FC2ブログ

大阿武船解体までの顛末

2019年09月12日 16:05

387 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/09/11(水) 17:39:44.40 ID:gQUFVVVN
長いですが大阿武船解体までの顛末です。

http://0845.boo.jp/times/archives/cat_cat37.shtml
せとうちタイムズ2002年09月28日号
人気漫画の映画化 少女剣士「あずみ」 決闘舞台に大阿武船ロケ

動かない銭食い船として不評をかもしていた村上水軍主力船を復元した「大阿武船(おおあたけぶね)」が、
映画「あずみ」の撮影ロケに使われることになり日の目を見ることになった。
大阿武船は外装が木造で全長25メートル、幅10メートル、100トン。1997年、日本宝くじ協会の助成金1億円をかけて
「全国に因島村上水軍をPRしよう」と内海造船田熊工場で建造した。1999年の瀬戸内しまなみ海道開通イベントには
土生港から大浜町相川ビーチまで海上パレードしてお披露目した。
もともと同船にはエンジンがなくこの時の曵き船によるえい航費用が約250万円。何かのイベントに利用するとすれば
200万円前後は必要となる。このため内海造船田熊工場内の船台に保管されたまま眠っていた。その保管料が年間300万円。
市は有効活用を模索してきたが妙案にめぐりあえず大浜町しまなみビーチの陸上展示を検討していた。
今回の映画製作会社からのロケ利用で日の目をみることになり「全国に因島村上水軍がPRできれば因島水軍まつりにも
はずみがつく」と無償貸与を決めた。

せとうちタイムズ2005年08月20日号
合併のお荷物 一億円の「大阿武船」因島市検討委初会合

中世の村上水軍のロマンを求め全国にPRしようと因島市が日本宝くじ協会から1億円の助成を受け復元した水軍旗艦船
「大阿武船(おおあたけふね)」が建造以来、
ほとんど活用されず内海造船田熊工場に保管されたまま野ざらしになって老朽化している。
このため市は17日、活用方法を探る検討委員会をたちあげて初会合を開き、委員長に宮地正助役を選び地元観光協会や
文化財協会などから6人の委員が出席、これまでの経過、説明を受けた。
現在、大阿武船は設計建造した造船所に年間保管委託金300万円を支払っているが自力で航行できない海洋建造物のため
水軍まつり協賛事業に活用するにも経費のねん出に問題がある。
大浜町のアメニティ公園に陸上展示する案は2~300万円かかる。インターネットで引き取り先を公募したが「タダでもいらぬ」という結果が出た。
こうした経過などをもとに委員会で意見交換が行われたが、ユニバーサル造船因島事業所長、若野晃一委員から「船を他角度
からビデオ撮影。コンピューターグラフィック(CG)を加えれば歴史教材になる」と提案。同市中庄町の水軍城周辺に
陸揚げ展示案も出た。そのためには周辺整備を一体化しなければ効果がないなど、廃船よりも利活用する提案が出た。
このほか、老朽化防止や補修問題など専門的な意見が出た。同委は次回、内海造船田熊工場に保管されている船体の現地調査、
移転候補地など視察する予定。いずれにしても尾道市との合併をにらんで作業を進める。

せとうちタイムズ2006年06月17日号
大阿武船がついに解体

尾道市は12日から、因島村上水軍の主力船を復元した大阿武(おおあたけ)船の解体作業を開始した。今月中に終わる見込み。
建造費1億円のこの船も全国から4件の問い合わせがあったが、活用のめどがたたず、市も「文化財の価値はない」と判断した。
作業は内海造船田熊工場に陸揚げされて始まった。杉材は廃棄され、鉄製の骨組みは再利用される。総費用は約580万円。

388 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/09/11(水) 17:45:51.99 ID:gQUFVVVN
せとうちタイムズ2007年07月28日号
旧因島市建造の大阿武船の追想

梅雨があけ、参院選が終盤を迎えた25日夜。テレビのチャンネル転換が忙しかった。RCCの特別企画(4時間)の「ハリー・ポッター」、ホームTVの
サッカーAFC「日本×サウジアラビア」。NHK「その時歴史が動いた=アンコール・信長の巨大鉄船戦国の海を制す(戦国の軍艦)」。
戦国最強の村上水軍が織田信長の命令で建造した「鉄の船」との海戦で予期しない敗戦シーンが目に止まり、しばし釘付け。中世で最強を誇った
村上水軍も織田水軍に破れ、阿宅船が炎上する場面が、旧因島市建造の大阿武船の追想と重なった。
建造費1億円をかけたこの船の出番は2回だけだった。デビューはNHK大河ドラマ「毛利元就」の合戦のシーン。次は平成11年しまなみ海道全通記念事業として
大浜町のしまなみビーチで繰りひろげられた火まつりの水軍絵巻。以後は輸送に経費がかさむという理由から出番が無く無用の長物となり、
尾道市との合併を機に解体という運命になった。
ちなみに解体船は鉄製の船底上に木枠組みした言わば張り子だった。



389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/11(水) 19:18:39.42 ID:HklVf1Z/
外観復元なだけじゃ「文化財の価値はない」だわな

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/12(木) 14:53:32.25 ID:/feMcuRk
もし船にエンジン付けて自分で動けたら
コンクリートの城と同じで世間に叩かれてたよな
スポンサーサイト



足ノウラヲカク

2019年09月02日 15:51

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/01(日) 20:56:01.50 ID:J7AQ/r7P
人を殺して止めを刺す時に、あるいは喉を断ち切り、あるいは胸を突き通し、またその足の
裏を割るのが古の一例である。これを“足ノウラヲカク”という。

――『志士清談』



354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/01(日) 21:26:25.56 ID:hPEwf+FO
足の裏って地面につく部分のことでいいの?

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/01(日) 23:31:20.36 ID:Mb3OXDLx
戦国時代の足の裏はめっちゃ硬そう

さもあるべき実情の物語

2019年08月09日 17:45

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/09(金) 00:56:49.57 ID:jo9Grmbb
戦国が治まって太平に成った頃まで長生きした老人が有ったが(この老人の名前も聞いたのだが忘れてしまった。
これを指摘した上で追って再び聞こうと思うと、川尻は言った)、とある集まりで雑談していた時に、
年若き輩が、戦場に出て功を成すのだと狂おしく語っているのをこの老人が聞いて笑い出した

「それは大きな了見違いである。私は数度戦場に出たが、なかなか恐ろしくて兼ねてからの心がけなど
出来ぬものである。私はある戦の伏せ勢に組み入れられて、草高き林の中に埋伏していたが、その時の
心には『とうか敵がこの道を通らないように』と哀れにも思っていた。遥かに馬煙が見えた時は
いよいよ恐ろしく、この合戦が終わったならば武士を辞めよう、とまで思っていたが、敵が我々の伏せている
所を通過しようとする頃、『合図これ有り候』と打って出るに至った時には、それほど恐ろしいとも
思わなくなり、味方の馬に踏まれたり打物に当たったりして討死の数に入る者も出たのだが、その時に
至ると何とも思わなく成っていた。

私は籠城にも何度か加わったのだが、これも籠城の最中は『再び武士になど成らない!』と思い詰める時も
有ったのだが、その戦が終わってしまうと、武士を辞めようという気も無くなっていた。」

そう老人は語った、さもあるべき実情の物語であると、聞いたままに記録した。
またかの老人の物語に

「私が臆した心底である故にそんな事もあるのだ、と思われるかもしれない。しかしその当時の同輩たち、
何れも同様であったのだよ。」と語った。

(耳嚢)



敵陣に大量のキングコブラをまくという戦法

2019年05月29日 18:22

71 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/29(水) 17:57:14.41 ID:38thBiDl
敵陣に大量のキングコブラをまくという戦法 [無断転載禁止]
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1494619655/


戦国板にもこういうネタスレがありますが、海外ではマジにこういう戦法が日本であったと思われているらしい。
欧州の研究家が江戸時代の軍記物のネタ話を丸写しで信用し、そのまま出典として引用しちゃったそうで・・

The Samurai Capture a King: Okinawa 1609
著者: Stephen Turnbull
https://books.google.co.jp/books?id=hF21CwAAQBAJ&pg=PA50&hl=ja&source=gbs_selected_pages&cad=2#v=onepage&q&f=false
SnapCrab_No-1445.jpg
SnapCrab_No-1446.jpg



72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/29(水) 18:27:45.34 ID:g8U7CXov
>>71
まあ日本でも三国志のぶっ飛んだ逸話信じてる人いるししゃーない

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/29(水) 18:42:47.13 ID:AEb8hRxI
>>72
同じ伝記でも水滸伝だと完全にフィクションだろってことでスルーなんだけど、
下手に歴史物な三国志だと信じる人結構多くなっちゃうねい。

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/29(水) 19:18:47.59 ID:mk5fFJh4
鈴木真哉「戦国時代の計略大全」p189だと
甲州流、北条流などの軍学書にな、蛇攻め、もしくは蛇責めというものがあるが中身の説明はまったくないので実態不明。
浸し攻めと並ぶ水攻めの方法の一つ、と書いたものがあるから
蛇が水没したねぐらから城に入って人々を苦しめる程度の小規模の水攻めだろう

としていた。

「蛇を撒く」だと、むしろ
フラウィウス・ヨセフス「ユダヤ古代誌」にある、
エチオピアがエジプトを攻めた際、モーセが敵陣に奇襲をかけるために
蛇がうようよする内陸の道を、蛇を食べるトキを連れて通り、見事奇襲に成功した。
という映画「十戒」でもネタにされている話の方が近いような。

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/29(水) 19:30:43.27 ID:znGVlwxs
>>72
薩摩の琉球攻めの軍記物だから、三国志演義の南蛮攻略とほぼ同じノリなんだよねえ
おそらく実際に参考にしてると思う

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/29(水) 20:47:43.30 ID:F/n+f8Zb
前田利常が蛇責めやってたゾ

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/29(水) 21:05:19.62 ID:kRg60A/1
>>76
拷問と城攻めを一緒にしちゃいかん

78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/29(水) 21:11:48.92 ID:UGOt4bAO
スサノオがオオクニヌシにやってたゾ

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/30(木) 09:30:54.16 ID:GaQuAx5H
著者のタンブル氏は欧米で東アジア戦史に関しては、日本で言えば小和田・本郷ポジションだもんな
思い込みと資料の未精査と誤訳も多いけど

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/30(木) 11:29:15.28 ID:rRAGmZNE
>>71
薩摩の琉球侵攻作戦にしか見えない
ハブ撒いたの琉球じゃん

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/30(木) 12:13:52.40 ID:Oa0G9WWv
Kindleで出てたから買って読んだら
・1942年にドイツ語で薩摩の琉球侵攻の本が出ているが
軍記物を参考にしていてあてにならない
・良質な史料としては琉球サイドの喜屋武親方の「喜屋武日記」
薩摩サイドの「琉球渡海実記」「琉球軍記(軍記とはあるが史実的に正確)」
・軍記物で記述されてる人物も実在の人物と乖離しているものとしては「島津琉球軍精記」それを基にした「絵本琉球軍記」がある
・何百匹ものハブを集めて放した話は「喜屋武日記」にはないが薩摩方の記録にある

となっていた。
ぱっと読んで違和感があったのは
・島津忠久は頼朝の庶子。頼朝が嫉妬深い正妻から離すために忠久を遠国の領主とした
・琉球の初代国王舜天は追放先から逃亡した源為朝の子供と言われるが、為朝には追ってきた船を矢を放って沈没させたあと切腹したという説もある。
(外国の読者に、矢で船を沈没させるよりは逃亡した方がありえそう、と思わせるような内容)

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/30(木) 17:56:57.91 ID:yM5amPZr
>>81

英文だからしかたないが誤字ありますね
薩摩の琉球侵攻の薩摩・琉球それぞれの一次史料とされるのが、市来孫兵衛『琉球渡海日々記』、喜安『喜安日記』

影佐『琉球軍記(琉球入ノ記)』はさほど年月が経たない時期に書かれたとされていますが、七島衆(吐?喇列島)の
船頭衆が功績を誇示するためにかなり膨らませて書いたと考察されてますんで、あんま参考にしない方がいいかと思います

一次史料を見る限りは沖縄本島での戦闘は、首里の手前で100余人の琉球軍が薩摩軍の鉄砲で散々に打ち破られたという程度
(ただし薩摩軍は行く先々で放火してますが)
以前NHKの琉球特番でもやった、那覇港要塞の火砲で島津船団を撃退したというのは琉球軍記の記述です
でもこれもどうやら・・

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/30(木) 18:01:59.35 ID:Oa0G9WWv
>>83
原文のローマ字表記をこんな漢字だろう、としてみたら随分違いました
ちゃんと原文通り書けばよかったですね、すいません

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/30(木) 18:13:15.89 ID:yM5amPZr
https://i.pinimg.com/originals/4f/fd/32/4ffd32696d17a0d13c814d38a57c65b0.jpg
https://i.pinimg.com/236x/c2/51/2d/c2512d1808a489d1399889d3486f679d--samurai-wars-katana.jpg
4ffd32696d17a0d13c814d38a57c65b0.jpg
c2512d1808a489d1399889d3486f679d--samurai-wars-katana.jpg


資料の存在しない琉球軍の想像図が酷過ぎるが、まあ日本人も外国中世風ファンタジーではよくやってるからいいか(よくないけど)

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/30(木) 18:22:45.81 ID:yM5amPZr
ところで、琉球時代の歌謡集『おもろさうし』では、薩摩軍の侵攻などを歌った部分に、薩摩兵を前坊主(まえぼじや)と呼んでいるので、
月代を剃っていたのが確実視されているとか

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/30(木) 18:47:21.84 ID:Oa0G9WWv
そのあたりの記述
琉球の防衛側の武装については島津に比べほとんど不明。
おそらくは原始的でないにしろ島津より劣っていただろう。
もともと日本や明から武器を輸入していたのだが、1450年代の倭寇のせいで明の福建の商人が琉球に武器を売らなくなってしまった。
また明同様、日本刀は珍重されていたが長いkatanaは実用的ではないため短いwakizashiを使っていたと思われる。
木製の盾も使っていた。
おそらく日中折衷の武装で弓、刀、槍、銃、ハルバード(中国式の広い刃か日本式のnaginata)も使っていた。
琉球の王は早くから火器を取り入れており、1450年代の朝鮮の漂流民は琉球での火器仕様について触れている。
喜安日記には「敵軍(島津)は弾を浴びせながら橋を攻略してきた。我々はそのような銃は知らなかった」と書いてあるが
それは一斉射撃を知らなかっただけで火縄銃自体はあったと思われる。
また石火矢という琉球製の大砲もあり、1貫(3.75kg)の弾を発射したとされるが、
これは首里城から発掘された直径7-9cmの弾と合致する。
また石火矢は那覇港にも設置された。

90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/31(金) 19:05:13.61 ID:TpoYaScU
>>87
https://thetv.jp/i/nw/103166/570881.jpg
570881.jpg

沖縄の琉球放送で製作した特別ドラマ「尚巴志」の画像だけど、まあ実際の15世紀初めもこんなもんだったんじゃないかってことだそうですよ。
頭だったものは日本式の武装で、あとは手に入るめぼしい武器、雑兵は平服に棍棒だとか。

中国や東南アジアの武器が出土しているにしろ、必ずしも異国風が主流ではなく、やっぱり本土日本風らしく、例えば博多や堺で
中国南蛮の出土品が見つかったからといって、当時の風俗が中国南蛮風だったかというとそうじゃないようなもので。


でもこういう厨二風の独自のやつもあるので、なんかわくわくしますね琉球時代の沖縄。
https://vps8-d.kuku.lu/files/20190531-1848_ac8b40959509e14bf60d30ebc0413f15.jpg
20190531-1848_ac8b40959509e14bf60d30ebc0413f15.jpg
※管理人注・PDF
https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/21/21195/15959_1_首里城京の内跡出土品展.pdf

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/02(日) 19:08:34.47 ID:y+oIOg2Y
>>86
沖縄で波平スタイルのひとはどういう扱いだったのか

総じて名物の兜というものは

2019年03月19日 15:39

732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/19(火) 09:08:49.07 ID:2YlsPBCU
武隠叢話巻八に曰く、細川三斎(忠興)に奉公していた老人の牢人が京にあったが、彼の物語によると、
摂津国に一ノ谷、二ノ谷と並ぶ峠があり、一ノ谷のある場所を鐵蓋ヶ峯といった。

美濃菩提城主・竹中半兵衛重治の兜は「一ノ谷」と云い、明智左馬助秀俊の兜は「二ノ谷」といった。
これは一ノ谷の兜に推し並ぶ名物であるということで二ノ谷と云い、柴田伊賀守勝豊の兜は
「鐵蓋ヶ峯」と云った。これは「一ノ谷より上手」という事である。

総じて名物の兜というものは、浦井(浅野?)若狭守の水牛、黒田長政の大水牛、日根野織部(高吉)の唐冠、
原隠岐守(長頼)の十王頭、福島正則の四段鹿角、本多中書(忠勝)の忠信が兜(佐藤忠信の兜であり秀吉より
賜る)、蒲生氏郷の鯰尾、伏木久内の割蛤、三斎(細川忠興)の山鳥、竹中半兵衛(重治)の一ノ谷、
明智左馬助の二ノ谷、柴田伊賀守の鐵蓋ヶ峯、矢田作十郎の鯉冑、武田信玄の諏訪法性、秀吉公の八日月、
台徳院殿の御召になった角頭巾御冑、これらが隠れなき名物と呼ばれるものである。

加藤清正の長烏帽子、藤堂新七(良勝)の帽子なども、世に名高き兜である。

(安斉随筆)



733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/19(火) 10:39:33.59 ID:1G6dHz3g
5行目までが浪人の語った話ってことでいいのかな?

タバコが流行り始めたのは、久しく昔という訳では

2019年03月17日 18:54

727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/17(日) 13:06:28.81 ID:VEmyViUy
私(伊勢貞丈)の若年の頃、ある老人の物語して、たばこと申す物は古来は存在しなかったのだが、
天正年中、切支丹宗門というものが世に広まった時節より、たばこも始まったのだという。
ということは、元来は南蛮国などで産する草であったのだろうか。

以前はキセルなどを作る細工人も稀で、値段も高く、末々の者ではなかなか求めることも出来ず、
竹の筒に穴を通し、先の方を火皿としてタバコに火を付け吸っていた。

タバコは元は西国筋より流行り始め、中国五畿内でも人々はもてはやしたが、関東筋ではタバコを吸うと
いうことを誰も知らなかった。いつの程にか段々と流行りだし、またキセルを作る細工人なども多くなったため、
竹の筒のキセルなどという物も廃れた、というようなことも、かの老人の物語ったものである。
これらから考えると、タバコが流行り始めたのは、久しく昔という訳では無いように思われる。

(安斉随筆)



728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/17(日) 18:20:13.34 ID:5akfMxjR
タバコみたいな美味いの何でみんな吸わないのだろう
高くて手が出ないのかな

729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/17(日) 23:28:56.83 ID:t4iSdy89
前田慶次が吸っていたキセルはなんだったのか

【ニュース】姫路の化粧品メーカーが姫路城の紋瓦型せっけん販売へ

2019年02月08日 17:57

670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/08(金) 12:48:10.44 ID:Hub/Hg8U
姫路の化粧品メーカーが姫路城の紋瓦型せっけん販売へ(姫路経済新聞)
ttps://himeji.keizai.biz/headline/1803/

姫路の化粧品メーカー「しらさぎ化粧品」(姫路市飾東町)が1月28日、姫路城の紋瓦をかたどった
「姫路城紋瓦石鹸(せっけん)」の販売を始めた。

紋瓦石鹸
ttps://images.keizai.biz/himeji_keizai/headline/1549294484_photo.jpg
1549294484_photo.jpg

平成の大修理で姫路城の瓦を作った「光洋製瓦」(姫路市船津町)の瓦師(かわらし)の協力で原型を製作し、
本物そっくりの質感を出すため竹炭を使い、一つ一つ手磨きでアンティーク加工を施した。
大きさは直径約9センチ、重さは約85グラム。

ココナツオイルとオリーブオイルを主成分に、ペパーミントの精油で香りを付けた。紋瓦のデザインは
「羽柴秀吉の五三桐紋」「池田輝政の揚羽蝶紋」「酒井忠恭の剣酢漿」を再現した。商品には海外からの
観光客を意識し、日本語・英語・中国語で「紋瓦石鹸」「光洋製瓦と姫路城瓦」を説明した紙を同梱する。

パッケージ
ttps://images.keizai.biz/himeji_keizai/photonews/1549294615_b.jpg
1549294615_b.jpg


秀吉の桐紋使用はもっと後だけど、まぁ仕方ないか


【ニュース】江戸時代初期に「大坂幕府構想」検討か 新たな書状見つかる

2018年12月21日 22:39

578 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/12/20(木) 19:29:56.80 ID:ArJ6pWRU
江戸時代初期に「大坂幕府構想」検討か 新たな書状見つかる
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181220/k10011754471000.html


何か面白いニュースがあった。
何気に島津家久(悪)が登場してて笑えるんだがw

579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/20(木) 19:51:57.17 ID:X8bbhAyj
NHK正月時代劇「家康、江戸を建てる」

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/20(木) 20:45:52.09 ID:fs8f75Bh
大名屋敷が整備された形跡もないし
そもそも大坂城は元々将軍の持ち城だし
まあいつもの藤田達生だな
見出しで釣ろうという魂胆が透けて見える

582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/20(木) 21:13:53.93 ID:PR43Q323
>>578
あくまでも遠州個人の考えじゃないの?

殉死せぬこと

2018年02月08日 18:00

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/08(木) 10:24:07.71 ID:ja1k65Sr
主人への殉死をしなかったと言って、家中の多くが悪しく言う者があった。
この者、主人の忌日に家中の者惣じて寺へ参詣した所で、彼らに所用があると引き止め、
惣衆集まった時に申し出た

「私について、殉死すべきであると、この座中におられる方々の中にも御沙汰があると
承っております。そのような方々はきっと、私が殉死すべき仔細をご存知なのでしょう。

私自身は、私が殉死しする事が御奉公に成るという理由が見つけられません。
主人によって御取立いただいた者は、必ず殉死すべきであるというだけなのなら、私は全く
納得に及びません。故に、殉死いたしません。

ただし、今ここであっても、その道理をお聞かせ下さるのなら、御奉公のことである以上、
すぐに殉死いたします。」

この言葉に、座中は一言の返答にも及べなかった

彼は重ねて申し上げた
「このように理を尽くして申した所、とかくの仰せも無い様です。である以上、殉死のことは定めて
あなた方による御沙汰では無かったと考えて良いですね?
この上は、今後うしろにて殉死の批判をされる方は、侍の本意にもとる人物であります。
その心を得られたまわれ。」

そういって退出したという。
(士談)


マジヤバいお話

2017年11月24日 17:17

334 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/22(水) 21:13:57.78 ID:hGDrQ4Ly
前野長康はマジヤバい。
まず実の父親が凄い。坪内勝定。
この男は前野長康と12歳差。つまり満11歳の時に仕込んだってことだ。
とんだヤリチンだぜ。

さらに母親が凄い。生駒右近善長の妹。
なお、生駒右近善長は長康より45歳年下。
自分より年下の母親から生まれてくる前野長康はヤバすぎる。



335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/22(水) 21:38:01.55 ID:lnkCnPsw
出典は武功夜話?

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/23(木) 15:15:29.02 ID:jQjOTTHt
細川元勝もなかなかヤバい
父である細川昭元と13歳差
母もすごい。織田信長の妹お犬の方
生まれたのは両親が結婚する16年前で異父兄の佐治一成より6つ年上
マジヤバい



337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/23(木) 21:25:40.38 ID:ArIA571p
>>334>>336
    r⌒\// ////:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ //// //
    (´ ⌒)\ ///::::   (y○')`ヽ) ( ´(y○')    ;;|// //
ポッポー ||  \|:::     ( ( /    ヽ) )+     ;| _/ /ヽ        /ヽ
     人   ...\    +  ) )|~ ̄ ̄~.|( (       ;;;/ /   ヽ      / ヽ
    (__)     \    ( (||||! i: |||! !| |) )    /__/U  ヽ___/  ヽ
また (__)天狗か .\+  U | |||| !! !!||| :U  /__/   U    :::::::::::U:
    (・∀・#)       \   | |!!||l ll|| !! !!|/| | 天 // ___    \     ::::::::|
  _| ̄ ̄||_)        \∧∧∧∧/  | | 狗|   |    |  U     :::::::::|
/旦|――||// /|      <   天 >  | |  |U |    |        :::U::|
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ̄| . |      <   狗 >      l ├―‐┤   U   ...:::::::/
|_____|三|/      < の の >     ヽ      .....:::::::::::::::::::::::<
────────────< 予 仕 >─────────────
      / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \< 感 業  >天狗じゃ!天狗の仕業じゃ!   
/⌒ヽ  / ''''''     ''''''  ヽ<.!    >こういう天狗のように鼻が立ってたのが
|  /   | (●),   、(●)   | ∨∨∨∨\天狗の天狗なんだよな今の天狗は
| |   |    ,,ノ(、_, )ヽ、,,     / ヤダヤダ \天狗の天狗を知らないから
| |   |    `-=ニ=- '    /〃〃∩  _, ,_  \天狗の仕業じゃ!  , ;,勹
| |   !     `ニニ´   `/  ⊂⌒( `Д´) <\          ノノ   `'ミ
| /    \ _____ /      `ヽ_つ ⊂ノ    \        / y ,,,,,  ,,, ミ
| |    ////W   / )、._人_人__,.イ.、._人_人_人     / 彡 `゚   ゚' l
| |   ////WW /<´ 天狗じゃ!天狗の仕業じゃ!>\  〃 彡  "二二つ
| |  ////WW /    ⌒ v'⌒ヽr -、_  ,r v'⌒ヽr ' ⌒   \|  彡   ~~~~ミ

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/23(木) 21:32:18.42 ID:XjByv4RE
一瞬、「細川元勝」を、天狗の修行した細川政元の父親の「細川勝元」と間違ってレスをしたのかと思った


339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/24(金) 20:27:54.04 ID:BHx6D7ip
細川政元と言えば司箭院興仙っちゅう政元の修験道の師匠がいるんだが
1570年に安芸国から空を飛んで京都の愛宕山に住み着いたとかなんとか
政元に仕えてた人物がその時期まで生きてたとある通り非常に長寿だったようだが
100歳になっても若々しかったなんて話もありなんか嘘くさい

ちなみにこの人物武芸にも優れていて河野通昭(左京大夫通宣の庶子)にそれを伝えたという
河野から築山に改姓した子孫が貫心流として広島藩に剣術を広めたりしている
開祖の名前が源義経になってたりしてどっか嘘くさい


ついでだから書くが河野から築山に改姓した理由は先出の河野通昭が
秀吉への襲撃を企てたため子孫に累が及ぶのを恐れた、とされている
これは築山氏の編纂した史料に記載されており豊臣側の史料にはそれらしい記述はないようである
やっぱり嘘くさい

不覚悟の品々

2017年09月17日 12:52

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/17(日) 10:09:51.72 ID:+anRRzXN
古人曰く、侍の大身小身ともに、不覚悟の品々というものが有る。

一に、人の悪口、噂を賢しらに言う人
二に、侍と侍の間の仲が悪いからと言って、座席や路頭において慮外の輩
三に、親兄弟の敵を狙わぬ事
四に、被官、下人などが口論した時、言い過ぎた方や、非分の働きのあった方に、早く理を言って
   話談するようさせなければならない。事に大身奉行たる人は、自分の配下に即座に罪科を
   申し付けて事を済ませるべきだ。
五に、相奉行にて損得のある仕事をする時、自分の得のために傍輩を出し抜くこと。
六に、武士たる者、万事につけて自分より勝るものを嫉むこと。
七に、身体を治められず好色をいたし、要らぬことに過分の振る舞いあること
八に、武道具の嗜み無く、弄ぶ所の器物(茶道具など)を専らとする事。
九に、人の良き道具をあれこれ言いくるめて取ること。
十に、少しの心ばせが有るからと言って、人より優れているかのように過言すること。
十一に、仕合が良いと未練な侍であっても褒め、良き武士であっても足元が弱いのを侮る事。
十二に、有徳(裕福)な町人を見込んで武士の聟にすること。
十三に、良き縁者を持つ女性を女房とし、女房の縁者の威勢が衰え、或いは亡くなると、その女房を
    悪しく扱う事。

おおよそこれらの事は、傍らより見聞きしても大変見苦しいものであるから、人々は自ら戒めるべき事である。

(士談)

近世初期くらいまでの、武士の倫理観について



232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/17(日) 13:32:06.28 ID:lOeraY96
戦国武将は大抵逆の事してる

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/17(日) 17:23:55.16 ID:0gyA34Re
士談って明治頃の本だろ?もはや戦国の雰囲気ないわな

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/18(月) 18:57:09.29 ID:gtKRsMo1
>>233
士談は山鹿素行の著書だから、一応近世初期だぞ

和談の使い

2017年06月26日 16:39

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/26(月) 09:38:11.31 ID:W+BjMk6D
ある人、敵より攻められている城より、扱いを乞う和談の使いとされて城外に出ることとなった。
この時大将初め諸侍それぞれ言った

「御辺は、大勢のうちから特に指名されて城外に出ることとなった人物であるので、今更言うには及ばない
だろうが、城中のこと、少しでも弱みがあるように云っては、扱いに成りにくいものである。
随分城中の強みを語り、兵糧弾薬等までふんだんに有ることをよくよく言い聞かせられ然るべきである。」

使いの侍
「委細、相心得ております。古来よりの作法でありますから、宜しく申すでしょう。」

そう言って外へ出、寄せ手の大将の所に至ると、先ず湯漬けを望んで2,3杯を食し、その上で酒を望み、
これを飲んで申し上げた

「城中では、先月の5日より10人を以て一升扶持にしていましたが、今月に入ってそれも配給できず、
酒などは大将物頭ですらろくに口に入れることも出来ず、味噌などは皆消費し尽くし、今では一口舐めるのも
古の雁鴨の料理よりも大切に存じています。」

寄せ手の歴々聞いて、未だ兵糧は潤沢と考えていたので意外に思った
「これは思っていたのと相違している。しかしながら左様な事も有るだろう。久しき籠城であったのだから。」
「さて、弾薬の方はいかがか?」

「弾薬もまた、只今は不通にこれ無く候。」

「そういう事であれば、何故に今まで城から出ず、籠城しているのか?」

使いの侍、言った
「その事です。若年の者たちは『これではどうにも成らないから、一方へ切って出て、一同に討ち死にすべき!
必ず一報をば打ち破ります!』と主張しているのですが、大将も物頭も奉行どもも、物資が残っている事を理由に
同心致しませんでした。そこで彼らは『同心無くてももはや一方へ切って出て打ち抜くべし!』と言い出し
ましたが、大将が強いて抑留しことで、さすがに打って出ること出来ず、今日まで引き伸ばされております。」

「その、打って出ると主張している人数はいかほどなのか?」

「それも僅かに、百七,八十人ばかりです。雑人や下々は存じもよらぬことで、ただ侍分の者ばかりこれを
主張しています。」

これを聞いた寄せ手の者たちは談合した
「この使いの申す所、一々偽りが無いようです。であれば、仮に百七,八十人の侍が必死の思いをなせば、
寄せ手が勝利したとしても、大勢の死傷者が出るでしょう。ここは和談を用いるべきでしょう。」

こうして和議が整い、城が明け渡された時、兵糧雑器は未だ山のように残っており、弾薬も大量に
備蓄されていた。ただし、打って出ることを決意した人数を百七,八十人と言っていたが、実際には
十七、八人も居なかったという。

この扱いの侍、優れて才の逞しき者と言うべきであろう。

(士談)



62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/26(月) 16:27:33.20 ID:SoVYyyyF
なるほど。舐めてかかって来るならば潤沢な弾薬で一捻りするのか

63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/27(火) 10:16:38.98 ID:T68U6Os8
兵糧弾薬残ってるのに城明け渡すなんて利敵行為じゃないの

体内の光物

2017年06月23日 09:25

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/22(木) 23:51:44.66 ID:53keMK1k
ある人の語った所に寄ると、戦場へ出る度ごとに戦功を顕し、先駆け殿の功重なる勇者があった。
彼の友人がこれを羨み、

「我も人も、武士の家に生まれて一通りの働きを遂げぬ者は、家職を辞めて農工商の職を行う人に
成るべきだろう。だからこそ一通りの働きはしているが、御辺のように度々の戦功を成し、
後にて後悔もないような、心と身と口の一致した働きをするのは、致しようというものが有るのだろうか?
有るのなら是非承りたい。」

こう問われ、この勇士は
「奇特なることを尋ねられるな。わかった、語って伝えよう。しかしこれは武士の本意であるので、三日
物忌みをしたまえ。その上でこそ伝えよう。」

これに問うた者は喜び、三日斎戒して再び対面した

勇士曰く
「生死は一大事である。人の生きることを止めないために慎むべき事であるから、この事を秘事にしているのだ。

大きな仔細が有るわけではない。人の身には手毬ばかりの大きさの、光る丸い物があって、常には臍の下
あたりに静まっている。
しかしこの光物は常に身中を往来し、面門(口)から外へ出入りもする。

臆病な者は、この光物が抜けて内に無い。このため光を失い何事も分明ならず、方向を失うのだ。

それより少し心得有るものは、外に抜けてはいないといっても、面頭に上がり、このため目も見えず
耳も聞こえず、その場における善悪の判断も出来なくなる。

それよりも一段上の人は、この光物が胸に上がり、胸騒ぎがしきりである。

上段の人は、臍下に留まり気は勝り、病気などに成ることもない。こう言った人こそ心口行の三つ一致して、
所行常に静かにしてその理も分明である。

これを修行するには、人に会って怒りを覚えた時、この事を思い出す事だ。
そこでよく考え、体の中の光物を納め付けた時、終には修行が本意に至るのだよ。」

この教を受け、問うた者は拝して退いたという。
これは定論ではないのだろうが、この説を実践すればその至極に至ることも出来るだろう。
かの孟子が論じた「放心」にも似ている。

(士談)



53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/23(金) 02:05:21.72 ID:/IPKuLm8
武術でいうところの「気」か

中国の日本に関する地理誌「東西洋考」によれば

2017年06月19日 17:33

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/18(日) 17:10:17.73 ID:chYKDCHe
ついでに此の頃の中国の日本に関する地理誌
福建省出身の張燮によって書かれた万暦45年(1617年)発刊の「東西洋考」によれば
https://zh.wikisource.org/wiki/東西洋考/卷六
邪馬台国、日本への国号改、倭寇、懐良親王(良懐)、足利将軍の勘合貿易、王直についての記事の後

倭は平清盛が政権を取って以来、国が乱れ、万暦14年に平信長が関白となり、その義子の平秀吉というものは、
母親が婢ではあったが妊娠中、異徴があった。幼いときから下賤で魚を売っていたが酔って木下に眠っていた。
その時猟に出ていた信長に出会い、驚き寝覚めて衝突。
(以下「明史日本伝」と同じため略)
万暦39年、倭は琉球を破り、中山王を捕虜とし、二年倭に留め置いた後帰還させた。琉球は明に倭に入貢したことを謝罪し
明への入貢を申し出たが、すでに倭に入貢した以上、スパイの疑いがあるため入貢させなかった。
万暦44年夏、倭が東番(台湾)に侵略しようとしたため、董伯起が倭を偵察に行ったが、倭の村山等安に捕らえられ、小舟で返された。

倭は東海中にあり五畿、七道、三島、又附庸国百余ありその首魁と称している。唐宋の世は中華を慕い、外国を侵略しようとせず、
宋の時代に来朝した滕木吉に矢を射させても遠く飛ばず、理由を聴けば「国内で戦がないためです」と答えたほどのものだった。
ところが元に入り驕慢の心が出てきて、殺気立ち、華人が諭しても「盗みを喜び、生を軽んず。殺を好むのが天性だ」と答えるまでになった。

倭の地は北は朝鮮を海で隔て、南は閩、浙と隔てている。朝鮮へは対馬から大洋に出て二晩で着く。
閩、浙へは順風で旬月かかる。

其の主は山城にいるため山城君と呼ばれる。山城の南は和泉、その南は沙界(堺)。沙界の盗難は紀伊、紀伊の西は伊勢。
山城の西は丹波、左に摂津、左の西は播磨、右は但馬、右の西は因幡、丹波の西は美作、左は備前、左の西は備中、右は因幡、右の西は伯耆。
美作の西は安芸。出雲の西は石見、安芸、石見の西は山口で古の周防州である。山口の西は長門、ここで海を渡る。
渡って西は豊前、南は豊後、其の南は日向、豊前の西は築前、西南は後築。後築の南は大隅、大隅の西は薩摩。
豊後から東南に渡ると、土佐、伊予、阿波があり、阿波は海を隔てて淡路と近い。土佐、豊後の間は佐加関。薩摩の北は肥後、
又其の北は肥前。肥前から西に渡ると平戸、平戸の西は五島、北は多褻島、伊岐、一番北は対馬、それぞれの島は酋長あり。

山城君は弱く、名前のみ。倭はその号令を聞かず、互いに争い、強ければ従わせる。
豊後国が最大で、博多経由で五島を歴てやってきて、帰りは長門を通って帰る。
毎年清明後から五月まで、重陽後から10月まで常に東北風が吹くため倭寇に有利となる。
そのため海防のときは三四五月を大汛、九十月を小汛として警戒せねばならない。
倭寇が多いのは薩摩、肥後、長門の三州で、次に大隅、築前、築後、博多、日向、豊前・豊後、和泉となる。
男子の首領は頭を剃り、黥面文身。婦人は髪を結っている。皆素足で、時々履をはく。勇猛で死を恐れず、戦う時は赤裸で三尺の刀を舞わせる。

名跡形勝としては、「邪摩堆」「阿蘇山」「東奥州(黄金の産地)」「五龍山」「平戸島」「一岐島」「八角島(蒙古、高麗を日本が滅ぼした所)」
「聚快楽院」「相坂関」「赤門関」「千丈渓」
物産としては、金、銀、如意珠、青玉、瑪瑙、琥珀、水晶、水銀、螺鈿、石硫黄、銅、鉄、錦、細絹、花布、刀、屏風、扇、硯、漆、
犀象、黒雉、山鼠(牛のようなけもので、大蛇に呑み込まれても穴を開けてしまう)

890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/18(日) 17:17:53.08 ID:chYKDCHe
この張燮、「なぜ日本人やオランダ人(日本の記事の後に紅毛蕃(オランダ人)がある)を美化するんだ?」
と言われた時、「事実を書いたまでだ」と答えたそうだが、
美化したような記述あるかな



891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/18(日) 17:22:56.47 ID:5kXMhSIL
>>890
当時の日本の評判がもっとショボかったのでは

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/18(日) 18:29:14.95 ID:lzSjY9GA
野蛮人の土地に名勝や希少な鉱石物産などあるはずがないのである
と思っていたりして

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/18(日) 21:59:33.09 ID:I1Yy+r3R
薩摩人が鬼畜ってことは外国人も分かってたんだな

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/19(月) 18:32:41.24 ID:uEDirrNW
地理の記述で西の左のってのは違和感あるな統一しろよと

895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/19(月) 19:29:35.39 ID:gTXWMnPN
「左」遷ていうくらいだからこの時代の士大夫にとっては基礎教養なのでは

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/21(水) 14:21:42.70 ID:x88AXbB6
>>889
山鼠ってなんだと思ってググったらめっちゃ可愛い(*´ω`*)
こんなのが大蛇に呑み込まれても穴を開けてしまうのか…

他にも犀象?動物園かな?

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/21(水) 16:05:30.59 ID:ixj2rUIK
古代ローマ人にはごちそうです

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/21(水) 16:55:52.35 ID:XjfB0FTi
ダンジョウ飯

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/21(水) 22:43:33.42 ID:TW/7yCGd
>>902
>他にも犀象?動物園かな?

ボス「センゴクパークには沢山の鬼や天魔が暮らしているよ、君は何が見たい?」

ティモシー・ブルック「セルデンの中国地図」より、日本の地名

2017年06月18日 16:07

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/18(日) 12:46:08.13 ID:chYKDCHe
イギリスの歴史研究家ジョン・セルデン(国際法の父グロティウスの「自由海論」に対して
「閉鎖海論」を著し、両者の論争が海洋法誕生のきっかけを作った)所蔵の17世紀前半?に作成された中国地図
http://seldenmap.bodleian.ox.ac.uk/
南シナ海を中心に書かれているが日本の地名の漢字表記がいろいろツッコミどころあり
(地図をクリックすると拡大した地図が読める)
以下、ティモシー・ブルック「セルデンの中国地図」より適宜抜粋
・兵庫:神戸を表しているのだろう
※本州と九州がつながっている
・亜里馬王:有馬氏の治める肥前
・殺身湾子:「殺」が「穀」の誤字と考えれば「鹿児島湾」だろう
・殺子馬:薩摩の音写だろう
・籠仔沙机:長崎→ランガサク(ポルトガル語)の音写だろう
・魚鱗島:平戸の音写?

本に載っていない地名で解読を試みると
対馬:水剰馬?
沙階王:堺?
管東:関東?
大王城:京都?
闇夸勝:尼子?
温子米:出雲?和泉?
後は伊勢、越、上野、下野などはちゃんと漢字表記されている。その他興味があれば各自で解読試みて欲しい

しかし島津=鬼石曼子の出典は怪しいそうだけど、薩摩=殺子馬、鹿児島=殺身と、物騒な表記はされてたようだ


雑談・茶器についてのことなど

2017年06月16日 17:53

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/13(火) 22:36:25.38 ID:VBnBI38R
曜変天目とか馬蝗絆はお宝感が半端ない

井戸茶碗とか伊賀焼きとかはゴミ感が半端ない

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/13(火) 22:55:11.09 ID:1fDn7Mkq
なぜ中国で曜変天目が残らなかったんだろうね

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/13(火) 23:38:39.48 ID:fVSM+6Nu
トーハクの茶の湯展は素晴らしかったねぇ…

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 00:15:38.16 ID:7NaUQXst
>>865
秀吉乙

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 04:41:13.13 ID:X0DuNaUp
伊賀焼って信長が発見したんだってなあ

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 10:32:33.42 ID:jpDlM1/L
ちょっと何言ってるか分からない

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 10:48:29.56 ID:wXic2RaU
信雄じゃないの?>伊賀焼き(討ち)

872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 18:44:48.75 ID:qrjRLL6v
信長は伊賀伊賀守を召し抱えていたからな

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 20:14:58.28 ID:Tf2AVY7x
カッペだった若き信長は畿内の三好家や堺の豪商たちがはまってる
茶の湯に憧れてたのかな

東山御物を収集して自らが将軍義政公と同レベルにある事を
宣伝したいだけだった気もするが

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 20:51:40.30 ID:QZEctICq
茶の湯は親父の影響じゃないのかな

880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/17(土) 10:20:45.13 ID:egWO6U9Y
>>873
足利義政は意識していたと思う。
蘭奢待も義政が切り取った隣を同じ大きさで切り取ってたし

「戦闘技術の歴史」5東洋編Fighting techniques of the oriental world より、戦国時代の描写

2017年03月31日 21:45

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/30(木) 20:44:20.54 ID:oD8J3lSn
「戦闘技術の歴史」5東洋編Fighting techniques of the oriental worldより
同シリーズは「1古代編」「2中世編」「3近世編」「4ナポレオンの時代編」「5東洋編」で構成されていて
戦国時代関連の記述見るといろいろおもしろい、以下内容を抜粋。
(原著の論旨を損なわない範囲で訳者が補訂しているため極端におかしな箇所はない)
・大名の家臣たちが提供すべき兵士の人数や装備は、田畑の生産高で評価される財産額に応じて決められていた。
単位は一人の人間が一年間に消費する米の量「石」である。
・日本では20種類以上の陣形(中国の陣形を取り入れたものもある)があり、代表的なものとしては
「鋒矢」「方円」「鶴翼」「雁行」「魚鱗」「衡軛」などがある。
・日本の軍隊には太鼓所役という専任の鼓手がいて、仲間が背負った太鼓を所定のリズムで叩いて戦闘を指示した。
・1561年の川中島の戦いでは武田軍は啄木鳥戦法を用いて挟み撃ちにしようとしたが(ry(出典:甲陽軍鑑)
・「雑兵物語」という兵学書によれば接近戦での刀の扱い方を説いた記述があり「兜を狙うがいい、ただお貸し刀がなまくらなら手足をねらえ」とある
・「箕輪軍記」という日本の軍記物語には100人の鉄砲足軽が一度の戦いで600~700人もの敵兵を倒したと記されている。
・信玄の騎馬隊は伝説として語り継がれた。16世紀中頃は騎兵が主流を占めたが武田軍の戦いの多くでは残存兵を一周するため下馬を余儀なくされ、
徒歩の従者が同行していたため進軍速度も上がらなかった。また、当時の日本の馬は、体高も体重も現代の馬の半分しかなかった。
・長篠の戦いで武田勝頼は3万3千の兵のうち2万7千以上は騎馬武者とその従者であったが、馬防柵と3000丁の火縄銃の集団斉射により敗れてしまった。
(この戦いでは小火器の役割が誇張されがち、とも書かれている)こうして日本では騎兵時代はほとんど始まりもしないうちに、終わってしまった。
・三成は小早川が裏切ることを懸念してか戦況に影響がないように自軍の右翼に据えた。これは実戦経験の少ない武将の誤算であった。
・三成は地の利を活かし、盆地を見下ろす高台に軍を配し、三方から敵を攻撃できるようにした。
・家康は17歳の小早川秀秋が寝返らないためしびれをきらし、火縄銃兵隊(マッチロック式マスケット銃で武装)に、斉射させた。小早川軍は大谷軍に襲いかかった。
・島津義弘は関ヶ原で行動しなかったが、これは夜襲の提案を一蹴されたからである。
・島津義弘の甥は義弘と兜を交換し、獲物をあさる赤鬼(井伊直政)に立ち向かい、追撃を十分に遅らせるが、討ち取られ、他の多くの首級とともに晒された。
・忍者の軍事行動に関しては伝説化され誇張された物が多いが、たとえば1600年の関ヶ原の戦いにおいて、島津軍の忍者は死体に扮した狙撃者を残し、
本隊が退却した後に起き上がり標的を向かって狙撃した。高名な井伊直政もこの時銃撃を受けて重傷を負ったという。
・李舜臣は優れた指揮能力により朝鮮を救ったが、その後日本軍への攻撃命令を拒んだことから国王の不興を買う。
李舜臣は攻撃命令が、日本側の密偵からの偽情報に基づくものだとわかっていたのだ。
・大坂の陣において、秀頼は真田幸村という強力な味方を得た。彼は城を守る名人であり、彼にちなんだ真田丸に、徳川軍をおびき寄せて一斉射撃で撃退した。
などなど、「東洋編」にしては図説のある20の戦争中8つが日本関係で(川中島、長篠、文永の役、弘安の役、閑山島海戦、関ヶ原、大坂の陣、晋州)



709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/30(木) 23:36:12.16 ID:ruAHZZqv
馬の速度は時速15kmらしい
それに対して人のは12kmだそうだ

戦国クラスタが作る!永禄3年(1560年)の全国戦国大名戦力図

2017年03月28日 12:49

753 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/03/27(月) 15:57:21.92 ID:Z6LKh7Gq
戦国クラスタが作る!永禄3年(1560年)の全国戦国大名戦力図
https://togetter.com/li/1094236
https://pbs.twimg.com/media/C72fznIVsAALp0U.jpg
C72fznIVsAALp0U.jpg


これすごいなあ頑張ったなあと思うんだけど、山形県の部分の山形氏や山上氏っていうのは最上氏のこと?


続・戦国クラスタが作る!永禄3年(1560年)の全国戦国大名勢力図
https://togetter.com/li/1095832


【桶狭間合戦期の戦国大名勢力図(修正・分割版)】
東北
東北
関東甲信越
関東北陸
近畿中四国
近畿中四国
九州
九州

https://twitter.com/Fransisco1530/status/847302593143463936


754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/27(月) 18:40:08.80 ID:DmAvzf48
>>753
誤植
指摘を受けてその後上げてる高解像度版では直ってたはず
※原寸サイズ
https://pbs.twimg.com/media/C72fznIVsAALp0U.jpg:orig

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/27(月) 18:40:54.06 ID:DmAvzf48
ああ最上は当時山形と名乗ってたという事らしいよ。
まとめの…どの辺に書いてあったか忘れたけど

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/27(月) 19:36:27.85 ID:vTm+z0yV
庄内や由利を手に入れてから最上を名乗ったらしい
史料上では慶長6年8月以降に最上という表記が現れていて、それ以前は山形殿と呼ばれていたようだね

だから最上表記の関ヶ原の降伏文書はおかしいんじゃないかという話もないわけじゃない

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/27(月) 21:11:48.83 ID:hYqdRVYI
上杉がでっち上げしたってことか

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/28(火) 06:08:33.22 ID:cZXYVInZ
>>756
あの書状は「上杉家御年譜」にしかないし、史実と整合性のない記載もあるので偽作説の方が優位ですね。
元になる書状があったとしても、そうとうな改竄が加わってる可能性があるでしょう。

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/28(火) 06:50:36.02 ID:U2RCoFLe
ああ、例の鉄棒も山形出羽守だもんな

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/28(火) 07:10:44.69 ID:senKG/uw
小手森合戦後に政宗が義光に宛てた女・童や犬までも撫で斬りにしたって自慢気に書いてるあの有名な書状も宛名は山形殿になってるよね

761 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/03/28(火) 20:17:18.58 ID:xdwJ3xCi
山形県だけじゃなくて東北地方はそれぞれ問題あるな

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/28(火) 21:27:22.44 ID:3Px6KGjl
>>761
そう思うなら突っ込んだら?

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/29(水) 00:06:12.76 ID:YV5qdMqk
一度議論されてるポイントかもしれないので確認したらいいかも

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/29(水) 00:10:32.05 ID:pBqy3wtk
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8907.html
ついでに前に出ていた疑惑の降伏文書ネタ

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/29(水) 06:42:42.38 ID:uKygiPLF
この当時(1560年)の南出羽の白鳥長久はまだ台頭中で、寒河江大江氏の影響下。
最上義光も1546年生まれだから天正最上の乱で義守と争う前。
延沢満延も天童八楯の一翼で天童氏の影響下。
鮭延氏も仙北の小野寺氏の客将扱いだったり。(この後大宝寺氏に攻められ幼子の鮭延秀綱は庄内に連れ去られる)
上山氏は上山を束ねる里見党の総領が地域名を名乗ったもの。

合戦は百日の内に埒の明くもの

2016年10月05日 11:54

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/05(水) 04:01:44.58 ID:Ib0P9j1i
合戦は百日の内に埒の明くものである。関ヶ原は、7月中旬から9月15日に埒が
明いた。大坂は10月から1月20日までに埒が明いた。大坂後の合戦は3月から
5月7日までに済んだ。有馬(天草一揆)は、1月から2月27日までに済んだ。

――『武功雑記』




155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/05(水) 07:37:24.77 ID:6nfw2tfV
石山合戦
三木城籠城戦
月山富田城籠城戦




応仁の乱

「戦国武将と足利学校」展、開催中

2016年08月02日 16:04

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/01(月) 13:34:11.02 ID:RrYizFxD
http://www.shimotsuke.co.jp/news/tochigi/top/news/20160607/2348267

戦国時代から江戸時代にかけて活躍した武将と足利学校の関わりを紹介する企画展
「戦国武将と足利学校」が昌平町の同学校旧遺蹟(いせき)図書館で始まり、
同学校が徳川家の吉凶を占い献上した「将軍家年筮(ねんぜい)」など史料約15点を展示している。

武将たちは家臣を軍師に育成する場として、経済面で同学校を保護した。
第9世庠主(しょうしゅ)(学校長)は、徳川家康(とくがわいえやす)に仕えていたという。

同展では、武田信玄(たけだしんげん)の子勝頼(かつより)が
同学校を守るためにしたためた書状「武田勝頼禁制」などを展示している。

企画展は2011年に開かれ、2回目となる今回は真田幸村(さなだゆきむら)に触れた歴史書など4点が新たに加わった。
劣化を防ぐため、史料の一部は期間限定で公開されている。



2ヶ月ほど前の記事ですが、期間は9/1まで、8/17から実資料公開だそうです
http://www.city.ashikaga.tochigi.jp/site/ashikagagakko/senngokubusyoutenn.html



34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/03(水) 19:22:09.54 ID:YiUvrEXo
>>28
軍師って言葉は三国志の軍師将軍って官職から来てるらしいけど
日本における軍師ってやっぱ諸葛亮が元ネタなのかな

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/03(水) 20:50:08.37 ID:RfrVrJLE
太公望もじゃない?