ネタの元ネタがあったとは

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/15(金) 22:15:30.40 ID:02BhZVGW
転生は中国説話じゃよくあるネタだったからなあ
三国平話も転生から始まるし

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/15(金) 22:51:55.60 ID:boxxZIZV
お腹を空かした虎に自分の身体を投げ出した人の転生体がお釈迦様という話もある

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/16(土) 13:13:36.59 ID:S0aIoIwN
半兵衛の今孔明も「転生したんじゃねw」って意味で使われた可能性も!

秀吉1人の天下となることは快きかな

2019年02月15日 11:45

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/14(木) 18:53:15.11 ID:/eS1jLtn
この先、権を争い威を妬む輩を秀吉は意の如く退治せしめ、秀吉1人の天下となることは快きかな
快きかな(此先争権妬威輩如意令退治。為秀吉一人之天下事快哉々々)。

これしかしながら、秀吉の武勇智計の致すところなり。まことに国家太平はこの時である。よって
忝くも今上皇帝(正親町天皇)の叡感は斜めならず。これがために朝日早からざるなし。

摂家清華を始めとして諸卿百官、ならびに三管領四職、その他所々の国司各々が来住して、秀吉に
随従せぬ人はいない。風雅の興や茶湯の会、日々の楽遊は枚挙にいとまあらず。

秀吉がますます政道をもっぱらにして人民を撫育するのは千秋長久の始まりにあらずや。至祝万幸。

時に天正11年(1583)11月吉辰。大村由己、謹んでこれを記す。

――『柴田退治記』


神速無比の人なり

2019年02月12日 18:11

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/11(月) 20:06:12.81 ID:GR8PkkoR
太閤は柴田勝家を征伐した時、城に火の手が上がるのを見てそのまま越中に赴き佐々陸奥守(成政)を征
伐した。勝家の首を見なかったが、そのような事をも何とも思われなかったのである。神速無比の人なり。

(中略)

太閤は万時早速なり。ある時に右筆が醍醐の“醍”の字を忘れた。太閤は指で“大”の字を地に書き曰く、
「汝は知らぬのか。このように書け」ということである。

また高麗の軍中に奉書などを下される時にも「継いだ紙に書け。あるいは悪いところは墨で消してこれを
持って行け」と遣われたという。(原注:一本には「『俊傑の人はこのような小枝には心を掛けぬものだ』
とのことだったという」とある)

――『老人雑話』


柴田勝家自害の時)

秀吉が北ノ庄城の天守が焼け上がるのを御覧になって、「又左衛門殿(前田利家)はどのように御観察に
なるか」と仰せられれば、又左衛門殿は「勝家は自害致されたか、または武略でもござるのかこの二つと
存じます」とのことであった。

秀吉がこれを御聞きになられて「武略の様子とは如何に」と仰せなされば、又左衛門殿は「勝家は天守に
火を掛け自害したように見せかけ、自身はひとまず落ちたのかもしれません」との御答えであった。さて
秀吉は、

「勝家ほどの者が居城の天守に火を掛けるということは、私も人もそうだが、城持ちほどの者にとっては
天守一つであっても運を開くための天守である。それに火を掛けるほどならば、とりわけての何かはあるまい。
ただ単に勝家の自害は必定である。(それに火をかくる程ならは別條候まし但自害は必定也)


又左衛門殿が仰せられたように、たとえ一旦落ちて山林へも入り、その後に尊氏などのようにまた重ねて
義兵を挙げようとの判断であろうとも、あの体をなすまでに成り行っては、2年3年の間に義兵を挙げる
ことはできないのである。その間に私が聞き出して、尊氏のようにはならずに勝家は縛り首にあうだろう。

『首を見る』『遺体を探し出す』などと申していては、3日5日は日柄が立ってしまうのは必定である。
首遺体は見ること不要の物だ(頸死骸見候はん事不入物候)。いざや、ただちに加賀国に押し込む!」

と仰せになって、かの石橋(北ノ庄の石橋)を又左衛門殿が真っ先に押し渡り、秀吉は城を横目にして加
賀国へと御馬を速められた。

秀吉は御使番衆を召し寄され、「下々の者どもを町屋に入れて、2泊分の米・塩・味噌を用意させよ。馬
の飼料以下も同様である。その他の物でも、乱取りしようと心を入れてはならぬ。その通り下々へ触れよ」
と仰せになり、その夜は船橋を御渡りとなって、御陣取りを一夜で御据えになった。

――『川角太閤記』


越中征伐陣立書

2019年02月10日 17:39

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/10(日) 14:33:09.70 ID:qKn6gYUk
以下は秀吉が越中征伐の際、従軍する加藤光泰に送った陣立書。


越中江先勢遣覚

  一番
前田又左衛門殿(利家)     壱万

  二番
羽柴五郎左衛門殿(丹羽長重)  弐万

  三番
木村隼人佐殿         三千
堀尾毛介殿(吉晴)       千
山内伊右衛門殿(一豊)     七百
佐藤六左衛門殿(秀方)     弐百
遠藤大隈守殿(胤基)      弐百
遠藤左馬助殿(慶隆)      弐百

  四番
加藤作内殿(光泰)       千
池田三左衛門殿(輝政)     三千
稲葉彦六殿          千五百
森仙蔵殿(忠政)        千五百

  五番
民部少輔殿(戸田勝隆)     二千五百    
蒲生飛騨守殿(氏郷)      三千五百

  船手衆
因幡衆            二千
長岡越中守殿(細川忠興)    二千
  以上
信雄         馬廻  五千
  都合五万七千三百

  七月十七日秀吉(朱印)
      
      加藤作内とのへ

――『陸奥国棚倉藩主阿部家資料』

大軍を率いる丹羽長重は若干十五才であり、家中の統制が利かなかったのか
越中において家臣が寺院への乱入や殺害行為をし、軍律を犯したとされている。



737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/10(日) 15:00:19.34 ID:bCEsbCEB
毛介・・・
清廉潔白すぎて獄死しかけた御仁か

ただいま私が天下に備わったのは、ひとえに長秀の御かげである

2019年02月09日 17:42

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/08(金) 20:15:54.09 ID:GDNFNzGN
これは今における世間の沙汰で定かな事ではない。

丹羽五郎左衛門殿(長秀)へ加賀・越前両国の間に百万石を進ぜられたところ、五郎左衛門殿は病
気の由を仰せられ、まったく越前を出られず国に引き籠っておられた。

秀吉は聞こし召されて「患いでもあるのだろうか。それとも国が少ないとの不足か」と思し召され、
大坂より蜂須賀彦右衛門(正勝)を密かに御使者に立てられた。

「御患い如何でしょうか。貴様の御厚恩は今もって殊の外の恩と情思致しております。しかしなが
ら未だ紀伊国辺りも静まらず、かれこれ談合致す相手もございません。これからもますます御指南、
御指図をも受け申したいので、御患いも少々良くなりましたら、御上洛を待ち申し上げます」

と仰せ遣わされたところ、五郎左衛門殿の御返事には「患いも覚束ないので国で療治致します」と
の秀吉への御返事であったと聞いている。

秀吉が心許ないと思し召されて御才覚を廻され廻され、五郎左衛門殿に御聞き立てなされていると
ころに、中国や筑紫国、佐々内蔵助(成政)のところなどとで、廻文がまわっているように御耳に
届きなさった。

秀吉はまた重ねて彦右衛門に命じられて、霊社に起請を遊ばされ遣しなさった。その様子は、

「ただいま私が天下に備わったのは、ひとえに長秀の御かげである。この上は天下を長秀と替え持
つことに致しますので、長秀の御後に秀吉が参りましょう。大坂の城と天下を渡し申しましょう。
互いにそれ程までに仕立ててでも、余人に天下を渡すのは惜しいのです。このように入れ替わって
長秀を私めが仰ぎ奉りましたならば、およそ日本には天下に望みの人はおるまいのではと覚え申し
ます」

と仰せ遣わされれば、長秀は感涙を流して「患いも偽りではありませんが、それならば罷り上りま
しょう」と返事をされたので、秀吉は大坂より早打を御立てして御上洛され、「御人数を持ちなさ
れよ。私は紀伊国を討ち平らげる。大坂の留守居を頼み申す」と重ねて早打を御立てしたのである。

それから秀吉は五郎左衛門殿が人数1万ほどで上洛されると聞こし召され、道々に目付を付け置か
れて、早くも先手は大坂に到着した。五郎左衛門殿は京まで御着きになった。

今日には大坂へ御着きになられると申し来ると、秀吉は御道具(武具)一筋で御馬1騎、徒歩の者
20人程の体をなして平潟まで御迎えに御出になって長秀と御参会なさり、それから御同道で大坂
に御入りとなった。

ただちに長秀は屋形へ御入りになられ「ここで御振る舞いなされ」と秀吉が仰せなさると、長秀は
御挨拶に粗末な返答と振る舞いをなされた。秀吉は書院へ御立ちになられ、長袴に小さ刀で座敷に
御出になった。

「この上の大慶の目出度さ、身にあまるように存じ奉る」と互いに御入魂の様子が見え、御間柄残
すところの無いものであった。それから秀吉は御城に御帰りになられたところで、長秀は夜に入り
御登城された。ますますもってその御仲に隔ては無かった。これは申の年の事である。

――『川角太閤記』


そもそも賤岳の合戦というのは

2019年02月05日 18:12

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/04(月) 22:03:16.83 ID:3S04r08d
そもそも賤岳の合戦というのは秀吉卿一世の大利にして、天下の人の誰がこれを知らないことだろう。

とりわけ七本槍の名はもっとも高く、婦女に至るまでこれを口にせぬ者はいない。かつこの山は麓より
絶頂に至って1里ほどのその絶景を言えば、余呉・琵琶両湖を直下にして比良・伊吹の二山を巽坤に見
渡し、その眺望に至っては類なきものであろう。

そういうわけで、君が世の今は遠い国の人々も、この山に登って遊覧しなさることが日々あるものだか
ら、折々に私などにも、砦の跡や地理の次第を尋ねなさる人々もいるので、私は不能不才ながらこの岳
の麓に住んでいるから、この戦いをあらかじめ知っていなくてはと、この辺りの里々の某の秘蔵で某の
記録という『賤ケ岳合戦実録』というものがあって、密かにこれを借り求めて閲覧した。

その文に詳略はあれどいずれも一体で、もとは1人が著述したものかと思われる。また百年の後に作っ
たような事もあった。またこの辺りに流布する物ながら、かえって地理に合わない事もあって、実録と
いうのも訝しい事ばかり多かった。

かの世上で広まる『太閤実記』『太閤真顕記』を始めとして、『北国太平記』その他書々にこの合戦の
次第を著しているといえど、いずれもその意は不同で、いずれが是で非なのか分からない。

近頃は『絵本太閤記』という物が出て、もっぱら世に広まっている。その中の賤ケ嶽の段の著述の節は
著者や画工などがこの山に登って地理をうかがい、またこの辺りの実録などと言われる物をもよく聞き
正し、あれも取ってこれも捨てずして著述した物だから、これ以上に面白さの及ぶものもないだろう。
賤ケ岳の合戦を夜戦としたり七本槍の戦う相手を定めたのは、真顕記をもとにしてこの辺りの実録とい
うものに拠ったものであろう。

私はある時、とある書店のもとでこの戦いのことを語り出したところ、書店は曰く「『太閤記(甫庵太
閤記)』という一著書があるけれども、その文体は華やかではないので、これを見たいという人もいな
いから紙魚の腹を肥やしている」と投げ出したものを見ると、実記や真顕記の類ではなく、まったくの
古文で実々しい事が多かった。

かつ著者の名は“小瀬甫庵”と記していた。小瀬甫庵は加賀の儒生で、信長の祐筆の太田和泉守牛一と
いう者の友であったのだということだ。その時代の人でこれはとても印刻の時代も古く、旧記といえよ
う。これなどは実録とも言うべきか。しかし前述の書々とは戦いの次第がまったく異なる事もあって、
また訝しく思った。

ある日、浅井郡高田という里に渡辺某がいて、私のもとにやって来たことがあった。主(渡辺某)曰く
「あなたは賤岳の麓の人だから、地理はもちろん故実も聞いてらっしゃるでしょう。そのまま語ってく
ださい」とのことだったので、私はかの不審のあらましをありのままに語ると、主は曰く「予の祖先に
渡辺勘兵衛(了)という者がいて秀吉卿に従い奉り、そこかしこの戦場に赴いたあらましを自筆して残
した物がある」と一帳を見せなさった。その中でまず賤ケ嶽の戦いを見ると僅かに紙3ひらほどだった
が、その趣意は甫庵が著述したところと付節を合わすが如くであった。

私はここに至って大いに嗟嘆して甫庵の太閤記の実なることを知る。これよりかの書々を用いず、もっ
ぱらこの書を信用し、すなわちその中の第五第六の二巻を抜き写し、私に『賤嶽合戦記』と外題して上
下の二巻となして人々に風聴致したのは、愚かな心で捻くれて思い悩んだからなのだろうか。

この度、東の同胞のもとより申し遣されたやんごとなき御方より、賤嶽地理の図や合戦の次第を記す物
を望みなさり、日はなくとも書き写して遣してほしいとの旨を申し遣された。

それならば良き筆を持ちなさる人に助けて頂かなくてはと、あちこち頼んでも誰か助けようという者も
いないので、私などが見る甲斐もなき筆で寒夜の灯火をかかげて写し終わるままで、脱字誤字はいくら
もあるだろう。よくこれを察し、よくこれを考えてなさって頂きたい。「何事も山賤が写したものよ」
と見許しなさって、私の不能を憐れみなさって頂きたい。

なお詳しくは印刻の本を尋ねて読みなさるべし。この辺りの実録帳物を見ることをゆめゆめ望みなさっ
てはならないと、その後ろの方に記し申した。

文政2年卯臘月上旬記之畢      湖北黒田住人 西川与三郎記之

――『賤嶽合戦記 奥書』



百姓には似合わぬ事を致したものだな。

2019年01月31日 17:27

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/30(水) 19:25:29.45 ID:MBkW3Zlu
(柴田勝家の自害後)

秀吉は越前の国まで御上りになられ、越前一国と加賀半国を丹羽五郎左衛門殿(長秀)に進ぜられた。

そういうわけで、佐久間玄番(盛政)は賤ヶ岳の御合戦より越前敦賀の奥の在郷へと主従3人で百姓の
家へ立ち寄ったが、山路を伝った故に、ときを踏み杖にすがり、百姓にもぐさを貰ってときの口に灸を
致した。

家中の者は主人を装って「あの者は我々が召し連れている者で、ことのほか草臥れているから食べ物を
買い申したい。早く早く焼いてくだされ」と頼んだ。すると百姓めらは、「あのときを踏んでいるのは
主人だ。2人の者はとき踏みの家中の者か」と心中で見及び、「食べ物を焼かせて売りましょう。その
間に御休みなされ」と申して騙したのである。

そして百姓らに言い聞かせ、主従を棒で押さえ付けて召し捕らえたところ、推量したようにとき踏みは
佐久間玄番で2人は玄番の家中の者だった。

召し捕らえたことは同国北之庄に注進された。秀吉の御心には「無情にも縄を掛けたものよな」と思し
召されたが、是非に及ばぬ事の成り行きである。

秀吉は御心をもって玄番の縄を解きその身をゆるゆるとさせ、乗り物に乗せて道中を良いように労り、
それから「ただちに上らせよ。場所は宇治の槇島に置けよ」と仰せられて、道中を良く労わって玄番を
槇島に置いた。しかしながら、御番は堅く仰せ付けられた。

秀吉はその百姓めらを召し寄され、「百姓には似合わぬ事を致したものだな。見せしめのために、褒美
として機物にあげよ」と仰せになり、その時の12人を磔になさった。(>>700

――『川角太閤記』

“とき踏み”って何だろ…



706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/31(木) 10:52:12.23 ID:a/3DMyKC
流れからして、鋭い物かな?
「鋭き」って「とき」とも読むらしいけど。

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/31(木) 14:15:07.03 ID:hUh1KEi1
>>700>>705
百姓カワイソス…

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/31(木) 14:44:27.80 ID:CgHfjAJq
>>705
文脈からだと刺じゃね

褒美として機物にあげよ

2019年01月28日 17:51

700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/27(日) 20:25:23.11 ID:RsuwMCIe
(賤ヶ岳の戦い敗戦後)

佐久間玄番(盛政)は賤ヶ岳の御合戦より越前敦賀の奥の在郷へと赴き、主従3人で百姓の家に立ち
寄ったが、百姓めらに棒ずくめにして召し捕らえられた。

秀吉はその百姓めらを召し寄されて、褒美なされようとした。「手伝い致した百姓めらも皆々参れ」
と仰せになり、百姓は御褒美を望んで「我も手伝いました!」「我も我も!」と申し、その召し捕ら
えた家に入っていたような者12人を召し寄せられた。

秀吉の御思案には「合戦の勝ち負けは世間の習いである。秀吉が負ければ、今日は人の身の上、明日
はまた自分の身の上である」と思し召しなされ、「百姓には似合わぬ事を致したものだな。見せしめ
のために、褒美として機物(磔用の刑具)にあげよ」と仰せになり、その時の12人を機物に御あげ
になられた。

これは明智を討った百姓の時とは異なっておられた。討手に罪の軽重があったからである。

(中略)

三七殿(織田信孝)は野間の内海で御切腹を仰せ付けられた。その時の御辞世に、

「むかしより主をうつみのうらなれは むくいをまてやはしはちくせん」

――『川角太閤記』


すなわち筑前こそ上様

2019年01月26日 20:03

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/25(金) 22:22:58.26 ID:r9OmiDI6
(清州会議後)

吉法師様への御礼次第の目録を作るにあたり、秀吉は信忠様に御目を掛けられたことを仰せになって、
吉法師様の御守りを望みなさった。これを柴田殿(勝家)ら各々は感心され、秀吉は大名衆の目録に御
入りにはならなかった。

吉日の日が来ると、御一家衆(織田一族)はもちろんのこと、大名小名も残らず太刀折紙を御持参と定
め、御一家衆などは早朝に並み居って伺候なされた。

吉法師様は御月代になされて長袴に小さ刀だけで、秀吉は上段に厚畳を2畳重ね、座布団の背後の上段
3分の1ほどに屏風を立て回し、その裏側に上臈衆や御乳の人を御置きになられた。

秀吉が若君様を御抱きになられて上段に上がりなさるのと等しく、御礼事は始まった。三七殿(織田信
孝)と成心(常真。織田信雄)、その他の御一門中は御目録の如く御礼され、次第次第に事は納まった。
これは直接の御参上である。

大名衆の目録は柴田修理殿が参上し、その他も目録の如く目出度く納めたと聞こえ申し候事。

屏風の陰に御乳人や上臈衆を御置きになられた御判断は、吉法師様が御存知のない供を御覧になられて、
御機嫌を損ねた場合は御乳の人を呼び出し、御乳などを差し上げなさるためである。その他に不断に御
側に付き添い周られている上臈衆を皆々屏風の陰に御入れ故、御機嫌を一度も損ねなかった。

考えのまわる衆中はこの様子を見出し、目配せや鼻で合図して陰で笑いなさった。その子細は、

「御一家衆の御礼を始めとして、直接の御参上である。謹んで頭を地へ付けられて御礼なされているが、
筑前守殿は若君様を御膝の上に置かれて、少し頷きなさっているだけで、まことまことに上様が御礼を
御受けなさるような作法と、ちっとも違わぬように礼を御受けになられている。

柴田修理亮や滝川左近(一益)、丹羽五郎左(長秀)などにとっては猶更上様の位のように拝見致す」

前述に申し上げたような考えのまわる衆は「あれを見なされ。筑前守を上様とあがめるのは、すなわち
筑前こそ上様。御一家衆も柴田を始めとした皆々も、筑前に欺かれたのだよ」と内密に笑いなさったの
だと聞いている。

しかしながらその御礼は目出度く納まり、大名高家に至るまで宿々へ帰られたと聞こえ申し候事。

――『川角太閤記』


私に吉法師様の御守りを

2019年01月25日 17:40

654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/24(木) 20:40:30.79 ID:OZsAZlBz
(清州会議の時)

「それでは吉日を選び、吉法師様への御礼を定める」と、勝家(柴田勝家)は申し出された。それより
「日柄を見よ」とその役の者に申し渡され、ややあって談合は終わり、その日から4日目に御礼は定め
られたとの事である。

「それでは御礼の次第目録を作れ」と、まずは御一家衆の御礼目録の巻物1巻ができた。またその次に
国大名衆の御礼の目録が別紙に1巻できた。「国大名衆は柴田修理殿、次に滝川左近殿(一益)、丹羽
五郎左衛門殿(長秀)、それから羽柴筑前守を目録に書き付けよ」とのことだった。秀吉はこれを御見
及びなさると、

「勝家と各々らへ訴訟がござる。御聞き分けになられればかたじけない。各々も内々に御存知のように、
信忠様がとりわけて私に御目を掛けられた子細(>>652)がござるが、御存知なので申し上げる必要も
あるまい。特別な訴訟ではござらぬ。私に吉法師様の御守りを仰せ付けられて下され。

私は早々と年寄りになったので特別な望みもござらぬ。城介様(織田信忠)に御奉公致すと心に取り置
いているので、この吉法師様を信忠様と存じ奉り、随分と御奉公を致したい。とりわけて申し上げる子
細はござらぬ」

と仰せ出された。これに勝家が「勝家を始めとして、秀吉が訴訟と申し出された時にはどのような事か
と各々存じたが、これは以ての外に心安き訴訟だ。我らとしても同心致す。各々もきっと別条あるまい」
と申された。

これにその他の大名衆も「貴所(秀吉)に信忠様が御目を掛けられたその様子は隠れ無きことでござる。
昔を思い出されて、吉法師様の御守りと仰せられたことは感じ入り申す。筋目を立て申し上げたうえに、
ひとしお頼もしき御覚悟である」と、各々申されたのだと聞いている。

こうして、その目録に秀吉は御入りにはならなかった。それから、その次々に御礼の次第目録を定めて
納めたとの事である。それより、柴田殿を始めとして各々は御城を出られ、屋形屋形へと戻られた。

――『川角太閤記』


もう精進は絶つことにしよう

2019年01月21日 17:08

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/20(日) 23:40:41.91 ID:Vh2MfU6r
(山崎の戦いの時)

秀吉は尼崎に御着きになり「禅寺はないか」と御尋ねになったところ、小庵1つを尋ね出して
御腰を掛けられた。しばらく御休みになって、御指図されたことには、

「信勝(羽柴秀勝)と久太郎殿(堀秀政)は聞きなされ。上様(織田信長)御切腹の知らせが
備中高松へ注進された時より、私は精進潔斎を確かに致し、すでに敵との距離も程近くなった。
この上は合戦に及ぶまでである。

私は年寄り故、この頃は腹中も思いのほか力が落ちたように覚える。もう精進は絶つことにし
よう。しかし御奉公には力を付けて槍をも取り、敵と太刀打ちする覚悟である。信勝と久太郎
殿は御若いのだから、精進を御絶ちになられてはなりませぬぞ」

と仰せになり、その次に台所衆へ「魚や鳥をなるべく使って料理を致し、我が前に出せよ。そ
れから亭主の僧を呼び出せよ」と仰せられ、御行水をなされて御櫛を下ろされた。

それから「信勝は若いのだから様を変えなさるのは無用である。短く茶筅に髪先を切りなされ
よ」と、秀吉は仰せになった。すると久太郎殿も「様を変えたい」と申されたが、「ただ髪先
を信勝と同様に御切りなされ」と秀吉は御教訓され、久太郎殿も信勝同様の体と相定め候事。

――『川角太閤記』

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/21(月) 17:53:58.69 ID:+QkshJgz
その御櫛(>>649)を紙に御包ませなさり、3人の御髪を仏前に御納めになられ、その僧に仰せ
出されたことには、

「合戦が利運となったならば、50石の地を末代まで差し遣し申す。多いというなら、すべて
代替わりの時の引出物とするがよい。そのために少し付けて遣そう。御祝いのためだ」

とのことで、金子3枚を遣されたのだと承っているが、かの50石の地は御所様(徳川家康)
の御代でも、今においても差し障りなしと相聞こえ申し候事。

御膳を据えて御盃を信勝(羽柴秀勝)へ御差しになり、仰せになったことには、

「惟任日向守は親の仇、または主の仇のこれ二つなれば、信勝は私めより先に討死なされよ。
その様子を見届けて秀吉は討死すると定めておる」

とのことで、盃を御取り交わしになったとの事である。

――『川角太閤記』


城中には家を1宇も残さぬように

2019年01月20日 19:08

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/16(水) 18:39:36.49 ID:G7bkcu8p
(中国大返しの頃)

秀吉は三好武蔵守殿(吉房)と小出播磨守殿(秀政)両人を召し寄され、いかにも密かに仰せ聞
かせられたが、その様子はまったく知られず、この2人を御城(姫路城)に残し置かれた。

御合戦が目出度く収まって後、この両人の雑談でその時の有様は定かに知られ、それまでは人々
が推量したまでであったと聞いている。その次第は、

「合戦が負けとなって(秀吉が)討死となったならば、御袋様(大政所)と御前所(高台院)を
しずしずと片付けて(御袋様御前所しつしつとかたつけ申)、城中には家を1宇も残さぬように
焼き払えとの御指示であったが、このように目出度く収まった」

と、両人は後に喜んで雑談されたのだと相聞こえ申し候事。

――『川角太閤記』



639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/16(水) 19:12:12.77 ID:hNL8ounx
よくわからんな

山崎の合戦の時堀は留守居じゃないし秀吉の家族は長浜だよな

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/16(水) 20:09:30.77 ID:2x4KpY7B
堀秀政ではなくて小出秀政でしょ
伝聞だろうから何処かで入れ替わっているかもしれんし、敗戦後の長浜の処理を頼んだ二人を合戦で死なせない為に残したってことかもしれん

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/16(水) 20:44:18.75 ID:hNL8ounx
すまん普通に空目して変なこと言った

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/17(木) 05:40:01.15 ID:jhMglM8j
堀秀政
小出秀政
小笠原秀政
津田秀政
中川秀政

秀政多過ぎ

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/17(木) 06:46:05.86 ID:8kiO8YrY
長政

吾陰嚢の垢ほどもあらぬ物を

2018年12月22日 10:56

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/22(土) 08:19:09.12 ID:G2ELcZP/
朝鮮の役で、明の援兵が大軍で朝鮮へ派遣されたことで、名護屋の本営では日本軍危うしと
太閤秀吉にも報告され、軍評定を行った所、蒲生氏郷が進み出て発言した
「何程の事がありましょうか。この氏郷に朝鮮を賜れば、切り取りにして打ち破りましょう。」
しかし秀吉はこれにより、氏郷に大志有ることを忌み憎んだ。

また朝鮮に在陣する小早川隆景より遣いを以て報告があった
「この隆景が考える所は、十万の軍が渡海いたせば、それに城々を守らせ、隆景は先陣して明朝に押し入り、
北京を攻め落とすという事であり、この旨を申すように。」

秀吉はこれを聞くと
「小早川の智謀さもあらん。人々よく聞け、仮にこの秀吉が功を遂げずに死んだとしても、秀次を
大将として明朝に攻め入った時は、私の魂魄が雲に乗じて鉄の盾を突き、唐土の奴原を一々に蹴殺して
捨てるであろう。昔、柘榴を噛んで火とした者もあったと聞く。その小男の名は忘れたが。」

そう言うと、側の施薬院全宗が「それは北野の天神(菅原道真)の御事でございます。」と申し上げた。
秀吉
「それである!雷に成って天に上ったと言い伝わっているが、私のキンタマの垢ほどにも無い者だというのに!」
(吾陰嚢の垢ほどもあらぬ物を)
そう大声で言い放ち、聞く人はみな驚いたという。
(常山紀談)



539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/22(土) 08:47:25.91 ID:xsQjQ3yv
ω

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/22(土) 09:56:33.68 ID:mOD0npr1
赤松満祐「お前が他人の事を小男とか言えんのかよwww」

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/22(土) 09:59:10.68 ID:q05OBV9W
まとめの6912
全くその男は、我が睾丸の垢ほども


でも「武士道美譚」出典で同じ話が

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/22(土) 14:42:39.03 ID:F7/rhJiV
>>538
>私のキンタマの垢ほどにも無い者
なんJ民かな?

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/22(土) 20:37:09.64 ID:Z5u25ia/
大○義隆「キンタマの垢とな!?」