916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/09(土) 05:21:57.90 ID:1X0ifiPd
里見民部と秀頼の朱印状
慶長8(1603)年、
最上義光に廃嫡された最上義康暗殺事件の黒幕とされた
里見民部少輔(里見義章、里見義正・義満とも)は所領の長崎城を捨て突如として出奔した
里見民部は先の慶長出羽合戦において寡兵で上杉軍を翻弄し、直江兼続の副将の本村親盛を討ち取る等の高名を成したために加賀の前田家が二万石の高禄で召し抱え様と動きを見せた
しかしこれを知った旧主
最上義光は激怒し、「民部の様な不貞(不逞)の者を家人とするならば一戦も辞さない。里見は不忠のものなれば身柄を拘束し山形に送られんと欲す。適わない場合はせめて所払いを願う」と使者を差し向けた
前田家も最上家からの介入を蔑ろに出来ずに、民部を雇う事を諦めた
しかし民部は豪(剛)の者であったために次に越前松平家が3万石で召し抱え様とした
義光は越前松平家にも使者を遣わし、徳川将軍家をはじめ有力大名へ
里見民部の奉公構の文を出した
民部は幕府の懐刀本多某とも深い仲ではあったが、奉公構が出された事により幕臣になる道も裁たれ、高野山を頼った
やがて
最上義光が死に、
最上家親が山形藩主となると民部の元に家親から書状が届いた
家親「父(義光)は老齢にあって我が兄にして長男の義康を失った哀しみのあまりに正常な判断が出来ずに民部にその咎の責を取らせ様としたのだろう
悼ましい事件であったが私(家親)は民部に責はないと考えている
また私には頼れる近臣がいないために、是非とも片腕となり政を助けてはくれまいか」
民部は義光の死と家親からの書状に望郷の念も加わり高野山を降り山形へと向かう事にした
海路庄内に着いた
里見民部の一族は田川で下吉忠の軍に身柄を拘束され、最上義康が暗殺された櫛引付近で全員が処刑された
民部の遺品には文箱があり
中には「大坂方に与し大願成就の際には庄内三郡を与える」といった
豊臣秀頼の朱印状が入っていたと伝わる
「奥羽永慶軍記」など
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