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ある時の秀吉と家康の会話

2023年04月19日 19:05

809 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/04/19(水) 17:24:36.68 ID:S9OmN5yQ
異説まちまち』からある時の秀吉と家康の会話

太閤「井戸に釣瓶を落としてしまった。道具を使わずにこれを引き揚げるにはどうする?」
神君「大人数で井戸へ水を汲み入れ、二本の指でその釣瓶を引き揚げましょう」
太閤「私と同じ考えだ。私の死んだ後は、天下の主は貴殿であろう」

一応いい話に



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貴所よりは位が上であるのだから

2022年11月26日 14:33

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/26(土) 09:56:40.14 ID:g5uzaKWU
天正十八年七月十二日、(小田原征伐の結果北条氏は降伏し)北条氏政は切腹、氏直は高野山へ入ると
していたが、大阪で疱瘡に罹り果てた。氏政の頸は京都へ送られ、堀川通戻橋に掛けられた。
小田原城の請取手は黒田官兵衛であった。

それより奥州へ移動する途中、秀吉公は鎌倉を御見物に成った。
若宮八幡へお立ち寄りに成った時、社人が御戸を開くと、左に源頼朝の木造があったのを御覧になり、
御言葉をかけられた

「頼朝は天下友達である。その待遇は私と同等にすべきだが、この秀吉は関白であるから、貴所よりは
位が上であるのだから、待遇は私より下げる。

頼朝は天下を取る筋の人であったのを、平清盛がうつけを尽くして伊豆へ流し置き、年月が経つ内に、
東国では父親である義朝の温情を蒙った侍共が昔を思い、貴所を取り立てたのだと聞いている。
あなたは氏・系図に於いては多田の満仲の末葉であり、残る所のない(完璧な)系図である。

一方この秀吉は、恥ずかしくは思っていないが、昨今まで草刈りの童であり、或る時は草履取りなどをしていた。
故に系図も持っていないが、秀吉は心にとどまらず、目口優れていた故か、このように成った。
御身は天下取りの筋であり、目口が優れている故とは存じない。つまり、生まれ付き果報が有った故
天下を取れたのだ。」

などと御洒落事を仰せに成ったと承っている。

川角太閤記

有名な秀吉の「天下友達」のお話



内蔵助を攻める軍勢を出すべし

2022年11月21日 19:47

482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/21(月) 19:01:01.76 ID:kbOd9V3r
「越中国の佐々内蔵助(成政)は、秀吉が四国九州へと軍勢を出すならば、定めて隙きが出来たとして、
油断を突こうとするだろう。であるので、内蔵助を攻める軍勢を出すべし」と御議定した所に、
蜂須賀彦右衛門(正勝)が申し上げた

「内蔵助についてですが、彼は供の者六人を召し連れ、国を急に立って浜松に参ったと承っております。
供は佐々与左衛門、いたわ勘右衛門、松木内匠、その他計六人、そのように承っています。
御分別のため申し上げます。」

これに対し、秀吉公の御意には
「家康卿が律儀である所に目をつけ、内蔵助はすぐに合戦という状況で無いために、直談をすべしと
思ったのだろう。しかし今更家康卿に心置きをしようとするなど、口実を作って却って、
毛を吹いて疵を求むという事と同じだ。事が見えない先に聞き出すような沙汰は、必ず上手く
行かないだろう。

家康卿に表裏はない(家康卿表裏有間敷なり)。丈夫である家康を東の押さえに頼り置く事ができれば、
東国の気遣いは無くなる。であれば越中に馬を出そう。」
との御議定であった。

家康卿へは越中に、『御馬出候、加勢少可給者なり』と仰せ遣わした所、本多豊後に都合三千の兵、
そのうち鉄砲三百挺にて家康卿よりの御加勢として素早く上洛に及んだ。

これによって上様(秀吉)は大阪を、酉年(天正十三年)七月二十七日に出陣された。
この時の御分別には、「内蔵助とはこの間まで、肩を並べる傍輩であったのだから、定めて私に対して
疑いが深いだろう。例えこの秀吉に降参したとしても、悪我を張るであろう。
織田信雄は信長公の御実子であるから、信雄を私の旗本と定めよう。内蔵助は堅物であるから、
信雄に対して降参するだろう。」

そのように思し召し、軍勢の路地すがら信雄に対面した時、自身の御旗本のように執り扱ったのは、
その様子を越中に響かせるためであったと聞こえた。

川角太閤記



483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/22(火) 08:27:03.82 ID:1wYkIu2B
越前と美濃ですら連携に失敗してるのに越中と遠江なら尚更

秀吉の推量は少しも違わなかった

2022年11月16日 19:02

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/15(火) 20:41:39.74 ID:bTevtSEj
(小牧長久手合戦後、織田信雄と和睦を成立させたあと)
秀吉は徳川家康卿を御引き付けさせうようと思し召し、そのための御分別、御工夫に悩み、
寝付けないほどであったと聞こえた。

その段々の御分別の次第だが、秀吉は御あつかい(和睦)を掛けるために、家康の様子や手引を見ようと思し召し、
家康卿の国の様子を御聞きに成るために、人を色々に変装させ、三河遠江へ潜入させた。

この時、秀吉の御分別としては、「家康卿は籠城の支度をするなどあり得ない。ただ一合戦とのみ
定めているだろう。」と思し召されていた。

先の目付たちが帰国し、お尋ねに成ったところ、「家康は籠城の用意など全く見えません。
鷹野や川狩りのような慰み事ばかりしています。」と言う。後から参った目付も同様の報告であり、
秀吉の推量は少しも違わなかった。

そこで秀吉は、御あつかいの為に家康に妹を与え、この上は兄弟に成るべきと、御あつかいを掛けた。
その上で家康卿がまだ合点無ければ、母と女ども、さらに妹の三人を家康卿へ人質に出すべきと、
蜂須賀彦右衛門(正勝)や黒田官兵衛、その他二、三人に仰せ聞かせた。

川角太閤記



何事につけても、最も身が危うく見えるのは

2022年11月06日 18:50

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/06(日) 16:46:48.05 ID:XrQtncg6
(賤ヶ岳の勝利の後、柴田勝家の所領である越前を平定した羽柴秀吉は、彼に従属した前田利家が領する能登国へ入った。)
能登国中を巡検した秀吉は、越中との境目である末森城を取り立てるようにと言われ、さらに
七尾城も見られ、前田又左衛門(利家)に委しく言い含めた。

この時、前田又左衛門が申し上げた
「この勢いで、越中へ取り掛かり、内蔵助(佐々成政)を御退治されるべきです。」

秀吉は返答に
「その事について、思い出したことが有る。何かと言えば、天正三年五月二十一日に、甲斐国武田四郎(勝頼)と
三州長篠において信長公が御合戦成された時、頸数一万二千余り討ち取る大勝利を得たこと、貴殿も御供した
故に能くご存知であろう。

あの時、そのまま甲斐国へ押し込むのだろうと、私も人も考えていた。ところが信長公はそうせず、
そこから帰陣なされた。あの時、御勢い、御利運でこれ以上はないと思われたが、ああ言う時は
天魔の所業というものもあり、五,三年もそのまま捨て置けば、国内に謀反も出来、家中もまちまちに
成ることが聞こえるようにもなるだろう。その時に馬を出して退治するのだ、という御分別であったと
聞いている。

又左衛門殿も皆々も聞いてほしい。勝家に打ち勝った以上、この秀吉もこれに過ぎる安堵はない。
その上で心ならずも慢心することもあると覚える。その上、下々以下に及ぶまで勝ちに乗る体で、
早々勇み悦び、興に乗るような様子である。

佐々内蔵助は剛なる上に手聞の上手である。また合戦の習いとして、勝敗は人数の多少に必ずしも寄るもの
ではない。よって、これより一足先に引き取ろうと思う。その内に、秀吉が再び軍勢を募り出陣してきた時は、
位詰めに成るだろうと内蔵助も、またその家中の者達も考え出すであろうことは必定である。そうなれば
家中にも謀反者が出てくるだろう。

何事につけても、最も身が危うく見えるのは勢いが過ぎている時であり、だからこそ今引き取るべきである。」

そのように申して、加州村山城に入られ、加州半国と能登一国を前田又左衛門利家に与えた。
また能登に於いて長九郎左衛門(連龍)に対し、「前田又左衛門に付け置く。何事も利家次第とするように。」
と仰せ置かれた。

川角太閤記



今度秀吉が御在洛され、関白になられた

2022年09月07日 18:47

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/06(火) 22:34:26.40 ID:Jo2FWFOc
今度秀吉が御在洛され、関白になられた。近衛殿、前入道殿下前久公の御猶子としてであるという。
(天正十三年)七月一日に参内され、禁中において御能があり、上下京の手能の者たちがこれを
秀吉より仰せつかったという。

秀吉が関白になられた事で、同時に殿上人、諸大夫になった人が十人もあった。
御能は五番、弓八幡、田村、三輪、紅葉狩、呉服の切。
今回の御能に、関白殿(秀吉)に対し所々より進上があり、上下京衆より盃台六、七百ばかり、折が五百、
これらが合わせて庭上に夜中から並べ立てられ、これを番する衆もあった。

当日には清涼殿の御面等の少し下に引き下げて、仮の御椽を押し出され、その上に盃台、折以下が置かれた。
また、この折、盃台以下は上下京の町人の進上であった。今度の盆の踊りを御免する代わりに、今回、
折、盃台以下を馳走するようにと秀吉公より仰せだされたのだ。

能の太夫は、上京からはホリケ、ワキはホリケか、伯父のリウハであるという。入道前虎屋という者である。
下京の大夫はこれまで、禁裏御能に何れにても何か下されることは無かったが。大夫が若衆であるとして、
御扇が下される事もあった。そして今回は秀吉公より、越後の帷子二百が進上され、それが悉く下された。

宇野主水記

秀吉の関白就任の時の上京下京の関わりについて。



京の衆に風流を

2022年09月04日 15:11

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/04(日) 14:37:58.97 ID:sI3KCCJ6
天正十三年七月六日、秀吉は上洛中に、京の衆に風流(盆踊り)をさせるのだという。
しかしながら町人たちは、去る春の、内裏・御所の築地つきの時は、このために上下京では種々様々の
事を成し、以ての外の造作であった。それに重ねて又風流をさせるというのは、京都の人々にとって
迷惑なことであると、徳雲がお取りなしになり、風流は中止となったという。

但し内裏において、上下京の手能の衆が、御能を仕り叡覧があったとの風聞である。

宇野主水記



この茶会で宗易、宗久は

2022年09月03日 19:17

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/02(金) 23:41:43.36 ID:MhRgviZR
天正十三年三月八日、(秀吉は)紫野摠見寺において数寄の名物共を集め、二箇所において、
千宗易(利休)と今井宗久が茶を点てた。また京堺、その他方々の茶湯執心の者共にも参加をするように
とあったが、但し茶を飲ませるようにとし、又他にも、自分の所有する道具を持って登り、自身で茶湯を構え、
その人の名物などを(秀吉が)見るのだという。

一番に紫野和尚たちが所持する名物を見せ申した。二番に武衛などのような、然るべき牢人衆が見せられ、
三番は堺の良き道具持ち衆であり、その他次第次第にそのように有ったという。

秀吉は御在京二、三日の間に、大阪へ御帰城あったという。この茶会で宗易、宗久は都合二百服ばかりを、
両人して点てたという。

宇野主水記



家康について、秀吉は存分が

2022年09月01日 19:04

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/31(水) 22:27:09.19 ID:ulBDHuFY
(小牧・長久手戦役の中)今度、秀吉は北伊勢に出馬し、敵城が一ヶ所あれば付城を数多造らせた。
そのような所に、三介殿(織田信雄)よりの懇望により和平が相調い、三郎殿よりは、妹の岡崎殿という者を
人質として出したという。津田源兵よりも人質を出した。
徳川家康からは実子(次男於義丸)、重臣である石川伯耆守も人質として実子を共に出した。

そして三介殿と秀吉は会合し、秀吉より紙子二つ、金二十枚、北伊勢一揆が捨てた兵糧を取り置いていたもの、
二万五千俵をそのまま三介殿へ進上した。この会合のとき、脇差しの國行と、腰の物一振も三介殿へ進上し、
父子の約束があったという。

家康について、秀吉は存分が残っているとして、入魂という事については同心無かったが、三介殿より
様々に御懇望があったために、家康についても赦免となったという。

霜月十五日に、家康は三州に帰国した。

宇野主水記

小牧長久手の講和について。



曽呂利新左衛門の「死」についての話

2022年06月27日 16:01

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/26(日) 22:25:54.03 ID:+gE/WFp9
朝野雑載」から曽呂利新左衛門の「死」についての話

秀吉公が家臣たちに言うことには
「我ほどの幸福者は古今おらぬだろう。
そのわけだが、国持大名が天下を取ったり、武士が国持大名になるのはもちろん幸いであろうが、
我は微賤の身より天下をとり、位は太政大臣にまで昇り、朝鮮にまで武威を振るった。
これは大いなる幸福である。
しかし人の命は限りあるもので、我はすでに老いたため長くは天下を保てまい。
この死というものを思うと、我の大いなる幸せや楽しみも尽きてしまい嘆き悲しむことしきりである」と涙ぐんだ。
家臣たちも尤もだと賛同する中、曽呂利新左衛門が出てきて
「私はそのようには思えません。死というものがあってこそ楽しみや幸いも出てくるのです。
神代や王代のことはともかく、近代は頼朝が初めて臣下の身で天下をとりました。
もし頼朝の御死去がなく、そのあとの尊氏も信長公も御死去がなかったならば、ただいま上様は天下をとってはいなかったでしょう。
そう考えると死こそ人間にとってめでたいことはございません」
と申したところ、秀吉公は喜び
「まことに汝の申したとおりである。
頼朝をはじめとして今に存命で天下を守ってなさったならば、我はこのように天下の主となり、このような楽しみはなかっただろう」
とお感じなさったということだ。



槐記より秀吉の話

2022年05月10日 17:30

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/09(月) 22:08:23.88 ID:V0Qof8cd
槐記より秀吉の話

享保九年 九月七日の日記

太閤秀吉、ある狩りの帰りに供廻りの者たちを御上覧に入れようとて、南門の前を通る許しを願い出た。お許しあって、その日南門を開いて上覧された。三藐院殿(近衛信尹)もその時お出でであったので、秀吉一行の装束の細部まで残さず記録なされた。供廻りの人数の夥しいことは言うまでもなかったが、まず先手の者たち、鶴百羽を青竹に結び付けて二列に並び、続いて雁二百羽を同じようにといったふうに、上覧に供するために甚だ華美に興行されていると見えた。家康をはじめとする騎馬の士は、みな鷹を手に据えて通った。秀吉は朝鮮の輿に乗って唐冠に唐服を着しハイタカを手に据えて南門の前まで来ると酒を乞われた。殿上人諸卿みな出迎えて南門の前に宴席を設けたが、秀吉の据えていたハイタカは実は作り物で、この時首を取ると中に酒肴が入っていたそうだ。太閤の物数寄はかようなものであった。



首数の多少にこだわりて武功を評するは

2022年02月03日 19:20

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/03(木) 18:32:58.06 ID:mKbF+iVF
朝野雑載より
八王子の城を、秀吉公よりせめさせたまうに、攻め手は前田利家、長尾景勝なり。
落城して前田によりうちとりし首数三千、長尾はわずかに八百五十到来せしゆえ、太閤の御前にありし人々不審に思い
「景勝は承り及びたる手柄者なれども、首数前田より甚だ劣れり。前田が武功優れたる」よし申しければ
太閤きこしめして「首数の多少にこだわりて武功を評するは、各々が武道不案内の故ならんか。
景勝は士の首ばかり差し越したると見えたり。前田が三千よりは結局勝れるほどにおぼゆるぞ」とのたまいしとなり。

貝原益軒はいい話で書いたつもりなんだろうけどこっちへ



上様日和

2022年01月19日 16:47

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/19(水) 15:09:16.75 ID:uKh5wzsJ
小田原の役の折、九鬼大隅守嘉隆は艟艨(軍船)である日本丸を乗り廻し、豆州下田の城を抜いて
それより小田原に来たりて、海辺の通路を断った。それまで小田原城周辺の巡見は成り難かったのだが、
これより豊臣秀吉もいよいよ北条を呑んで。小田原城を巡見し嘉隆の船に乗った。

この舟の棹郎(船頭)に、十兵衛と云って長大壮力、見るも驚く程の者があった。
秀吉は彼に

「そこの男、我を背負って船に乗せよ。船内は歩きづらい。」

と、十兵衛の肩に手をかけると、十兵衛はこれを背負って歩み、労を助けた。
「嬰児になったような心地がするぞ!」
秀吉は大いに笑われ、十兵衛は金銭を賜った。

小田原沖は本来荒海で東風が強く、巨波山の如しであるのだが、この時の五、六十日の間は
風は穏やかで波も静かであった。これより後、この時の天候を『上様日和』と言い伝えたという。

志士清談



970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/19(水) 16:25:39.18 ID:DfHJPi8E
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11325.html
上様日和は常山紀談の話が前に出てたけど志士清談のほうが詳しいな

六家老はこの様子を見て

2022年01月16日 16:45

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/16(日) 15:09:55.05 ID:0r6Ad8VC
豊臣秀吉は島津家の不逞不義を怒り、島津征伐を行った。島津修理太夫義久は敗れて降伏を請い、秀吉は
これを許した。

義久並びに島津家の六家老は皆剃髪し、寸刀も帯びずに来謁した。秀吉は諸大名を左右に列し、自身は
中正に床几を置いて腰を掛けて謁を受けた。彼はこのように声をかけた

「天子を軽侮するの罪、自己に驕り恣なるの咎、氏族を夷滅せんと欲すれども、刑戮を降伏に加えるに
忍びない。故にこれを宥す上は、今より旧悪を棄て本領を安堵する。その詞の印に両刀を与えるべし。」

と。自身が帯びていた長刀短刀を外し、刀の柄の方を義久に取らせた。六家老はこの様子を見て、
秀吉の大勇広量に驚嘆したという。

志士清談

秀吉が臣従してきた相手に自分の両刀を持たせたというのは、伊達政宗の話が有名ですが、
島津相手にも似たような話があったのですね。



960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/16(日) 15:32:39.15 ID:6ofPMtyB
戦国無双2Empiresのイベントでもあったっけ
秀吉「義久は新参でまだ不案内じゃろ?わし直々に案内してやろうぞ
んじゃ、わしの刀を持ってついて参れ」
島津義久「味方について日の浅い私に刀を預け、丸腰で、私に背を向けるとは…
斬れるならば斬れということか、全面的に信用しているということか、いずれにせよ、秀吉の将器…大きい」
(政宗も名前を変えただけのイベントあり)

薩摩川内市の泰平寺公園の島津義久像が秀吉に降伏している場面なのは少しかわいそうではある

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/16(日) 15:55:29.66 ID:z0WZzppy
ドリフターズのせいで空気読まずに襲いかかる島津を想像してしまうw

「沈惟敬、秀吉に毒を盛る」陰徳太平記バージョン

2021年12月21日 18:26

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/21(火) 16:29:18.69 ID:+zNGuFRY
沈惟敬、秀吉に毒を盛る」陰徳太平記バージョン
(この前のまとめ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13304.html
のコメント欄で沈惟敬が毒を持った話が陰徳太平記にも出てるとあったので)

そもそも太閤公、御不例の御病因を聞くに、去々年九月遊撃将軍・沈惟敬来朝して太閤に謁たてまつりける時、かれ懐中より丸薬取り出して服用す。
太閤公「それは何の薬や」と尋ねさせたまえば、「これは老人の若返る良薬にて候」と申す。
太閤公「老いて二度若くなる薬は日本にかえても求めまほしきものを、われに得させよ」とのべければ、すなわち奉りけり。
その座に輝元卿、利家卿、善乗坊(善祥坊、宮部継潤)など伺候したまいけるに、太閤公この人々にも賜りけれど、
利家卿、輝元卿は「かかる薬、いにしえよりありということを聞かず、怪し」と思い、服するようにて頓に懐中したまう。
善乗房は即呑まれけるゆえ、これも太閤公と同じ年に死去せられぬ。
遊撃将軍「秀吉公長生したまわばついには大明一統に征伐せらるべし。しからばわれ一身を捨て大明国中の人を救わば大忠なるべき」と思惟して
かく鴆毒を良薬と偽りてわが身も服し太閤公にも奉りけると聞こえしが。
かれが謀の中に陥されて、はかなく成りせたまゆこそくやしけれ。
たとい、いにしえよりかかる薬ありとも、讐敵といい、異朝の者といい、彼が奉りし薬を何の思案なく服用したまうべきや。
いわんや古往今来不老不死の薬の名のみありて実はそらごとなりということをば三歳の児も知るところなり。
秦皇の蓬莱を尋ね、漢武の仙掌の露を嘗めしは愚かなる例にはいわざるや。
かくまで浅智にございましては扶桑のみならず、朝鮮大明にいたって和を乞い、腰を折りての大謀争が寸心より出生せん。
これただ宿世の業因の果報する所のみ。



白餅と黒餅

2021年12月17日 18:29

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/17(金) 18:26:41.74 ID:7+jAGShj
白餅と黒餅

秀吉は信長に抜擢され足軽を預かるようになると衣服の紋に「白餅」を用いはじめた。
信長がわけを聞くと「城持ち、になりたいためでございます」と答えたが
自分でさえまだ尾張一国なのに、と信長は不機嫌になった。
数日後、秀吉の紋は「黒餅」に変わっていた。
信長は「石(こく)持ち」という謎だな、と上機嫌になり秀吉にすぐ十石加増した。

歴史作家の澤田ふじ子氏によれば、江戸初期の「適斎随筆」に書かれている逸話だそうだが「適斎随筆」の詳細は不明

ついでにネットで検索したら

藤堂高虎が黒餅を旗印にしていたところ
仲の悪い黒田長政に「俺のとことかぶってややこしい!」
と言われたため
藤堂高虎「なら黒餅(石持ち)より白餅(城持ち)の方がいいから白餅に変えてやろう」
と白餅に変えたという、講談「出世の白餅」の餅屋ががっかりするような出典不明の話もあった。



890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/17(金) 21:37:36.93 ID:UUw8tWgt
白餅はわかるけど黒餅って何なんだ?
餅が黒かったらカビてるだろ

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/17(金) 22:07:26.60 ID:yDRGO4iN
単純に、円形の事を同じ丸い形から餅と言い表しただけの話。

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/17(金) 22:57:51.50 ID:pn8mPHv+
白餅黒餅というのが赤福にあった。当時と同じかは知らん。

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/17(金) 23:09:07.02 ID:CFbom2Iz
白い餅は餅ではないと公孫龍があの世から

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/18(土) 00:13:14.27 ID:ANtCCoBN
キングダム読者「趙の将軍かな?」

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/18(土) 04:40:33.74 ID:U7XXEJRe
そもそも丸い紋であるところの餅紋を白抜きしたか黒塗りしたかの違いでしかないからな

黒川道祐「雍州府志 土産の部」から「定斎薬」

2021年12月11日 15:52

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/10(金) 23:50:05.29 ID:2yQGbjqv
黒川道祐雍州府志 土産の部」から「定斎薬」

定斎薬
豊臣秀吉公、大坂城に在りし時、城下の薬店に定斎(村田定斎)という者あり。
天性俳優を好む故、公猿楽を催す時、定斎狂言をなす。
かつて遊撃将軍・沈惟敬、大明国より朝鮮国をへて本朝に来たる。
時に沈惟敬、霊薬の方を秀吉公に授けたてまつる。
公、その方を定斎に授けらる。これを売りて恒産となさしむ。
この薬、諸病を治す。世に定斎薬と称す。
その孫、洛陽に来たり、東洞院綾小路に住す。今は青木屋と称す。

薬の行商人、定斎屋の起源について
沈惟敬がわざわざ秀吉に薬の処方を教えてくれたという話

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/11(土) 00:36:27.04 ID:rA3d6hct
ついでに朝鮮で18世紀に編纂された野史「燃藜室記述」の
巻之十七「宣祖朝之故事」から「秀吉、薬に斃す」

敷河という漢人の血を引く十二歳の者が捕われ、対馬に送られた。
「朝鮮の良家の子供を関白に献上する」と書に記されていたため、対馬の島主は秀吉に送った。
秀吉は敷河を熟視し「朝鮮の児も日本の児も変わらんな」と言い、通訳に対して「日本語をこの児に教えてやれ、理解させることができないようなら、児もお前も共に斬るぞ」と脅した。
三ヶ月後、敷河が日本語に通暁したため秀吉はこれを愛し、常に側に置くようになった。
平生、秀吉は三層の屏風でしきいられた中で過ごしており、左に鉄砲や刀、右に弓矢を備え、暇な時は近臣五人に故事を語らせ楽しんでいた。
秀吉には寵姫が五人いたが子供はなく、挙兵(文禄の役、壬辰倭乱)の年に一子・秀頼をもうけた。
丙申(1596年)秋、敷河は中華の使者・沈惟敬が秀吉と会見した場にいた。
秀吉が宮殿で沈惟敬を延見した時、沈惟敬は座って丸薬をのんでいた。
秀吉がその薬について尋ねると沈惟敬は
「万里の海を渡ってきたので病がちになりました、しかしこの薬を飲めば元気が湧いて身体が軽くなります」
秀吉「嘘ではあるまいな」
沈惟敬「いやいや、まさか」と丸薬の入った袋を示した。
秀吉「わしも呑んでかまわんか?」沈惟敬「どうぞ」
秀吉は敷河に袋を取って来させ、中から丸薬を一つ取り出し、懐中から取り出した楊枝で二つに割り、
秀吉「では二人で呑むことにしようぞ」と片方を沈惟敬に渡し、二人で一緒に呑んだ。
翌朝、沈惟敬を引見するとまた一緒に丸薬を分けて呑んだ。
実は丸薬には毒が入っており、沈惟敬は秀吉のところから帰館すると他の薬を飲み、先の薬を体からくだしていたのだ。
秀吉はこの時から不調になり臥せるようになり、医者や鍼灸の効果もなく死んでしまった。
死に際して「わしの死を秘して喪も発するな」と遺言した。
死後、秀吉の内蔵は取り出され洗われた後また体内に戻され、酒甕に漬けられた。
有事の際は寵姫が決裁していたが、数ヶ月して臭いが甚だしく周囲にも噂が広がったため、秘密を守ることができず、喪を発することとなった。
秀頼はまだ七歳であった。

荒唐無稽とはいえ、秀吉が沈惟敬に薬をもらった点では上の話と共通しているのが不思議ではある。

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/11(土) 12:44:13.71 ID:NYUYY1NT
ついでに秀吉が薬の袋を見たところ小さな字が書かれていて
秀吉「小さな字だの、日本では大きな字を好むのだが」
と言っているが、これも秀吉らしい気がする



867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/11(土) 13:15:03.68 ID:j1JDOPbO
老眼を認めないくそじじい典型

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/11(土) 17:41:06.07 ID:tX6dLA0G
字が読めない可能性もある

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/12(日) 23:26:37.51 ID:iquFBlEG
秀吉は直筆の書状と認められてるものもたくさんあるから読めないはありえないだろ
軍司令官勤めた時点で文盲はない

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/13(月) 17:36:37.12 ID:i+cOcqlm
読み聞かせる人がいれば自分で読む必要がないな

872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/14(火) 13:14:27.39 ID:+oQNRbQ5
文盲かな

赤銅の箱のような物

2021年11月06日 16:12

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/06(土) 15:45:18.43 ID:7NAO91eo
ある人曰く、明和八年(1771)より五十年ばかりも以前、伏見街道正面上ル町に
晒屋善右衛門という者があったが、家の裏に井戸を作ろうと土を掘った所、底になにか物があって
掘り進めることが出来なくなった。そこで段々に人夫を使って掘り出して見ると、それは
六、七尺(2メートル前後)ばかりもある赤銅の箱のような物で、その長さは幾許という事を知れぬほどであった。
この事は人々の話題となり、そのままにもして置けず公儀へ訴えた所、直ぐに検使が派遣され
御吟味があったが、誰もこれが何なのか知る者はなかった。

そのような所に、時の京都所司代に豊臣秀吉の大仏普請の時の文書が残っており、その時方広寺の
廻りに七尺四方なる、長さ二十間(約36メートル)の赤銅を二十本、土中に埋めており、これは地震のために
したのだとあった。

この事は糸割賦の年寄である有来新兵衛、剃髪して宗清という者が若年の時見たという説話である。

新東鑑

秀吉が大仏殿の地震対策に、巨大な赤銅の柱(?)を周辺に埋めていたらしい、というお話。



これは如来の祟りである

2021年11月05日 17:04

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/05(金) 01:01:07.87 ID:rd0Nuwmb
或る本に、文禄五年(1596)閏七月十三日の慶長伏見地震によって方広寺の大仏が破壊した時、
豊臣秀吉公は「仏の知見を以てしても、そも身の破壊を知らざるは信ずるに足らず!」
と宣われ、壊れた大仏像に向かって矢を射られ、そして信州善光寺の如来を大仏殿の本尊とされた。

そのようなある時、残暑甚だしい年があったが、俄に吹雪が天に満ち、甚だしい寒気が人々を襲った。
「これは如来の祟りである」とされ、慶長三年八月十七日(秀吉公薨去の前日である)善光寺へ、
その本尊を送り返したという。

(越後の人曰く、善光寺の正真の一寸八分の黄金仏は、現在羽州米沢に在り、毎月一日に開帳されているという。
これに限らず、上杉景勝卿は会津への国替えの時、彌彦明神の神宝、その他領国に在る旧物等を悉く
彼の国に引き取られらと言う。)

新東鑑

秀吉が方広寺の大仏の代わりに本尊として善光寺の如来を取り寄せた話の顛末



135 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/11/05(金) 10:33:36.82 ID:kidI51+i
http://www.houon.org/houonji/houmotsu.html
米沢法音寺公式サイト

天文二十(1551)年、川中島の戦いの折、信州中野城主高梨政頼は戦国の兵火を避けるため、
信濃善光寺のご本尊を上杉謙信公に奉じた。謙信公は春日山に如来堂を建ててご本尊を懇ろに
奉祀するとともに深く尊信し、厳重に守護した。
慶長六(1601)年、上杉家の国替えに伴い、善光寺如来尊も米沢に移され、景勝公は米沢城本丸の東南隅に
藩祖謙信公を祀る御堂を建て、御堂本殿の中央に謙信公のご尊骸を、右に善光寺如来尊、
左に泥足毘沙門天尊を安置し、さらに、二ノ丸に御堂に勤仕する真言宗二十一ヶ寺を建立して、
守護の掟頗る厳重にして、その供養勤行は丁寧を極め代々奉祀された。
明治に入り、法音寺が歴代藩主御廟所のある現在地に移転し、明治九年本丸の御堂が解体されて
謙信公のご遺骸が歴代御廟所中央の現在地に遷座された際、善光寺如来尊、泥足毘沙門天尊は
当寺に移され奉安された。

136 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/11/05(金) 10:46:28.92 ID:kidI51+i
謙信公は現在は上杉神社のご祭神として神式のお祀りですが、江戸時代は三尊形式で脇侍を従えた仏様だったと

豊国社の燈籠

2021年11月04日 16:50

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/03(水) 17:48:46.27 ID:WX8QJ/Xl
ある覚書に曰く、京(方広寺)大仏殿の前に石灯籠が三十三基ある。これは元来豊国社の
灯籠であり、この社が建立された時、諸大名より献じられたのだが、大阪夏の陣を経ての豊国社破壊の後
ここに移され、この燈明を燈した。これを行うのは山崎離宮八幡の社人の役であった。

その謂れは、秀吉公の代までは由緒が有り、日本国に於いて油を絞る事は、山崎社家の他は禁止されていた。
これについて、秀吉公より袖判を賜っていた。そしてこの恩謝として、豊国社の燈明役を勤めたのである。

その後、現在の場所に移されても、この例を以て、京都所司代板倉周防守殿(重宗)の計らいによって。
燈籠一基につき銀九十三匁づつ下され、永代灯さんとの事になった。それ故に山崎よりこの辺りに家を構え、
火燈しの役人を置いていたのであるが、時代を経て今はその事廃れてしまった。
ではあるが、この旧例によって今に至っても、年始礼に山崎社家より妙法院御門跡へ胡麻油五升、
一乗院御門跡へも同様、老中所司代へも同様、京町奉行へ三升づつ進上する。

石灯籠の数、豊国社には六十六基が有ったと云うが、今大仏殿に立っているのは三十三基である。
『奉寄進豊国大明神』『慶長』の文字、或いは紋所等が僅かに残るという。

新東鑑
安永年間(1772~81)に成立したとされる新東鑑より、豊国社の燈籠について