大阪冬の陣の和睦の時

2018年06月24日 14:44

878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/24(日) 00:07:50.74 ID:AYWzaaZT
大阪冬の陣の和睦の時、大阪城内では、城の弾薬、兵糧米などが尽きようとしているので、
豊臣秀頼一人が腹を切る事で、籠城衆を助けるのだと取り沙汰された。
そして、例え兵粮が多く有ったのとしても、大阪城から5里隔てた幕府方の附城4ヶ所ほどに
それぞれに大名衆を置き、結局兵糧攻めにされるのだとも言われた。

その時城内より遣いとして参ったのは松の丸殿孝蔵主であったという。
大阪章(ふみ)と申すのは文英清韓長老が書いたものだという。

(長澤聞書)

冬の陣講和の時に、大阪城内で言われていたこと



879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/24(日) 15:54:28.25 ID:u7rojT8f
結局、遅かれ早かれだったな。
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信長と秀吉の違い

2018年06月10日 13:48

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/10(日) 11:43:06.50 ID:+lBkktIw
天正13年7月、豊臣秀吉は摂政関白の両職を占められた。目出度いことである。
その御治世の賢きことを考えてみると、織田信長は義と剛のみを用いられたため、
敵対する者は不義であると、御身剛なるままにその根を絶ちその葉を枯らした。
また敵の方から降参する者をも、不義をして来た者であるからと、後になって害した。
そのようであったので降参するものも無く、故に天下も静まらなかった。

一方の関白秀吉は、柔と剛を兼ねて用いられ、敵対する者へは、或いは先に扱いを入れて
それを聞かなければ攻められ、或いは先に攻撃してその後扱いを入れた。そして降参する者には
過分の領地を与えた。故に天下は早々に治まったのである。

(氏鄕記)

氏郷記による、信長と秀吉の違い



984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/10(日) 14:15:52.84 ID:TtJ2yHhY
秀吉は、そうやって外様にいい顔したから、子飼いの武将があまり大身にならなかった側面があるような。

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/10(日) 14:24:34.85 ID:08xhiQlf
譜代の石高が低いのは徳川も一緒じゃないかな

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/10(日) 15:12:43.50 ID:KDd0fsGl
譜代に大身を与えたら反乱祭りになった足利幕府という例があるからな

987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/10(日) 19:41:46.61 ID:Lmu5ih2J
秀吉の場合理不尽に奪うケースも多かったと思うがなぁ( 奥州仕置とかが判りやすい )

988 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/11(月) 00:42:38.28 ID:Vq/uASs5
恩賞の土地が無くなってきたとか?

989 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/11(月) 01:08:18.93 ID:r7KW5omB
理不尽っつーか、奥州とか九州とか、よくわからない土地は自分の功臣にどかっと領地を与えるのに使っちゃった、ってことだろ。
奥州とか九州とか、先祖代々の入り組んだ関係を理解して公平にさばくなんて誰にもできない。

990 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/11(月) 10:18:37.36 ID:1BvVKhuE
信長の場合、問題は、最初友好的だった戦国大名と、領土が近づくとことごとく敵対関係になっていること。

991 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/11(月) 13:11:49.75 ID:Vq/uASs5
友好的な戦国大名って誰のことだろう
分かる人いる?

992 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/11(月) 14:17:55.69 ID:sVJD/xBa
上杉や毛利でしょうね
ただし領地が接した途端に戦い始めるのは戦国大名としてはお約束の展開。
秀吉なんかも征伐、征伐だし

必要なのは頭と肉と腸

2018年06月02日 13:35

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/01(金) 21:04:39.75 ID:OgMQNIEj
 文禄2(1593)年12月、奉行の浅野長吉と木下吉隆が秀吉の意向を受けて、在陣武将た
ちに虎狩りを命じた文書が残っている。

 秀吉様の御養生のために虎を捕獲して塩漬けにして送れ。必要なのは頭と肉と腸で、皮
は自由にしていい

 この文書を読むと、当時虎は不老長寿の薬として重用されており、朝鮮での虎狩りは秀
吉の滋養強壮の薬を調達するために行われていたようだ。秀吉が文禄3年4月12日付で加藤
清正に宛てた朱印状では、清正が秀吉の命令に従って実際に虎を狩って秀吉に送っていた
ことがわかる。熊本日日新聞社編『加藤清正の生涯』p74

 虎の利用法。秀吉の仙薬調合の材料確保のために組織的に行われていた。加藤清正以外の部将も、虎狩りに従事していた。
 皮は好きにしていいというのは、実際に虎狩りに従事した大名たちへの反対給付の意味もあったのかも。



関白鶴ヶ岡参詣の事

2018年05月31日 17:27

829 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/30(水) 20:10:48.97 ID:m3QtbrAB
関白鶴ヶ岡参詣の事
秀吉鎌倉の鶴ヶ岡を詣でて、八幡宮の戸を開かせ頼朝の像を見られしが、背中を打叩き、
微賤より出て、日本を掌に握る事我と御辺と二人なり。然れども頼義父子鎮守府将軍とし
て東国の者共久しく親み多かりき。蛭が小島より兵を起こされしに、関東の靡き従えるも
謂われ無きに非ず。我は土民の中より斯く日本を思いの儘にすれば、功尚高し、と言われ
けり。                               (常山紀談)

 秀吉の感じが悪い話。この時点で、かなり調子に乗っていたのだな。ラスボス感が。
 そういえば、息子の世代で絶えたという点でも、秀吉と頼朝って、いっしょだな。どち
らも、一族や譜代の欠如が、弱点だったのかね。


上様日和という事

2018年05月30日 19:56

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/30(水) 19:38:44.80 ID:m3QtbrAB
上様日和という事
同時九鬼大隅守嘉隆日本丸といふ大船を乗廻し南の海上を取巻けり、此所は荒海にて、東
風吹く時は波浪山岳を倒しかくるが如し、船をかけ並ぶる事思いも寄らぬ所なるに、秀吉
城を囲まれし間五十余日風静に波穏かなり。是よりして小田原海辺風無き日を上様日和と
言慣しけり。
                            (常山紀談)

 秀吉が小田原城を包囲する間、天気がよかった話。
 北条氏は、天運にも見離されていたのか。まあ、海が荒れて、海上からの包囲に穴があ
いても、味方してくれる勢力が一つもない状況だったわけだが。豊臣方の海上輸送も阻害
されただろうから、包囲が続けられなかったかな。



965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/30(水) 23:47:37.61 ID:2DJug1SZ
上様日和って吉宗が屋敷に来て慌てる悪代官を想像してしまう

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/31(木) 11:53:15.30 ID:1OLpxP+u
そういえば富岳三十六景の神奈川沖浪裏もこのへんの海域か
あれも「波浪山岳を倒しかくるが如」くだもんな

柴田などに騙されるものか

2018年05月11日 08:05

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/10(木) 22:17:36.88 ID:ZZ5c1Vdw
清須会議の後、羽柴秀吉と柴田勝家の関係は徐々に悪化したが、この秀吉と勝家の間を
和睦させたいと、滝川一益より織田信孝へ申したてられた。

これを受けて、信孝も勝家へ異見をし、これにより勝家は、自分の馬廻り二名と、秀吉に縁のある
故信長の馬廻り二人を秀吉のもとに遣わし、浅野弥兵衛(長政)を通して存念を申し入れた。

秀吉はこの使いの四人を召し出し、彼らから直に話を聞いた。彼らは
「現在はお互いに用に立たぬことを申し立て、話し合いも出来ない状況です。ですので和睦を
すべきです。」
と申し上げた。これに秀吉は答えた。

「あなた方が仰ったこと、尤もである。あなた達の異見に従おう。」

「御心良く我らの異見を了解くださったこと、大いに喜ばしく思っております。
それではこの事に対し、墨付を下されますでしょうか?」

「墨付は、飛脚を以って直接勝家殿に届けよう。各々はここから帰る前に、大徳寺に参詣して
信長公へ焼香を致すように。」と言った。
このため使者たちは大徳寺に参詣して越前へと帰っていった。

それを確認すると秀吉は五畿衆を呼び寄せ、こう言った
「今度越前よりの口上を聞いたが、これは雪中では出馬が難しい所からの策謀である。
きっと滝川一益の考えた策謀であろう。
唐においては張良、日本においては楠などの策謀であるなら私も騙されるかも知れないが、
柴田などに騙されるものか。」

これを聞いた者達、何れも感じ入ったという。

(志津ケ嶽合戰小須賀九兵衛話)


汝が心を見んとして

2018年05月09日 19:51

880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/09(水) 19:47:05.74 ID:wx5+9+Fx
太閤秀吉の父親(義父)は、尾張国ハザマ村の生まれで、竹阿弥といい織田信長の同朋衆であった。
秀吉は申の年の6月15日、清須水野のゴウ戸という所で生まれ、幼名を小竹といった。

ある時、清州城の大手口、松の木門の下を小竹が通った時、信長はこの門の二階に居て、その
節穴から小竹に小便をかけた。

小竹は「士ほどの者に小便をかけるか!?」と、これに激怒し二階門へと駆け上がった。
ところがこの時、信長は御供の衆が一人もなく、武器も脇差だけしか持たなかった。

駆け上がってきた小竹に信長は言った
「俺にてあるぞ!苦しかるまじ!」

「俺とは誰か!?」

「信長なり!」

しかし小竹怯まず
「いかに御主なりとて、小便をかけられたのは無念である!」と、信長に殴りかかろうと
した。その時信長

「汝が心を見んとしてした事だ、堪忍せよ。以後は取り立て、召し使ってやるぞ!」

それより信長の家来となり、木下藤吉と名乗った。

(祖父物語)



881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/09(水) 21:43:11.60 ID:rA67Gfwb
>>880
山岡荘八の小説だと信長が利家になっていたな
小竹が秀長でなく秀吉の幼名なのは新鮮

中村作り取りの事

2018年04月29日 12:40

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/28(土) 19:51:42.05 ID:av85IIge
豊臣秀吉による小田原征伐の時、小早川(隆景)といって筑紫の武士が在り、彼は大丈夫
であるとして、秀吉により清州城の留守を申し付けられた。

小早川は尾張中村まで秀吉のお供をしたが、そこで秀吉はこのように言った
「お主に言うのも恥ずかしいことだが、私はこの中村で生まれ、わやく(腕白・乱暴)な事もして
遠州へ落ち行き、松下石見に仕えた。考えてみれば武士ほど面白いものはないな。
ところで、この中村を百姓たちの作り取り(無税)にするというのはどうだろうか?」

小早川も
「かかる目出度き御代です。作り取りにさせるべきでしょう。」
そう申し上げた。しかし秀吉は

「ただ、かつての事、この村には二王というわっぱ(童)がいて、私より少し年長であったが、
ある時、この道筋で二王が刈り取った草を、私が少し取ったところ、この二王が
『遅く来て草を刈ってすらいないのに!』と、鎌の柄にて私を叩いた。
その遺恨、今も忘れない。

二王を呼び出し彼の首を斬って、その上で中村には作り取りを許可しよう。」

この二王はこの時もまだ生きていたのだが、中村の者達は彼はもう死んだのだと申し上げた。
そこで秀吉は「彼に子はないのか」と尋ねた。中村の者達「子も死んで、孫だけは居ります」
と答えた。これを聞くと

「孫ならば本人からも血縁が遠い。苦からず。」

そう言って中村一円の百姓に、作り取りの権利を与えた。

ところがその後、中村の田地一円は秀吉によって召し上げられた。
これは高麗陣の時、秀吉が

「中村の百姓が一人も見舞いに参らない!なんと憎き奴原か。見舞いに来たなら路銀も余るほど
与えたというのに。筑紫から大阪まで船で送ったであろうに!」

そう激怒し、その過怠により田地残らず召し上げたのである。

(祖父物語)



696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/29(日) 10:52:36.55 ID:/MEehMgy
まとめの3189だと市松が仁王が死んだ、と言ってることにしてるな
尾張中村の仁王と福島正則

戦国無双4では秀吉を美化してるせいで
仁王が死んでるのが嘘と気づいた秀吉が
「あのことは気にしてないぞ」と伝言して感動した仁王が野菜を献上するという、韓信の股くぐりの「仇を恩で返す」の類の
話に改変されてたのを思い出す

木下藤吉郎、堂洞城攻めの功

2018年04月26日 18:51

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/25(水) 19:54:47.09 ID:isUtGnGf
織田信長が美濃国ドウノ洞(堂洞城か)に出陣する時、当時まだ乗馬を持っていなかった
木下藤吉郎に対し
「汝の一門の内にて馬を借りて乗ってくるように」
そう仰せになると、藤吉郎は「畏まり候」と、海東郡のオトノコウという場所に、彌助という
綱差しが居り、これは藤吉郎の姉婿であったのだが、彼の所持する栗毛の草役馬(農耕馬)を
借り受けた。

しかしこの馬には、鞍はあるが鐙がなく、しかしながら腐った金鐙が片方だけあり、
もう一方には細引きを付けて鐙の代わりとした、

そして馬は準備できても、藤吉郎には供に連れて行く者も居なかったのだが、この時
彌助は、これから合戦に行くことを知りながら「私が付いていこう」と、藤吉郎の供をした。

藤吉郎は堂洞にて坪内十郎右衛門という者を討ち取った、堂洞城の城主である坪内某は、
本丸に追い詰められると詫び言をして開城し、助命を受けた。そして信長に対し、岐阜に
退去する間の安全のため人質を乞うた。

信長はこの坪内への人質として、木下藤吉郎を遣わした。その出発前、信長は藤吉郎に言った
「道中にて坪内を、汝もろとも打ち殺す事もある。お前の命を私にくれ。」
これに藤吉郎は
「何れの道にても、御用にて命を召されること、いと易き御事であります。」
そうしっかりとお請けした。

信長は坪内を藤吉郎もろとも殺そうと思っていたのだが、藤吉郎が潔く命を差し出すことを
不憫に思い、そのまま指し行かせた。その後、藤吉郎が各務原より無事に帰国すると、
美濃国の織田領の内より七千石の知行が与えられた。

藤吉郎は俄大名と成ったが、これを切り盛りする人材が居ないことに困り、七郎左衛門といって
清須で連雀商人(行商人)をしている者があり、彼は藤吉郎の伯母婿であった。
藤吉郎が小竹といった幼少の頃は、この七郎左衛門を主人のように尊重していたのだが、
今や七千石の主となった藤吉郎は七郎左衛門を呼び寄せ、七百石を取らせ
「末々いかほどの大名に成ってもその十分の一を取らせる」と約束し、木下家中のおとな(家老)と
した。後の杉原伯耆守(家次)はこの七郎左衛門の事である。

馬を貸した姉婿の彌助には五百石を取らせた。後の三位法印(三好吉房:豊臣秀次実父)と申すのが
この彌助である。

(祖父物語)



807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/25(水) 20:08:25.07 ID:h0+s79/n
>>806
秀吉が敵を討ち取った事があるんだね!
小男で非力なイメージだったから意外だった

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/25(水) 21:00:27.02 ID:E63W07aK
>>806
>豊臣秀次実父
(´・_・`)

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/26(木) 18:08:20.54 ID:7yEMWFBt
杉原伯耆も秀吉が天下取った直後に発狂して亡くなるんだよなあ…

810 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/04/26(木) 18:33:18.40 ID:0K6Usc3/
約束反故にされたもんな

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/26(木) 19:53:27.83 ID:fAuyfDAC
秀吉がいなかったら埋もれていただろう秀長とか浅野長政なんてのがいると思うと
実際に埋もれてしまった人材ってのはたくさんいるんだろうな

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/26(木) 20:36:51.10 ID:KtbdE/GA
爆弾正だって弟が長慶の目に留まらなければ埋もれていた人材だし

藤吉郎は才覚者である

2018年04月25日 15:40

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/24(火) 19:50:39.26 ID:AYcHC9q1
織田信長が清須から小牧山へ本拠を移した時、信長は「清須に残るものは成敗する」と
宣言し、「小牧に引っ越さぬ者は家を焼け!」と、木下藤吉郎を奉行として遣わした。

この時藤吉郎は、駄賃馬(民間運搬業者の輸送馬)に乗って清須へ向かった。

すると清須の町人たちは「家を焼かれては悲しき」と皆藤吉郎に詫言し、すぐに
小牧へと引っ越しをした。

これに信長は「藤吉郎は才覚者である」と褒めたという。

(祖父物語)

これはつまり、輸送用の馬を使ってわざとゆっくり清須に向い、その間に
転居しないものは家を焼くという命令が出たことを知れ渡るようにした、という事
なのでしょうね。



797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/24(火) 20:29:12.02 ID:070XowX1
>>796
命令の範囲内で配慮する秀吉、それを咎めず褒める信長…イイハナシダナー(´;ω;`)

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/24(火) 22:03:01.32 ID:ZqzhFfys
>>796
安土への移住命令に従わないのが100人以上いなかったっけか
信長の再三の命令にもしたがず知人宅を転々としていた輩が岐阜で捕まって処刑されていた気がする

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/24(火) 22:33:44.31 ID:ADL7JM1P
当時の強制連行の歴史をまとめると面白そうだな

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/24(火) 22:55:15.25 ID:Qd+Euo80
文化の輸入も含めて面白そう

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/25(水) 09:46:07.73 ID:QuxLrWiC
なんで処刑されるまで移住に抵抗したんだろう。
たしかに旅費や治安とか安土での生活が成り立つかどうかわからないとかあるけど。

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/25(水) 11:57:51.54 ID:6CB1aaf0
>>802
以前、投稿された時には嫁さんが怖かったからって茶化されてたね
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/?cat=904

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/25(水) 11:59:10.94 ID:E63W07aK
>>802
今でいうなら別の国に移住するようなもんだし、家や土地に対する執着もずっと強いだろうし。

1,300人が招かれた空前の花見

2018年03月14日 22:21

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/13(火) 19:22:32.89 ID:pQmaCDhk
1,300人が招かれた空前の花見

キリン食生活文化研究所より
ttp://www.kirin.co.jp/csv/food-life/know/activity/foodculture/03.html


※書き込みの内容はこちらの記事とほぼ同じでしたので、リンク先にてご確認ください

慈悲なる覚悟

2018年03月02日 18:05

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/01(木) 16:04:32.52 ID:WpYcxGcE
慈悲なる覚悟


以下は小牧・長久手の戦いで織田信雄が秀吉と単独講和した直後に
秀吉が池田家臣・伊木忠次を通じて池田輝政に送った書状。

 
わざわざ申し遣わします。

一こちら(伊勢国)では、長島・桑名へ押し詰め城を数か所に拵えたので
 そのまま秀吉が縄生城に越年して長島を攻略しようとすると
 信雄は考えついたのか和睦を懇望してきたのでそれに同心しました。

一人質は信雄の実子ならびに源五殿(織田長益)の実子と、滝川三郎兵衛尉(雄利)
 中川勘右衛門尉(定成)、土方彦三郎(雄久)、松庵(新庄直忠)以下はいずれも
 実子か母が人質に出ます。いかようでも秀吉次第と誓紙を出させました。

一北伊勢は向こうに渡し、今度拵えた城は敵味方ともに破却となりました。

一尾張では、犬山・甲田には秀吉の手勢を入れ、そのほかの新しく作った城は
 敵味方ともに破却となりました。

一家康も信雄同様に和睦を懇望しています。
 しかしながら信雄が若人を引き入れて、秀吉に対して重々不届きを働いたので
 すぐにでも三河へ押し詰めて思い通りに申し付ける覚悟でいましたところ
 家康は実子と石河伯耆(数正)以下を人質に出し、いかようでも秀吉次第で
 よいと言っているようです。
 それと同時に信雄も外聞があるので詫び言を入れ、色々懇望してきたのですが
 秀吉の家康に対する恨みは深いので、まだ思案が落着していません。
 許し置けない者について、日頃から無念を晴らすつもりでいたのですが
 とにかくこちらに任せる様子であると聞いたので、私は慈悲なる覚悟をもって
 過半は許すべきでしょうか、心中難しく思っています。

一右のようになっていますので、全てが決着すれば十五日には馬を納めることに
 なるでしょうか、またおいおい申します。

かくのごとく申し遣わしたところ、家康がしきりに懇望するので
人質を受け取って済ませることになりました。そのように心得て下さい。    

  十一月十三日      秀吉(朱印)
    伊木長兵衛尉(忠次)殿 



571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/03(土) 13:50:38.76 ID:eEeAEuPX
>>566
>家康は実子と石河伯耆(数正)以下を人質に出し、いかようでも秀吉次第で
>よいと言っているようです。

これって石川数正は出奔でなくて人質ってこと?

572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/03(土) 15:39:44.19 ID:ilBYxqGL
人質となった翌年出奔した

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/04(日) 04:07:31.30 ID:W/C92D4S
>>571
秀康を届ける役だから、送った後帰るまでは人質(証人)扱い

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/04(日) 08:07:46.17 ID:F2HxrR4q
家に帰るまでが○○というやつですな

北條五代記より、信長、秀吉について

2018年02月01日 17:24

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/01(木) 11:20:39.69 ID:I+NaHYvb
ある老人が言った、「信長と秀吉の弓矢の取り様は、全く別物である」と。
それはどういうことかと問うと、こう答えた

信長は永禄年中に京都へ攻め上がり、その勢力を広げ、山城、摂津、和泉、河内、越前、若狭、丹後、
但馬、播磨を手に入れられ、美濃、尾張、三河の遠近を合わせれば、15ヶ国を治めた。
ではあったが、大阪の一向宗は、坊主の一人も信長の旗下につかず敵となり、それに地下の旦那共
一味して籠城した。これらは一を以って千に当たる血気の者共であった。それに対し信長は、
強引に攻めれば味方に多くの損害が出ると考えたのであろう、5年間打ち置き後に、和平があって
城を開き退いた。

甲州で武田信玄が逆威を振るっている間も、返ってなだめ和睦し、勝頼の時代に馬を出すと、
武田家は聞き落ちに敗北し、滅びた。
人々は、この勢いで信長は関八州まで望むだろうと思ったものであったが、当時関東にあって
北条氏直は大国を守護しており、また西国も未だ治まっていなかったため、甲州より帰洛した。

このような例から考えるに、織田信長という人は、一般には武勇に長け苛立ちやすく、短慮未練であると
言われているが、そうではなく、智謀武略の大将であると評価すべきであろう。

一方で秀吉は、一身の武勇に秀で、運に任せて弓矢を取り、勝ちに乗じて驕りを旨とした。

例えば北条氏直は秀吉に臣従し、使者を登らせその上来春の上洛を決定しその支度もしていた所に、
遅参であると事を左右にして関東へ出馬した。
名大将というのは戦わずして勝つことを本意とするものだが、秀吉は弓矢の手柄を以って国を治めるのを
専らとした。その上、秀吉の奥州下向は何ゆえであろうか?

小田原攻めの間に、伊達政宗を始め、奥州の諸侯はことごとく馳せ参じ、手をついて臣従していた。
その上、諸軍は小田原百余ヶ日の長陣に草臥れ気も疲れ果てていたが、そういった所に思いの外の
計策の扱いあって、小田原城は落城した。

惣軍、早く帰国したいと希望していた所に、諸勢の労苦も考えず驕るに任せて敵も居ない奥州に下り、
田畑の検地をさせ黒川から帰洛した。
これは偏に、秀吉の弓矢の勢いを、百姓らに知らせるだけのための物であった。

(略)

その上、天下を争い戦いを為すと言うが、その身のために軍を起こすのは、一旦の利があると雖も、
その治世は久しくならず、果の滅亡の兆しが既に生まれている。
国のため、万民のために弓矢を取れば、神明の加護があって、身の幸いが生まれる。
上より下を撫育すれば、下は上に対し父母の思いを成す。
天下を治めて後、干戈を箱に納め弓を袋に入れ、秩序を専らとし民を豊かにするのが、君子の道である。

然るに秀吉、高麗国への出陣は、唐の使いが遅参した事が無礼であると言葉巧みに宣伝し、
戦争を望んだ故のものであった。これに動員されたのは五十万騎だという。そしてこれに対する
兵糧米の運送を行ったのは、日本国の民百姓である。その嘆き、悲しみ、その費え、計ることも出来ない。
その上に、敵味方の死者は幾万幾千と数えることも出来ないほどだ。これは秀吉が、驕りを旨とし、一身の
誉れを願うが故の事である。このような彼の科から、目をそらしてはならない。

(北條五代記)



524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/01(木) 11:41:24.60 ID:GfisAjrZ
ラスボス絶賛されてんなーと思ったら五代記かよ

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/01(木) 12:22:40.18 ID:90CjWerw
絶賛?

つまり大澤は信というものを

2018年01月26日 16:43

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/26(金) 12:05:07.82 ID:Grb8o8m1
美濃国宇留間の城主・大澤二郎左衛門は、木下秀吉の謀を以って織田信長に属した。
秀吉は大澤を引き連れ信長のもとに参り、清須において信長へ御礼を申させた。

その夜、信長は密かに秀吉を招いて命じた
「大澤は名のある勇士である。もし志を変じては、重ねて退治するのも大儀であれば、
夜中に彼を誅するように。」

秀吉はこれを諌めた
「大澤大敵なりと雖も、我らを信用したくれた故に、降参を遂げたのです。
今これを殺すことは、約を変じ信を失い、ただ一時快くするだけの話であり、
今後重ねて、所々の剛敵が降伏しなく成るでしょう。」

そう説得したが、信長は得心しなかった。

秀吉は急ぎ大澤の元に行くと、信長の命を残らず説明し
「こういった事となったが、あなたは私を人質として、急ぎ退去するのだ。」

これを聞いて大澤は大いに喜び、秀吉を人質に取って帰城した。

後に秀吉はこの時のことをこう語った
「私が大澤に信を示した所、大澤は私を以って人質とし、小刀を抜いて私に指し当てて退いたが、
つまり大澤は信というものを知らなかったのだ。」

(士談)


汝らの功を以って我が功とすべし

2017年12月05日 17:48

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/05(火) 09:31:48.31 ID:ziSpxjee
豊臣秀吉は細川玄旨(幽斎)、法橋(里村)紹巴らを傍において、時々興ある歌、連歌などを行い
或いは五山十刹の長老出世の者たちを集め、詩連句の会なども主催した。

しかし、こういう場においては、秀吉の作意に合わせて他の者の作った歌・連歌を以って、
これを秀吉の作とした。

秀吉はこう命じたのだという
「詩歌は武家が必ず身につける物ではないと言っても、無下に卑しいのも又、大丈夫の本意
ではない。だからといって心にそまぬ事をやるのは、甚だしい労役の至りである。

武将というものは自らは手を下さず、兵卒の功を集め、その功が将に帰す。
詩歌もまた、汝らの功を以って我が功とすべし。」

(士談)



387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/05(火) 12:49:25.25 ID:AZbvB/wH
ジャイアン秀吉…

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/05(火) 17:30:27.23 ID:6CWRDPf1
秀吉、幽斎、連歌といえば過去に2回ほど出ている(まとめの5166555
秀吉が連歌の会で「奥山に紅葉踏み分け鳴く蛍」と詠んで一堂が笑ったところ
幽斎がとっさに「蛍よりほか鳴く虫もなし」と古歌にあります、とでっちあげてフォローした話
なお江戸時代の太田錦城の随筆「梧窓漫筆三編巻下」では

太閤が歌の知識がないためにこんなバカげた句を良んだと思ったのはむしろ一堂が愚かだったのだ。
田夫野人といえどもホタルが鳴かないのを知らないはずはない、わざとおかしな句を読んで一堂を試し
しかも自分の威勢なら鳴かない蛍も鳴かせてみよう、という気宇壮大な句だったのだ。

とか書いてた。>>386と合わせると
「秀吉がまた馬鹿な歌を作らないように前もって幽斎たちに任せた」てことになりそうだけど

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/05(火) 19:45:02.81 ID:+Hd9QwO3
>>386
俺は良い話と受け取ったw

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/06(水) 07:20:45.72 ID:eOR5xfuh
下々のものにアイディア出させてゴーストに書かせて、結局プロデューサーの手柄にしちゃうっていうのなら、今のプロダクションと一緒だわな…

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/06(水) 07:38:03.90 ID:6zYKbT+/
それが本業ならそうだろうが

秀吉の恩顧、度量に

2017年12月04日 19:52

491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/04(月) 19:41:43.17 ID:nc3y9iGR
豊臣秀吉のもとに、毛利輝元が初めて出仕したときのこと。

毛利は天下第一の大名であり。中国は残らず彼の威風に属していた。
然らば、秀吉も定めて礼を正し、威厳に満ちた対面をするだろうと、人々はそう考えていた。

ところが、秀吉は輝元を対面所に暫く待たせ、その後、帯を手に持ちまるで形式張らない
格好で、女の禿(かむろ)に腰刀をもたせで現れると、その姿のまま輝元に対面し、
直に彼の手を取って立たせ、古のことなど色々と物語しつつ、大阪城内の座敷を一つ一つ
見せて周り、それから天守へと上がり、大阪の四方の繁栄を見せつけ、その場で刀を与えた。

それから座敷へと下り、庭に馬を曳かせた。
秀吉はその馬に乗り、輝元に馬の口を取らせた。その後馬は輝元に与えられた。

これにより毛利は尽く秀吉の恩顧、度量に平伏し、あるいは親しみ、あるいは恐れたという。

(士談)



492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/05(火) 23:30:56.61 ID:fZVtOxA0
この人たらし

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/06(水) 01:09:32.78 ID:IcvXM8GT
毛利元就ならともかく子供世代なら話にならないよなあ

494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/06(水) 01:16:06.00 ID:6zYKbT+/
帯を手に持ち
って、帯つけてなかったってことか?

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/06(水) 08:17:07.77 ID:mUJQieT7
>>493
毛利なんて豪族の連合体だから脆いよ

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/06(水) 08:31:58.39 ID:5WkMmMJn
なにいってんだこいつ(AA略

497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/06(水) 17:49:43.46 ID:upLVsY/+
>>495
武田信玄「まったくだ」

天正20年5月18日付 豊臣秀吉、秀次宛書状

2017年11月22日 16:44

331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/22(水) 12:37:42.57 ID:j6nRfafp
豊臣秀吉豊臣秀次宛書状

一、殿下(秀次)は陣の用意を油断なく行ってください。来年2月には進発するように。
一、高麗の都は二日に落ちました。この上はいよいよ渡海する時は、大明国まで残らず
  征服するよう仰せ付けましたので、大唐の関白職と成るべくお渡りになるでしょう。
一、人数は3万を召し連れ、兵庫より船で来るように。馬などは陸地でさし寄越して下さい。
一、三国の中に敵対するものはこれ無しと雖も、外聞というものが有ります。武具の嗜みには
  十分気を付けて下さい。下々にまで申し聞かせるように。
一、召し連れていく者のうち、人持ちには3万石、馬廻りへは2万石を貸し遣わすように。
  金子も似合い似合いに貸し遣わすように。
一、京都の御城米は留め置いて下さい。八木に手を付けさせてはなりません。
  その他の30万石は先にこちらに輸送しました。八木を陣用意に召し遣わし、
  不足のあった場合は太閤御蔵米が入り次第召されるように。
一、のし(金を延べ貼り付けたもの)付きの刀脇差を千腰用意して下さい。あまり大きすぎては
  指す者遠路の迷惑となるでしょうから、刀は七両、脇差は三両あまりにて申し付けて下さい。
一、のし付きの薙刀30、のし付きの鑓20本、このほかは無用です。
一、長柄槍は柄を金にするように。毛のない鞘は無用です。大阪に樫柄のものを置いてあるので、
  所用の時はこれを召し寄せて下さい。
一、金子について、私の方に今ある分は払底してしまったので、聚楽に有る銀子一万枚を
  大阪に遣わし、大阪の金子千枚をこちらに召し寄せて下さい。ただし五百枚所用の時は、
  銀子五千枚を代わりに遣わして下さい。如何程であっても、10分の1で交換して下さい。
一、具足は5、6丁を持ってくるように。それ以上は無用です。
一、馬たちは現在高麗に半分は曳いていきました。その他は名護屋に鞍道具ともに残し置いて
  ありますので、そちらがあまた曳いてくるのは無用です。広島にも10匹置いてありますので、
  彼の地にて引き換えて下さい。よくよく飼い置く旨、西尾(光教)に仰せ遣わしておくように。
一、名護屋にも高麗にも兵糧はふんだんに有るので、用意には及びません。こちらに向かう道での
  覚悟のみを仕って下さい。
一、小者若党以下、下々までも召し置いて下さい。この方で小者などを雇い入れようとしても、
  にわかには出来ません。前々から用意しておくことが肝心です。
一、丹波中納言(羽柴秀俊)にこちらに来るよう、準備を命じ、きっと同道するようにして下さい。
  8月前には命じるように。尺米等の事については山口の方へ仰せ遣わすように。
  8月前に召し寄せ、高麗か名護屋での留守を仰せ付けます。
一、高麗のための留守居として、宮部中務卿法印(継潤)を召し寄せて下さい。用意を命じ
  従う旨を仰せ遣わして下さい。
一、大唐の都へ叡慮(天皇)をお移し申すつもりですので、その御用意をしてください。
  明後年には行幸が成されるでしょう。その場合、都の周辺10国を進上するでしょう。
  その内において諸公家衆何れも知行が仰せ付けられます。官位の低い衆の知行は
  10倍にし、官位の高い衆は仁礼によるべき事。
一、大唐の関白は先に言ったように、秀次に仰せ付けられる。その上で、都の周辺100国を
  与える。日本の関白は大和中納言(羽柴秀保)、備前宰相(宇喜多秀家)のうち、覚悟次第で
  仰せ付ける。
一、日本の帝位は若宮八条殿(皇弟知仁親王)に、何れにせよ決まるでしょう。
一、高麗については岐阜宰相(羽柴秀勝)か、そうでなければ備前宰相を置きます。
  丹波中納言は九州に置きます。
一、震旦国(中国)への叡慮(天皇)の行路は、例式や行幸の儀式があるので、御泊々、
  今回あなたが出陣する道路の御座所が然るべきでしょう。人足伝馬は、その国の範囲で
  申し付けるように。
一、高麗国はもちろん大明の征服も、手間はいらぬと人々に仰せ付けて下さい。上下の迷惑は
  少しもなく、下々が逃げ走る必要もありません。諸国へ遣わした奉行たちを召し帰し、
  陣の用意を申し付けて下さい。
一、平安城(京都)並びに聚楽の留守居については、追って命じます。
一、民部卿法印(前田玄以)、小出播磨守(秀政)、石川伊賀守(貞政)以下、用意を命じ、
  お考え次第に参陣致す旨、申し聞かせるように。
右の条々、西尾豊後守(光教)に申し含めました。その意を得て下さい。

  天正二十
    五月十八日
                      秀吉(朱印)
(前田家所蔵文書)



333 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/22(水) 14:18:56.93 ID:0KuVb4Tj
断られたやつか

小柄な馬を用いるべき

2017年11月01日 23:14

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 20:29:31.41 ID:jQaAtfFj
信長秀吉の頃より、大柄な馬を用いなくなり、多くは小柄の馬を用いるようになった。
これは武具を着けて、口取りの者が居ない状態で乗った場合、大馬を乗りこなすのは
非常に困難なためであった。

元暦の頃(源平合戦の頃)に用いられた馬は、多くが大型のものであった。
大河を越え、岸石を駆け上がるのは、小柄な馬では出来ないことであった。
しかし駆け引きが自由で、戦を快く致すため思い通りに乗り下すには、小馬に限る。
ある人が言うには、和田伊賀守(惟政)、滝川一益竹中半兵衛などは、何れも小馬に乗っていたそうだ。
豊臣秀吉も、賤ヶ岳の時に乗っていたのは、『小黒』と号した2寸(4尺2寸、約160センチ)に足れる
馬であったという。

考察して見るに、日々弓矢盛んにして戦競り合いが暇もなく行われる時代には、小柄な馬を
用いるべきなのであろう。

(士談)



368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 21:17:19.48 ID:l2YmBqit
何で四尺二寸で160センチなの?

369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 21:22:14.12 ID:NdoPDHxu
半兵衛は牛やろw

小黒の2寸って約130cmじゃないの?
160cmなんていったら希な大型馬だわさ

>>368
おそらく鯨尺

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 22:09:43.86 ID:fV6F543b
パッと鯨尺が出てくるってことは和装屋さん?
とにかくスゴいね

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 22:54:13.10 ID:l2YmBqit
>>369
37.88センチなのね
また一つ利口になった有り難う

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 22:58:46.64 ID:gmo4JNSz
曹操の7尺がなんで小男なのか分からなかったなあ
なまじ字が同じだから混乱する

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 23:27:09.34 ID:5JFwwVmX
孔子「六尺の孤を託すべし(身長六尺の孤児を保護してくれるだろう)」
身長180cmならとっくに成人してるじゃん!
とつっこんだ思い出

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/31(火) 23:32:22.91 ID:5JFwwVmX
孔子じゃなくて曾子だった

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/01(水) 01:06:32.63 ID:YQViDZEX
日本家屋の戸口が横三尺縦六尺基準で作ってるものだから、身長180センチ以上の日本人は苦労するという

376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/01(水) 01:22:39.68 ID:HrvqbaGt
>>375
2m超の友人は電車に乗るたびに吊り広告が暖簾みたいになって鬱陶しいとぼやいてた
昔、姫路城の天守閣に上ったらしいが狭すぎて最悪とも言ってたな

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/01(水) 02:13:14.33 ID:P79UcJ+O
2mなんていってなくても170台後半ですでに色々頭ぶつけるぞ

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/01(水) 11:39:43.34 ID:qp2MZxTP
実際は床やら敷居やらの関係で6尺切るから180行かない程度でも頭を打つ
打つというより、頭頂部をかする感じで勢い良く擦るから一番痛い

手取釜

2017年10月18日 18:42

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/18(水) 05:30:04.78 ID:xX5oFGGB
天正14年、豊臣秀吉が関白であった頃、京の旧三条通白川橋より東5丁目に良恩寺という浄土宗の
寺があった。この寺の傍らに年老いた隠者が在り、粟田口の善輔と呼ばれた。(善法、または善浦とも云う)

この翁の住居は、藁葺き屋根に四本柱の四畳半一間にて、床の間もなく、土間に爐を切り円座を敷いて
賓主の座を分かち貴賎の別なく茶を振る舞い、物語などして、昼夜の分ち無く楽しんでいた。
また食料が無くなれば、一瓢を鳴らして人の施しを乞うた。
人々は彼の人柄を知っていたので、皆が金銭、米、布を恵んだ。
そうして物のある間は家を出ること無く爐にかけた手取釜にて粥を炊き、また湯を沸かして茶を喫した。
その湯が湧く時は、彷仏松濤の声を吟じて一人笑った。
また「手取釜 おのれは口がさし出たぞ 雑炊たくと人に語るな」など戯れることもあった。

秀吉がそのような話を聞き、利休に「その手取釜を得て茶を点てよ」と命じた。
利休は善輔の元へ行き、云々の命有りと伝えた所、善輔は聞くやいなや感情を損じ

「この釜を奉れば、他に代わりは無い!いわれの無い釜であるからとそのようにぞんざいに言われるとは
思いの外である!」

彼はすぐにその釜を、そのあたりの岩に投げつけ打ち砕き
「あらむつかし 阿弥陀が岸の影法師」
と呟いた。

利休もこれに呆れ果て「秀吉様は短期であるし、いかが致すべきか」と思い煩ったが、今更どうにも出来ず
帰ってありのままに申し上げると、秀吉は却って機嫌よく

「その善輔とやらは真の道人である。彼の持ち物を所望したのは我が過ちであった。」と、
その頃伊勢安濃津に越後という名のある鋳物師があり、彼に命じて、利休が見たままのもの2つを
模造させ、一つは善輔に贈り、もう一つは秀吉自らが蔵した。

その釜は善輔が没した後は良恩寺に納まった。これを見た人の話によると、その高さ五寸五分、
底廣さ七寸、口径三寸二分、弦は蝶番で、蓋から釜の腹にかけて木の葉を広く鋳つけており、
おおよそ今の鉄瓶と言えるものであった。
桐の箱に入れられ、箱書きには利休居士の手で『手とれ釜』と記されていた。
またこの釜に添えた、秀吉の文書が有り、そのその所に曰く

『手取釜並びに鈎箱に入れ、鎖まで念入りに出来、悦び思し召し候。尚山中橘内、木下半介に申すべき也

  十月十一日
                                 太閤(朱印)
                                  田中兵部大輔』

この文章は善輔に関係のないものだが、この釜に縁があることから、後に同寺に寄付されたものだろう。

なお、この釜の後伝とも言うべき話として、細川玄旨法印(幽斎)もこの釜を写させようと先の越後に命を
伝えたが、これに越後

「御所様(秀吉)の命にて、ただ2つ鋳たる物ですから、また同じ形に鋳るというのは、憚りがあります」

と、これを辞した所、玄旨も「それは理である」と戯れ歌を詠み、

「ならばこの歌をその釜に鋳付けよ、これが同じ物ではないという証拠である」

そう言って鋳させた。その狂歌は世にあまねく伝わる
『手とり釜 うぬが口よりさしい出て これは似せじゃと人に語るな』

こちらの釜は、今も細川家に秘蔵されているという。

(今古雅談)



朧月夜にしくものぞなき

2017年10月16日 19:43

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/16(月) 18:33:58.00 ID:0h1KkTJT
豊臣秀吉が名護屋に在陣していた時のある日、陣屋を巡視していたが、ある小屋の庇に額が掲げられ
「朧月夜」とあるのを見た。
秀吉はしばらく考えていたが、ふと、左右を顧みて尋ねた
「これは誰の小屋か?」
「殿下の臣、野間藤六の小屋です。」

やがて小屋の主人、野間藤六が出て秀吉の前に平伏した。
秀吉は彼の姿を見るとうち笑って

「汝は敷物が無いのか。」

そういうと畳に白米を添えて与えた。これはこの額が、『朧月夜に”しくものぞなき”』という古歌によった
ものであると察したためであった。
(元歌は新古今和歌集にある大江千里の『照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧月夜に似るものぞなき』)

またこれと同じ時に、小屋場の僅かに空地のある場所に菜を植えている者を見て大いに賞賛し

「永陣と見て退屈せずわずかの土地をも虚しくしない、誠に武士の注意かくこそあらまほしけれ。」
と、その小屋頭を召して白米を与えた。

(今古雅談)



322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/16(月) 18:57:42.01 ID:TgZ2Wb+O
角川スフィア文庫の「新古今和歌集」第一 春歌上 55だと
「照りもせず曇りもはてぬ春の夜のおぼろ月夜にしくものぞなき」
で「しくものぞなき」だが異本だと違うのかな

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/16(月) 23:50:02.07 ID:MyjBEA0U
本来は大江千里が「如くものぞなき」と歌ったのだったが源氏物語ではこれを改変して「似るものぞなき」としたとのこと
新古今集には前者が採用されている
ちなみにこの歌はオリジナルは唐の歌でそれを和訳したもの

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/17(火) 00:12:27.94 ID:Xw26Rndi
和訳というか元にしたというか

白氏文集・嘉陵夜有懐 其二

不明不闇朦朧月(あかるからず くらからず もうろうのつき)※新古今集では「不明不暗朧朧月」

非暖非寒慢慢風(あたたかからず さむからず まんまんのかぜ)

独臥空牀好天気(ひとりくうしょうにふせば こうてんき)

平生閒事到心中(へいせいのかんじ しんちゅうにいたる)