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榊原遠江守の落胤腹の子は、平十郎という

2021年07月08日 17:36

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/08(木) 14:58:49.18 ID:EkMa/nQQ
榊原遠江守(康勝)の落胤腹の子は、平十郎(勝政)という。しかしこの存在を家老たちが
押し隠して、「子は居ない」と申した故、御旗本へ出る事も成らず、又殺すことも成らずして、
辺土に押し込めて差し置いていたのを、加藤忠広が聞いて尋ね出し、これを扶助し、公儀に対し
「召し出されるように」と運動していたが、先に榊原遠江守に子は居ないと、家老共が言上しており、
今になってその事を言い立てると、家老共の不義が顕れ、却って家のためには如何かとの事で、
延引していた所、加藤忠広は改易のため流罪となり、いよいよ首尾調わなかった。

それでも確かに遠州の実子であるとして、一門の衆が取り繕い、談合して、
「遠江守別腹の妹の子、遠江守の甥である」
と報告し、これによって公儀との交渉もまとまり、御扶持方より千俵が下しおかれた。

しかし両三年が過ぎても、そのままの待遇であったため、不足に感じ落髪して。
高野山へ入り年久しくして松平新太郎(池田)光政より、様々に申し送られ、
備前に呼ばれ、榊原香庵と申したという。

管窺武鑑

榊原康政の孫、勝政について



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斯くの如く申し上げたのである

2021年07月06日 17:43

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/05(月) 23:04:03.89 ID:DXMSHMfI
京、伏見に両御所様(徳川家康・秀忠)が御逗留中、榊原遠江守(康勝)が病死した。(慶長20年5月27日)
子無しと報告されたが、御取り立ての家であれば、後嗣を立てるべきであるとの事になり、
遠江守の家老たちに尋ね、そのついでに、大阪夏の陣の若江表において、榊原の備えが苦戦した事について、
両御所が江戸、駿河にお帰りに成った後、権現様はお尋ねになられた。

館林の宿老である村上弥右衛門中根善右衛門原田権左衛門伊藤忠兵衛を初めとして各々
申し上げたことには、

『木村長門(重成)と井伊掃部(直孝)が一戦し、二の備えである榊原の潮合はここであると見定め、
進み懸るべしと準備している所に、御検使の藤田信吉と遠江守の両人がそれを堅く制止したため、
懸らず、是非もない事でした。
御検使であり、殊に武功の藤田の意見でありましたので、能き事がきっと有るのだろうと思っていましたが、
そういう事も有りませんでした。

遠江守は年若いので、強力な敵の方に進むべきところであったのに、病者故か、藤田と心を合わせ、
虚しく時を過ごし、かねがねの心入れと相違してしまいました。

私共においては、別に言うべきことは有りません。
これによって、翌七日の御合戦の時、伊藤忠兵衛は前日戦闘をしなかったことを無念に感じ、
心を励まして討ち死に仕りました。我々も粉骨を尽くして働き、藤田の下知を用いなかったために、
遠江守の備えは宜しく前日から相違して、御所様の御感に預かりました。

さて、遠江守に子は御座いません。』

と申し上げた。

榊原遠江守は加藤清正の婿であった。しかしこの腹に子が無く、外戚の腹に男子一人あったのだが、
隠して知る人が無かったため、家老達はこの存在を押し隠した。
そして若江の戦いでの働きの御詮議を幸いに思い、咎を藤田に押し付け、

『榊原の家が絶えれば、我々は元来公儀の者であったのを、故榊原式部大輔(康政)に付かせられた
わけであるから、御旗本に召し返される事必定である。」

と内々に相談し、斯くの如く申し上げたのである。

管窺武鑑



榊原家、関ヶ原後のこと

2012年03月22日 21:41

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/22(木) 05:08:55.40 ID:fiHwp7T3
既出ネタ混ざってますが

関ヶ原の戦いで徳川秀忠が遅参したのは周知の通りだが、家康は怒って秀忠と会うことを拒んだ。
榊原康政も本多正信や大久保忠隣らと秀忠に従っていたが、家康と秀忠の対立を恐れた康政は家康に会いに行き、
「真田昌幸の上田城攻めを行なっていたのは、江戸から秀忠の美濃方面への進軍を命ずる使者・大久保忠増の
到着が遅れたからです!」
「木曽路もまた天候不順で進軍がままならなかったのです!なにとぞ、秀忠公とお会いくだされ!」」
と直訴し、秀忠との面会を乞うた。
本多正純からも同様の陳情がなされ、とうとう家康は使者大久保の遅れを確認しこれを認め、秀忠を労った。

関ヶ原の戦いから一段落した後、軍監として豊臣恩顧の諸侯を統制し、関ヶ原でも抜群の功を上げた
本多忠勝・井伊直政と康政が酒を酌み交わすことがあったが、
本多井伊も康政の家康秀忠の仲介こそ一番の功だと康政を労ったそうな。

さて、家康は康政の功を賞し、水戸への加増転封しようとしたが戦功がないと康政はこれを拒否した。
また危うく廃嫡されかねなかった秀忠も康政に感謝し、家康父子は榊原家を粗略に扱わないと約束した。

ここからは江戸時代の康政死後の話になるが、この時の康政の功はやがて生かされることになる。
まず、康政の次男榊原康勝が夏の陣で奮闘のすえ病没したが、この時家老たちは康勝に子はいないと申告した。
(本当はいた。)
末期養子が認められていない当時、通常なら改易だったが、平岩家同様、家康は改易を渋り、康勝の兄で
大須賀家を継いだ忠政の子(榊原忠次)に榊原家を継がせた。←これで大須賀家断絶
しかし、後に康勝に子がいたのがバレてしまった。しかしそれでも家老だけの処分で済ませ榊原家を
咎めることはなかった。
それどころか、姫路十五万石に加増され、井伊直孝の後釜で幕政にも参与した。忠次自身は
姫路の新田開発を推進し、和歌を詠む風流人だった。
そして、本来榊原家を継ぐべき康勝の家系(榊原勝政)が不憫だということで旗本に取り立てられた。
ただ勝政は加増の予定もあったのに高野山に若くして隠遁してしまった。
ちなみに勝政は立身前は祖父康政と交流のあった加藤清正の子忠広の元で預けられていた。

更に後、榊原忠次(忠政系)の家系が尽きてしまった。
すると今度は康勝系の勝政の孫が榊原本家を相続した。ちなみにちゃっかり旗本榊原家も存続している。

もちろん、康政の関ヶ原の功だけでこのような厚遇が得られたわけではないだろうが、譜代でもあっさり
取り潰されてる当時、
家康秀忠の「粗略にしない」という言葉だけで家を保てたともいえる榊原氏は、幕末越後高田藩として
一部藩士が彰義隊となった他は官軍に味方した。




361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/22(木) 06:21:18.04 ID:7UCnkkj2
>>360
官軍になる前に、第二次長州征伐芸備口で井伊家と共に先鋒をつとめて粉砕されたことも書いてやれよ…

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/22(木) 11:02:08.37 ID:kW1qKrm5
しかし、本多忠勝の家も榊原康政の家も優遇された類なのに、ひどい体たらくだな

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/22(木) 14:22:55.76 ID:PQe7tSLa
武勇→優遇→おぼっちゃま化→叩き上げの新興勢力にやられる(最初に戻る)

歴史はこれの繰り返しみたいなとこがある。
もちろん例外もあるかもしれないが

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/22(木) 14:51:22.67 ID:7vpl4NFc
>>363
支那だと北魏、遼、金、元、清の歴代王朝がそんな感じだ

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/22(木) 15:12:01.47 ID:2MkI94oD
全部トップの責任にするのはさすがにどうかと

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/22(木) 15:19:31.86 ID:PQe7tSLa
>>364
なるほど

自分で法則言っておいてあれだが、
井伊家は井伊直弼までは矢面立っていたから凄いよな
対する島津家も鎌倉以降多少の浮き沈みはあっても大きく没落することはなかったな
名実ともに長年名門でいられる秘訣は何処にあったんだろう?

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/22(木) 16:00:41.58 ID:fiHwp7T3
本多家も榊原家も跡継ぎでガタガタ揉めそうな感じだったからね。
榊原家は>>360な感じで忠政系と康勝系が入れ混じってたり幼君だの早世だのが多い。
吉宗の代だって尾張徳川と一緒に倹約令無視して姫路から高田に左遷されたし。

本多家もいちど宗家が断絶した時に大きく減封されてるし、転封も絶えない。

それに比べたら井伊さんずっと彦根だからね。島津もずっと薩摩だったのは言うまでもないことだし。

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/22(木) 19:27:01.80 ID:5xjJgmaB
榊原家は康政の甥の照久も
久能山に祀られた家康の墓守となる神官として従二位を与えられ優遇されたよな。
家康の寵臣で照久の膝を枕に没したとの逸話も有るくらいだし。
井伊家も直孝が大老になったりで優遇され、本多家も忠勝の孫に千姫を再婚させるなど
家康から近い所で破格の対応をされている。

374 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/03/23(金) 21:06:05.81 ID:1oQ40Y51
>>362
結局四天王で最後まで頼りになったのは、酒井忠次の家だったな。

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/23(金) 21:33:06.96 ID:lWLryjXP
そういう後日談が綿々と続くのが歴史語りの面白いとこだね

康政の後の榊原家

2011年10月14日 22:03

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/14(金) 16:16:19.67 ID:zhlbjYkh
中々目立たない徳川四天王の子のお話。

榊原康政の三男榊原康勝は、父康政の死後後を襲い榊原家を継いだ。
(長男榊原忠政は大須賀康高の養子、次男榊原忠長は父に先立って病死)
さすがに父親が家中屈指の名将なだけあって、この人物も優秀で、
その後大阪冬の陣では苦戦中の佐竹義宣の軍勢を背後から佐竹勢もろとも撃ちつけ・・嘘です、
佐竹勢をしっかりと支えその窮地を救った。
だが経験不足だった(26歳)のだろうか、翌年の夏の陣では木村重成に大打撃を与えられ、
陣中で兼ねてからの腫れ物が悪化し、亡くなってしまった。
だが一説によると鞍壷に腫れ物の血が溜まって尚戦い続けたという・・・なかなか壮烈である。
三河武士の子はやっぱり三河武士でした、というお話。
大坂の陣では家康は四天王の子2人(榊原康勝と本多忠朝)をそれぞれ失ったことになる。

ここで終わったら忠烈な話で終わるのだが、この後が寂しい。
康勝には子がいたが、幼少のためこれを嫌った村上弥衛門らの家老は康勝には子がいない、と申告。
末期養子が認められていなかった当時、譜代親藩といえども取り潰しが多かったが、
さすがに関ヶ原のあとで「悪いようにはしない」と
三河からの重鎮康政に誓った手前、潰せなかったらしく、康政の長男忠政の子大須賀忠次に
榊原家をつぐよう命じた。

このあと家老衆の嘘がバレ、家老たちは流罪に処され、康勝の子勝政は旗本に取り立てられた。
(そして勝政の孫正邦がのちに榊原本家に復帰する。)
ちょっと後味が悪い康政の後の榊原家のお話。




284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/14(金) 16:57:57.06 ID:8MzbYUs3
この際に断絶になった大須賀家こそいい迷惑だったな。

285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/14(金) 17:13:24.95 ID:AHo3Aqja
そもそも、なんで家老は嘘ついたん?

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/14(金) 17:16:08.22 ID:PQiMVWez
幼児に後を継がせると内部での権力争いとかでゴタゴタするとでも思ったのかねぇ

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/14(金) 17:18:36.38 ID:IQJ/dYpQ
Wikipediaより

>なお康勝には庶子・平十郎(勝政)がいた。ところが、家老の中根吉衛門、原田権左衛門、村上弥右衛門の3名は、
>幼君では武功を立て難たく、立身を望めないと策謀して、幕府・家康からの質問に対し康勝に嗣子なしと回答した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%8A%E5%8E%9F%E5%BA%B7%E5%8B%9D

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/14(金) 20:25:37.88 ID:cdB2qfcr
この時代になってまだ武功とか
家老共どんだけ戦国脳だよw

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/14(金) 22:30:14.41 ID:jVTU1ude
赤ん坊が元服を迎えるくらいの時間が経ち、
もう戦国は終わったかと思われた頃に大坂の陣。
関ヶ原以前を知っている年寄りたちには
「豊臣がいなくなったからもう泰平♪」と
素直に信じられなかったんじゃないかなあ。

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/14(金) 22:33:13.57 ID:9ZX6Pi9d
>>288
まぁ大阪の陣まではそういう気風が残っていたのは、
豊臣というそれなりに強力な仮想敵が居たから分かるけど、
大阪以後の話だからねぇ…。

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/14(金) 22:36:23.86 ID:IQJ/dYpQ
日本人が一般的に、社会がもう安定して平和になったと信じたのは家光の時代で、国内で戦争なんてものはもう
起こるはずがない、とまで感じたのは綱吉の時代くらいだね。

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/14(金) 22:37:15.58 ID:T4RqoQPy
結果的には大坂の陣以後は戦乱が起こらなかったが
島津・毛利・伊達等の仮想敵を攻め潰すための戦争で手柄を立てたかったのかな

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/14(金) 22:41:18.65 ID:IQJ/dYpQ
>>290
家光の時代くらいまで、大名の反乱やポルトガルスペインといったカトリック国の侵攻などが、かなり
現実味のある脅威として捉えられていて、幕府もそういったものに対処するための軍備を緩めていない。
大坂の陣以後でも社会的にはまだまだ、軍事的な緊張下にあったのは確か。

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/14(金) 23:13:02.37 ID:9ZX6Pi9d
>>294
まぁ黒田の城破却話も大阪から5年後の話だからねぇ。
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3721.html
この時期だとこういう噂が流れてもおかしくない程度には戦乱の気配が無くなったって事だろうが、
逆に言えば、それがある程度驚きをもって迎えられるほどにはまだきな臭さが残ってはいたんだろうな。

300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/15(土) 00:19:29.44 ID:LJaNutIO
豊臣の後でもTOKUGAWAにたてつくってまーくん以外考えられないんだがw

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/15(土) 00:27:58.14 ID:gUNrfaTc
奴だってポーズだけだろ
家光時代はもうべったりだったし

302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/15(土) 00:35:55.15 ID:HgBDEKk5
>>300
後世の眼から見ればそうなのだろうけど、当時としては、乱世の記憶もまだまだ残っているわけで、
とてもそう簡単に安定するとは思わなかった、ってことだよ。

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/15(土) 00:42:02.18 ID:4bdTlawF
幼君ってのは武功以外にも色々不安だろうからな。

305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/15(土) 02:10:04.29 ID:byUZYr8K
>>283
榊原康勝の腫れ物って、要するに痔なんだよね
冬の陣では、尻から大出血しながら奮闘したらしい

父親の康政は、疾風迅雷の機動力で敵の横に回りこむのが得意だったけど、
息子はなあ…大将が痔じゃ、動き回れなかったんだろうなあ

余談だけど、痔で死んだ(かも知れない)人四天王
穴山梅雪、榊原康勝、…
2人しか思いつかない…