鳥居家に似合わぬ軍法かな

2017年01月17日 17:47

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 01:47:21.03 ID:iEWAFcbK
福島大夫(正則)を御改易の時、防備のために鳥居左京亮(忠政)は
御城の近辺に人数を出し置いたのだが、

馬を御堀の方に立て置きなさっていたのを、牧野駿河守殿(忠成)は
見なさって曰く、

「鳥居家に似合わぬ軍法かな。敵が攻め掛かって来たならば、馬は
たちまちのうちに掘へ追い込まれることであろう」

――『武功雑記』



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鳥居忠政の政事の悪い話

2015年08月02日 13:48

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/02(日) 07:19:05.31 ID:FkO6tnR5
鳥居忠政の政事の悪い話

最上家改易の後に24万石で山形に入封した鳥居忠政は街中を流れる城川(馬見ヶ崎川)が市中を二分にしているのを煩わしく思い、奥羽山系の名勝坂月山(盃山)を切り崩し、川の流れを山形の北東側に大きく切り替えた。

結果
湧水を利用していた山形城の堀の水位は大きく下がり、横町、七日町、三日町などの井戸で枯渇するものが多発した。

「山形の昔話」「山形細見」など

扇状地山形の川と水に纏わる話




141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/02(日) 11:00:13.37 ID:nnvI8DVS
>>139
昔の人は治水に苦労したのに鳥居さんときたら。ブラタモリで仙台も松江も苦労してた

瀧斎宮の働き

2015年01月04日 17:07

494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/04(日) 13:42:34.60 ID:Iwqz73Ky
鳥居左京亮(忠政)の家臣に、瀧斎宮という児小姓があった。これは堀某より借り受けた者であった。

ある時、中小姓のある者が、この斎宮に懸想し艶書を送った。「あなたのためならこの身命とも代える」との
内容であり、これに斎宮もほだされ「然れば今宵、我が部屋へ忍び来るように。」と返事を出した。

これによってその夜、かの中小姓は忍び来て斎宮の部屋の外に佇み中の様子をうかがっていたところ、
他の小姓がたまたま小便に起きて彼に気が付き、怪しんで「誰だ!?」と声をかけたが何の返事もなかったため、
盗賊だと思いだた一刀に切り捨てた。これによって早速検分されたところ、中小姓の某だと判明した。
しかしここに忍び入ったことは確かなのだから、きっと盗みに入るためだったのだろうと結論され、
終に賊の名を負った。

その後月日を経て、『あの中小姓は斎宮と密通していたのだ』との噂が人々に流れたが、斎宮自身は
『一度文通しただけで、面会したこともないのだから、密通ではない。』と思い、一向に
知らぬ顔をしていたのを、人々は却って『卑怯者よ、臆病者よ』と様々に蔭口した。

ある日、厩の者が傍輩を斬り殺して二階に立て籠もるという事件があった。
この時、大勢集まってきたが、『どうすべきか』と評議ばかりして、私が討ち取るなどと言って
二階に上がる者は一人も居なかった。

斎宮はこの時、未だ17歳の若輩であったが、事件のことを聞いて馳せ来たり、一人犯人が立て籠もる屋内に
入ろうとした。これに集まっていた大勢の者達は「一人で入るのは危ない!今皆で評議している最中だ。
暫く待たれよ!」と止めた。斎宮は人々に向かい

「人を殺した者を助命するというのならば、評議にも及ぶでしょう。しかし討ち果たすのに評議には及ばず!」

そう言って屋内に入り直に階段を登った。犯人は上から長刀を振り上げ、拝み打ちに打ち下ろしたのを、
斎宮は受け流しつつ飛び上がり、ただ一刀に首を打ち落とした。犯人の体は二階に倒れ、首は一階に落ちた。

斎宮はその首を持って主人の鳥居左京亮の前に出て
「私の事ですが、先達て中小姓の某と密通いたしたと人々が噂しています。勿論これは、全く根拠の無い
話ではありません。彼とは一度文通をいたしました。しかし面会したことは一度もありません。
そして中小姓が不慮に斬り殺されて以来、人々は私を、卑怯者臆病者と言うように成りました。
ですので、いつか臆病者ではない証拠を見せ付けてくれようと思っていましたが、徒に人を殺すわけにもいかず
耐えていたところ、幸いにも今日、切り捨てて苦しからざる者が現れました。そこで早速駆けつけ、
この通り首を取ったのです。」

そう言上して左京亮の御前を退いた。
それから、彼を臆病者と言った人々の家々に、首を持って見せて回ったという。

鳥居左京亮はこの斎宮に甚だ感心し、堀某に斎宮の手柄を申し送ると、その後、松浦肥前守がこの
斎宮の働きぶりを聞き、たって所望し、終に松浦家に仕えることとなった。
彼はおいおい立身し、禄千石を有し瀧弥右衛門と名乗った。
(明良洪範)

鳥居忠政の児小姓・瀧斎宮についての逸話である




鳥居元忠の甲冑

2013年07月27日 19:57

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/26(金) 20:54:02.12 ID:p7JI9yPt
関が原も大坂の陣も終わり天下は徳川のもとに統一された。
関ヶ原で西軍に付き、伏見城攻めなどに参加した雑賀孫市はその頃水戸徳川家に使えたが、
或る時、鳥居左京亮忠政の元に使いを送った。

『私は、あなたの御父、元忠君の(伏見城での)御最後に参り合わせました。
その時の元忠君の御物の具を、今日まで家に伝えております。
あなたの父君の御形見であるので、御覧になるのであれば、返還したいと思います。』

これに忠政は大いに喜び
「一見することを許していただけるのなら、大変ありがたい。」
と返答した。

やがて雑賀孫市は、元忠の甲冑を携えて忠政の屋敷を訪問した。
忠政は恭しく玄関に出迎え、書院に孫市を通して、父の甲冑を床の上に据えて、これに向かい拝礼し、
雑賀には山海の珍味を所狭しと並べ、心を尽くして饗した。

翌日、忠政は孫市の持ってきた父の甲冑、大刀を使いに持たせて、孫市のもとに送った。
そして

『あなたのご芳志により亡父の物の具を見ることが出来たのは、返す返すも大きな悦びでした。
そうではありますが、忠政の方には形見と見るべき物の具は少なからずあります。
ですのでこれは、見苦しいかもしれませんが、雑賀殿の戦功の御名誉とともに、
あなたの御家に差し置かれ、ご子孫にお伝え頂ければ、後世への御遺誡にも成ると存じます。』

そう、伝えた。

その後、鳥居家では毎年、綿を厚く入れた小袖を数多、常陸国の雑賀家に贈るのを恒例とした。
水戸徳川家ではその使者の来る時は、道路を修繕し、雑賀の家に魚鳥を多く与えその饗応に使わせた、
という。
(徳川武士銘々伝)

鳥居元忠の遺品の甲冑についての逸話である。





馬見ヶ崎川と鳥居忠政のちょっと悪い話

2011年10月28日 22:00

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/28(金) 16:56:58.56 ID:WjqtvuJT

馬見ヶ崎川と鳥居忠政のちょっと悪い話

鮭様時代の馬見ヶ崎川は「白川」とも呼ばれ、砂金や下流では鮭がとれたらしい。
鳥居時代の改修で「底焼川」とも言われ、扇状地の川だけに、一気に鮭の溯上も適わない水量にまで減ったとか。


559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/28(金) 18:49:40.71 ID:OaC3uMuf
>>558
この時代はあまりそういう配慮がないから仕方ないっちゃ仕方ない。
で、まぁ同じような事が起きた場所では、
こういう話もある訳だな。
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1155.html

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/28(金) 20:56:55.37 ID:WjqtvuJT
>>559
リンクトンクス
近年のブラックバスやら鮎の問題も含め
とどのつまり歴史は繰り返すのか

鳥居忠政がブチ切れた理由

2011年10月26日 22:01

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 00:53:06.33 ID:DZVHSsne
鳥居忠政がブチ切れた理由1

最上家が改易され、鳥居忠政が山形へと入封した。

帰農した最上旧臣らや柏倉らの豪農、寺社権力らは他領からの殿様をはじめは興味本位に遠巻きに見つめていた。

そして七日町と十日町に高札が上がった途端に山形の民の怒りが爆発した

「五公五民?」
「店税を取るだぁ?」

民らが坊僧に訴え、山寺や市寺の高僧が忠政に政事の非を訴えた

「あなたらザイゴノモン(在郷之者・山形以外の土地で育って、後から山形に来た人)に何の権利があるんだ?
人として最低じゃね?最上の殿様ならこんな仕打ちはなされなかった」

忠政がキレた

最後の一言は特に余計だった。

市井の名勝、坂月(盃)山を切り崩し
馬見ヶ崎の川の流れを変え
山形城の土塁の形を方形にし
本丸掘を埋め
川の流れを変えた後に二の丸以内の寺社で
特に忠政の非を訴えた寺社を城からは川向こうに追いやった。

僧1「ちょ!」
僧2「おま!」
僧3「ひでえ!」

山形の民にこの増改築の負担はすべて役として掛けられ、
最上時代の様に人足に賃金が払われる事はなかった。

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 01:03:10.93 ID:DZVHSsne
鳥居忠政がブチ切れた理由2

これくらいやれば少しは山形の民も静かになるだろうと忠政は考えた。

甘かった。

印役、寺町、銅町の総代や鳥居忠政に仕官した最上旧臣らが忠政の非を狂歌やら歌で皮肉った。

最上の殿さまならいけすかね事はすねえ
鳥居だけにしゃちこばってさえずる事だけはいっちょまえだ

店に山に川船にまで役が掛けられる
すずめやとんびにも役がかけられるだろな

結果

最上氏時代の資料の焼却と
最上賛美の禁止が鳥居氏上士らによって行われ、
山形城の本丸御殿は「こんな建物があるから最上を思い出させるのだ」と取り壊された。

市井のお寺さんが廃材利用と称して、
宝光院ほか数箇所に、茶室や寺門に形を変えた最上時代の本丸御殿の移築建造物が残る。




519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 02:53:31.98 ID:DZVHSsne
鳥居忠政の急死を嘆く民は少なく、喜ぶ人が多かったとも言われます。
忠政の死因は「過度のストレス」だったのかも知れませんね。
最上懐古は、台湾の人の親日嫌中と似たカンジ?

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 07:53:15.51 ID:NAv+rdxG
こりゃまた清々しいほどの暗君だな

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 10:02:15.07 ID:eVSb4slO
京都に紅葉見に行くついでに血天井見てこうようかと思う。

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 10:17:52.37 ID:AzPXDJpy
>>523

それはそうと真田昌幸の孫の真田信重(音が叔父とかぶるな)って鳥居元忠の孫娘を正室にしてたんだな
上田攻めの敵同士か

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 10:27:01.58 ID:g3wdCa0/
最上時代の山形の年貢ってどれぐらなんだ?

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 10:47:59.04 ID:0rIQB5pP
>>525
年貢率だけ見ても実態は解らない。
本年貢(年貢の基礎となる公定生産量)というのは実際の生産量に比べて低いのが普通だが、
その本年貢と実態の差もそれぞれの大名家によって様々だったりするわけで。
ややこしいわなw

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 12:35:26.27 ID:AZtUluXL
立谷川の治水工事で財源が足りなくて 四公六民になった時
「負担を掛けてゴメン(´・ω・`)」と庄屋に回文と、街道や村に高札が設けられたとか。
でも人足に賃金は払われてる。

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 12:48:07.09 ID:AZtUluXL
鮭様と民は扇のようなもの
おじいちゃんがいて孫がいて、家族で支えあって一緒に暮らせるのが幸せなんだな
あいだみつを

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 13:29:27.85 ID:AZtUluXL
最上時代の山形城
http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/70/0000276470/70/img9321c514zik9zj.jpeg
鳥居氏以降の山形城(本丸の東西橋が落とされ、二の丸北西門の廃止、本丸西の薬間堀・やっけんぼりの
埋め立て、南西土塁の整形)
http://www7.plala.or.jp/yamagata-ryokou/mogami/yamagata/yamagata_siro1.jpg
現在の山形城(右上弓道場付近が最上時代の北西門跡)
http://img2.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/43/0b/kagetora_nagao2007/folder/990103/img_990103_19426819_2?1267878266

530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 13:37:49.84 ID:AZtUluXL
二の丸南東も丸型から角型に改められたのだろうか?

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 15:02:59.42 ID:xgOO1dht
中世城郭は自然を利用するから曲線が多いけど、
近世城郭は人工だったり整形しまくったりで直線が多いよな

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 16:01:53.67 ID:AZtUluXL
>>529
現在復元してるのが「最上氏の山形城」でなく、「鳥居氏以降の山形城」だという皮肉
(二の丸の南門、東大手門も本丸の橋の位置すら違う)
>>531
秋田久保田城「・・・」

542 名前:sage[] 投稿日:2011/10/27(木) 00:21:27.70 ID:HUF49aDJ
時代が変わるって大変なことなんだよねえ
鳥居が悪政ばっか行ったってのも違うわな

東北は地縁の者以外をあまり良く思わない悪い話

2011年10月26日 22:00

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 17:41:48.55 ID:AZtUluXL
鳥居さんを苛めすぎた感があるので
チェス盤をひっくり返して
東北は地縁の者以外をあまり良く思わない悪い話

最上改易で山形に入封した鳥居忠政、
妹婿の戸沢政盛が北の新庄に、同様に娘婿の酒井忠勝が日本海側の鶴岡に前後して封された。
徳川氏の譜代大名として伊達政宗や上杉景勝、佐竹義宣などの東北諸大名の監視が名目であった。

徳川幕府の権威をはっきりとさせる為、山形入封後に忠政が早速行ったのが「左京縄」とも言われる元和検地。
田畑どころか手付かずに近かったムラの寄り合い山林、果ては家屋敷や店子の広さまでもが検地の対象となった。

秀吉の天正検地後、新田開発と増作の繰り返しでまともに検地が行われていなかった山形に活が入れられた。

この検地で問題になったのは「義光が寺社に寄進した田畑や山林の寺領まで」もが徹底的に検地の対象となった事。
申告の漏れた寺領は遠慮なしに忠政に召し上げられた。

田沼意次と松平定信との比較がわかりやすい例えになるだろうか

なぁなぁで人付き合いが大切だった最上氏時代の空気が
上から派遣された官僚によって見事にぶち壊された。

民政を考えて馬見ヶ崎川改修や、市井五堰の掘削も行った忠政だが
民衆が山寺にお祈りして、術祖によって鳥居忠政が死んだとも伝えられている(「山形市史」)




山形城吉字構

2011年09月11日 22:25

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/11(日) 07:44:00.90 ID:YWJa+l78
山形城吉字構

元和8年、最上義俊の代に御家騒動から最上家は改易となる。
同年、鳥居元忠の子忠政が22万石をもって新たな山形領主となった。

忠政が山形に入ると鍵路や通りの要所要所に砦の様な寺社の軒が連なっていた。

「平穏な世にこの街構えはいけない。これではいつ一揆勢が城の内に集まるかわかったものではない」

三の丸内にあった三割の寺社が破却され、残った多くの寺社も山形城から離れた場所へと移築された。

寺社を大切にした義光の思いが鳥居家の移封にとっては邪魔となった悪い話。




855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/11(日) 13:49:16.08 ID:e56Rhpnz
拠点となる寺社の破却は為政者としては当然の行為だな。
特によそ者の鳥居さんからしたらね。

逆に最上は戦国威風の残る鮭さまの時代から何一つ変われなかったから取潰されたとも言える。
馬鹿な家臣と馬鹿殿ファミリーのお家騒動だもんなあ…




856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/11(日) 14:13:14.07 ID:2NYFZg17
まぁ最上側とすれば、いざ戦時となれば、
その寺社等も防衛拠点にするつもりだったんだろうな。
でも、新規に入る側の鳥居側からは邪魔でしか無いよなぁ。