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槐記より秀吉の話

2022年05月10日 17:30

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/09(月) 22:08:23.88 ID:V0Qof8cd
槐記より秀吉の話

享保九年 九月七日の日記

太閤秀吉、ある狩りの帰りに供廻りの者たちを御上覧に入れようとて、南門の前を通る許しを願い出た。お許しあって、その日南門を開いて上覧された。三藐院殿(近衛信尹)もその時お出でであったので、秀吉一行の装束の細部まで残さず記録なされた。供廻りの人数の夥しいことは言うまでもなかったが、まず先手の者たち、鶴百羽を青竹に結び付けて二列に並び、続いて雁二百羽を同じようにといったふうに、上覧に供するために甚だ華美に興行されていると見えた。家康をはじめとする騎馬の士は、みな鷹を手に据えて通った。秀吉は朝鮮の輿に乗って唐冠に唐服を着しハイタカを手に据えて南門の前まで来ると酒を乞われた。殿上人諸卿みな出迎えて南門の前に宴席を設けたが、秀吉の据えていたハイタカは実は作り物で、この時首を取ると中に酒肴が入っていたそうだ。太閤の物数寄はかようなものであった。



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首数の多少にこだわりて武功を評するは

2022年02月03日 19:20

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/03(木) 18:32:58.06 ID:mKbF+iVF
朝野雑載より
八王子の城を、秀吉公よりせめさせたまうに、攻め手は前田利家、長尾景勝なり。
落城して前田によりうちとりし首数三千、長尾はわずかに八百五十到来せしゆえ、太閤の御前にありし人々不審に思い
「景勝は承り及びたる手柄者なれども、首数前田より甚だ劣れり。前田が武功優れたる」よし申しければ
太閤きこしめして「首数の多少にこだわりて武功を評するは、各々が武道不案内の故ならんか。
景勝は士の首ばかり差し越したると見えたり。前田が三千よりは結局勝れるほどにおぼゆるぞ」とのたまいしとなり。

貝原益軒はいい話で書いたつもりなんだろうけどこっちへ



上様日和

2022年01月19日 16:47

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/19(水) 15:09:16.75 ID:uKh5wzsJ
小田原の役の折、九鬼大隅守嘉隆は艟艨(軍船)である日本丸を乗り廻し、豆州下田の城を抜いて
それより小田原に来たりて、海辺の通路を断った。それまで小田原城周辺の巡見は成り難かったのだが、
これより豊臣秀吉もいよいよ北条を呑んで。小田原城を巡見し嘉隆の船に乗った。

この舟の棹郎(船頭)に、十兵衛と云って長大壮力、見るも驚く程の者があった。
秀吉は彼に

「そこの男、我を背負って船に乗せよ。船内は歩きづらい。」

と、十兵衛の肩に手をかけると、十兵衛はこれを背負って歩み、労を助けた。
「嬰児になったような心地がするぞ!」
秀吉は大いに笑われ、十兵衛は金銭を賜った。

小田原沖は本来荒海で東風が強く、巨波山の如しであるのだが、この時の五、六十日の間は
風は穏やかで波も静かであった。これより後、この時の天候を『上様日和』と言い伝えたという。

志士清談



970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/19(水) 16:25:39.18 ID:DfHJPi8E
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11325.html
上様日和は常山紀談の話が前に出てたけど志士清談のほうが詳しいな

六家老はこの様子を見て

2022年01月16日 16:45

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/16(日) 15:09:55.05 ID:0r6Ad8VC
豊臣秀吉は島津家の不逞不義を怒り、島津征伐を行った。島津修理太夫義久は敗れて降伏を請い、秀吉は
これを許した。

義久並びに島津家の六家老は皆剃髪し、寸刀も帯びずに来謁した。秀吉は諸大名を左右に列し、自身は
中正に床几を置いて腰を掛けて謁を受けた。彼はこのように声をかけた

「天子を軽侮するの罪、自己に驕り恣なるの咎、氏族を夷滅せんと欲すれども、刑戮を降伏に加えるに
忍びない。故にこれを宥す上は、今より旧悪を棄て本領を安堵する。その詞の印に両刀を与えるべし。」

と。自身が帯びていた長刀短刀を外し、刀の柄の方を義久に取らせた。六家老はこの様子を見て、
秀吉の大勇広量に驚嘆したという。

志士清談

秀吉が臣従してきた相手に自分の両刀を持たせたというのは、伊達政宗の話が有名ですが、
島津相手にも似たような話があったのですね。



960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/16(日) 15:32:39.15 ID:6ofPMtyB
戦国無双2Empiresのイベントでもあったっけ
秀吉「義久は新参でまだ不案内じゃろ?わし直々に案内してやろうぞ
んじゃ、わしの刀を持ってついて参れ」
島津義久「味方について日の浅い私に刀を預け、丸腰で、私に背を向けるとは…
斬れるならば斬れということか、全面的に信用しているということか、いずれにせよ、秀吉の将器…大きい」
(政宗も名前を変えただけのイベントあり)

薩摩川内市の泰平寺公園の島津義久像が秀吉に降伏している場面なのは少しかわいそうではある

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/16(日) 15:55:29.66 ID:z0WZzppy
ドリフターズのせいで空気読まずに襲いかかる島津を想像してしまうw

「沈惟敬、秀吉に毒を盛る」陰徳太平記バージョン

2021年12月21日 18:26

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/21(火) 16:29:18.69 ID:+zNGuFRY
沈惟敬、秀吉に毒を盛る」陰徳太平記バージョン
(この前のまとめ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13304.html
のコメント欄で沈惟敬が毒を持った話が陰徳太平記にも出てるとあったので)

そもそも太閤公、御不例の御病因を聞くに、去々年九月遊撃将軍・沈惟敬来朝して太閤に謁たてまつりける時、かれ懐中より丸薬取り出して服用す。
太閤公「それは何の薬や」と尋ねさせたまえば、「これは老人の若返る良薬にて候」と申す。
太閤公「老いて二度若くなる薬は日本にかえても求めまほしきものを、われに得させよ」とのべければ、すなわち奉りけり。
その座に輝元卿、利家卿、善乗坊(善祥坊、宮部継潤)など伺候したまいけるに、太閤公この人々にも賜りけれど、
利家卿、輝元卿は「かかる薬、いにしえよりありということを聞かず、怪し」と思い、服するようにて頓に懐中したまう。
善乗房は即呑まれけるゆえ、これも太閤公と同じ年に死去せられぬ。
遊撃将軍「秀吉公長生したまわばついには大明一統に征伐せらるべし。しからばわれ一身を捨て大明国中の人を救わば大忠なるべき」と思惟して
かく鴆毒を良薬と偽りてわが身も服し太閤公にも奉りけると聞こえしが。
かれが謀の中に陥されて、はかなく成りせたまゆこそくやしけれ。
たとい、いにしえよりかかる薬ありとも、讐敵といい、異朝の者といい、彼が奉りし薬を何の思案なく服用したまうべきや。
いわんや古往今来不老不死の薬の名のみありて実はそらごとなりということをば三歳の児も知るところなり。
秦皇の蓬莱を尋ね、漢武の仙掌の露を嘗めしは愚かなる例にはいわざるや。
かくまで浅智にございましては扶桑のみならず、朝鮮大明にいたって和を乞い、腰を折りての大謀争が寸心より出生せん。
これただ宿世の業因の果報する所のみ。



白餅と黒餅

2021年12月17日 18:29

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/17(金) 18:26:41.74 ID:7+jAGShj
白餅と黒餅

秀吉は信長に抜擢され足軽を預かるようになると衣服の紋に「白餅」を用いはじめた。
信長がわけを聞くと「城持ち、になりたいためでございます」と答えたが
自分でさえまだ尾張一国なのに、と信長は不機嫌になった。
数日後、秀吉の紋は「黒餅」に変わっていた。
信長は「石(こく)持ち」という謎だな、と上機嫌になり秀吉にすぐ十石加増した。

歴史作家の澤田ふじ子氏によれば、江戸初期の「適斎随筆」に書かれている逸話だそうだが「適斎随筆」の詳細は不明

ついでにネットで検索したら

藤堂高虎が黒餅を旗印にしていたところ
仲の悪い黒田長政に「俺のとことかぶってややこしい!」
と言われたため
藤堂高虎「なら黒餅(石持ち)より白餅(城持ち)の方がいいから白餅に変えてやろう」
と白餅に変えたという、講談「出世の白餅」の餅屋ががっかりするような出典不明の話もあった。



890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/17(金) 21:37:36.93 ID:UUw8tWgt
白餅はわかるけど黒餅って何なんだ?
餅が黒かったらカビてるだろ

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/17(金) 22:07:26.60 ID:yDRGO4iN
単純に、円形の事を同じ丸い形から餅と言い表しただけの話。

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/17(金) 22:57:51.50 ID:pn8mPHv+
白餅黒餅というのが赤福にあった。当時と同じかは知らん。

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/17(金) 23:09:07.02 ID:CFbom2Iz
白い餅は餅ではないと公孫龍があの世から

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/18(土) 00:13:14.27 ID:ANtCCoBN
キングダム読者「趙の将軍かな?」

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/18(土) 04:40:33.74 ID:U7XXEJRe
そもそも丸い紋であるところの餅紋を白抜きしたか黒塗りしたかの違いでしかないからな

黒川道祐「雍州府志 土産の部」から「定斎薬」

2021年12月11日 15:52

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/10(金) 23:50:05.29 ID:2yQGbjqv
黒川道祐雍州府志 土産の部」から「定斎薬」

定斎薬
豊臣秀吉公、大坂城に在りし時、城下の薬店に定斎(村田定斎)という者あり。
天性俳優を好む故、公猿楽を催す時、定斎狂言をなす。
かつて遊撃将軍・沈惟敬、大明国より朝鮮国をへて本朝に来たる。
時に沈惟敬、霊薬の方を秀吉公に授けたてまつる。
公、その方を定斎に授けらる。これを売りて恒産となさしむ。
この薬、諸病を治す。世に定斎薬と称す。
その孫、洛陽に来たり、東洞院綾小路に住す。今は青木屋と称す。

薬の行商人、定斎屋の起源について
沈惟敬がわざわざ秀吉に薬の処方を教えてくれたという話

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/11(土) 00:36:27.04 ID:rA3d6hct
ついでに朝鮮で18世紀に編纂された野史「燃藜室記述」の
巻之十七「宣祖朝之故事」から「秀吉、薬に斃す」

敷河という漢人の血を引く十二歳の者が捕われ、対馬に送られた。
「朝鮮の良家の子供を関白に献上する」と書に記されていたため、対馬の島主は秀吉に送った。
秀吉は敷河を熟視し「朝鮮の児も日本の児も変わらんな」と言い、通訳に対して「日本語をこの児に教えてやれ、理解させることができないようなら、児もお前も共に斬るぞ」と脅した。
三ヶ月後、敷河が日本語に通暁したため秀吉はこれを愛し、常に側に置くようになった。
平生、秀吉は三層の屏風でしきいられた中で過ごしており、左に鉄砲や刀、右に弓矢を備え、暇な時は近臣五人に故事を語らせ楽しんでいた。
秀吉には寵姫が五人いたが子供はなく、挙兵(文禄の役、壬辰倭乱)の年に一子・秀頼をもうけた。
丙申(1596年)秋、敷河は中華の使者・沈惟敬が秀吉と会見した場にいた。
秀吉が宮殿で沈惟敬を延見した時、沈惟敬は座って丸薬をのんでいた。
秀吉がその薬について尋ねると沈惟敬は
「万里の海を渡ってきたので病がちになりました、しかしこの薬を飲めば元気が湧いて身体が軽くなります」
秀吉「嘘ではあるまいな」
沈惟敬「いやいや、まさか」と丸薬の入った袋を示した。
秀吉「わしも呑んでかまわんか?」沈惟敬「どうぞ」
秀吉は敷河に袋を取って来させ、中から丸薬を一つ取り出し、懐中から取り出した楊枝で二つに割り、
秀吉「では二人で呑むことにしようぞ」と片方を沈惟敬に渡し、二人で一緒に呑んだ。
翌朝、沈惟敬を引見するとまた一緒に丸薬を分けて呑んだ。
実は丸薬には毒が入っており、沈惟敬は秀吉のところから帰館すると他の薬を飲み、先の薬を体からくだしていたのだ。
秀吉はこの時から不調になり臥せるようになり、医者や鍼灸の効果もなく死んでしまった。
死に際して「わしの死を秘して喪も発するな」と遺言した。
死後、秀吉の内蔵は取り出され洗われた後また体内に戻され、酒甕に漬けられた。
有事の際は寵姫が決裁していたが、数ヶ月して臭いが甚だしく周囲にも噂が広がったため、秘密を守ることができず、喪を発することとなった。
秀頼はまだ七歳であった。

荒唐無稽とはいえ、秀吉が沈惟敬に薬をもらった点では上の話と共通しているのが不思議ではある。

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/11(土) 12:44:13.71 ID:NYUYY1NT
ついでに秀吉が薬の袋を見たところ小さな字が書かれていて
秀吉「小さな字だの、日本では大きな字を好むのだが」
と言っているが、これも秀吉らしい気がする



867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/11(土) 13:15:03.68 ID:j1JDOPbO
老眼を認めないくそじじい典型

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/11(土) 17:41:06.07 ID:tX6dLA0G
字が読めない可能性もある

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/12(日) 23:26:37.51 ID:iquFBlEG
秀吉は直筆の書状と認められてるものもたくさんあるから読めないはありえないだろ
軍司令官勤めた時点で文盲はない

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/13(月) 17:36:37.12 ID:i+cOcqlm
読み聞かせる人がいれば自分で読む必要がないな

872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/14(火) 13:14:27.39 ID:+oQNRbQ5
文盲かな

赤銅の箱のような物

2021年11月06日 16:12

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/06(土) 15:45:18.43 ID:7NAO91eo
ある人曰く、明和八年(1771)より五十年ばかりも以前、伏見街道正面上ル町に
晒屋善右衛門という者があったが、家の裏に井戸を作ろうと土を掘った所、底になにか物があって
掘り進めることが出来なくなった。そこで段々に人夫を使って掘り出して見ると、それは
六、七尺(2メートル前後)ばかりもある赤銅の箱のような物で、その長さは幾許という事を知れぬほどであった。
この事は人々の話題となり、そのままにもして置けず公儀へ訴えた所、直ぐに検使が派遣され
御吟味があったが、誰もこれが何なのか知る者はなかった。

そのような所に、時の京都所司代に豊臣秀吉の大仏普請の時の文書が残っており、その時方広寺の
廻りに七尺四方なる、長さ二十間(約36メートル)の赤銅を二十本、土中に埋めており、これは地震のために
したのだとあった。

この事は糸割賦の年寄である有来新兵衛、剃髪して宗清という者が若年の時見たという説話である。

新東鑑

秀吉が大仏殿の地震対策に、巨大な赤銅の柱(?)を周辺に埋めていたらしい、というお話。



これは如来の祟りである

2021年11月05日 17:04

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/05(金) 01:01:07.87 ID:rd0Nuwmb
或る本に、文禄五年(1596)閏七月十三日の慶長伏見地震によって方広寺の大仏が破壊した時、
豊臣秀吉公は「仏の知見を以てしても、そも身の破壊を知らざるは信ずるに足らず!」
と宣われ、壊れた大仏像に向かって矢を射られ、そして信州善光寺の如来を大仏殿の本尊とされた。

そのようなある時、残暑甚だしい年があったが、俄に吹雪が天に満ち、甚だしい寒気が人々を襲った。
「これは如来の祟りである」とされ、慶長三年八月十七日(秀吉公薨去の前日である)善光寺へ、
その本尊を送り返したという。

(越後の人曰く、善光寺の正真の一寸八分の黄金仏は、現在羽州米沢に在り、毎月一日に開帳されているという。
これに限らず、上杉景勝卿は会津への国替えの時、彌彦明神の神宝、その他領国に在る旧物等を悉く
彼の国に引き取られらと言う。)

新東鑑

秀吉が方広寺の大仏の代わりに本尊として善光寺の如来を取り寄せた話の顛末



135 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/11/05(金) 10:33:36.82 ID:kidI51+i
http://www.houon.org/houonji/houmotsu.html
米沢法音寺公式サイト

天文二十(1551)年、川中島の戦いの折、信州中野城主高梨政頼は戦国の兵火を避けるため、
信濃善光寺のご本尊を上杉謙信公に奉じた。謙信公は春日山に如来堂を建ててご本尊を懇ろに
奉祀するとともに深く尊信し、厳重に守護した。
慶長六(1601)年、上杉家の国替えに伴い、善光寺如来尊も米沢に移され、景勝公は米沢城本丸の東南隅に
藩祖謙信公を祀る御堂を建て、御堂本殿の中央に謙信公のご尊骸を、右に善光寺如来尊、
左に泥足毘沙門天尊を安置し、さらに、二ノ丸に御堂に勤仕する真言宗二十一ヶ寺を建立して、
守護の掟頗る厳重にして、その供養勤行は丁寧を極め代々奉祀された。
明治に入り、法音寺が歴代藩主御廟所のある現在地に移転し、明治九年本丸の御堂が解体されて
謙信公のご遺骸が歴代御廟所中央の現在地に遷座された際、善光寺如来尊、泥足毘沙門天尊は
当寺に移され奉安された。

136 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/11/05(金) 10:46:28.92 ID:kidI51+i
謙信公は現在は上杉神社のご祭神として神式のお祀りですが、江戸時代は三尊形式で脇侍を従えた仏様だったと

豊国社の燈籠

2021年11月04日 16:50

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/03(水) 17:48:46.27 ID:WX8QJ/Xl
ある覚書に曰く、京(方広寺)大仏殿の前に石灯籠が三十三基ある。これは元来豊国社の
灯籠であり、この社が建立された時、諸大名より献じられたのだが、大阪夏の陣を経ての豊国社破壊の後
ここに移され、この燈明を燈した。これを行うのは山崎離宮八幡の社人の役であった。

その謂れは、秀吉公の代までは由緒が有り、日本国に於いて油を絞る事は、山崎社家の他は禁止されていた。
これについて、秀吉公より袖判を賜っていた。そしてこの恩謝として、豊国社の燈明役を勤めたのである。

その後、現在の場所に移されても、この例を以て、京都所司代板倉周防守殿(重宗)の計らいによって。
燈籠一基につき銀九十三匁づつ下され、永代灯さんとの事になった。それ故に山崎よりこの辺りに家を構え、
火燈しの役人を置いていたのであるが、時代を経て今はその事廃れてしまった。
ではあるが、この旧例によって今に至っても、年始礼に山崎社家より妙法院御門跡へ胡麻油五升、
一乗院御門跡へも同様、老中所司代へも同様、京町奉行へ三升づつ進上する。

石灯籠の数、豊国社には六十六基が有ったと云うが、今大仏殿に立っているのは三十三基である。
『奉寄進豊国大明神』『慶長』の文字、或いは紋所等が僅かに残るという。

新東鑑
安永年間(1772~81)に成立したとされる新東鑑より、豊国社の燈籠について



【ニュース】豊臣秀吉の遺影や戒名を宇宙へ送る

2021年09月22日 17:28

561 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/21(火) 21:44:52.54 ID:F9msHlAh
2021年9月21日 15:13
人工衛星に寺の機能を持たせた「宇宙寺院」の打ち上げ計画を進める真言宗醍醐派総本山の醍醐寺(京都市伏見区)は、同寺と縁の深い豊臣秀吉の遺影や戒名を宇宙へ送る方針を決めた。
実現すれば、地球上どこでも空を見上げ、秀吉に手を合わせて遺徳をしのぶことができるようになるという。

宇宙寺院は、地球を周回軌道する小型衛星を寺とし、本尊や曼荼羅(まんだら)とともに戒名や遺影などのデータを納める計画。
スマートフォンで衛星の現在位置が分かるようにし、墓まで行かなくても衛星の方向に手を合わせることで参拝ができるようにする。「劫蘊(ごううん)寺」と名付け、左京区の人工衛星開発企業と連携して2023年の打ち上げを目指す。
https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/642499



562 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/21(火) 22:00:37.59 ID:3USxTT9T
創元SF短編賞受賞「天駆せよ 法勝寺」
でも読んだのかな

563 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/21(火) 23:49:18.57 ID:AuJC8MAu
>>561
遺骨送るのかと思ったらよく見たら遺影か

何故かビートたけしのこれ思い出した。

https://i.imgur.com/MByD0ec.jpg
https://i.imgur.com/1S0xwpl.jpg
https://i.imgur.com/oBXmRga.jpg
https://i.imgur.com/ZZp6CwR.jpg

無理矢理宇宙に送り出されるからかな?

564 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/22(水) 07:16:15.32 ID:WoUSLesI
10年ごとぐらいに打ち上げするんか?
えらく金のかかる寺になりそうやね

この上は朝鮮国御征伐あって、武威を異域に輝かし

2021年08月03日 18:35

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/03(火) 16:55:47.55 ID:xXeMvxoh
小田原の役、奥州仕置により関白秀吉公は日本を平均さなれ、この上は朝鮮国御征伐あって、
武威を異域に輝かし、たとえ御本意を遂げられなくても、その名は末代までの誉れであると
御奥意を持たれていた所、御嫡男である八幡太郎殿(鶴松)が天正十九年、五歳にて早世された。
御母は浅井備前守息女淀殿であった。源義家の先規を用い、八幡太郎と名付け、限りなく
御寵愛されていた中での御逝去であり、御嘆きのあまり仰せに成られた事には

「私は数年粉骨して天下を取り布いたと雖も、それを譲り与えんと思っていたその子は死した。
何を頼んで何時を期せばいいのか。漸く歳も老いた、天下は諸大名が手柄次第に治めるべし。
私は後世善所を志し、発心して送るべし。」

そう言って東福禅寺へ引き籠もられた。然れば小大上下の族、このような事は勿体無しと涙を流し、
たってこれを諌め奉った。これに対し秀吉公は仰せられた

「私は道心する事に決心したが、それが却って天下の苦しみ、悪逆の元になると万民押し並べて存ずると
これ有る上は、考え直すべし。ではあるが、我が子孫の後栄を考えずに行う事であるのだから、一事所望を
叶えてほしい。そうでなければ再びこの寺を出ない。」

と仰せになった。諸大名は何れも「御意、違背仕るまじ。」と請け負った所を聞かれた後に、
朝鮮征伐の事を仰せ出された。それ故に何れも異議に及ばず同心した。これによって御陣触れを出された。

管窺武鑑

秀吉が上杉謙信みたいに寺に引きこもって朝鮮出兵をみんなに飲ませた、というお話。

897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/03(火) 17:12:49.00 ID:P3JEToLn
平和になったらなったで戦闘しか取り柄ない兵士数万をどうするか問題が起こるからな



まことに献上したいと考えているのであれば

2021年05月27日 17:43

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/27(木) 15:30:27.01 ID:JHjlPZpJ
豊臣秀吉の時代)有馬の温泉は、湯山善福寺、池坊佐吉、中坊左進右衛門という三人が支配を
していた。太閤(秀吉)は、百五十石収納の領地をこの三人に託しておいて、湯治に行った時の
入用にさせた。また湯の山の上に御殿があって、太閤はここに滞在したのである。

天正八年三月に湯治に行った時は、池田輝政、福島正則が供をしていた。
それより、文禄三年に行った時は、木下大膳大夫という名で、以下のような達しが出た

『太閤様湯治の時、当所地下人が、酒肴等、何であってもそれを買って(秀吉に)進上する事、
堅く御停止とされる。その他のものも無用に思し召されているが、まことに献上したいと
考えているのであれば、大根、ゴボウ、また餅などといった手作りの類は、理由次第で
進上してもよい、と仰せに成られている。』

とあり、この時太閤より有馬が賜った物は、八幡太郎義家の鎧の袖、太閤の旅櫛に、函鏡を
二面添え、黒塗り金紋の杖、茶湯道具一式、であった。今も存在しているのだろうか。
二度目の湯治には小早川隆景、有馬法印も供をしている。
わずか百五十石の米を年々収納させ、それを湯治の時の入用に供させるなど、太閤が経済の上手なること、
以て知るべし。

伝説研究・歴史之謎



秀吉公御功宮にて御首途の事

2021年05月18日 16:33

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/18(火) 00:16:03.82 ID:lzB+YcA5
秀吉公御功宮(御香宮神社)にて御首途の事

高麗国、その他諸方への手配りが定まったため、秀吉公は肥前国名護屋へ御出陣あるべき吉日を、
若杉金ノ太夫に仰せ付けられると、文禄元年三月朔日が最上の吉日と申すに寄って、その前日に
太閤は、伏見御功の宮にて、御首途あるべしとて、諸臣を御供にて御参詣された。
その威儀まことに厳重であり、神主もかねて承っていたため、神前を飾り座席を設け、御前に
伺候した。

太閤は神前の向かわせられ、御立願の事ども、信心肝心に徹している様子であった。
その後仰せられたことには「一は当社の神主なるか」、
そうでございますと申すと

「私は本朝の武将として、四海静謐の功を立て、万民無事の政法をまもる志のみならず、
高域(高麗)を退治して本朝の威を一天にかかげんと思うのだ。
しかれば、当社は往時、三韓を罰し給い、今に至るまで我が朝は無為である。
その旧例を引いて、当社にて首途をなり、心のままに従えるにおいては、帰陣の後一門造営いたす
べきぞや」と仰せられた。

一殿は承って、「御諚の如く、神功皇后の高麗、新羅、百済国まで威を輝かし給い、その後、御功の
神社と顕れ、長く本朝の守護神たるべしとの御誓いであれば、どうして功が無いという事があるでしょうか。
人の国より我が国、他の人よりも我が人を守らんとの御宣託なれば、この度の弓箭、御利運疑いあるべからず。
御頼もしく思し召し候へ」

と申されると、太閤大いに御感悦あって、打鮑にて三木を三々九と祝わせ給いて、その後諸臣へ
下された、かくて御盃も収まられると、一殿御前をつっと立たれて、神前に立てた金帛を持って、
秀吉公を三度祓い奉ると、太閤は如何思し召されたのか、笑われながら

「一は心も賢く見目よき女房かな。我帰陣の後、いよいよ見目をよくして取らすだろう。
丹誠を一層励むように。」と仰せに成られると、人々興し奉り、御機嫌よく還御された。

その後、住吉大明神へも御立願の旨、並びに高域追罰の擁護丹誠を一層励むようにと仰せになられた
ために、神主承って、「今度三韓御退治の事、そのかみ、当社大明神は神功皇后より左将軍を賜らせられ、
夷狄を御心のままに滅ぼし、今に至って国土安全であります。御祈念深重においては、どうして加護が
虚しいということがあるでしょうか。一心誠を励み、丹誠油断あるべからず。」との内容を
返答申し上げた。

義残後覚



高麗亡国すべき瑞相の事

2021年05月16日 16:38

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/16(日) 16:24:47.63 ID:o0DuMVtq
高麗亡国すべき瑞相の事

朝鮮国にて、東束という所の住人で、(朝鮮の役で)日本に捕虜として送られ、後に剃髪して
医師となった人が有った、文才有る人であったが、彼曰く

「いずれも高麗滅びること、時節到来と見えたり。全て人の業ではない。
その仔細は、この三年前に表示があった。

釜山浦より三里ばかり奥に、仙庵という山があり、この山に向かって、日本よりカラスが大量に
渡ってきた。空も見えぬほどに群がり、この現象は十四,五日の間引き続いた。
これは怪しく珍しき事であると、人々明け暮れにこれを見ていたが、これに対し、高麗のカラスが
雲霞のごとく群がって、この仙庵を襲撃し、日本のカラスと凄まじい食い合いをした。

これらは死期を知るが如くに戦った。或いは眼を突き潰され、胃袋を蹴り込まれ、或いは羽ふしを折られ、
蹴爪を損し、そうして死ぬカラスは、幾千万と数が知れなかった。
これを人々が寄って見た所、死んだカラスは皆々、朝鮮国のカラスであった。
カラスたちは十日ばかり戦った果てに、辰巳を指して皆々落ちていった。

諸人大いに怪しみて、この事を帝に奏聞した。そこで高位の大臣たちが集まって詮議あり、
とにかく博士に考えさせよとして、相応の人を召して占わせた。
それから暫くあって曰く、

「占文を考えるに、そもそも諸鳥が多いと言えども、カラスは日を司る鳥で、また扶桑国を日の本と
書きます。であれば、高域(高麗)を滅ぼさんと志すによって、先ずカラスが渡って、高麗国の武勇を
確認したのでしょう。今後、遅くとも五年、近ければ三年の内に干戈動揺の巷となるべきこと、占文の
表歴に顕れました。御慎み軽からざるよし。」

と奏聞すると、帝を始め奉り、左右の大臣「であれば、釜山浦に要害を拵えるべし。」とて、
大石を寄せ石垣を丈夫に取って、築地を突き矢倉をあげ、攻具を備え、水際の方に牛馬の尾の毛を取って
大綱に打たせ、乱杭に流しかけて、夜昼この港を守らせた。
さて又、鳳城の普請をすべしとて、人数を寄せて要害いみじく拵えた。

その他、所々のつまり、つまりをも普請を仰せ付けられて、かねてこういった用意をされていたにも
かかわらず、時節の滅ぼす所であったので、手立て、用心も当たらず、さしもの遠く久しく豊かで
めでたかりし(朝鮮)八州も、日本のために滅ぼされて、親類妻子散り散りに成りはてた。
旧里を思い出すと血の涙も出る思いで、肝に銘じて悲しいことだ。」

と、語った。

義残後覚



秀吉公が伏見より京に御上りの時は

2021年04月15日 18:41

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/14(水) 16:31:28.09 ID:y3sC1VPk
秀吉公が伏見より京に御上りの時は、奉行衆、御咄の衆合わせて五十人が従った。
二十町ほど御先へ、朱柄、虎の皮の抛鞘鑓二十づつ、真っ直ぐに立てて持ち、遠くからも
上の御成と見えた。
御供の衆は袴、道服で御跡に押も無かった。
これに付き従う下々も二百人程もなく、大方百人ばかりか。

東福寺前をお通りになる時は、御供の衆、内の者は竹田を通り、また竹田をお通りになると
東福寺前は御供の騎馬が際限無かった。

見渡しの道であれば、御乗物にてお通りになるのだが、竹田通りは騎馬が間近に見えたが、
下馬させる事は無かった。

総じて、秀吉公は小身なる侍を役に用いられなかった。姫路衆と申す十万石(千石)より内の侍で、
三、四百石の衆二百余騎ほどもあったのだが、彼らは一ヶ所の屋敷に集められ、番も普請も
免除されていた。

慶長年中卜齋記



115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/15(木) 03:03:46.35 ID:ZkfH8mK0
>十万石(千石)
これもうわかんねぇな

122 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/04/17(土) 10:41:30.49 ID:syCTQh44
>>115
多分、投稿者は国会図書館デジタルの史籍集覧から引用してると思うんだが
該当箇所の解説で、底本はこうだが別本の「卜斎覚書」ではこう書いてあるから()書きで注してあります
と書いてあるよ

10万石よりは1千石の方が正しいんだろうね

涙を留めることが出来なかったのが、秀吉の双眼である

2021年03月29日 18:02

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/29(月) 15:22:42.62 ID:i9JLaDLA
(秀吉の主催した織田信長の葬儀にて)、その時、秀吉、御次丸(羽柴秀勝)は相共に焼香し、
十月十五日巳の刻、(信長は)無常の煙となし奉った。誠にこれ、一生別離の悲しみである。
一体誰がこれを嘆かないでいられるだろうか。
葬儀の間、涙を留めることが出来なかったのが、秀吉の双眼である。

偏に将軍(信長)の威気は天下を覆い古今に独歩していた。上は上皇(天皇)を安んじ奉り、
下は下民を憐れんだ。そのため、忝なくも勅使を立てられ贈官を給わった。
総見院殿大相国一品泰巌大居士と号し奉るものである。

秀吉が備中表において武勇を専らとし、謀策をめぐらせ給わなければ、どうしてこのように速やかに、
惟任(光秀)を退治できただろうか。
今、本意を達し、この孝養を行うこと、秀吉一世の冥加、末代の龜鑑である。

すなわち藻虫斎(大村)由己が、記し置く所である。万歳珍重である。

天正十年十月二十五日 謹んで之を誌るす

惟任退治記

秀吉が大村由己に編纂させた惟任退治記の中で、おそらく一番伝えたかった部分



48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/29(月) 15:37:54.63 ID:h1DRfmDL
日付は重要やね

武辺をば 今日せず明日と

2021年03月08日 18:58

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/08(月) 16:11:49.27 ID:BwC2FWs3
秀吉公の御歌にこういうものがあった。

 武辺をば 今日せず明日とおもひなば 人にをくれて恥の鼻あき

備前老人物語



世の中は けふばかりこそかなしけれ

2021年02月15日 19:14

938 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/15(月) 15:58:26.20 ID:087R8hZw
太閤秀吉公の童坊である何阿弥とか言う者は、面白い気質物で、常に秀吉公の御心にかなう
者であったのだが、一体どういう事か、ある時御心に背き、御気色以ての外にて、杖を取り
これを追われた。

かの童坊は逃げながら後を見返り見返り、
「先ずお待ちに成ってお聞き召されて下さい!上様も私もあまり違いはなく、ただ一日の違いです。
昨日は過ぎ、明日は知れぬ世の中で、それほどまでに御腹を立てられるのも勿体なし。
されど、今日は天下様なのですから、如何様にも成されたいままになされよ!」
(先またせ聞召されよかし、上様も私もあまりちかいハなく、たヽ一日の違也。
昨日は過つ、あるはしれぬ世の中に、かほとまて御腹をたヽせられるも勿体なし
されどけふは天下様なれハ、いか様にもなされたきまヽになされよ)

そう、ふてくされた様子で、面白おかしくつぶやくと、秀吉公はそのまま杖を捨てられ、
うち笑わせ給い

「私が過っていた、よく申したり。許すぞ。」
と仰られ

 世の中は けふばかりこそかなしけれ きのふはすぎつ 明日はしられず

と吟じられ、簾中に入られた。その時聞く人、御詠歌などと云ったそうだ。

備前老人物語



あれを見よ、退屈せぬ奴原かな。

2021年01月19日 17:47

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/19(火) 13:25:26.00 ID:yJCIqhGj
太閤秀吉公の御陣の時、御馬廻りの衆の陣小屋を見廻られたが、そこに、小謡うたい、小鼓を打っている
所があった。秀吉公は立ち寄られ、垣の隙間から中を伺うと、内に武者が三人有った。
一人は具足櫃に腰掛けて鼓を打ち、一人は扇を持って謡をうたった。いま一人は盃をひかえ居た。
各々皆、甲冑を帯びていた。

これを見られ、「御気色を悪くされるのではないか。」と、お供の人々は心配していた所、
そのような事はなく

「あれを見よ、退屈せぬ奴原かな。」

と、笑みを含ませられ、

「それぞれの奴原に酒を取らせよ。あまり飲みすぎて酔うなどしないように言え。」

と宣われてその場を打ち過ぎられた。

備前老人物語