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赤松政秀と布袋和尚の絵

2014年02月03日 19:03

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/02(日) 22:52:12.17 ID:IwFYMU/y
都卒天にいる弥勒菩薩には、百億の分身があるという。
七福神で知られる布袋和尚もその一つで、背負った袋(堪忍袋)を開いて寛容と和合を人に分け与えるのだ。

文明三年正月三日、播州網干(あぼし)村のとある人が、赤松政秀と岳林寺の長老・布袋和尚が並んで座り、
談笑している夢を見た。
夢の中の二人は一心同体のようで、和尚は時々政秀に飯を分けてその口の中に入れていた。
その人は不思議な夢を見たものだとずっと思っていたが、その年、網干村大倉が赤松政秀の所領となったことで、
夢の内容をますます信じるようになったのである。

その後、播磨は大乱となったが、政秀は動じることなく衣食を数万の兵卒に分け与えて戦い、播磨を再び修復した。
これこそが夢の中で布袋和尚(と、その分身である政秀)が分け与えていた「飯」に違いない。
夢を見た人はそう考えて、夢の中の布袋和尚の絵を描かせ、政秀に献上した。

文明十年十月、私、天隠龍沢が塩屋城で政秀公に謁した時、政秀公がその絵をお出しになり、
賛詞をお求めになられたので、このことを記したのである。
(布袋の賛)

この赤松下野守政秀(高枕軒歓岩性喜)は、黒田官兵衛と戦った赤松下野守政秀の父の養父(異説あり)で、
赤松政則を支えて主家再興に尽力し、
播磨守護代として活躍した人物。
政則を養育した高僧・天隠龍沢は、『赤松政秀公寿像賛』に、
「応仁の乱の際、単騎京から播州に馳せ下って播備作を瞬く間に奪回し、政則支持でまとめ上げた忠臣。」
「性格は温潤で民は皆その徳に服した。彼と接した者は春風の中に座しているような心地になり、
和やかな気持ちに襲われずにはいられない。」
とも記している。

この人がいなければ、戦国の播磨は本当に赤松本家(&龍野赤松家)の存在しない世界に
なっていたかもしれない
というほどの人物であるが・・・ヨイショ、凄いなあ。





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赤松政秀、永禄9年正月11日浦上攻めのこと

2011年12月23日 22:01

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/22(木) 20:01:20.03 ID:1yW4B2Ym
浦上さんちは名前が似てる人多すぎw
こんなのみてたら直家さんの思考があんなんなっても不思議ないと思えちゃうw



490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/23(金) 01:14:23.30 ID:HJ8lQWr+
>>486
「播磨鑑」では、人名関係がえらいことに。
姫の年齢もこれでいいのか?

赤松の惣領と龍野の城主赤松下野守政秀は浦上に遺恨あって、老臣内海勘解由左衛門、湯浅長門守、
江渡越中守等と相謀って、
永禄9年正月11日に押し寄せた。
その日、城は村宗の息子宗景の婚礼で、酒宴乱舞で上も下も酔いつぶれている。
そこへ3百余騎の龍野勢が、海を押し渡った先の大手と、地続きの北口の2箇所から一斉に攻めかかったのである。

思いも寄らぬことに城は大混乱となり、酒で足腰の立たない兵は次々と討たれていくが、
村宗は騒がずに下知し、火の出る勢いで戦った。
婚礼を終えたばかりの宗景の内室(28歳)も小長刀を取って敵中に駆け入り、思う存分戦った後に自害。
その様子に敵も味方も「女といえど武士の子はかくや!」と感じ入ったのであった。

やがて奮戦していた村宗も討たれ、子息の宗景も死を決意したが、
「これは不慮の災難であるから、皆が討ち死にして敵に利を取らせるよりも、
一旦落ち延びた後に仇を報ずるべきでございます」
と明石大炊助が必死で止め、菖蒲谷治部小輔というものを添えて搦め手の門前から小船に乗せ、
備前国へと落としたのである。

なお、室津の住民は婚礼の夜に討たれた姫のことを悼んでひな祭りを延期しました。
これが室津で行われている「八朔のひな祭り」の由来だと言われています。
永らく伝えられたこの風習も一時期途絶えていましたが近年復活し、今年も盛大に開催されました。




491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/23(金) 01:46:46.64 ID:HJ8lQWr+
赤松政秀さん、
赤松晴政の名代として毛利元就に使いし、元就の以来で刀の鍔を自作していたり、
聖徳太子縁の斑鳩寺(太子町)を再建したり、
娘が信長の養女として関白二条晴良の嫡男に嫁いでいたり、
読書家で数千冊の蔵書があり、藤原惺窩がそれを引き継いだ広秀のもとに入り浸ったり
と、いろいろ凄い人なんだけどねえ。

政秀にすれは包囲網の形成を阻止し、主家の仇を討った大勝利だけど、戦国の掟は残酷だねえ。
敵にとっても自分にとっても。

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/23(金) 03:46:17.23 ID:TJav4rlU
>>490
色々凄いな、これw

30年以上前に死んだ村宗が黄泉がえって宗景が室津にいる。政宗どこいった。

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/23(金) 08:36:00.41 ID:+Ybzg5M+
>>490
>婚礼を終えたばかりの宗景の内室(28歳)

年齢は干支を一回り下って16歳とかかな?
28歳だと父親の黒田職隆の12歳の時の子どもって事になってしまう
ショタ好きには有りかもしれないが

最悪の結婚初夜

2011年12月22日 22:00

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/21(水) 20:59:47.44 ID:aWEG8RKI
最悪の結婚初夜


永禄6年(1563年)、浦上政宗の息子である浦上清宗と黒田職隆の娘との婚姻が決定。
翌永禄7年(1564年)の1月11日に政宗の居城である室津城で式が行われ、若い両人の門出を祝った。

しかし、この式の日取りを政宗と敵対していた龍野城主赤松政秀が完全に掴んでいた。
この日ならば室津城の防備も手薄であろうと政秀は深夜に夜襲を仕掛けたのである。

政秀の読み通り、祝賀ムードで緩みきっていた室津城はあっさりと陥落し新郎新婦はもちろんの事、
当主の政宗までもなすすべなくこの時に討ち取られてしまったのであった。




476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/21(水) 21:10:59.49 ID:Tx3Dk8IW
そして赤松政秀はこの時の新婦の兄にボロ負けして新郎の叔父にトドメを刺されるのでした。

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/22(木) 01:06:10.30 ID:WM21BRAy
浦上清宗の弟に>>474の妹が嫁ぐんだけど、
結局そっち(誠宗)も宗景の差金で殺されちゃうんだよな

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/22(木) 07:18:56.74 ID:N18cigQ3
黒田は怒ると後が怖いな

479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/22(木) 10:12:19.28 ID:XRnjuyt4
これはいくら戦国時代でも許されないレベル。

480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/22(木) 10:55:47.44 ID:VfzBN/Ns
鬼武蔵が居たら正面衝突してそうだ。

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/22(木) 14:55:03.19 ID:W64Iegsa
鮭様なら指揮棒で撲殺して家来に説教される

482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/22(木) 17:54:26.65 ID:v0i82vYG
>>476
ちなみに

新婦の兄=黒田官兵衛
新郎の叔父=浦上宗景(宇喜多直家の主君)

な。赤松さんもえらいのに喧嘩売ったもんだわw