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坂上頼泰の鉢植え

2016年11月07日 09:42

304 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/07(月) 07:21:03.05 ID:jnLT3IFc
天文元年(1532年)に多田院御家人衆筆頭の塩川伯耆守国満が、織田信長の台頭という時世から荒木村重について多田新田城を攻めた。
この時に山本郷(今の宝塚市周辺)も焼いて、多田院御家人だった34代山本荘司家の坂上頼泰は郷士となる。

しかし塩川国満は豊臣秀吉の九州征伐の間に挙兵して、謀反の疑いで誅されたため山本郷は豊臣家の天領となった。
秀吉が有馬温泉に湯治に行く際に山本郷に立ち寄った関係から、頼泰は秀吉の旗本になり朝鮮出兵へも参戦した。
頼泰は齢を重ねて隠居し、山本郷で農園を営みながら穏やかに過ごしていたところ、接木の技術を発明する。

ある時、天下人秀吉の元に見事な鉢植えが献上され大変気に入り、それが坂上頼泰のものと知り昔を懐かしんだ。
京や大阪での贅沢品の売買を禁止していたが、秀吉は頼泰に木接太夫の称号を与えて山本郷の植木に特別な配慮をしたという。

源満仲が摂津守に任官した際に、坂上田村麻呂七代孫の坂上頼次を摂津介にして多田院を警備させたのが山本荘司家の初代で坂上是則は従兄弟。
三代目の坂上季猛は源頼光に使えて卜部季武のモデルともされる。
仁平年間の坂上尚親の頃に平姓を賜り平尚親とし、その分家は今出川家諸大夫山本家として山本敬勝まで続く。



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「接木太夫」坂上頼泰

2011年11月11日 22:00

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/11(金) 11:16:34.76 ID:zurnoCW+
小さい時に読んだ本の記憶などがかなり詰まっていて信憑性うすいけど投下。

歌劇団で有名な兵庫県宝塚市。戦国時代、宝塚の一部の荘司(荘園の管理者)を代々努めてきた男がいた。
有史以来初めての征夷大将軍、坂上田村麻呂の子孫とされるその人物は、坂上頼泰といった。

豊臣秀吉に仕え、かなり武功も立てたらしい。
だがこの人は歳を重ねるごとに花鳥風月を愛でる生活に入ってゆく。
武士の身分で日々土いじりを楽しみ、故郷で悠々自適の生活を送っていたが、ある時、

「赤い花と青い花を一つの花にしたい。木でもなんでも同じ事をやりたい。」

なんてことを考え始めた。
研究により、頼泰はシャクヤクとボタンを「接ぐ」ことに成功。
これは「接木」として園芸界に革新をもたらすことになった。
彼は喜んでこれを秀吉に献上し、秀吉は喜んで彼を「接木太夫」の称号を与え、
当時贅沢品が禁じられていたにも関わらず植木だけは販売をさし許した。
彼の領地山本は園芸が盛んになり、Wikiさんによると現在でも国内有数の植木の産地らしい。
千利休らも生花や庭の花木を依頼することがあったという。
ワシントンの桜など、接木が施されていることは結構あるそう。

隠遁した武士が新しい潤いを現在までも残したいい話。





500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/11(金) 13:15:01.12 ID:7uUHG/Cc
>>498
いい話というより綺麗な逸話だね
写真入りで読みたくなる