佐竹(東)義久の事

2016年09月09日 20:58

174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/09(金) 08:50:50.12 ID:zP/Tqzz+
東下総守政義(佐竹(東)義久の事か)といえば、佐竹義宣の老臣であった。
戦国の時の武士は先陣に進み一番に敵の首を得るをのみ心として、己の主人のために利害得失を
深く考える者は少なかった。佐竹義久は打物を取っては人に優れるほどの功名は無かったが、常に
謀略を考案し、主のために益有ることが多かった。

慶長の関ヶ原の事が始まる前、徳川家康は会津の上杉景勝を征伐せんと出兵したが、この時
佐竹義宣は、那珂郡に陣して、徳川の背後から攻めようとした。義久はこれを聞くと、義宣に向かって言った

「私がこのところの徳川殿を見るに、彼には今、天の授ける幸運がついています。それはほとんど
人の力ならざる物です。我が君がこの人に従って会津征伐に参加されれば、当家の幸運もこの上ないでしょう。
しかしもし、眼前の利に迷って、戦後になってからその疑いをかけられれば、ゆゆしき御大事に
なりかねません。」

そう諌めたが、義宣はもともと石田三成と親しい仲であり、義久の諫言を用いず、そのままの方針で日を送っていた。

ところが、徳川家康は上方に兵乱が起こったとの情報を得ると、下野より軍勢を引き返した。この時使者を佐竹に送った

『和殿は、先に仙道より会津に攻め入られると約束したが、いま水戸を去ること数里にて軍勢を止めているのはどういう事であろうか。
今の天下の情勢を見るに、御身の勢力では、その進退によって天下の軽重を為すのは無理である。
いまこの時に、よく考えられるべきだ。東西の何れにも従わないというのは、先祖より伝来されし所領もどうなるかわからない。

会津を攻められるとも、人質として親族を出されるとも、また子息らを我が軍に従わさせるとも、御身の望む所に任せる。』

この書状に対し義宣は
『私は内府を恨む所はありません。であればどうして背くことがあるでしょう。
ですが義宣の子息どもは、おおかた大阪に参らせていて、今こちらには参らすべき者一人も
おりません。もしそういう者がいれば、どうして仰せを待つような事をするでしょうか。』

そう返書した。この佐竹義宣の態度に徳川家の人々は怒り
「憎き佐竹の申状かな!その義であれば踏み潰して後、西に向かうべし!」との意見が多く出た。
しかし家康はこれを押し留めた
「そうではないぞ。樹木を以ってこれを例えるなら、石田三成は根であり、その他は枝葉にすぎない。
その根を刈り捨てれば、枝葉はどうにもならない。」

そして、皆川下妻の勢を以って佐竹の押さえとし、急ぎ引き返した。この時、佐竹義久は進み出て

「内府、西軍の挙兵を聞いて俄に引き返しました。いま、そこに従軍している者達は合戦の考えはありません。
追撃すれば勝利疑いありません!」

そう進言したが、佐竹義宣は雄々しからざる性格であったので、この案を用いようとしなかった。
義久は歯噛みしながら
「ああ、危うい!我が君既に徳川殿に従わず、もし徳川が勝利すれば必ず我らの災となります!
また西方にしっかりと従わない以上、かの軍もこの情報を得れば、我が君を疑うでしょう。
これは一挙にして両失というものです!」

義宣は尋ねた「ならばどうすれば良いのだ?」
「当面は数百騎を東軍に派遣して、二心無き事を示すべきです。」
義宣はようやくその議に従った。

関ヶ原の合戦が終わり西軍が敗北すると、佐竹義宣は大いに恐れ、徳川家康の前に伺候し
「窮鳥懐に入る時、猟者もこれを許すと承ります。どうか重き罪を許していただきたい。」と訴えた。家康は打笑い

「乱世の時は各々その国によって敵の隙を伺うのは豪傑の為す所であり、誰がその是非を批判すべきだろうか。
佐竹が今回したことは、東西両道をかけた汚き心であり、赦すべきものではない。
であるが、佐竹義久の謀略は世に得難き優れものである。あの男が世にあるかぎりは、今までどおりにおこう。」

そう言って許した。
しかし慶長7年、佐竹義久が病死すると、義宣は常陸から出羽へと移された。
「国の柱石とは義久の事だ。」義宣はそう悔い思ったという。
(話園)



175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/09(金) 09:25:54.18 ID:iZKY3YXj
これでブチ切れて人材という人材(美人含む)を秋田に連れ去ったのか。

178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/09(金) 15:45:29.51 ID:FxmGZWdl
>>174
>あの男が世にあるかぎりは、今までどおりにおこう
ほんとにその通りにしてんじゃねーよw

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/10(土) 07:23:09.47 ID:QjJSiX+F
流石は大御所様、信賞必罰有言実行の名君であらせられるw
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「家康一代、中務一代、国替ノ儀是アルヘカラス」

2011年10月09日 22:13

230 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/09(日) 09:37:54.83 ID:qftO/ZMC
 ついでに新ネタ。

 佐竹家で外交を任されたていた東家の佐竹義久(中務大輔)は関ヶ原の折、
家康から「家康一代、中務一代、国替ノ儀是アルヘカラス」という安堵の
誓紙を取り付けた。秀忠の所へ援軍に向かう途中だったとも、戦後だった
とも言われる。

 後者の説によると、家康は義久に「宇都宮十五万石を与えるので義宣の
国替を承知せよ」と持ち掛け、義久が断わる代わりだった。
 
 帰路、同道していた和田昭為から「足下一代国替の儀御免あれとは何事
か!」と詰られると、義久は「自分は家康より若い。家康が世を去れば、
恐れることはない」と答えた。

 まともな医学もない時代に、自分も壮年なのに自営製薬業者の健康ヲタク
天下人に長寿レースを挑むのは楽勝とは言えない賭けだが、発言自体も死亡
フラグっぽい。
 義久は関ヶ原翌年に四十八歳で病死。暗殺説もある。半年後、佐竹家には
出羽転封が言い渡される。西軍寄り中立だったことへの懲罰で、公儀による
佐竹領接収が終わるまで石高も告げられなかった。義宣が「清和后胤源義宣
朝臣」の名で大藩として存続が叶うよう神仏に祈ったほど厳しい処分だった。

 秋田の無明舎が出した『佐竹氏物語』より。




231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/09(日) 15:07:11.93 ID:JQd/Mrtb
有名な話なのに今まで出てなかったのか。
仮に義久が生き永らえて転封に従ったとしても
川井伊勢守らと同じ運命だった気がする。

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/09(日) 16:01:47.24 ID:qcrFCojR
有名すぎて今更という話って結構あるよね
まとめサイトに見かけないと思ったら、どんどん出してほしいな
それで初めて知る人もいるだろうし

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/09(日) 16:28:24.77 ID:JQd/Mrtb
三行半で終ってしまう小ネタ程度ならあるんだが
逸話として出すほどじゃないんだよなー