不覚悟の品々

2017年09月17日 12:52

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/17(日) 10:09:51.72 ID:+anRRzXN
古人曰く、侍の大身小身ともに、不覚悟の品々というものが有る。

一に、人の悪口、噂を賢しらに言う人
二に、侍と侍の間の仲が悪いからと言って、座席や路頭において慮外の輩
三に、親兄弟の敵を狙わぬ事
四に、被官、下人などが口論した時、言い過ぎた方や、非分の働きのあった方に、早く理を言って
   話談するようさせなければならない。事に大身奉行たる人は、自分の配下に即座に罪科を
   申し付けて事を済ませるべきだ。
五に、相奉行にて損得のある仕事をする時、自分の得のために傍輩を出し抜くこと。
六に、武士たる者、万事につけて自分より勝るものを嫉むこと。
七に、身体を治められず好色をいたし、要らぬことに過分の振る舞いあること
八に、武道具の嗜み無く、弄ぶ所の器物(茶道具など)を専らとする事。
九に、人の良き道具をあれこれ言いくるめて取ること。
十に、少しの心ばせが有るからと言って、人より優れているかのように過言すること。
十一に、仕合が良いと未練な侍であっても褒め、良き武士であっても足元が弱いのを侮る事。
十二に、有徳(裕福)な町人を見込んで武士の聟にすること。
十三に、良き縁者を持つ女性を女房とし、女房の縁者の威勢が衰え、或いは亡くなると、その女房を
    悪しく扱う事。

おおよそこれらの事は、傍らより見聞きしても大変見苦しいものであるから、人々は自ら戒めるべき事である。

(士談)

近世初期くらいまでの、武士の倫理観について



232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/17(日) 13:32:06.28 ID:lOeraY96
戦国武将は大抵逆の事してる

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/17(日) 17:23:55.16 ID:0gyA34Re
士談って明治頃の本だろ?もはや戦国の雰囲気ないわな

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/18(月) 18:57:09.29 ID:gtKRsMo1
>>233
士談は山鹿素行の著書だから、一応近世初期だぞ
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和談の使い

2017年06月26日 16:39

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/26(月) 09:38:11.31 ID:W+BjMk6D
ある人、敵より攻められている城より、扱いを乞う和談の使いとされて城外に出ることとなった。
この時大将初め諸侍それぞれ言った

「御辺は、大勢のうちから特に指名されて城外に出ることとなった人物であるので、今更言うには及ばない
だろうが、城中のこと、少しでも弱みがあるように云っては、扱いに成りにくいものである。
随分城中の強みを語り、兵糧弾薬等までふんだんに有ることをよくよく言い聞かせられ然るべきである。」

使いの侍
「委細、相心得ております。古来よりの作法でありますから、宜しく申すでしょう。」

そう言って外へ出、寄せ手の大将の所に至ると、先ず湯漬けを望んで2,3杯を食し、その上で酒を望み、
これを飲んで申し上げた

「城中では、先月の5日より10人を以て一升扶持にしていましたが、今月に入ってそれも配給できず、
酒などは大将物頭ですらろくに口に入れることも出来ず、味噌などは皆消費し尽くし、今では一口舐めるのも
古の雁鴨の料理よりも大切に存じています。」

寄せ手の歴々聞いて、未だ兵糧は潤沢と考えていたので意外に思った
「これは思っていたのと相違している。しかしながら左様な事も有るだろう。久しき籠城であったのだから。」
「さて、弾薬の方はいかがか?」

「弾薬もまた、只今は不通にこれ無く候。」

「そういう事であれば、何故に今まで城から出ず、籠城しているのか?」

使いの侍、言った
「その事です。若年の者たちは『これではどうにも成らないから、一方へ切って出て、一同に討ち死にすべき!
必ず一報をば打ち破ります!』と主張しているのですが、大将も物頭も奉行どもも、物資が残っている事を理由に
同心致しませんでした。そこで彼らは『同心無くてももはや一方へ切って出て打ち抜くべし!』と言い出し
ましたが、大将が強いて抑留しことで、さすがに打って出ること出来ず、今日まで引き伸ばされております。」

「その、打って出ると主張している人数はいかほどなのか?」

「それも僅かに、百七,八十人ばかりです。雑人や下々は存じもよらぬことで、ただ侍分の者ばかりこれを
主張しています。」

これを聞いた寄せ手の者たちは談合した
「この使いの申す所、一々偽りが無いようです。であれば、仮に百七,八十人の侍が必死の思いをなせば、
寄せ手が勝利したとしても、大勢の死傷者が出るでしょう。ここは和談を用いるべきでしょう。」

こうして和議が整い、城が明け渡された時、兵糧雑器は未だ山のように残っており、弾薬も大量に
備蓄されていた。ただし、打って出ることを決意した人数を百七,八十人と言っていたが、実際には
十七、八人も居なかったという。

この扱いの侍、優れて才の逞しき者と言うべきであろう。

(士談)



62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/26(月) 16:27:33.20 ID:SoVYyyyF
なるほど。舐めてかかって来るならば潤沢な弾薬で一捻りするのか

63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/27(火) 10:16:38.98 ID:T68U6Os8
兵糧弾薬残ってるのに城明け渡すなんて利敵行為じゃないの

体内の光物

2017年06月23日 09:25

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/22(木) 23:51:44.66 ID:53keMK1k
ある人の語った所に寄ると、戦場へ出る度ごとに戦功を顕し、先駆け殿の功重なる勇者があった。
彼の友人がこれを羨み、

「我も人も、武士の家に生まれて一通りの働きを遂げぬ者は、家職を辞めて農工商の職を行う人に
成るべきだろう。だからこそ一通りの働きはしているが、御辺のように度々の戦功を成し、
後にて後悔もないような、心と身と口の一致した働きをするのは、致しようというものが有るのだろうか?
有るのなら是非承りたい。」

こう問われ、この勇士は
「奇特なることを尋ねられるな。わかった、語って伝えよう。しかしこれは武士の本意であるので、三日
物忌みをしたまえ。その上でこそ伝えよう。」

これに問うた者は喜び、三日斎戒して再び対面した

勇士曰く
「生死は一大事である。人の生きることを止めないために慎むべき事であるから、この事を秘事にしているのだ。

大きな仔細が有るわけではない。人の身には手毬ばかりの大きさの、光る丸い物があって、常には臍の下
あたりに静まっている。
しかしこの光物は常に身中を往来し、面門(口)から外へ出入りもする。

臆病な者は、この光物が抜けて内に無い。このため光を失い何事も分明ならず、方向を失うのだ。

それより少し心得有るものは、外に抜けてはいないといっても、面頭に上がり、このため目も見えず
耳も聞こえず、その場における善悪の判断も出来なくなる。

それよりも一段上の人は、この光物が胸に上がり、胸騒ぎがしきりである。

上段の人は、臍下に留まり気は勝り、病気などに成ることもない。こう言った人こそ心口行の三つ一致して、
所行常に静かにしてその理も分明である。

これを修行するには、人に会って怒りを覚えた時、この事を思い出す事だ。
そこでよく考え、体の中の光物を納め付けた時、終には修行が本意に至るのだよ。」

この教を受け、問うた者は拝して退いたという。
これは定論ではないのだろうが、この説を実践すればその至極に至ることも出来るだろう。
かの孟子が論じた「放心」にも似ている。

(士談)



53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/23(金) 02:05:21.72 ID:/IPKuLm8
武術でいうところの「気」か

中国の日本に関する地理誌「東西洋考」によれば

2017年06月19日 17:33

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/18(日) 17:10:17.73 ID:chYKDCHe
ついでに此の頃の中国の日本に関する地理誌
福建省出身の張燮によって書かれた万暦45年(1617年)発刊の「東西洋考」によれば
https://zh.wikisource.org/wiki/東西洋考/卷六
邪馬台国、日本への国号改、倭寇、懐良親王(良懐)、足利将軍の勘合貿易、王直についての記事の後

倭は平清盛が政権を取って以来、国が乱れ、万暦14年に平信長が関白となり、その義子の平秀吉というものは、
母親が婢ではあったが妊娠中、異徴があった。幼いときから下賤で魚を売っていたが酔って木下に眠っていた。
その時猟に出ていた信長に出会い、驚き寝覚めて衝突。
(以下「明史日本伝」と同じため略)
万暦39年、倭は琉球を破り、中山王を捕虜とし、二年倭に留め置いた後帰還させた。琉球は明に倭に入貢したことを謝罪し
明への入貢を申し出たが、すでに倭に入貢した以上、スパイの疑いがあるため入貢させなかった。
万暦44年夏、倭が東番(台湾)に侵略しようとしたため、董伯起が倭を偵察に行ったが、倭の村山等安に捕らえられ、小舟で返された。

倭は東海中にあり五畿、七道、三島、又附庸国百余ありその首魁と称している。唐宋の世は中華を慕い、外国を侵略しようとせず、
宋の時代に来朝した滕木吉に矢を射させても遠く飛ばず、理由を聴けば「国内で戦がないためです」と答えたほどのものだった。
ところが元に入り驕慢の心が出てきて、殺気立ち、華人が諭しても「盗みを喜び、生を軽んず。殺を好むのが天性だ」と答えるまでになった。

倭の地は北は朝鮮を海で隔て、南は閩、浙と隔てている。朝鮮へは対馬から大洋に出て二晩で着く。
閩、浙へは順風で旬月かかる。

其の主は山城にいるため山城君と呼ばれる。山城の南は和泉、その南は沙界(堺)。沙界の盗難は紀伊、紀伊の西は伊勢。
山城の西は丹波、左に摂津、左の西は播磨、右は但馬、右の西は因幡、丹波の西は美作、左は備前、左の西は備中、右は因幡、右の西は伯耆。
美作の西は安芸。出雲の西は石見、安芸、石見の西は山口で古の周防州である。山口の西は長門、ここで海を渡る。
渡って西は豊前、南は豊後、其の南は日向、豊前の西は築前、西南は後築。後築の南は大隅、大隅の西は薩摩。
豊後から東南に渡ると、土佐、伊予、阿波があり、阿波は海を隔てて淡路と近い。土佐、豊後の間は佐加関。薩摩の北は肥後、
又其の北は肥前。肥前から西に渡ると平戸、平戸の西は五島、北は多褻島、伊岐、一番北は対馬、それぞれの島は酋長あり。

山城君は弱く、名前のみ。倭はその号令を聞かず、互いに争い、強ければ従わせる。
豊後国が最大で、博多経由で五島を歴てやってきて、帰りは長門を通って帰る。
毎年清明後から五月まで、重陽後から10月まで常に東北風が吹くため倭寇に有利となる。
そのため海防のときは三四五月を大汛、九十月を小汛として警戒せねばならない。
倭寇が多いのは薩摩、肥後、長門の三州で、次に大隅、築前、築後、博多、日向、豊前・豊後、和泉となる。
男子の首領は頭を剃り、黥面文身。婦人は髪を結っている。皆素足で、時々履をはく。勇猛で死を恐れず、戦う時は赤裸で三尺の刀を舞わせる。

名跡形勝としては、「邪摩堆」「阿蘇山」「東奥州(黄金の産地)」「五龍山」「平戸島」「一岐島」「八角島(蒙古、高麗を日本が滅ぼした所)」
「聚快楽院」「相坂関」「赤門関」「千丈渓」
物産としては、金、銀、如意珠、青玉、瑪瑙、琥珀、水晶、水銀、螺鈿、石硫黄、銅、鉄、錦、細絹、花布、刀、屏風、扇、硯、漆、
犀象、黒雉、山鼠(牛のようなけもので、大蛇に呑み込まれても穴を開けてしまう)

890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/18(日) 17:17:53.08 ID:chYKDCHe
この張燮、「なぜ日本人やオランダ人(日本の記事の後に紅毛蕃(オランダ人)がある)を美化するんだ?」
と言われた時、「事実を書いたまでだ」と答えたそうだが、
美化したような記述あるかな



891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/18(日) 17:22:56.47 ID:5kXMhSIL
>>890
当時の日本の評判がもっとショボかったのでは

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/18(日) 18:29:14.95 ID:lzSjY9GA
野蛮人の土地に名勝や希少な鉱石物産などあるはずがないのである
と思っていたりして

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/18(日) 21:59:33.09 ID:I1Yy+r3R
薩摩人が鬼畜ってことは外国人も分かってたんだな

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/19(月) 18:32:41.24 ID:uEDirrNW
地理の記述で西の左のってのは違和感あるな統一しろよと

895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/19(月) 19:29:35.39 ID:gTXWMnPN
「左」遷ていうくらいだからこの時代の士大夫にとっては基礎教養なのでは

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/21(水) 14:21:42.70 ID:x88AXbB6
>>889
山鼠ってなんだと思ってググったらめっちゃ可愛い(*´ω`*)
こんなのが大蛇に呑み込まれても穴を開けてしまうのか…

他にも犀象?動物園かな?

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/21(水) 16:05:30.59 ID:ixj2rUIK
古代ローマ人にはごちそうです

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/21(水) 16:55:52.35 ID:XjfB0FTi
ダンジョウ飯

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/21(水) 22:43:33.42 ID:TW/7yCGd
>>902
>他にも犀象?動物園かな?

ボス「センゴクパークには沢山の鬼や天魔が暮らしているよ、君は何が見たい?」

ティモシー・ブルック「セルデンの中国地図」より、日本の地名

2017年06月18日 16:07

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/18(日) 12:46:08.13 ID:chYKDCHe
イギリスの歴史研究家ジョン・セルデン(国際法の父グロティウスの「自由海論」に対して
「閉鎖海論」を著し、両者の論争が海洋法誕生のきっかけを作った)所蔵の17世紀前半?に作成された中国地図
http://seldenmap.bodleian.ox.ac.uk/
南シナ海を中心に書かれているが日本の地名の漢字表記がいろいろツッコミどころあり
(地図をクリックすると拡大した地図が読める)
以下、ティモシー・ブルック「セルデンの中国地図」より適宜抜粋
・兵庫:神戸を表しているのだろう
※本州と九州がつながっている
・亜里馬王:有馬氏の治める肥前
・殺身湾子:「殺」が「穀」の誤字と考えれば「鹿児島湾」だろう
・殺子馬:薩摩の音写だろう
・籠仔沙机:長崎→ランガサク(ポルトガル語)の音写だろう
・魚鱗島:平戸の音写?

本に載っていない地名で解読を試みると
対馬:水剰馬?
沙階王:堺?
管東:関東?
大王城:京都?
闇夸勝:尼子?
温子米:出雲?和泉?
後は伊勢、越、上野、下野などはちゃんと漢字表記されている。その他興味があれば各自で解読試みて欲しい

しかし島津=鬼石曼子の出典は怪しいそうだけど、薩摩=殺子馬、鹿児島=殺身と、物騒な表記はされてたようだ


雑談・茶器についてのことなど

2017年06月16日 17:53

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/13(火) 22:36:25.38 ID:VBnBI38R
曜変天目とか馬蝗絆はお宝感が半端ない

井戸茶碗とか伊賀焼きとかはゴミ感が半端ない

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/13(火) 22:55:11.09 ID:1fDn7Mkq
なぜ中国で曜変天目が残らなかったんだろうね

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/13(火) 23:38:39.48 ID:fVSM+6Nu
トーハクの茶の湯展は素晴らしかったねぇ…

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 00:15:38.16 ID:7NaUQXst
>>865
秀吉乙

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 04:41:13.13 ID:X0DuNaUp
伊賀焼って信長が発見したんだってなあ

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 10:32:33.42 ID:jpDlM1/L
ちょっと何言ってるか分からない

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 10:48:29.56 ID:wXic2RaU
信雄じゃないの?>伊賀焼き(討ち)

872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 18:44:48.75 ID:qrjRLL6v
信長は伊賀伊賀守を召し抱えていたからな

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 20:14:58.28 ID:Tf2AVY7x
カッペだった若き信長は畿内の三好家や堺の豪商たちがはまってる
茶の湯に憧れてたのかな

東山御物を収集して自らが将軍義政公と同レベルにある事を
宣伝したいだけだった気もするが

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 20:51:40.30 ID:QZEctICq
茶の湯は親父の影響じゃないのかな

880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/17(土) 10:20:45.13 ID:egWO6U9Y
>>873
足利義政は意識していたと思う。
蘭奢待も義政が切り取った隣を同じ大きさで切り取ってたし

「戦闘技術の歴史」5東洋編Fighting techniques of the oriental world より、戦国時代の描写

2017年03月31日 21:45

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/30(木) 20:44:20.54 ID:oD8J3lSn
「戦闘技術の歴史」5東洋編Fighting techniques of the oriental worldより
同シリーズは「1古代編」「2中世編」「3近世編」「4ナポレオンの時代編」「5東洋編」で構成されていて
戦国時代関連の記述見るといろいろおもしろい、以下内容を抜粋。
(原著の論旨を損なわない範囲で訳者が補訂しているため極端におかしな箇所はない)
・大名の家臣たちが提供すべき兵士の人数や装備は、田畑の生産高で評価される財産額に応じて決められていた。
単位は一人の人間が一年間に消費する米の量「石」である。
・日本では20種類以上の陣形(中国の陣形を取り入れたものもある)があり、代表的なものとしては
「鋒矢」「方円」「鶴翼」「雁行」「魚鱗」「衡軛」などがある。
・日本の軍隊には太鼓所役という専任の鼓手がいて、仲間が背負った太鼓を所定のリズムで叩いて戦闘を指示した。
・1561年の川中島の戦いでは武田軍は啄木鳥戦法を用いて挟み撃ちにしようとしたが(ry(出典:甲陽軍鑑)
・「雑兵物語」という兵学書によれば接近戦での刀の扱い方を説いた記述があり「兜を狙うがいい、ただお貸し刀がなまくらなら手足をねらえ」とある
・「箕輪軍記」という日本の軍記物語には100人の鉄砲足軽が一度の戦いで600~700人もの敵兵を倒したと記されている。
・信玄の騎馬隊は伝説として語り継がれた。16世紀中頃は騎兵が主流を占めたが武田軍の戦いの多くでは残存兵を一周するため下馬を余儀なくされ、
徒歩の従者が同行していたため進軍速度も上がらなかった。また、当時の日本の馬は、体高も体重も現代の馬の半分しかなかった。
・長篠の戦いで武田勝頼は3万3千の兵のうち2万7千以上は騎馬武者とその従者であったが、馬防柵と3000丁の火縄銃の集団斉射により敗れてしまった。
(この戦いでは小火器の役割が誇張されがち、とも書かれている)こうして日本では騎兵時代はほとんど始まりもしないうちに、終わってしまった。
・三成は小早川が裏切ることを懸念してか戦況に影響がないように自軍の右翼に据えた。これは実戦経験の少ない武将の誤算であった。
・三成は地の利を活かし、盆地を見下ろす高台に軍を配し、三方から敵を攻撃できるようにした。
・家康は17歳の小早川秀秋が寝返らないためしびれをきらし、火縄銃兵隊(マッチロック式マスケット銃で武装)に、斉射させた。小早川軍は大谷軍に襲いかかった。
・島津義弘は関ヶ原で行動しなかったが、これは夜襲の提案を一蹴されたからである。
・島津義弘の甥は義弘と兜を交換し、獲物をあさる赤鬼(井伊直政)に立ち向かい、追撃を十分に遅らせるが、討ち取られ、他の多くの首級とともに晒された。
・忍者の軍事行動に関しては伝説化され誇張された物が多いが、たとえば1600年の関ヶ原の戦いにおいて、島津軍の忍者は死体に扮した狙撃者を残し、
本隊が退却した後に起き上がり標的を向かって狙撃した。高名な井伊直政もこの時銃撃を受けて重傷を負ったという。
・李舜臣は優れた指揮能力により朝鮮を救ったが、その後日本軍への攻撃命令を拒んだことから国王の不興を買う。
李舜臣は攻撃命令が、日本側の密偵からの偽情報に基づくものだとわかっていたのだ。
・大坂の陣において、秀頼は真田幸村という強力な味方を得た。彼は城を守る名人であり、彼にちなんだ真田丸に、徳川軍をおびき寄せて一斉射撃で撃退した。
などなど、「東洋編」にしては図説のある20の戦争中8つが日本関係で(川中島、長篠、文永の役、弘安の役、閑山島海戦、関ヶ原、大坂の陣、晋州)



709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/30(木) 23:36:12.16 ID:ruAHZZqv
馬の速度は時速15kmらしい
それに対して人のは12kmだそうだ

戦国クラスタが作る!永禄3年(1560年)の全国戦国大名戦力図

2017年03月28日 12:49

753 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/03/27(月) 15:57:21.92 ID:Z6LKh7Gq
戦国クラスタが作る!永禄3年(1560年)の全国戦国大名戦力図
https://togetter.com/li/1094236
https://pbs.twimg.com/media/C72fznIVsAALp0U.jpg
C72fznIVsAALp0U.jpg


これすごいなあ頑張ったなあと思うんだけど、山形県の部分の山形氏や山上氏っていうのは最上氏のこと?


続・戦国クラスタが作る!永禄3年(1560年)の全国戦国大名勢力図
https://togetter.com/li/1095832


【桶狭間合戦期の戦国大名勢力図(修正・分割版)】
東北
東北
関東甲信越
関東北陸
近畿中四国
近畿中四国
九州
九州

https://twitter.com/Fransisco1530/status/847302593143463936


754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/27(月) 18:40:08.80 ID:DmAvzf48
>>753
誤植
指摘を受けてその後上げてる高解像度版では直ってたはず
※原寸サイズ
https://pbs.twimg.com/media/C72fznIVsAALp0U.jpg:orig

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/27(月) 18:40:54.06 ID:DmAvzf48
ああ最上は当時山形と名乗ってたという事らしいよ。
まとめの…どの辺に書いてあったか忘れたけど

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/27(月) 19:36:27.85 ID:vTm+z0yV
庄内や由利を手に入れてから最上を名乗ったらしい
史料上では慶長6年8月以降に最上という表記が現れていて、それ以前は山形殿と呼ばれていたようだね

だから最上表記の関ヶ原の降伏文書はおかしいんじゃないかという話もないわけじゃない

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/27(月) 21:11:48.83 ID:hYqdRVYI
上杉がでっち上げしたってことか

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/28(火) 06:08:33.22 ID:cZXYVInZ
>>756
あの書状は「上杉家御年譜」にしかないし、史実と整合性のない記載もあるので偽作説の方が優位ですね。
元になる書状があったとしても、そうとうな改竄が加わってる可能性があるでしょう。

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/28(火) 06:50:36.02 ID:U2RCoFLe
ああ、例の鉄棒も山形出羽守だもんな

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/28(火) 07:10:44.69 ID:senKG/uw
小手森合戦後に政宗が義光に宛てた女・童や犬までも撫で斬りにしたって自慢気に書いてるあの有名な書状も宛名は山形殿になってるよね

761 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/03/28(火) 20:17:18.58 ID:xdwJ3xCi
山形県だけじゃなくて東北地方はそれぞれ問題あるな

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/28(火) 21:27:22.44 ID:3Px6KGjl
>>761
そう思うなら突っ込んだら?

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/29(水) 00:06:12.76 ID:YV5qdMqk
一度議論されてるポイントかもしれないので確認したらいいかも

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/29(水) 00:10:32.05 ID:pBqy3wtk
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8907.html
ついでに前に出ていた疑惑の降伏文書ネタ

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/29(水) 06:42:42.38 ID:uKygiPLF
この当時(1560年)の南出羽の白鳥長久はまだ台頭中で、寒河江大江氏の影響下。
最上義光も1546年生まれだから天正最上の乱で義守と争う前。
延沢満延も天童八楯の一翼で天童氏の影響下。
鮭延氏も仙北の小野寺氏の客将扱いだったり。(この後大宝寺氏に攻められ幼子の鮭延秀綱は庄内に連れ去られる)
上山氏は上山を束ねる里見党の総領が地域名を名乗ったもの。

合戦は百日の内に埒の明くもの

2016年10月05日 11:54

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/05(水) 04:01:44.58 ID:Ib0P9j1i
合戦は百日の内に埒の明くものである。関ヶ原は、7月中旬から9月15日に埒が
明いた。大坂は10月から1月20日までに埒が明いた。大坂後の合戦は3月から
5月7日までに済んだ。有馬(天草一揆)は、1月から2月27日までに済んだ。

――『武功雑記』




155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/05(水) 07:37:24.77 ID:6nfw2tfV
石山合戦
三木城籠城戦
月山富田城籠城戦




応仁の乱

「戦国武将と足利学校」展、開催中

2016年08月02日 16:04

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/01(月) 13:34:11.02 ID:RrYizFxD
http://www.shimotsuke.co.jp/news/tochigi/top/news/20160607/2348267

戦国時代から江戸時代にかけて活躍した武将と足利学校の関わりを紹介する企画展
「戦国武将と足利学校」が昌平町の同学校旧遺蹟(いせき)図書館で始まり、
同学校が徳川家の吉凶を占い献上した「将軍家年筮(ねんぜい)」など史料約15点を展示している。

武将たちは家臣を軍師に育成する場として、経済面で同学校を保護した。
第9世庠主(しょうしゅ)(学校長)は、徳川家康(とくがわいえやす)に仕えていたという。

同展では、武田信玄(たけだしんげん)の子勝頼(かつより)が
同学校を守るためにしたためた書状「武田勝頼禁制」などを展示している。

企画展は2011年に開かれ、2回目となる今回は真田幸村(さなだゆきむら)に触れた歴史書など4点が新たに加わった。
劣化を防ぐため、史料の一部は期間限定で公開されている。



2ヶ月ほど前の記事ですが、期間は9/1まで、8/17から実資料公開だそうです
http://www.city.ashikaga.tochigi.jp/site/ashikagagakko/senngokubusyoutenn.html



34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/03(水) 19:22:09.54 ID:YiUvrEXo
>>28
軍師って言葉は三国志の軍師将軍って官職から来てるらしいけど
日本における軍師ってやっぱ諸葛亮が元ネタなのかな

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/03(水) 20:50:08.37 ID:RfrVrJLE
太公望もじゃない?


鎧を着ることについて

2015年11月17日 07:40

653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/17(火) 00:48:23.64 ID:960EAe0F
鎧を着ることについて、昔の人は不鍛錬で、天井に鎧を釣って
下から身体を入れたという。これは人が笑い種に言うことである。

だが、武事鍛錬の人に問えば、急な時は鎧を釣って置いて、
下から身体を入れるのが、いかにも好ましいのだという。

――『老人雑話』



654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/17(火) 00:51:07.07 ID:UYRM3X49
消防隊員みたいやな

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/17(火) 12:13:01.91 ID:iccAgxgR
仮面ライダーみたいに飛ぶと鎧が装着されるわけね

昨日、東京国立博物館に行って来た

2015年07月06日 15:32

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 14:40:03.38 ID:HQudLpG9
昨日、東京国立博物館に行って来た
相変わらずのお宝尽くしだったが戦国関連のいくつか紹介

榊原康政像(重要文化財)
http://i.imgur.com/fPtEbOu.jpg
fPtEbOu.jpg

榊原康政所用 黒糸威二枚胴具足(重要文化財)
http://i.imgur.com/J398Pqq.jpg
J398Pqq.jpg
徳川頼房所要 大釘後立一の谷兜
http://i.imgur.com/rhBwpAl.jpg
rhBwpAl.jpg

武田逍遙軒作 普賢延命像
http://i.imgur.com/WOMnEXV.jpg
WOMnEXV.jpg

オマケ 

三日月宗近の見学に並ぶ刀剣乱舞ヲタ
http://i.imgur.com/KlYRQJv.jpg
KlYRQJv.jpg



305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 15:08:32.93 ID:hwcyjchQ
>>304
小平太の鎧かっこいいな

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 16:46:38.94 ID:l9yaohVx
慶長くらいになると甲冑の袖って無くなるよね
鎧はだんだん軽装化していく流れがあったのかな

307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 16:58:39.50 ID:RPShjNjo
>>306
雑兵だと紙子の上着だけなんてのも居たらしいからなあ。もう完全に防御力より機動力って感じだったっぽい。
戦国時代がもう少し長く続いたら、近代ヨーロッパみたいに甲冑のない軍隊に成ってたかもね。

308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 17:55:01.00 ID:WafE7F0k
小平太の鎧なら同じくトーハク所蔵の南蛮胴具足もいいよな

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 17:58:13.81 ID:mPv56eu4
>>307
鉄砲足軽はそうなってたな。鉄砲相手だと鎧の破片で怪我が余計ひどくなったらしい

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 18:07:37.90 ID:b67TShaf
袖で防ぐ様な矢なんかもう飛んでこねぇよって感じなんかね

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 19:15:53.35 ID:hvua1bAK
>>304
こういうのって撮影禁止じゃないの?

313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 19:33:07.77 ID:8Yqs3qU3
>>312
施設や展示品による

※この場合撮影禁止品は劣化対策、個人寄託品や限定公開品等

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 19:38:17.21 ID:HQudLpG9
>>312
撮影禁止の展示物には撮影禁止マークがある

撮影禁止されてなくても、フラッシュ炊いたりするのは厳禁
AF補助光は、どうか知らんが俺は消して撮影してる

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 19:38:50.95 ID:8Yqs3qU3
○東京国立博物館の総合文化展(旧平常展)の撮影については、ホームページに下記の通り記載されています。
※なお、平成館2階は特別展の会場です。他の建物・室で特別展が開催されるときもあります。

○特別なイベント(博物館に初もうでなど)の期間や土日・祝日でなければ、館内は広いので混雑することはあまりありません。
通常は、午前中の早い時間帯や、閉館前の時間帯はかなりすいています。


TOP >> 来館案内 >> お客様へのお願い
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=127

撮影
* 平成館2階の展示室内は撮影禁止です。
上記以外の展示室であっても撮影を禁止することがあります。
* 撮影可能な展示室においても、撮影禁止マークのついている作品に関しては、所蔵者の意向により撮影ができません。
* 撮影可能な展示室においてはカメラを手で持って撮影してください。 フラッシュ、追加照明、一脚・三脚は使用できません。
* 携帯カメラなどシャッター音が出る場合は特に、他のお客様の迷惑とならないよう、ご配慮ください。

TOP >> 東博について >> よくある質問
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=156

トーハク=東京国立博物館の館内施設などについてのQ&A
Q:展示室で写真撮影はできますか?
A:総合文化展については、個人利用にかぎって写真撮影ができます。ただし、撮影禁止マークのついている作品は、所蔵者の意向により撮影をお断りしています。
また、一脚、三脚などの使用とフラッシュの使用はできません。他のお客様のご迷惑となるような行為(割り込んだり、撮影のため長時間その場にとどまるなど)はおやめください。撮影した画像を営利目的で複製・配布することはできません。
特別展会場については、写真撮影は禁止です。
総合文化展か特別展かわからないときは、係員にお尋ねください。

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 20:03:43.98 ID:hvua1bAK
>>313-315
へー、撮影OKな場合もあるんだ。勉強になった。ありがとう。

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 20:13:37.76 ID:A0Bx4ZtG
>>307
逸話準拠だと加藤清正の足軽隊がそういう装備だったと言われてる(名将言行録とかでも記載有)。
頭部を保護する為兜は付けさせたけど鎧は無し、んで鉄砲隊の場合は塹壕を掘らせる。
もうここまで来ると近代歩兵とさして変わらんな。

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 21:35:56.71 ID:tKnnyIQM
>>310
幕末はそうだったって聞いた記憶があるけど、戦国ですでにそうなっていたってことか

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 21:48:44.53 ID:iNl9VvN2
幕末はとんがり帽子にズボンが最先端。あとはモフモフをつけてたらそれは偉い人。

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 23:26:17.42 ID:ON1KkSTM
やっぱ銃の発明の影響って半端ない

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/07(火) 02:36:26.50 ID:YBIfurp9
それいうなら伝来でしょw

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/07(火) 03:30:49.37 ID:C4Min6L8
いや、火薬の発明でしょ


城の天守、侍屋敷、石垣について

2015年07月01日 15:32

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/30(火) 19:00:11.83 ID:NGPAoWiZ
天守は、始まりは井楼より起こったものである。
材木を丈夫に組み上げ塀を塗ったのが、次第に高く大きくなり、後に天守となったのである。
信長公の時、安土において初めて五重の天守が出来た。
秀吉公の時代に七重となった。

侍屋敷も、古は周りを築地にしていたのを、後世には昔の多聞の形を写し、長く建て続けた。
これを多聞とは言わず、長屋と呼んだ。

また、石垣を築くのに穴生築と呼ぶ言い方があるが、これは近江に穴生という所があり、
そこでは古より寺院のための五輪を切り出しており、そのほか都の近くで石切の上手が多く
集まっている場所であったので、信長公が天守を作られる時、同国のことであったので、穴太より
石工を多く呼び寄せ仰せ付けられた。このため諸国でもこの穴生の石工を用いたため、次第に
石垣のこと上手になって、後には五輪を切り出すことを止め、石地築のみを業とした。
以来、諸国でも通名となり、石垣築者をさして、穴太と呼ぶようになったのである。

(明良洪範)

城の天守、侍屋敷、石垣についての逸話である。



実を失い虚を伝える事のみ多く

2015年05月17日 18:25

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/16(土) 20:28:02.55 ID:C5ZZpvZE
中世以来、公家の記録のほか、武家において書き置かれた日記や雑録は多い。
永正記の頃までは、事実を正して書いたものも少なくない。

ところが近世になって、関ヶ原や大阪の陣の事などを書いた書物は数十種類以上あるが、
それらは実を失い虚を伝える事のみ多く、中でも大阪の陣について最初に書かれたものは、
薦淵道士という物読みが、大阪城に籠もって生き残り、そこで書を説した。それをタネ本にして
難波戦記の類が書かれ、またその後、色々な所で話が作り出され、それらは虚実を論ぜられることに成った。

江戸において、鯰江正休という人物が、「佐々木族」という古系伝記を伝え、また浅羽氏、松下氏といった
人々も各々、現在の諸大名家の系図を語った。
これらの人々は、最初の頃は事実のみを伝えていたのだが、諸大名家より招かれ、また礼物などといって
人の伝記などを著述するようになり、そのため終にはあらぬ事をも付け添えて書くように成った。
このため識者の間では疑いを生じさせることが多い。

また、近江の六角氏についての伝記は殊に偽作であり、後世に至って大いに疑惑をなすことがある。
実に嘆かわしいことである。

(明良洪範)

江戸前期における、歴史の史料についての嘆きである。




789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/16(土) 20:53:15.56 ID:qw2ya1NQ
>近江の六角氏についての伝記
江源武鑑のことかな

天下三槍のペーパークラフト

2015年02月08日 17:21

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/08(日) 11:58:00.65 ID:SdTGFjB/
そういや天下三槍の1/4サイズペーパークラフトがあるんだよな

IMG_1456[1]
http://www.yonezawa-naoe.com/information/IMG_1456.jpg
http://www.yonezawa-naoe.com/information/tenka_3sou.pdf

すぐに京坂の糸物が高値となった。

2015年01月22日 18:42

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/22(木) 00:26:26.21 ID:u5Lar70V
慶長十八年八月四日

伊勢の国では南風が甚だしく、昨日三日は西国は風が烈しいので、
長崎から上る生糸ならびに唐物を積んだ船十五艘が浸水したが、これは公方の生糸ではないか。
その中で代官長谷川左兵衛の舟三艘が見えなくなった。
すぐに京坂の糸物が高値となった。
(当代記)


台風シーズンに船を出すとこうなるやもしれぬという一例




神仏を信仰する時の心得

2014年11月06日 18:54

155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/05(水) 23:14:40.12 ID:kMx/Mb9Q
ある老人曰く、

「武士には、神仏を信仰する時に心得があるのだ。

戦場に出て味方一同が進む時、敵との距離が近くなると、
中々進むことができないものである。これは敵方もやはり
同じことだ。

その時、一人が日頃信仰する神号を一心に唱えて進むと、
その声に連れて人心は一致し、一同が進むことがあるものだ。

されど、心無く戦場において神仏の名などを唱える時は、
かえって味方の勇気を落とすものである。その意味は非常に
深いので口伝はできない。自ら知り、自ら覚るべし」

ということである。

――『明良洪範』




156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/05(水) 23:18:32.35 ID:QRNQ9poN
何となく理由わかるけど、口伝できないほどなんだから多分間違ってるんだろうな

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/06(木) 00:23:41.14 ID:gE5ID6qy
近代でも日本軍に南無阿弥陀仏が自然発生して突撃したって話が残ってるよ

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/06(木) 01:25:15.38 ID:/Db1jrw1
某げきょげきょ集団の統率力と言ったら、たしかに敵にしたら怖いからなあ…嫌な思い出しかないわ

159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/06(木) 01:34:05.68 ID:AEQlnalX
厭離穢土ゴングショー

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/09(日) 08:14:04.30 ID:GSOItgqe
>>155
ショウ・ザマも南無三とか唱えてたからな

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/09(日) 08:16:26.12 ID:FbKU2cSI
ダンバインの歌いいよね

時には名前がダブることはよくある

2014年10月04日 18:50

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/04(土) 13:13:27.37 ID:ldOnwHp9
ちょっと名前に関するネタ書いてもOK?

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/04(土) 16:06:22.99 ID:952/XcN7
おk
ふさわしくなければ無理やりここの人が逸話にもってってくれる




451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/04(土) 16:13:54.27 ID:ldOnwHp9
戦国時代はもちろんのこと、各地の武将は色々な名前を名乗ってきた。
時には名前がダブることはよくある。

一族内で同じ名前になることも珍しくなかった。
しかし、それは当主ではないただの一族衆も含めてである。

当主名前が『A⇒B・・・・A⇒B』となっている当主は朝倉氏景⇒朝倉貞景、松浦隆信⇒松浦鎮信、河野通宣⇒河野通直、岩城親隆⇒岩城常隆の4ケースがある。
毛利家の家臣である福原家の場合は広俊⇒貞俊と元俊⇒広俊がある。
見落としあったらすまん。

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/04(土) 16:20:18.78 ID:ldOnwHp9
福原広俊カルテット
毛利家の家臣である福原家には4人の福原広俊が存在した。
1人は毛利元就の祖父。
1人は毛利元就の家督相続時の15人の宿老の起請文に署名した際に筆頭として署名した。
1人は関ヶ原で毛利家の断絶を防ぐために徳川家康と内通し、毛利家の居城の選定を話し合った。
1人は江戸期の人で当初広次を名乗るが、父・元俊の一字をとり広俊と名乗る。


河野通直カルテット
伊予の大名・河野家には4人の河野通直が存在した。
1人は南北朝の人で河野通堯であり、改名して通直と名乗った。
1人は通堯の曾孫であり、教通から改名して通直と名乗った。
1人は教通の孫であり、来島騒動を巻き起こした。
1人は事実上最後の河野家当主である。


朝倉教景クインテット
越前の大名・朝倉家には5人の朝倉教景が存在した。
1人は結城合戦で足利持氏の子を生け捕りにし、足利義教から偏諱を賜り教景と名乗った。
1人は教景の子で、最終的に家景と名乗った。
1人は家景の子で、敏景、孝景と名乗った。
1人は英林孝景の子で、宗滴の兄である。
1人は朝倉宗滴でおなじみの朝倉教景である。

朝倉クインテットのみ2名が当主となっていない。
それでも親子4代続けて同じ諱(一時的に名乗ったのも含む)はそうそうないだろう。
幼名ならば竹千代の親子8代が最高。

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/04(土) 16:27:44.93 ID:ldOnwHp9
朝倉家当主の諱かぶりは更にあり、4つもあった。

4代目と9代目がつけた貞景
4代目と6代目が為景
3代目と8代目がつけた氏景
7代目と10代目がつけた孝景

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/04(土) 16:33:27.45 ID:ldOnwHp9
ということでこの人たちの逸話を書くときは混乱する場合があるので注意が必要だ。
宗滴さんの場合は混乱しないだろう。



455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/04(土) 17:06:41.37 ID:NnSZ5mC+
一条さんみたいに量産されてたのとはまた違うんだな

456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/04(土) 17:07:03.93 ID:lh91U3Xj
戦国初心者のころ島津家久さんのこと混同してたわ

457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/04(土) 17:13:33.48 ID:952/XcN7
当主じゃないのも入れたら色々いるな
服部正成(まさなり)
服部正就(まさなり)

牧野新次郎康成(やすなり)
牧野半右衛門康成(やすしげ)

松平家忠×3
深溝松平、形原松平、東条松平

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/04(土) 17:15:36.63 ID:4MFqRPFY
その点伊達政宗は両者で200年ほど開きがあるから混同の可能性はない

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/04(土) 17:49:49.29 ID:Pq5QPfOX
>>456
ここのスレで良い家久と悪い家久で覚えたら楽というのを知った。

460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/04(土) 17:50:55.40 ID:ldOnwHp9
相馬盛胤は2人しかいなかったから入れなかった
相馬義胤は3人なのでこれも同じ。うち1人は鎌倉前期だし

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/04(土) 17:56:34.08 ID:ldOnwHp9
>>457
能登系 義続───義綱
二本松系 義継───義綱

畠山氏のサイトの人のところもちゃん親子の読みが同じってのを見てた。

462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/04(土) 18:01:52.19 ID:ldOnwHp9
て、関係ないか

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/04(土) 18:02:54.73 ID:mYD4KyOV
>>458
室町初期に、今川氏被官の駿河伊達氏に伊達政宗がいるな。

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/04(土) 18:22:16.35 ID:ldOnwHp9
>>463
しかも息子が忠宗とは・・・
何かの一致ですか?
たぶん今川範忠からの一字だと思うけども

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/04(土) 21:48:30.67 ID:f60r///+
>>452

諱のかぶりは、極論すれば知られていなければ問題にならないから

逆に官名まで含めた被りは支障をきたすね
特に朝廷から正式に官職名をもらう場合は氏姓と官職名まで含めた重複は許されないし、
江戸時代に入ってからは結構厳しかったらしい

466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/05(日) 06:10:03.26 ID:fA1T0Sss
そのおかげで幕末にもなると名前が誰も知らない漢字だらけに

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/05(日) 22:12:20.15 ID:qclDonCW
こんなだっけ?

河野氏
通直(通堯)┳通義━通久┳通直(教通)━通宣━通直━通宣━通直
        ┃        ┗(3代)━通直
        ┗(5代)━通宣


相馬氏
盛胤━顕胤━盛胤━義胤━利胤━義胤

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/05(日) 22:40:12.27 ID:uyeY3UZO
河野家や福原家の当主の諱が交代で重複してるのを見てると
漫画のおぼっちゃまくん家の歴代当主の写真(茶魔とお父さんそっくりの顔が代わりばんこ)を思い出す

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/06(月) 10:48:38.13 ID:Bd4LrDeL
>>437
ですよねーw

しかし、機転の効く者が

2014年08月11日 19:12

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/11(月) 15:52:31.95 ID:+KpDkZT1
この流れだし、ちょっといい糞の話を


朝鮮の役の際、諸将は武具甲冑の破損に苦労していた
結局、漆を塗って修繕することになったのだが漆風呂(漆室)が無かった為に
なかなか漆が乾かず難儀していた

しかし、機転の効く者が現れて漆を塗った物の周りに馬糞を集めて
置いておいたところ、漆は一晩の内に乾いた



                                      【常山紀談拾遺】


511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/11(月) 23:13:14.08 ID:wj9aVQnm
>>508
これ、なんで?

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/11(月) 23:15:16.68 ID:k9s/OsBW
馬糞は乾燥してるから湿気を取る
のかどうかはしらん

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/11(月) 23:49:48.19 ID:2A9Go/gj
ググったら、漆は湿度70%くらいで乾燥するんだと
馬糞は堆肥にも使われてて、太陽にあてるとホッカホカになるんだそうな

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/12(火) 00:21:03.76 ID:LSJYRDcD
馬糞サウナってわけか
クッソ~ウマいこと考えやがったな

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/12(火) 08:22:04.25 ID:wYsRkkcC
一般的な塗料は水分が抜けて乾くけど漆は水分を吸って乾くというか固まるんだよね
日本の風土に合った素材でもっと活用できないかと研究が進められてるけどコスト面で厳しいとか

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/13(水) 00:41:17.17 ID:HE1eSi5P
BANDAIと組んで漆塗りのガンプラとか?

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/13(水) 06:37:09.91 ID:/ldvhjCE
漆って、韓国だか中国辺りからの輸入が主だっけか?

人命の長短は、翁草version

2014年03月20日 18:53

654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/19(水) 22:49:23.05 ID:zkx8ApC4
>>652
同じ逸話が翁草にあったのを思い出した。

昔の人は強健にして長寿であり、今の人は性質が弱くなり夭折するものが多いと言う。
石谷長門入道という老人がこれを聞いて

「そう言われるのには訳がある。昔の事を思いだしてみると、やはり強弱二通りの人々
が居た。今と変わりないが、そのうち弱いものが多く強い者は少しであった。

昔いた弱い者は皆死んでしまい強い者だけが生き残ったので、その人たちだけを見て
あのように言うのであろう。

今の人も弱い者は早く死に強い者は生きのこる。後世からみれば今の人々を強健と言う
のだろうな」

と語られたのは、実にもっともな話であった。

(翁草)




655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/19(水) 23:34:34.17 ID:uWOxnezA
まぁ、天皇を考えれば昔のほうが長命でいらっしゃったのは間違いないわけだが

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/19(水) 23:42:34.92 ID:1nQR0pzi
知り合いの宣教師が創造論者で
「ノアとかメトセラとか、昔はもっと長命だったのです。
古事記の日本の天皇も皆さん長命でしょ?」
って言ってた
戦国時代はこの説明で納得したかもな

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/20(木) 00:42:44.23 ID:NUh5ntI+
まあ戦国の世にも139年生きた坊主がいますし

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/20(木) 07:34:25.58 ID:/CsLEq9L
古事記だの聖書だの長命というより種が違うんじゃねーのかというレベル

659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/20(木) 09:05:57.74 ID:MdcInIhj
事歴を記録し伝える文字を持たない古代社会では
口伝がその手段だったから
複数の人物の事績がまとめられて
長命の英雄が必然と多くなるんだよん。

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/20(木) 19:55:01.98 ID:EAqBVhFK
アレか、仏舎利すべて集めたら2トンになるとかそういう感じの

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/20(木) 21:52:19.68 ID:WJ2skcef
なぁーに、竹内文献の神さん達よりはまだ常識的さ

662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/20(木) 22:12:04.81 ID:7mF3I8oQ
うちの神さんがね

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/21(金) 07:49:28.42 ID:6Bny1OIe
戦国刑事コロンボ
犯人はいつも三成