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この自慢の赤松家

2018年01月18日 17:26

485 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/01/17(水) 23:56:55.25 ID:NgrWvH92
信長の野望シリーズで唯一、永正の錯乱や船岡山の合戦を扱っている蒼天録PKには「自家自慢」というコマンドが存在した。(何分古いことなので効果等は覚えていない。)

この作品にも登場している赤松義村は、盛大な自家自慢を後世の我々にも仕掛けてきている。
彼は自著『秘事枕』に次のように記しているのだ。


「天盃を賜るということは一大事であるが、当家の政則はいただかれた。
また、塗り込めの輿を許され、幼稚のころから乗っておられた。京都屋敷も重厚な造りである。

さらに禁中より「雲井の松」を頂戴し、公方より「御所桜」を下されている。
「雲井の松」とは五階の松で相生になっており、高さ3尺5寸ほどのものである。薬師寺次郎左衛門という者に守られ、おしほ(置塩)屋形に移された。
「御所桜」は高さ4尺で、橋本源之允が警備した。
それらの木は前払いの雑色左右10人ずつ、素袍左右5人ずつ、刀帯左右5人ずつ、跡備一行立、弓10挺、矢固め2荷、長鑓10筋、左右刀帯5人ずつ、長刀、両鑓2人共馬上にて美々しく下ってきたそうで、「雲上拝受雲井松、御所拝領桜樹」という札を立てた。

他にも内室を御方と称し、国名の使用、鳳桐の御紋の使用を御免下され、屋敷を屋形というなど、当家の規模はとても測れるようなものではない。
政則の三品(三位)叙位ももったいないことである。幼稚の頃には規模など無に等しかったというのに。」

この自慢の赤松家と自分の身が、後々ああいうことになろうとは・・・。



486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/18(木) 23:41:03.49 ID:XxdQT9o1
赤松って嘉吉の変で取り潰されてるよね
この松と桜はなんで貰えたの?
三種の神器を取り戻したからかな

487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/19(金) 01:35:32.10 ID:szW9i48Q
>>486
嘉吉の乱の後、再興した政則の代でいろいろ賜った、って話なんだから、そうじゃね?

488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/19(金) 08:34:43.54 ID:Jl20+8tX
赤松氏もその後に復興して応仁の乱にも絡んでいるのよ

復興のくだりは「後南朝」「禁闕の変」「長禄の変」で検索すれば
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赤松家の女性たち

2013年08月02日 19:50

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/02(金) 09:08:41.64 ID:aP8Lb7CL
赤松義村の著作『秘事枕』には戦国初期、政則~義村の頃の赤松家の女性たちについて詳しく書かれた箇所がある。
大名自らこういう記録を残してくれたのは後世の者にとっていい話ということで、整理して書いてみようと思う。

○まずは女性たちの身分と名前について。

一、当家の当時の女は、
そばめ(妾也):身馴、色香

膝本(妾):八重

奥:滝野 

家見:小梁

中居:七、梶本、貝、糸竹、松(半下)、山路、小雪、小重、才、小糸、岩

まゝたゝき:田巻(上方)、若江(同)、もミぢ(次方)、柳(同)、坂本女、杉、松、塩、吉

筆取:井筒(中居)、縁(上)

下女:藤、梅、玉、なべ。以上。

○外出する時は
一、傍女、妾、ひざもと(膝本)ハのりもの。

一、奥、家見、次(の)のりもの。中居以下歩行。
中居ハぼうし、その上「奥かミ」麻かつぎ、ひざもとより上ハ衣かつぎ(の使用を許されていた)。

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/02(金) 09:10:56.40 ID:aP8Lb7CL
○次に、身分別のファッションについて。
一、政則の時より、
・傍女には、ひたい櫛、根櫛(べつがう<鼈甲>)ぞうげ)、銀まきゑ。髪は片曲結。
下に白むくりんず<綸子>、上に紫かのこ<鹿の子>上ほりに、ぬいちらし小袖。
帯ハぬいの帯、織紋帯にうしろ帯。
銀のかんざし、帯は五尺さがり、三重りんず、手おゝひ、白きぬたび、しゅすさげ帯(是ハ節日)
夏ハすゞしの織。色は右に同じ。

・妾女は、ぞうげ根櫛、つげの添櫛、髪は片曲。
下に白むく、上に紫かのこ上ほりに、しゅす<繻子>小袖、
帯は織紋うしろ帯、
帯は五尺さがり、二重白衣、手おゝひ、白たび、染衣、さげ帯。

・奥かミは、ぞうげ根櫛、髪は片曲。
下に白むく、上にしゅす、りんず、色小袖、上ほりしゅす。
帯はちりめん、りんず。
右袖下三尺さがり、二重さげ帯なし。白衣、手おゝひ、白たび。
夏は右に準ず。以上。

・節日の中居は、兵庫わけかミ<髪>、
染小袖、下に白むく。さげ帯ならず。前おび、櫛は根ぐし計、ぞうげ又ハつげ、
手おゝひ、たび、ならず。

・そばめは、高雄、吉野のるい。

・妾は、右に同じ。或ハ巻絹、小琴。

・奥かミは、小梶るいなど。

・中居は、七、梁、梶のるい。

・以下は、若な、もみぢのるい。

一、内室は、根櫛:ぞうげ、金まきゑ。ひたい櫛:べつかう、金まきゑ。
下にりんず、或ハしゅす。上に紅紫、ぬひちらし、上ほり金入織紋。
髪はさげ髪。金のかんざし、
金織紋、おび三重五尺、うしろ帯、しゅちんのさげ帯。
白りんずたび、織赤紋、ておゝい、色のふく面。
節日、夏も右に準ず。
そばめ、妾女、ふく面はまれ也。名は国名又は何の御方。
当時、身馴ばかり白衣ふくめん。

(秘事枕(播陽万宝知恵袋に収録))





817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/02(金) 23:39:37.14 ID:FGrSjeTP
赤松家はさすがに豪華だな


戦国の秘法

2013年07月23日 19:52

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/22(月) 20:19:01.83 ID:2aZxhEOM
播磨・備前・美作の太守、赤松義村の著作に『秘事枕』がある。

「この一巻は、とし頃心にかけて、要用の事ども秘書の中より撰、又智ある人にたづねもとめ、家の宝と記し置侍るもの也。」
として、文学や和歌の解釈や、しきたりの解説など、有職故実の秘伝を著したものである。

中には当時の赤松家の格式や、家中の女たちの名と身分別の服飾について詳しく述べている部分もある
貴重な資料でもあるが、それだけではない。
日々の生活の中で役に立つ(かもしれない)秘術も、いくつか書き残してくれているのだ。

以下に書き出してみよう。

一、おもふ人を恋しくバ、あまがいる(雨蛙)に名を書て、其おもふ人の戸の口に入るべし、必出来るぞ。

一、ぬす人の呪い(まじない)にハ猋符をかく。
(猋=ひょう(犬という字を3つ書く)。犬が群れになって駆けるさま。転じて「つむじ風」)

一、おもふ女恋敷バ、あり原と書、狐のほこらへ入る。

一、犬きびしくおそひなば、五ツのゆびの内四ツのゆびを、未申酉戌と四本の指をしかとおさへ、戌にむくべし、退くべし。

あの魔法使いの甥(ただし養子)が伝える戦国の秘法、試してみてはいかがかな?





赤松家落日の時

2011年10月23日 22:00

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 16:13:18.25 ID:rmL9jZXQ
赤松家落日の時


応仁の乱後に復活した赤松家の当主、赤松政則が死亡した後にその名籍を就いだのは
七条家からの養子である赤松義村という人物であった。
しかしながら相続時に幼少であったために浦上則宗など譜代の老臣が亡くなった後も実権を握ったのは
政則の正室である洞松院であり、義村は長らく「神輿」のような状態に置かれた。

しかしながら義村も成長するに伴って洞松院や家中を牛耳る老臣の存在を疎ましく思うようになり、やがて
家中の改革に乗り出した。
その手始めが永正14年(1517年)に敷いた浦上村宗・小寺則職の2宿老と自身の側近から選抜した3奉行による
合議制であった。
ここで最大の狙いが洞松院との癒着の強い浦上村宗の排斥である。
やがて狙い通りに合議の中で主権争いが始まり、小寺や3奉行の讒言によって村宗を追い込み、やがて
義村は村宗の出仕を差し止めた。

もちろん納得できない村宗は永正16年(1519年)に兵を集めて居城の三石城に篭り対決姿勢を見せたが、
村宗の弟の宗久(備前守護代)はこれには従わずに赤松側に付いた。
村宗の失脚に加えて浦上の分裂…あとは三石の反乱軍を討伐すれば義村の野望は果たされるはずであった。
だが要害に築かれた三石城はなかなか落ちず、やがて村宗は根回しによって西備前に勢力を誇る松田元陸と同盟し、
松田が三石を攻める赤松の背後を突くという噂が立つと兵を退かざるを得なかった。

「まさか長年浦上と対立していた松田が味方するとは…」義村としては大誤算である。
しかも悪い流れは続くもので永正17年(1520年)、今度は村宗派に美作守護代の中村則久などが転じて
赤松家に対して反旗を翻した。
今度は小寺則職を総大将にして美作に向かわせたが、宇喜多能家の撹乱などで200日以上経っても中村の篭る
岩屋城を攻略できず、
やがては浦上と松田の連合軍に則職が逆に討たれるという無惨な結果に終わった。

備前・美作戦線で優勢に立った浦上軍はついに播磨へと侵攻し、赤松軍を蹴散らし、ついには義村は
正室(洞松院の娘)と離縁させられ、嫡子である才松丸の身柄を引き渡した上で隠居に追い込まれた。
そして村宗は若干8歳の才松丸(後の赤松晴政)を元服させて傀儡とし、自らがその後見人となって
赤松家を掌握したのであった。




464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 19:48:13.39 ID:Vf6Z+BE9
>>458
名君名将の子で有能と見られていた二世が、
「意外と、甘いようで」と足元救われるのも
戦国でよくある興亡史の一典型なんだろうな。

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/23(日) 20:06:08.19 ID:7hbCiVGx
守護代の弟はどうなったんだろう…殺したのかなぁ