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ヒハヒハして難儀をしたのだ

2021年05月11日 18:14

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/11(火) 15:42:42.15 ID:mvGajSim
ある時、信長公より御成敗人(信長ノ舎弟、武蔵(織田信勝)ト云)をする事を仰せ仕ったものの、
手討ちに失敗し(三人に仰せ付けたが、討ち損じたという)、かの者が逃げた所を、廊下において
勝入様(池田恒興)が刺殺された。

その後、御家来共に物語された
「脇差はどうであっても重いものを用いるべきだ。先の手討ちの時、薄い脇差を差していたため、
ヒハヒハして(原文ママ、ヒラヒラか)難儀をしたのだ。」
そのように言われ、その後新身を大道(刀工、陸奥守大道か)に、重ね厚く、大平に御打たせ、それを
御陣刀に用いられた。これは御討死の時まで御指しになられ、今は永井家に伝わっている。

烈公間話



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すぐに恒興公は

2021年05月07日 17:23

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/07(金) 15:33:36.81 ID:c8NMKRSI
長久手の戦いの時、(信雄・家康方の)岩崎城には丹羽勘助(丹羽式部先祖)が取り籠もっていた、
しかし勘助は出陣しており、留守としてその舎弟・次郎助が在った。

池田信輝(恒興)公はこの岩崎城を攻め落とし、城中の人兵を斬り滅ぼした。次郎助は土肥飛騨が
討ち取った。

「ここにて一端、御備えを据えるべきです。」と、池田家の御家老共はたって申し上げたが、
恒興公は「少しでも早く三河の岡崎を取りたい。」と思し召し、お急ぎの故、先行させた先手は
矢作の橋の際まで行き着いていたという。しかしこの時、跡より鉄砲の音聞こえたため引き換えされたが、
すぐに恒興公は討死なされたという。

烈公間話



丹羽山城、池田勝入討死の様子を語る

2020年12月16日 17:32

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/16(水) 00:15:38.93 ID:12ezX11T
丹羽山城、池田勝入討死の様子を語る

池田家家老の丹羽山城は、四男の兵部を幼少から幕府に証人(人質)として詰めさせていた。
ところが寛永元年(1624年)兵部が18才になったので、76才の山城は江戸に下って
酒井雅楽頭(忠勝)にそのことについて色々嘆いたのでそれが将軍・家光の上聞に達した。

山城には登城とお目見えが仰せつけられて、御前で雅楽頭から
「勝入様(池田恒興)の御討死の様子をくわしく言上するように」
と言い渡されたので、山城は
「慎んで申し上げますが、即座に委細の義を申し上げるのは難しいので考えて言上します」
としばらく考えてから、物覚えの通り有り体に言上した。

そうしたところ、前々から聞いていたことと少しの相違もないので(家光が)神妙にお思いになり
山城は上意で御紋付きの御羽織を拝領した上、証人も御免になったので
兵部を鳥取へ連れ帰ることが出来たという。

――『吉備温故秘録



池田恒興の父母の婚儀

2020年03月15日 16:17

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/15(日) 15:40:05.79 ID:TgO80z9z
池田恒興の父母の婚儀


池田政秀(恒興の祖父)は男子がいないので、娘(恒興母、養徳院)に婿養子を望んでいた。
そのころ産婦に巧者の取揚婆々というそこかしこに雇われる者がいて、滝三四郎(滝川貞勝次男という)と
政秀の家にも出入りをしていた。

(取揚婆々は)よく両家のことを知っていたので、ある日政秀に
「滝三四郎殿は元来筋目よき御人です。幸い流浪していらっしゃるので
 御息女を差し上げられるのならば御肝入りしますよ」
と言ったので政秀は
「そうしよう。我等の家は乏しくて譲るような物はないが婿養子にしたいものだ」
と返答したので、この婆々が三四郎殿のところへ行ってあれやこれやの仲立ちをし婚儀が整ったという。


――『吉備史談会講演録



766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/15(日) 21:03:43.17 ID:aVZrvdsR
>>765
取揚婆々「ふん!滝川三四郎っていうのかい?贅沢な名前だねぇ…!今からお前の名は滝三四郎だ!いいかい、滝三四郎だよ!」

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/16(月) 10:36:50.17 ID:lJIU+1A0
>>766
こうでは?
取揚婆々「ふん!滝川三四郎っていうのかい?贅沢な名前だねぇ…!今からお前の名は池田三四郎だ!いいかい、池田三四郎だよ!」

恒興母は信長に乳首を噛みきられなかった人だね

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/16(月) 11:57:27.66 ID:VPD04LvA
鋼鉄の乳首を持つ女

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/16(月) 12:35:32.79 ID:VoYlb5wn
小宮三四郎のネタだね。つまんねーから消えろ!

御家久しき者

2020年01月15日 17:57

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/15(水) 17:53:50.97 ID:UUVBr7UC
御家久しき者


本能寺の変のあと秀吉は池田恒興に、三好信吉(のちの秀次)に恒興の娘を嫁すことを約束した。
祝言のとき、恒興は娘の御輿副として家臣の香西又市(名門の讃岐香西氏の出)を遣わした。
又市は”御家久しき者(家が長く続いている者)”との恒興の御意からであったという。

又市は長久手の陣では秀次にお供したが、恒興が討死した日と同日に三十八歳で討死した。
長男の五郎右衛門が跡を継ぎ雑賀陣、北伊勢陣、阿波陣と秀次にお供し二百石を拝領したものの
秀次の切腹後は、同じ知行で恒興の息子の輝政に召し出されることとなった。


――『吉備群書集成』



747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/15(水) 22:20:49.29 ID:M1BxP3yc
池田は摂津を支配していた時に管領細川の家臣を召抱えたようだな

重ねを厚く、大平に御打たせなさり

2019年08月26日 19:36

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/25(日) 18:02:06.81 ID:lxfhKvwH
ある時に信長公は御成敗人(原注:信長の舎弟・武蔵(織田信勝)という)を仰せられた。仕手
(刺客)は討ち損じて(原注:3人に仰せ付けたが、討ち損じたという)かの者が逃げるのを、
廊下で勝入様(池田恒興)が刺し殺しなさった。

その後、(恒興は)御家来どもに御物語りされ、「脇差は何が何でも手強きものを用いるべし」
と仰せられ、前述の時は薄き御脇差で、ひわひわして(細く弱々しい様)御難儀であったとして、
その後に新身を大道(刀工の名)に重ねを厚く、大平(大平造)に御打たせなさり、御陣刀に御
用いとなられた。

御討死の時まで御差しになられ、今は永井家にあるはずである。

――『烈公間話』



159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/27(火) 12:56:02.40 ID:lqWpBlnz
まあ実際使うのは脇差の方かもしれんな

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/27(火) 13:19:00.08 ID:4VVq4NdH
上意討ちされても脇差でなら反撃してもいいとか面白い決まりあるよね

あるいは曰く勝入が討たれたのは

2019年04月18日 16:16

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 14:49:29.28 ID:r+wjkShL
(長久手の戦いの時)

また長久手はといえば、この時に太閤方の池田勝入(恒興)は額田の北、犬山に本陣を置く。犬山の東、
岩崎の城には大御所(徳川家康)方の丹羽勘介(氏次)が籠る。

犬山から額田までは5里程あった。勝入は額田に行って太閤にまみえて曰く、「私が良き人数を率いて
三河に入り、敵の本郷を焼き討ちにしてその妻子を屠れば、敵はよもや小牧に堪えていることはできま
すまい」と申した。これに太閤は曰く「思うようにはならん」として許さなかった。しかし勝入は明日
また赴き、固く乞うて曰く「今現在においてこれ以上の謀はありません」と申し、太閤はこれを許した。

勝入父子は共に出発した。しかしながら岩崎の城を攻め破らなければ三河へは入り難く、まず岩崎に赴
こうとする。勝入は案内者なので道すがらの百姓に「運啓良ければ(勝利したならば)良くしてやろう」
と言い触れて、夜が明けない内に進んだ。

犬山と岩崎の間に長久手あり。勝入の謀は漏れて大御所はこれを聞き、前夜より長久手に至って勝入が
来るのを待つ。(家康は)もっとも案内者なので百姓等に「この度勝利を得れば、3年作り取りにさせ
よう」と言った。勝入は長久手に至り、夜が未だ明けないところで、「勝入の先手はすぐに岩崎に取り
掛かり、城を攻め破った」との報告があった。大御所方の軍勢は静まって、勝入の先陣と二番手の同勢
を皆行き過ごし、勝入本陣に取り掛かった。

(原注:一本には大御所以下『東照宮は前夜から長久手に至り給い、勝入が来るのを今か今かと待つ。
勝入は案内者なので百姓等に「この度勝利を得たならば、3年作り取りにさせよう」と言いつつ、長久
手に至ると夜は未だ明けず、東照宮方の軍勢は静まりかえっていた。勝入の先手は同勢を選って東陣へ
取って掛かる。安藤帯刀…』云々と続く)

安藤帯刀(直次)は先駆けして暗中で腰掛けている法師武者を突き殺した。それが勝入とは知らずに、
帯刀は「坊主首を取っては面目がない」と、また進んで子息の勝九郎(池田元助)を撃ち殺す。その後
に永井右近(直勝)が来て死首をやすやすと取り、後まで功に誇るという。

――『老人雑話』

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 15:58:30.06 ID:r+wjkShL
>>886
あるいは曰く勝入が討たれたのは、一合戦して勝った勝入が後にまた敗軍して士卒を失い、疲れて1人
での帰りがけに討たれたという。

――『老人雑話』



鶏鳴より取巻いて攻めれば

2019年02月18日 17:35

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/18(月) 00:37:47.82 ID:d2+p9LT9
鶏鳴より取巻いて攻めれば


信長公が山門(比叡山延暦寺)を攻めたとき、九月十一日には諸将に命じて既に攻めかかろうとしたが
護国公(池田恒興)が
「今日はもう日も牛の後に及んでいるので、(そのまま)夜になれば悪逆の衆徒が逃げてしまうでしょう。
 明日鶏鳴(午前二時ごろ)より取巻いて攻めれば、一人も生き残らないでしょう」
と言われたので、もっともだということでその日の戦を止められた。

さて夜半よりあんなにも大きな比叡山を隙間なく取り巻いて、四方の手合いが合図の法螺を吹き立てると
一度に閧をドウとあげて攻め、山門もここを専らと防戦したものの、四方八方より焼き立てたので
ついに(延暦寺は)根本中堂を初め一宇も残らず灰燼となった。

(諸将は)老僧児童の首をはねたり生捕りにしたので、猛火の中に飛び入って焼死する者も多かったという。


――『池田家履歴略記』


池田恒興の犬山城略取に対する恩賞

2019年01月31日 17:28

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/30(水) 14:48:21.48 ID:BCfrZ7lK
池田恒興の犬山城略取に対する恩賞


賤ヶ岳の戦いの後秀吉と織田信雄の関係は悪化し、天正12年3月13日に池田恒興が犬山城を占拠した。
下記はそのことに対する恩賞について、秀吉から恒興の母(養徳院)に送られた手紙。

今度の勝三(恒興)の犬山の御手柄は、中々お礼を申せるようなことではないのですが
尾張一円(一国)を勝三に差し上げるつもりです。また藤三郎殿(長吉)に美濃稲葉の知行を相添えます。
それゆえ、あなたさまにまで一筆進上しました。恐々謹言。
 勝九郎殿(元助)へはあなたさまに内密に申し上げた通りですので、御心を安くしてください。以上。 
  
    三月廿三日           秀吉(花押)
               秀吉
おおちさま(養徳院)            ちくせん


――『原富太郎氏所蔵文書』

恒興と元助が小牧・長久手で討ち死にしたため、実際には尾張一国を貰うことはなかった。


長久手古戦場と白骨

2018年10月18日 19:30

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/18(木) 00:17:52.70 ID:/dVSBscy
長久手古戦場と白骨


長久手原の御一戦から当年(宝暦4年)まで百七十一年。

戦場の小高い所には悉く白骨、平地も貝殻のように砕けているのはみな人骨である。
この一戦で、秀吉方で討ち死にしたのは一万五千人余り
当家(池田家)で討ち死にしたのは一千七百人余りという。
この合戦後三年の間は田地が死人の血油で肥え過ぎたため、稲は実らなかった。
合戦の翌日に、農夫二十人が物を拾いに行って、残らず死んだという。

(中略)

活賀五郎左衛門という者が牛を放してしまい、勝入塚を突き崩した。
拳が出入りできるような穴が二つ三つ空いたが、その中から多くの白骨が
見えたという言い伝えがある。


――『池田氏家譜集成 長久手古戦場聞書』




324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/18(木) 05:30:43.76 ID:Dae3Z85n
物を拾いにいったのはなぜ死んでしまったのだろうか

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/18(木) 11:50:17.72 ID:u71xBUX7
秀吉方の死者って2000人ぐらいでそ。10倍とまではいかなくても、盛っているなぁ。

池田恒興、信輝改名説の出所

2018年10月03日 22:34

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/03(水) 14:15:14.69 ID:666c4AP6
池田恒興、信輝改名説の出所


長年池田恒興(勝入)の諱とされてきた信輝は、一次史料には全く見られない名前であり
現代の研究においては、実際に名乗った名前でないことが定説となっている。

恒興の死後50年以上経った寛永18年、子孫である岡山藩主・池田光政と
鳥取藩主・池田光仲が幕府へ提出するため連名で作成した『池田家系図』では
既に恒興が後に信輝に改名した旨の記述が出てきている。

発端は檜尾神社(現:甲賀市甲南町池田)の棟札であった。
棟札には天正8年に"池田勝三郎信輝"が檜尾神社を造立したと書かれているのである。
また檜尾神社の社家の伝承では、「檜尾大明神は"信輝"の産土神であること」
「"信輝"の父親・恒利は元は滝川氏であり、従って甲賀出身であること」が
伝えられていたという。(『乍恐御尋書付之事(檜尾神社由緒問答)』)

当然現実の恒興は信輝に改名していないので、棟札は本物ではありえず
伝承にも疑問符がつくのだが、これを真に受けて池田家の史料が作られてしまった。
書付では、そもそも産土神であることを証明するようなものが池田家側になく
滝川家の領地とされた村々で、恒利のことを尋ねたが由緒については不明だったとする。
江戸時代の檜尾神社はその"由緒"から、池田家中や池田家の領地の城下町において
配札や祈祷を行い、藩主の参勤交代でもお祓いなどを行っている。

ちなみに檜尾神社の棟札は、池田家関連の展示会で実際に展示される関係もあり
図録の解説等では表立って怪しいものとはされていない。
ただもちろん現在の池田家の研究者で、信輝改名説を採用している人はいない。


池田恒興、息子に正室の実家を継がせる

2018年06月28日 16:27

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/28(木) 00:06:56.30 ID:wWSPXeF5
池田恒興、息子に正室の実家を継がせる


尾張知多郡にあった木田城の城主の荒尾氏は、在原業平の末裔を称し
室町幕府の奉公衆にも名を連ねる国人領主であった。
荒尾空善の時代には織田家に仕えるようになっていたが、今川義元が
尾張に侵攻してきたときに、空善は嫡男のいないまま討死してしまう。

仕方なく、同じ知多郡にある大野城主の佐治左馬允の弟(母が荒尾氏の縁者)に
空善の娘を娶わせて婿養子扱いとし、荒尾善次と名乗らせ城主を継がせた。
だが善次は桶狭間の戦いのときに、今川方に投降した責を負い隠居したため
その後は嫡男である善久が、木田城主となっていた。

善久は合戦の前に、池田恒興に嫁いでいた姉(善応院)のもとを訪れて
「某には子供がいないので、合戦で勇気が出ません」
と言ったので、善応院
「私には子供が多くいますから、古新(輝政)をそなたの養子にやりましょう」
と仰せられた。
そうして、その後の三方ヶ原の戦いで善久は討死した。

善久には、17才の小作(成房)や次郎作(隆重)*という弟たちがいたので
荒尾家の家老の冨田和泉や空善の弟である荒尾甚左衛門は
「荒尾の血脈を家督に立てるべし」
と主張したが、善応院
「あらかじめ約束したのだし、古新を立てるべきでしょう」
と仰せられて、和泉と甚左衛門に同心しなかった。

このことから恒興が信長公に相談したところ、「勝手次第にすべし」と
差図があったため、恒興は甚左衛門の方に出向いた。
甚左衛門がもてなそうとしたところを、家臣の堀甚兵衛がむずと組み付き
恒興はそのまま甚左衛門を刺し殺した。
堀甚兵衛はこのとき少し手傷を負ったが、加増され七百石を賜ったという。

和泉や他の家来は伊木忠次の方に招いて討取り、小作、次郎作も人質に
取ってしまったため、荒尾家中ではもはや異議は出ず、天正元年9月7日に
古新は信長公から荒尾家の領地を安堵され、10才にして木田城主となった。


――『池田家履歴略記』

* その後成房は善次と共に佐治家に引っ込み、隆重はそのまま池田家臣となる。
 恒興が摂津を領するようになると、成房の方も恒興に召し出された。
 子孫は鳥取藩家老としてそれぞれ米子1万5000石と倉吉1万2000石を領した。



888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/28(木) 14:39:10.59 ID:7FJJQwwj
見事な御家乗っ取り。エグいなあ。

後陣も雲霞のごとく

2018年03月24日 21:13

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/24(土) 01:52:20.88 ID:W5c89APP
後陣も雲霞のごとく


(明智光秀が謀反した後)秀吉は姫路から出陣してきたので
信輝(池田恒興)は兵庫で秀吉を出迎えた。
先公(信長)の不慮の傷害に互いに涙をこらえられずにいたが
力を合わせて光秀を討つことを決め、秀吉と昵懇の間柄となるために
秀次を信輝の婿にし、次男の輝政は秀吉の養子にすることを約束した。

秀吉が尼崎へ着陣すると、池田父子、中川(清秀)、高山(右近)、
惟住(丹羽長秀)らで軍評議があった。信輝は秀吉と共に剃髪し勝入と号し
「さて一番合戦は勝入仕るべし」
と言うのを秀吉が聞いて
「先公がいらっしゃらずとも、先公の御法に任せられよ」
と言ったので、勝入はそれに従い"どのようにでも"と申された。
そういう訳で高山と中川が一番を争い、同士討ちのようになったところで
秀吉が仲裁をして、高山が一番合戦、中川が二番合戦となった。

天神馬場まで軍勢を押し詰めて、すぐ合戦しようという話にもなったが
御弔合戦ということで信孝を待つことになった。翌日、信孝の手勢が
見えたので秀吉と池田で出迎え、互いに涙を流した。

段々軍勢を山崎表へ押し出し、中筋正面は高山、堀久太郎。
南の方の川端は池田勝入父子。天王山の手は堀尾茂助、木下小一郎(秀長)、
同勘解由、黒田官兵衛、神子田半左衛門(正治)、前野新右衛門(長康)。
それより後陣も雲霞のごとく連なった。


――『池田氏家譜集成』


池田の力、池水の流れ

2017年09月21日 18:47

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/20(水) 19:13:46.10 ID:OnRT8wAe
池田の力、池水の流れ


天正8(1580)年、謀反していた荒木村重が花熊城に移ったため
池田恒興は信長に追撃を命じられ、息子の元助、輝政と共に花熊城を攻めた。
大将自ら槍を振るうような混戦で、恒興は槍で五、六人討ち取り
輝政は三須五郎大夫という勇士と組討勝負になり、なんとか首を切ったという。
この時の功により、恒興は荒木の旧領の摂津と以下の感状が与えられた。


武士高名越度之事

摂州大坂本願寺蜂起の時、佐久間右衛門佐(信盛)が対陣していた数年間は
敵が城中から出てきて戦ってはいたが、未だ敵一人討ち取ることはなく
原田備中守(塙直政)が兵を率いてこれを救い、敵と大いに戦い多く討ち取ったが
敵は依然として繰り出してきて、前後に攻め来るので討ち死にしてしまった。
右衛門佐は敵の仲間になったのか、あるいは信長に恨みがあるのかと思い
このことで、佐久間を追放した。

池田紀伊守(恒興)父子三人は摂州並びに四国、西国の間において
合戦の時少しもその陣を離れることはなく、敵が攻め来れば防戦し
未だかつて加勢の兵を乞うこともなく、高名は甚だ高しと安土には注進あり。

その次男古新(輝政)は年わずかに十六才で、敵陣に入り大いに武功を振るう。
真にこれは池田紀伊守の血筋で、信長の眼力に叶い、その手柄は比類ない。
この度花熊の城を攻め取ることは池田の力である。
信長は佐久間の事で面目を失ったが、池田父子の働きで"会稽の恥を雪ぐ"
その名誉は山よりも高い。

池田勝九郎(元助)は若年より敵に遭っては一歩も引かず
度々の高名は真に池水の流れを汲むものである。
信長の嫡子信忠、次男信孝、三男信雄(次男信雄、三男信孝の間違いか)にも
この池水の心底を言い含める。

それ虎は一毛を惜しみてその身を失う。
弓取りは名を惜しみ家を惜しみて、その命を軽んず。
身は一代なり、名は末代なり。
よろしく池田をもって明鏡とすべし。

その功に報いるため摂州一国の内諸所多くを、今後その所望に任せて
池田父子三人に宛て行う。これらの趣を感状とする。

天正八年八月十八日              信長判
池田紀伊守殿


――『寛永諸家系図伝』



243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/20(水) 19:19:26.80 ID:um2u10wi
池田輝政まだ若いのにすごいな
信長も、将来にわたって自分の子や孫に忠実に仕えてくれると思っただろうな

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/20(水) 19:22:46.98 ID:h/uZFlBu
待って
どっからが書状なの?

245 名前:242[sage] 投稿日:2017/09/20(水) 19:45:49.91 ID:OnRT8wAe
>>244
>武士高名越度之事
から全て書状です。(諸系図伝からの引用なので書状そのものではないですが)

池田話三連発

2016年04月10日 10:04

580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/10(日) 00:04:29.42 ID:bPmoY5Ei
昨日になってしまったけど今日は小牧長久手戦の日ということで恒興の話に便乗して
池田話を三連発で。
(悪い話かなと思う微妙なのもあるけどそこは恒興の命日に免じて許してくだされ)

その壱
恒興が10才になった頃信長の遊び相手として信長に仕えることになった。
その頃、母養徳院は吉法師の麻上下(肩衣と袴と思われる)を拝領しており恒興が
仕えるにあたり信秀と謁見することになった時にこの上下を着用させた。
信秀はその恒興を見てその上下がとても似合っていると言ったという。
この上下には織田家の紋である蝶紋が入っていたが池田家でも代々蝶の紋を用いることを
この時に許されたそうな。

(池田勝入斎信輝公少伝)

その弐
恒興が13歳の時、同列の小姓と口論となった。
この小姓は信長のお気に入りでもあったが恒興が父無し子であったことを
普段からバカにしておりこれを元になじることも度々あったという。
(多分この日の口論もそれ絡みであったと思われるが)恒興は無念に感じながらも
信長の屋形でのことだったので憤りを押し込めその場を去った。
しかし憤りが収まらない恒興はこの小姓を待ち伏せし帰宅途中であったところを
バッサリと造作もなく斬り倒してしまった。
その場に居合わせた小姓の仲間達は一斉に刀を抜くと恒興に斬りかかったという。
近くにいたのか運良く森寺がこの騒然の場に来て恒興に斬りかかる者達を次々と
斬るなどして追い払うと恒興を連れ出奔してしまった。
信長は怒りまくったが帰参を許されるまでの間、森寺は信長の気性を知っていたためか
恒興を故郷の伊勢で匿っていたのだという。

(同少伝及び信長の逸話関連あれこれ等を加味)


その参
輝政は年をまたいで産まれたが生年決定で論議になった。
産気づいたのは子年だが産まれ落ちたのは丑年、さてどうするかといった具合である。
最終的に産土神である中村八幡宮に占って貰うことになり出た結果は子年であった。
そのため、輝政は以降子年生まれとされたという。

(同少伝)

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/10(日) 01:12:10.50 ID:bPmoY5Ei
>580の補足を少し

その壱関連
池田履略で光政によると池田の家紋は蝶以前は釘貫だったらしい。
恒興戦死時に着用していた柿色の布が残っていたらしくそれには釘貫と丸貫の違い紋が
入っていたそうだ。
この布の所在地も書いてあったけど今もあるかはわからん。

その参関連
輝政の出生地、通説では清洲なんだが(池田履略も清洲)こっちでは小牧となっていて
当時の池田の館は小牧山山中にあったとされている。
館跡があるらしくここが輝政の出生地らしい。

その弐関連
こっちにも鉢巻話は載っていた。
戦も年代も違っていたりこの弐とつながっている感じではあるんだけど、具足を
用意しようにも金がないから養徳院に助けを求め彼女が集めた綾といった上質の布や
彼女の持ち物である鏡の類まで森寺は売って金を工面して古具足を調達したが兜はなく
鉢巻で戦に出たと大筋は合致していた。
だからどちらにしても若い頃の恒興が苦労したというのは間違いないなさそうかな。


小牧の日に恒興や池田家についての史料をじっくり見ることになったのも何かの縁だろうけど
個人的に楽しかった。
こういう縁を結んでくれたこのスレや鉢巻話レスに感謝!




池田恒興の若かりし頃のお話

2016年04月07日 13:58

564 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/07(木) 00:02:07.84 ID:f9PHNxji
池田恒興の若かりし頃のお話

池田恒興は織田信長の乳兄弟だが、母養徳院が信長の乳母としてまた信長の父信秀の
側室として城に上がっていたため幼い頃より恒興の父親である池田恒利配下の森寺に
預けられ養育されていた。
しかし母親がそのような立場であっても特別に扱われるわけもなくその生活は決して
楽ではなかった。
そして月日が流れ桶狭間の時、周りの同輩の者達はこれが最期の戦になるだろうからと
鎧兜の類を良いもので揃えていた。
養父森寺も恥はかかせたくないとしていろいろ工面し養徳院にも助力を願い鎧はどうにか
用意することができたが兜までは用意できないままいよいよ出陣の時を迎えた。
事情を知った恒興は兜があるとかえって臆病になるからこれでよいと戦勝と安全を祈り
母自らが縫ったという鉢巻を付け今までの恩の礼を述べた後出かけていった。
かくして恒興は鉢巻姿で桶狭間の合戦に挑んだという。(池田略記他)

後世、信長と信忠を祀る建勲神社に池田家家臣が信長の忠臣達として彼らを描いた肖像画を
奉納したがこの中にある恒興の絵はこの逸話に倣い鉢巻姿となっている。


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自ブログに書こうと思っていたんですがここでは池田家関連はあんまりパッとしない話が
多いのととある池田関連ブログ由来の恒興異常な持ち上げ話が一人歩きしているようなので
牽制の意味も込めて書いてみました。



568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/07(木) 23:33:56.98 ID:oMmc4p0+
江戸時代にあれ程栄えた池田家の始祖の苦労話

569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/07(木) 23:47:59.15 ID:nN/joG22
池田恒興って遅咲きだよな咲いたら死んじまったが

570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/08(金) 02:28:37.54 ID:YBc4GxC4
臣下の妻女を略奪して側室にするなんて尾張の殿様はキチガイが多いね

571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/08(金) 03:54:19.53 ID:ny74cQy8
恒興は子供時代から信長の遊び相手として召しだされてたというのに、
桶狭間(24歳)の段階でまだ森寺に養育されてたっていう話?
24歳なら信長の弟の元嫁をもらって、すでに所帯持ちなのにと考えると変な話

572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/08(金) 05:55:02.41 ID:3vef3Usw
織田の家中は信長にケツ掘られた奴ばっかやん
だから皆晩婚で若い時に子供が出来ないのさ

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/08(金) 06:13:29.00 ID:pyx04zEo
利家「せやな」

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/08(金) 19:13:31.17 ID:Hujt822F
>>571
書き方の問題なんだろうが桶狭間の頃まで養育されていたというわけではなかろう。
森寺は後見も担っていたから用意したとしてもおかしくはないよ。
同輩が立派な備えなのに我が子も同じと思われる恒興が見劣りするのは自分も
恥をかくようなもんだし所帯持ちだからといって立派な甲冑まで揃えられる程
裕福だったとは限らないと思われ。(良い甲冑は当時もかなり高価)

あと幼いといっても信長の元に出仕し始めるのは10歳の頃だしこっちもだからといって
楽な生活だったとは限らないわけで少し恒興を特別視しすぎなんじゃないかと。

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/08(金) 19:58:30.97 ID:ny74cQy8
特別視してる持ち上げ話の実態を知らないから、話についていけない
でもこの話も眉唾だよね。恒興が桶狭間に従軍したって事実なのか
岳父の荒尾善次が今川方についてるのに

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/08(金) 20:38:27.51 ID:Hujt822F
俺は逸話を書き込んだ人間じゃないから持ち上げ話は自分もわからない。
特別視と書いたのは信長との関係なんかからそんな貧乏めいたわけがないと
決めつけ前提で書いているように読めたからなんだよ。
もし違ったら謝る、すまない。

池田恒興の家臣森寺政右衛門忠勝は昔

2015年10月11日 19:23

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/11(日) 13:03:43.17 ID:7oCeuLK0
池田恒興の家臣森寺政右衛門忠勝は昔、美濃の豪族高木何某を暗殺したことがあった。
ある時江戸へと使いに行く森寺を高木の息子達が仇を取ろうと待ち伏せしていた。それを噂で聞きつけた森寺、わざわざ待ち伏せ場所にまで見に行くとそこには800人程が待ち受けていた。しかし森寺は堂々とその間を通り抜けていくが、何故か誰もかかってこない。
何事もなく通り過ぎた後、従者を使いに送って
「そこにいるのは本当に高木の倅共か?お前らの親の仇がここにいるぞ?どうしてかかってこないのだ。さあ、来いよ」と伝えさせたが、結局誰もかかってこなかった。
「あーあ、仇を取る絶好の機会だったのに。もう仇はとれないぞwww?」と森寺は笑いながら去っていった。

その後、高木は場所を問わず親の仇を取ることを許されたが、森寺にも身を守らせた上、「仇とれなかったら森寺の勝ち」というルールが決められた。
そこで森寺、火縄に火のついた鉄砲五丁・矢を番えた弓10丁、鞘を外した槍5本を持った家来30人を常に引き連れるようになった。秀吉の前に出仕した時も同様であり、殿中での帯刀を許されていた。
伏見城の落成を祝って諸大名が集まる中、周りから「今日こそ危ないからやめておけ」と忠告を受けたが森寺は意に介しない。いつもは持っている刀も従者に預けて手ぶらのまま、広間にいた仇の連中の間を堂々と通り抜けていき、そのまま帰っていった。

その後、慶長4年に病死という最期を遂げたそうだ。

『常山紀談』

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8795.html
↑稲葉一徹の前で主君恒興への贈答品を粉砕した男のその後の話



砕けるものなら砕いてみよ

2014年09月27日 18:45

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/26(金) 20:00:18.13 ID:XYmsWdGL
池田勝入の家臣に、森本政右衛門忠勝と言う者があり、彼は優れた荒武者であった。
この森本政右衛門が18歳の時のこと

勝入の元に、稲葉伊予守一鉄より備前焼の焼き物が贈られてきた。しかし政右衛門はこれを見て言った

「これは備前焼ではありません。偽物です。こんなもの、伊予守の面前で打ち砕いてみせましょうか。」

勝入はそれを聞くと
「それは無礼なことだ。しかし伊予守の面前で打ち砕くことが出来るものなら、打ち砕いてみよ。」

「どうして彼の面前で打ち砕くことが難しいでしょうか!」
そう答えると焼き物を持って稲葉一鉄の元に向かった。一鉄はそういうことだとも知らず対面すると、
政右衛門はその焼き物を取り出して

「これは備前焼にあらず、偽物でありますからお返し申す!」

そう言うと側の柱に打ち付けて砕き、そのまま走って逃げた。
この事態に一鉄は「そいつを止めろ!」と下知したが、政右衛門は逃げ延びて勝入の元へ帰った。

勝入は政右衛門の身を心配して門の内で待っていた所に彼は帰ってきて、「しかじかしました。」と、
証拠として砕けた焼き物の一片を見せた。
その後、政右衛門は勝入に申し上げた

「先程殿は、『無礼であるが砕けるものなら砕いてみよ』と張り合いをかけられました。
このように煽られては、若き者達は、例え骨を砕かれようとも必ずやってやると思うでしょう。
今回私が、逃げ切って帰ってこられたのは幸いでした。どうか、以後お慎み有りますように。」

(明良洪範)

森本政右衛門、稲葉一鉄の目の前で焼き物を砕く、というお話。




376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/26(金) 20:14:21.86 ID:1tk20FeK
やれるもんなやってみろ(チラッチラッ)という主君のネタフリに応えたいい話じゃないか(白目)

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/26(金) 20:25:58.62 ID:yY2ICs9n
鬼武蔵に家康がいない岡崎を攻めましょうといわれて、
よしやってみろと乗っかり不幸にも逃げ帰れなかったお話ですね

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/27(土) 11:44:49.06 ID:Y4GRFGo0
>>375
池田勝入に森 ときたから、あの人の逸話か?
と思ったら別人だった。

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/27(土) 12:19:23.36 ID:iPkEM/Cw
四天王のあの方と森本を混同してたら成敗されるところだったセーフ

昨日の広言にも似ぬものかな!

2014年07月25日 18:50

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/25(金) 01:01:08.38 ID:MsYe8bme
姉川の戦いの前夜、織田信長の御前にて軍議が行われていた時、徳川家康
「今回の合戦は、二の手の働き次第で勝利を得るでしょう。」
と発言した。しかしこれを聞いた池田勝三郎(恒興)は

「どうして敵を二の手まで越させようか!」

そう傲慢げに発言した。家康はこれに「そのようにあってほしいものです。」と、
さにあらぬ体で席を立った。

さて、姉川の合戦が始まると、池田恒興の備は浅井の先鋒にさんざんに切り崩され、
酒井忠次の備に崩れかかった。
忠次はこれを見て

「おことは昨日の広言にも似ぬものかな!」

と言いながら、長刀の石突の部分で、恒興の馬の三途(馬の尻の方の、背骨の盛り上がって
高くなっている部分)を打つと、馬は驚いて恒興は落馬した。
その頃の人々は、池田常興が忠次によって落打ちにされたと、誤り伝えたこともあったそうである。

(落穂集)





善悪報応の理は決しがたい

2013年01月29日 19:51

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/28(月) 23:46:18.10 ID:aBPZahBa
善悪報応の理は決しがたい。細川はかつて不仁だったが、今子孫は盛んである。

池田勝入は信長の乳母の子で、城介殿や常真と同じ乳房に育った人だ。
常真に向けて弓をひく理はないのに、小牧の陣で太閤の黄金五十枚の賄にあざむかれて
常真の敵となった重悪の人である。

しかし、その子は備前、備中、播磨に手を伸ばし、因幡、伯耆に手を伸ばす子孫もいる。
一方で加藤肥牧(清正)などは律儀な人だが、子孫は既に絶えてしまった。

――『老人雑話』




329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/29(火) 00:03:32.99 ID:piD4P2sK
ちょっとまって!
勝入入道と同じ乳房で育ったのは、城介殿や常真さんのパパの信長さんだと思うの・・・

330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/29(火) 12:14:37.59 ID:hpGkLg9I
息子たちの乳母も兼任してたんだろ
俺は50手前だがまだまだ元気で白いミルクがいっぱい出るぞ

331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/29(火) 12:17:13.67 ID:d1qysb2o
こういう伝承ミスで構築される逸話の成立過程に興味がある

332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/29(火) 12:51:37.96 ID:e+3He9uu
老人雑話「なお武田や大内が滅んだのは当然の報い」