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備の形成途中で

2017年11月04日 13:34

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/04(土) 12:35:39.58 ID:KfZh2TsO
慶長5年、長尾(上杉)景勝が出羽国最上義光を攻めた時、上山城に里見越後(義近)の子、民部太夫が
籠っているのを、上杉方である山中城主・横田式部穂村造酒允と言う者が両人大将分にて、人数
300ばかり押し寄せ、山向に陣を取り、それぞれ馬より降りて備の形成を初めた。

この様子を詳しく見ていた里見は、馬武者を選りすぐってこれに突撃を行い、横田・穂村の兵は
尽く敗北した。

横田はこの突撃の時、未だ馬に乗っていたためそのまま馬を駆けて落ち延びた。
穂村は馬から降りており、再び乗ろうとした時馬が付きかね手間を掛けている間に、敵が重なり来て
討ち死にしたという。

(士談)

備の形成途中で攻められるとやはり弱いのだな



240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/04(土) 12:42:09.96 ID:Anj7CIbq
城攻めにきてるのに300っていうのも気になるが、こんなしょうもない負け方は初めて見た
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里見民部と秀頼の朱印状

2016年01月09日 09:24

916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/09(土) 05:21:57.90 ID:1X0ifiPd
里見民部と秀頼の朱印状

慶長8(1603)年、最上義光に廃嫡された最上義康暗殺事件の黒幕とされた里見民部少輔(里見義章、里見義正・義満とも)は所領の長崎城を捨て突如として出奔した

里見民部は先の慶長出羽合戦において寡兵で上杉軍を翻弄し、直江兼続の副将の本村親盛を討ち取る等の高名を成したために加賀の前田家が二万石の高禄で召し抱え様と動きを見せた

しかしこれを知った旧主最上義光は激怒し、「民部の様な不貞(不逞)の者を家人とするならば一戦も辞さない。里見は不忠のものなれば身柄を拘束し山形に送られんと欲す。適わない場合はせめて所払いを願う」と使者を差し向けた

前田家も最上家からの介入を蔑ろに出来ずに、民部を雇う事を諦めた

しかし民部は豪(剛)の者であったために次に越前松平家が3万石で召し抱え様とした

義光は越前松平家にも使者を遣わし、徳川将軍家をはじめ有力大名へ里見民部の奉公構の文を出した

民部は幕府の懐刀本多某とも深い仲ではあったが、奉公構が出された事により幕臣になる道も裁たれ、高野山を頼った

やがて最上義光が死に、最上家親が山形藩主となると民部の元に家親から書状が届いた

家親「父(義光)は老齢にあって我が兄にして長男の義康を失った哀しみのあまりに正常な判断が出来ずに民部にその咎の責を取らせ様としたのだろう
悼ましい事件であったが私(家親)は民部に責はないと考えている
また私には頼れる近臣がいないために、是非とも片腕となり政を助けてはくれまいか」

民部は義光の死と家親からの書状に望郷の念も加わり高野山を降り山形へと向かう事にした

海路庄内に着いた里見民部の一族は田川で下吉忠の軍に身柄を拘束され、最上義康が暗殺された櫛引付近で全員が処刑された

民部の遺品には文箱があり
中には「大坂方に与し大願成就の際には庄内三郡を与える」といった豊臣秀頼の朱印状が入っていたと伝わる

「奥羽永慶軍記」など



里見の謎(異)「死人に口なし」

2014年08月31日 18:57

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/31(日) 00:47:31.43 ID:BdX1QqB8
里見の謎(異)「死人に口なし」

里見義近・民部親子の処刑には他の話も伝わる

1603年最上義康が暗殺されると、主君最上義光から子・里見正光(里見権兵衛)を切腹させる様に命じられた里見民部は憤りを感じ、
一族を連れ長崎城(慶長6年に上山城より移封とも)から逐電した

民部は義光から各大名への奉公構もあり、ついには高野山にしか行き場が無くなっていた

慶長19(1614)年に義光が死ぬと、義光の跡を継いだ最上家親は高野山の里見民部に「父の死により出奔の咎を赦免する。
かつての所領の上山城を与え、遇を厚くする故帰郷せぬか」と使者を送った

里見民部はかつて家親が徳川家康に人質として出された際に付き従い、家康や本多・井伊といった
幕府の年寄方にも幾分面識があったので、望郷の念もあり高野山を下り、北路から山形へと向かう事にした

しかし庄内尾山で志茂對馬(下吉忠か子の下秀実か?)の番兵に囚われ、丸岡の地で一族共々23名が斬られた

処刑された一族の長・里見義近の荷物には桐紋の文箱があり、中には「大坂方勝利の暁には、
庄内二郡を与える」といった豊臣秀頼の印朱状が入っていたと云う

赦免の話自体が最上家親による謀事で、里見一族を生かしたままにしては将来に禍根を残すとして、当事者の死により遺恨がうやむやにされた悪い話

『史籍集覧』ほか

関連:戦国ちょっと悪い話「里見の謎




里見民部小咄

2011年11月05日 22:01

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/05(土) 06:02:54.72 ID:50OUwyLN
里見民部小咄

父・里見義近(里見越後)が最上義光と結んだ事により、
次男・里見民部は主君・上山(里見)満兼と兄・里見内蔵を殺害し上山城を乗っ取ったと史書には記されている。

天童八楯としては残り七家が山形の北に位置していたが、里見だけは山形の南方に位置していた。
(東根景佐の旧姓も里見だが、古い時代に分流したものと思われる)

伊達との国境にある門でたびたび伊達家臣鮎貝・石母田などの侵攻も受けている。

慶長出羽合戦では800という寡兵で上杉の別働隊3000を引き止めたが
父越後は山形城に人質として取られていた。

1600年、論功で加増されるも、父祖伝来の上山から長崎へと移封されている。

家臣には下吉忠らと共に最上に降った上杉衆原八右衛門らが与力として多く付けられた。

加増されても旧領は召し上げされ、山形には直臣らがいる為に強い政治力もない
鬱憤が溜まっていたのでしょうな

義康暗殺は清水家に養子に入った三男義親(豊臣家の元小姓)の誅殺ともセットで語られる事が少なくない