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落人と思しき者があるか

2022年05月03日 15:59

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/03(火) 15:23:45.96 ID:EacVBKZg
或る記に、大阪夏の陣での大阪落城後、蜂須賀蓬庵(家政)の使いである長坂三郎左衛門は、
八幡の茶店にて暫く休息している時、亭主に「すまないがこの辺りに、落人と思しき者があるか」
と尋ねた。亭主が申すには

「されば、不審なる者があります。いかにも忍ぶ人と見え、夜々にこちらの方に来て、食物を調え
帰る人があり、私は覚束なく思いその跡を付けて参った所、葭原の中に隠れ住んでいるようでした。」

長坂はこれを聞くと大いに喜び、茶屋の亭主を案内者として、若党・中間を葭原の中に分け入らせ、
捜し求めた所、長宗我部盛親主従の二人、飢えが迫っていたのか、疲れ伏している所を捜し当てた。
故に忽ち二人を搦め捕ったという。

(新東鑑)



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四石取りになど

2021年11月19日 17:27

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/19(金) 13:00:05.02 ID:furH5ySo
「醒睡笑」とともに落語の元祖とされる「昨日は今日の物語」から

昔、下京に道無というものがいた。
良い娘を持っていたため他人が縁談を勧めた。
道無「相手はどのくらいの身上か?」
「四国の主であったが、今は浪人じゃ」
道無「おかしなことを、十石取りにでさえ惜しむ娘を四石取りになど」
とついに承知しなかった。

四国の主、もしあの人だとしたら縁談進めなくて正解だった気がする



201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/19(金) 13:34:01.89 ID:825YLhYZ
どうせ今浪人じゃ娘食わせられないことに変わらないし

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/19(金) 14:05:43.91 ID:tqj7QyJe
大阪城で露と消えそう

かの浪人が甲冑を帯びて発足した

2021年11月15日 17:58

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/15(月) 16:14:38.47 ID:jIwKfpHp
或る本に、豊臣秀頼公が大阪籠城との噂があったため、京都所司代である板倉勝重
長宗我部盛親を招き饗応の上に、

「貴殿の御事は、(関ヶ原とその後の土佐での騒動で)一旦御不審を蒙られたが、私がこのように
有る上は、宜しきように相計らい、帰国のことを執政申すでしょう。
ですので、例え大阪から召されたとしても、決して許諾されないように。」

そう懇ろに申されたので、盛親もこれに同意した。
そして勝重の邸宅より、直に大阪に下ったという。

また或る本に、無禅という人物があり、彼は七歳の時より近衛家に召し使われ、七代の間近衛殿の門を
出なかった奉公人で、百十九歳まで生きたが、相国寺門前に家があった。
また、同町の藪の中に、寺子を取って物を教え、渡世していた浪人があった。

大阪籠城の刻、ある朝、かの浪人が二、三人と共に甲冑を帯びて発足した。
この浪人が長宗我部盛親であったことは、後に知れた。
無禅は同町において、「異なる出で立ちの男かな。」と、盛親を直に目の当たりにしたと語った。

後で聞くと、寺町今出川の辻に於いて、この一行は二、三十騎ばかりになり、馬鑓等を持たせていた。
寺町三条に至ると二、三百騎になり、伏見では大方千騎にもなったと人々は言い合った。
珍事であるので町所より所司代へ訴え出ると、板倉の某は大いに怒り
「それと知っていれば討って捨てていたものを!」と言われたとか。

当時こういった物語が日々数多有り、皆実見の事だという。

新東鑑

長宗我部盛親の大阪入城についての逸話



今も親しく語らい合う仲である

2021年03月04日 18:19

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/04(木) 14:22:47.53 ID:835zJEu+
長宗我部の家人に、廿牧勘解由という武功の人があった。この人が人に語ったことによると

「大阪八尾にて、藤堂殿と長宗我部殿が戦ったが、朝の合戦の時に私も似合いの高名などしたものの、
後の合戦に味方打ち負けて、私も鑓を引き退いた。
この時、和泉守殿の母衣頭に名村岩石見という武功の者、私を見かけ、「返して勝負をせよ!」と
罵った。しかし「駆け引きは時によるべし。おのれのくそを喰らえ!」と言って退いた。

その折ふし、私の妹婿である伊尾木権兵衛という者が、「影湯殿、私もここに居る。返し合わせて
勝負しましょう。」と言ったため、鑓の準備をして二人共に引き返した。

その時、敵である石見はどう思ったのか、または功者であったためだろうか、南の方にゆく落人があり
さしかかって勝負すると見えた。その落人は、何の何某と申したが、その名も忘れた。
彼は終にそこで討たれた。
私たちはほど近くに在ったので、助け合わせたいと思ったが、敵は大勢に見えたため退散した。」
と言った。

堀伊織という人、これも藤堂にて母衣を預かる人であるが、ある時私に
「其の方は、今はいかなる浪人衆と話すのか」
と尋ねられ、廿牧勘解由の事を言って、彼が物語した内容を語った所、横手を打って
「さてもその事は、石見がいつも語っていて、「私に糞を食わせて退きし者があった。」と言っていたが、
誠であったのだな。その人を呼ぶことなるまいか。」

そう言われたので、「やすき事なり。」と廿牧を呼びにやって、石見と伊織と、勘解由と私の四人にて、
かの時のことを語った。笑い話と成り、
「偽りが無ければ、互いに物語しあえるものである。」などと言って、酒など飲んで立ち別れた。
これを交わりの初めとして、何れも親しくなった。

伊織の子供は、松平越前守殿の元に二人ある。今も親しく語らい合う仲である。

備前老人物語



957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/04(木) 17:31:47.95 ID:Dp28Kb2/
八尾の戦いというと
元長宗我部家臣で改易ののちに藤堂家臣となった桑名弥次兵衛吉成の
旧主と戦うのに忍びず、一人突撃して戦死した話が印象的

真田一人の出丸のように

2020年12月10日 16:51

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/10(木) 02:05:05.67 ID:bcPmQbhp
大阪冬の陣で、八町目に有った真田ヵ丸と申す出丸は、長宗我部と真田が
半分に割って持っていたのであるが、世間は真田一人の出丸のように風聞している。

長澤聞書

今でもそうだな



482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/10(木) 11:19:31.97 ID:rQHSFasw
長宗我部は長いから
短い真田でいいや
ってことだったり

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/10(木) 17:15:20.90 ID:WqAn93fS
長宗我部は名前が当時的に呼びづらいか認識しづらいで公家の日記でめっちゃ読み間違いされてなかったっけ

ちょうすがめ・・?ちゃうすかめ・・・?もういいわ!真田丸!
ってなったかもしれない

長宗我部盛親の改易と、浦戸一揆について

2020年01月03日 16:57

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/03(金) 15:32:01.50 ID:09lJbNmQ
慶長五年霜月の頃であっただろうか、長宗我部元親はこの度、石田三成の企てた逆心に同意し、
濃州関ヶ原を退散して土佐国へ下り、連々と公儀に、井伊兵部少輔(直政)を通じて弁明に
尽くし(使いは盛親家来・立石助兵衛、横山四郎兵衛)、兵部殿より盛親の自国居住を
仰せ入れになった。

盛親は霜月に上洛したが(ただし詳しい月日は知らず)、兵部殿を以て命が下り、土佐国を此の方に渡すよう
仰せ入れになった。盛親は、土佐国を引き渡す旨の判形を家来に持たせ遣わし、兵部殿より御家来(鈴木平兵衛)を
差し下した。

この時、山内対馬守(一豊)に土佐国が下される事になっており、先立って鈴木平兵衛と同年の冬、土州へ
差し下した。ところがこの時、長宗我部家来達が城を明け渡すことは出来ないと一揆を催し、鈴木平兵衛を
雪蹊寺に取り囲んだ。しかし盛親の家老たちが「主人が上方に有りながら一揆を起こせば、盛親の身上が
果ててしまう。すぐに明け渡すべし」旨を申したため、異事無く渡したのだと、この一揆に参加した者共は
申し伝えている。

(長曾我部覺書)

長宗我部盛親の改易と、浦戸一揆についての記録



桑名弥次兵衛は、長宗我部耳目の臣であった

2016年07月04日 18:41

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/03(日) 21:02:44.48 ID:mNniwc6S
桑名弥次兵衛貞敬は、元は長宗我部耳目の臣であったが、関ヶ原の後浪人していたのを、
武勇のほまれが有ったので藤堂高虎が招き物頭とした。

大坂の陣が起こると、長宗我部盛親は家臣の山崎与助に命じて再三にわたって桑名を招いたが、
桑名はそれに従わず、

「盛親公は先主です。恩を被ること厚かったといっても、私もまた、度々の戦功をいたして
それを謝する所ありました。
一方、現在の主人より恩を被ることも、また莫大です。その上近年天下治平にして合戦無く、そのため
新主への奉公は未だ勤まっていません。
ですので、お招きに従うことは出来ません。

ただし、私を招いて頂いたこと、世に忝なく存ずる所です。
ですので、御陣と見れば一番に駆け入って、討ち死にいたしましょう。
これはそちらと敵対を為すに似ていますが、物頭をも仕る私が御手にかかり討ち死にすれば、
御武辺の飾りともなるでしょう。
また、現在の主人に対しても、死を以って恩に報いるという道に叶います。
であるため、今、お召に応じることは出来ませんが、どうぞ死後をご覧下さるべし。」

そう返答したという。

(慶元記)



800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/03(日) 21:23:43.43 ID:br89QJVi
吉成の別名で貞敬なんてあったっけ?

うまくこの戦争が終わったら

2016年05月06日 17:53

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/05(木) 19:26:09.94 ID:YyOFRyTP
毛利安左衛門は長宗我部宮内少輔(盛親)に属して大坂の陣で戦ったが、生命を助かり、
後に人々にこう語った

「戦場の事については、今時の壮士たちが畳の上で推量しているものとは違って、簡単に
高名手柄の成るものではない。

おおよそ戦場においては、昼夜の境なく心は苦しみ、寒暑を防ぐことも出来ず、兵粮と言っては
黒米を食い、おっ立て汁に塩を舐めてようやく飢えを助け、寄せ手は竹束の陰に武具を枕とし、
霜露に晒されながら夜を明かす。

城中ではなおさら、今や攻める、今や討ち死にすると寝食も忘れて緊張している中、色々な雑説が流れ、
何某は内通するとか、誰は敵を手引して今夜火を掛けるとか、様々な危ういことが、
毎日毎日言いふらされていた。そのため膝を並べる同僚の面々であっても油断できず、片時も
安き心で居られず、手柄高名を心がける以前の問題であり、勇気を折る事しか無かった。

普通の喧嘩であれば、互いの怒りから勇気も出て、死も顧みない心にも成れるが、合戦は敵に対して
私の怒りなど無く、ただ忠と義を盾にして争う事であるから、喧嘩ほどの勇気も出ない。
であるから、十人中九人までは、このような状況に日夜悩まされると、高名立身の望みも失せて、

『うまくこの戦争が終わったら武士を辞め、どんな賤しき業をしてでも、一生を過ごすのだ!』

そう思う者ばかりとなるのである。」

(新東鑑)

大坂の陣に、大阪方で参戦した武士の回想。大阪城内の雰囲気が見えるようです。



589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/05(木) 19:48:54.52 ID:VjacA46w
織田頼長「せやろ?」

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/05(木) 21:50:59.76 ID:tNQfI0do
>>588
大阪の陣って、武士が必要とされなくなる世の中が目前に迫っていて、その恐怖から逃れるために死に場所を求めて参戦する場だと思ってたんだけど

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/05(木) 22:23:31.74 ID:jl9/eRDb
大坂の陣に参加する人の多くは、成功できなかった人たちがイチかバチかで行ったけど、
周りも似たような人ばっかりだからまとまらないんだよ

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/06(金) 12:19:30.86 ID:DFAR/Q3V
大坂の陣で大阪方に参加したのは、徳川家が改易しまくったせいで無職になってしまった武士たち

593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/06(金) 14:27:09.70 ID:jeuPwFxy
いや再就職出来なかった奴等だろ

596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/06(金) 22:22:12.91 ID:mUyupg5Q
>>588
俺この戦争が終わったら武士辞めるんだ(死亡旗)

原田角之丞が玉薬の箱を担いでから87年後の師走の江戸に

2015年12月18日 17:02

104 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/12/17(木) 23:27:45.86 ID:N9WvyaUM
原田角之丞は土佐の武士で、大坂冬の陣の時は藤堂高虎の郎党小林伊豆の配下だったが、
元は長宗我部家の譜代の臣であったことから、夏の陣では旧主盛親の下に馳せ参じて戦った。
そして首級一つを挙げただけでなく、長宗我部勢が撤退する際には道路の木戸を打ち破って、
置き捨ててあった玉薬の箱を拾い上げ、それを肩に担いで悠々と城中に引き上げてくるという武勇を見せたのである。

大石内蔵助良勝とその弟の信云は、進藤利英(近衛家家臣、内蔵助の妻の弟)から彼の武功を聞き、
浅野内匠頭長直の耳に入れた。
その結果、角之丞は寛永14年に食禄五百石、足軽頭として浅野家に招かれることになった。
さらにその5~6年後には利英の娘・世牟を娶ることになる。

原田角之丞が玉薬の箱を担いでから87年後の師走の江戸の町に、亡き主君の仇の首級をくくりつけた槍を高々と掲げ、
同志たちとともに泉岳寺を目指す男の姿があった。
赤穂義士・潮田(うしおだ)又之丞高教。角之丞の孫にあたる人物である。
(大石家外戚枝葉伝)



大阪夏の陣・桑名弥次兵衛の最期

2013年10月31日 19:17

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/30(水) 20:09:13.61 ID:vPGML2T9
慶長20年(1615)5月6日、大阪夏の陣で藤堂高虎の軍と長宗我部盛親の軍が激突した、
八尾・若江の戦いでのこと。

桑名弥次兵衛は元々長宗我部譜代の重臣で、幡多郡中村の城主であり、合戦のたびに武功を上げた、
天下に名の知れた勇者であったが、慶長5年、関が原の戦いの結果長宗我部家が没落すると、
桑名には井伊家や蜂須賀家などから仕官の誘いがあったが、かつて秀吉の四国征伐の時、
彼の降伏を周旋された縁を以って、藤堂高虎に7千石で使えた。

そしていかなる不思議であろうか、この日、八尾において旧主たる長宗我部盛親の軍と
戦うことに成ったのである。

桑名弥次兵衛を始めとして、その嫡子将監一久、そして杉立九郎左衛門、市田十右兵衛、鶴原善左衛門、
入交助左衛門といった、旧長宗我部配下の土佐組は、群がる敵を次々と突きたて、
先手を置い崩し、長宗我部旗本にまで切り入った。

長宗我部譜代の者達は皆、互いに見知った相手であった。
長宗我部の旗本たちは桑名を見るや、口々に叫んだ

「お主は桑名ではないか!」
「それ逃がすな!桑名弥次兵衛を討ち取れ!」

そういって我も我もと桑名に切ってかかった。中でも近藤長兵衛が先に進み、
無二無三に突いて掛かり、桑名弥次兵衛の槍を突き折った。

そこで桑名は刀を抜き近藤と打ち合ったが、刀も打ち落され、最期は短刀を握ったところを
近藤の槍に貫かれた。

多くの土佐組の面々も、組頭である桑名弥次兵衛と、同じ場所で討ち死にした。

『彼らは新主への奉公もはたし、また旧君への志も立てたのだ。』

合戦後、人々は彼らの戦いに感じ入り、そう言い合った。

長宗我部盛親も哀れに思ったのか、夜に入り、桑名弥次兵衛の首を嫡子将監の陣所に
送り返してきたと伝わる。

(元和先鋒録)




622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/30(水) 22:15:59.34 ID:eSNBBkKf
盛親の隊って、夜になる前に壊滅してるよね?

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/31(木) 07:14:19.20 ID:uRpDfnGO
してないだろ

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/31(木) 09:44:19.74 ID:DhARhHe+
部隊としては壊滅してたが首一つ届けられないような文字通りの全滅してた訳ではないだろ

今どき畳の上では想像も出来ないことだろう

2013年10月20日 19:13

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/20(日) 11:03:07.98 ID:o9prHf2z
これは毛利安右衛門という浪人が
大阪の陣で長宗我部盛親の手勢に属して戦ったときのことを
嘘偽りなく、ありのままに語ったことである。


「今どき畳の上では想像も出来ないことだろう。
戦というものは昼夜油断なく心を苦しめ、夜は露霜に犯され安々と眠ることも出来ず、
いざ攻撃というときに、竹束の陰にいて夜を明かすまでの心持といったらない。

城内の者は昼夜油断なく守って、食事はただ飢えを助けるまでのこと、
うまい、まずい、などとは寝言にも出せず、なかなかに浅ましいことである。

喧嘩なら互いの怒りの上の事で、死んでもそれまでだが、合戦には怒りはない。
ただ主君への忠を思って働くまでのことである。

城の中でも寄せ手の中でも流言飛語を放ち合い、
誰々は逆心を企て敵に内通したとか、やれ何だとか、
毎日毎夜さまざまな風説が立って人の心を驚かす。

さて敵と取り結び、互いに鑓を合わせる時は、土煙が立ってすさまじいものである。
一命を捨てての合戦なれば、人々の心は朧月夜に夢路を行くが如くで、
場なれて武功のある人などは、場数少なき者とは違い、
少々は目もあいて、はっきりしているであろうが、
『それでも朧月夜のようになることは同じだ』と、場数を踏んだ士もよく物語った。」

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/20(日) 11:04:01.82 ID:o9prHf2z
「我らは鴫野堤の合戦(八尾の戦い)に、堤の下に皆々折り敷いて鑓を伏せていたところが、
藤堂和泉守高虎の軍勢が寄せてきた。
だんだんと寄せ太鼓の音が近くなってくる。
大将、長宗我部盛親は『采配を出すまで、必ずともに静まって控えておれ!』と
馬を乗り回して下知をする。

この時、思わずわなわなと震えがこみ上げて来た。
これは口惜しい事かな、と思って周りを見るに、やはりみな震えているではないか。

やがて間近くなって、鑓を合わせるとなると、たちまちに震えが止まった。
この時、藤堂勢の先手では、歴々の人が討死にをされた。

戦場で討死にと言えば、ただ戦って死んだとばかり思うだろうが、
なかなかそうではない。

目を廻したところを首を掻かれたり、手傷を負っているところを押し伏せられて首を取られたり、
あるいは長柄の鑓で叩き殺され、または踏み殺されなどして、いろいろの死にようがある、

それを討死にとさえ言えば、世間では互いに勝負して死んだものと思っているのだ。」


『二川随筆』より





534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/20(日) 14:20:07.11 ID:fcksWb1h
流石に真に迫る物が有るな・・・

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/20(日) 14:32:01.94 ID:Y2EKd+Ow
逆に乱戦の中で背中に傷を負ったりしたら臆病者にされたりするんだろうか

長宗我部盛親、旧家臣との会合

2013年07月02日 19:58

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/01(月) 22:24:52.03 ID:4xg1CQW2
関ヶ原による長宗我部家改易後、近江に流れ井伊家家臣となった福富親政
大阪冬の陣にも出陣した。

「講和が成立したため、私は大阪城内に参り、古主である長宗我部盛親公に御目見得いたしました。
盛親公は私への御意に

「この度其の方はどこの攻め口に居たのか?」

とお尋ねに成りました。私が「井伊掃部頭(直孝)の手に居りました」と申し上げると、

「去る4日の朝、土居を攻め立てた人数の中に居たのか?」

とお聞きになられたので、「御意の通りです。4日の朝の掃部頭備のうち、
討ち死にした者の死骸を、ただ今回収しているところです。」とお答えすると

「掃部頭の手勢のうち、あの朝どれほど討ち死にしたのか?」

「17人、討ち死にいたしました。」

「そこは、私の持ち口であった。私への報告も、其方の申す通りである。」

そうして御側衆に仰せ付けになられ、討ち死にした17人の旗指物をお取り寄せに成り、
私に見せて頂きました。井伊家の同僚として近しい者達の指物であったので、それを見ると
涙を流してしまいました。

この時、盛親公は

「この平右衛門の祖父である飛騨と、父の隼人は、その時代非常に活躍し、討ち死にをした
者たちだ。」

と、その傍にいた中内惣右衛門と言う御仁にお話されました。誠に、忝い次第でありました。

それから盃を頂戴つかまつりました。その座には、近藤喜左衛門、川村半助、十池新右衛門
という方々が居ました。

このうち十池新右衛門は、この後紀州大納言様御家に仕えたと聞き及んでおります。」
(福富平右衛門親政法名淨安覺書)

大阪冬の陣の和議の後の、長宗我部盛親と旧家臣との会合の模様である。





かの長宗我部盛親という人は

2013年02月20日 19:51

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/19(火) 19:34:38.35 ID:Nr6+gYY6
「かの長宗我部盛親という人は、国政のことも心にかけ、知勇もある方であったのに、
一日の命を捨てかね(大阪の)死地を逃れ、その結果賤しき者たちの手に渡り、縄目の恥に及びました。
しかしこの人の常の行跡や、八尾合戦での活躍を聞けば、それほどの不覚人には見えません。

一体どんな因果によってこのような事になったのだろうかと考えてみますと、久武内蔵助という大悪人が、
盛親を立てて己が威を欲しいままにしようとしたため、蓮池左京進、比江山掃部助、以下を讒言し、
津野孫次郎に詰め腹を切らました。

これらは、盛親自身の考えではありません。ですが、皆盛親を立てるために行われたことでした。
ですので、それら積悪の餘禍が見に積もり、その罪が盛親一人に帰して、
武運薄く、生きながらに捕らえられ、白昼に誅せられたのでしょう。

本当に痛わしい事です」
(土佐物語)

土佐物語より、長宗我部盛親の生涯についての、著者の所感である






大阪落城の原因は

2013年02月17日 19:26

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/17(日) 15:33:31.77 ID:ED2zy0Da
大阪夏の陣で大阪が落城したあと、逃亡していた長宗我部盛親も潜伏先の京都八幡の葦原で発見され捕縛。
その身柄は二条城へと運ばれた。

盛親はここで板倉伊賀守(勝重)の尋問を受ける。
そこで勝重は、このようなことを聞いてきた

「あなたはこの度の合戦において戦われた東国勢の中で、何れが最も軍功優れていたとお考えですか?
また、大阪方の敗北の責任は、誰にあったとお考えでしょうか?」

これに盛親
「東国勢では井伊掃部頭(直孝)の軍功を第一とすべきでしょう。
そして大阪の落城は、この盛親が原因です」

「あなたが?」

「はい。その理由ですが、あの八尾での合戦において、関東方の先手は藤堂和泉守(高虎)と井伊掃部頭、
そして大阪方は木村長門守(重成)と、この盛親でした。
長門守は掃部頭に当たり、私は和泉守と対戦しました。

私は見事高虎を討取り、秀頼公への忠勤に備えようと思っていた所に、長門守が不意に討死をしたためその部隊が崩壊し、
井伊勢が我々の横合いから攻めかかってきました。
このため、我が方はついに敗北したのです。

一陣が敗れた上、残党を無事に回収できなかったのですから、大阪方が敗北したのは、第一にこの盛親が
原因だったというべきでしょう。」

これを聞いた勝重は、大いに感じ入ったとのことである。
(土佐物語)





620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/17(日) 18:43:03.58 ID:eP7uYQxR
「徳川の勝因は盛親を破ったこと!大阪の敗因は盛親が敗れた事(キリッ」の元ネタはこの話か。

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/17(日) 19:55:01.38 ID:RP78d43e
この後に粗末な食べ物を足軽からあてがわれ悔しがっていることを聞きつけた直孝が
盛親を座敷に上げて大名料理で饗応して感動の涙を流したという話があったな

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/17(日) 20:20:03.88 ID:i6W42d/S
良い,Come onのCome in

て言って呼んだんですね

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/17(日) 21:02:44.10 ID:aXxE8anV
>>621
盛親さん頭いいなあ

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/17(日) 21:48:30.80 ID:gc7ACnQo
暗に木村重成が悪いって言ってるようにしか見えない

津野親忠謀殺

2013年02月03日 19:00

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/02(土) 20:04:25.15 ID:Yp8Hd7hg
関ヶ原の敗北から土佐に帰り着いた長宗我部盛親は、家臣を集め、家康への謝罪のための上阪について相談した。

「とにかく大阪に上がると決めた上は、片時も急がなくてはならない。
供の人数が多いのは良くない。士が80人ほど、雑兵180人ほど、日限は10月1日である」
と決定し、皆その準備のため退出しようとしていた所、久武内蔵助(親直)が進み出て申し上げた

「今度大阪に御上りされるのなら、その前に津野殿(津野孫次郎親忠)を殺されるべきです!
何故かといえば、津野殿は藤堂和泉守(高虎)殿と御入魂であり、今度我々が反逆に与したのを幸いに、
土佐のうち半国は津野殿に宛てがわれるように、取持ちをすること疑いありません!
その時になって後悔しても後の祭りです。急いで孫次郎殿を謀り呼び寄せ、詰め腹を切らせるべきです!」

これを聞くと盛親は顔色が変わり
「これは内蔵助の言葉とも思えない!この盛親は庶子ではあったが、長男の弥三郎殿(信親)は討ち死にされ、
五郎次郎殿(香川親和)は不幸にして早死され、孫次郎殿は他家を継がれていたために、私が家嫡となったのだ。
これは、実際には亡き父上の、私に対して慈愛が深かったためである。

それに、今回謀反に与した上は、公儀よりの御赦免はただでさえ計り難いものである。
その上に津野殿に腹を切らせては、重罪を逃れることは出来ない!
この事が、例え露見しなかったとしても、兄を殺して自分の身を立てるなど、出来るものか!」
そう苦々しく言い捨て、これには久武も、返す言葉も無く退出した。

ところが久武内蔵助は自宅に帰って思案し
「今回の私の進言が津野殿に聞こえれば、きっと深く恨まれるだろう。そうなっては、どんな事をされるか
解ったものではない。よし、たばかって討ち取るのだ!
盛親公とて今はあのように言っているが、いざ所領を分割されれば必ず後悔するだろう。
しかし、私一人でこの事は出来ない。」
と、かねてから親しくしていた津野藤蔵を急ぎ呼び寄せ、暗に自分の計画を伝えると藤蔵も同意し、
この事は時間をかけてはならぬと、その場から津野親忠の元に、盛親からと称して直に使いを立てた。

使いは「今回の(関ヶ原での敗戦の)件に関して、ご相談したいことがあります。
赤岡にてお待ちしておりますので、どうか急ぎお越しください。」と伝えた。

これを聞いた津野親忠は、「家の安否はこの時である」と、取るものもとりあえず手勢少々を引き連れ
赤岡に向かって急ぐとこにに、久武内蔵助は人を遣わして、先ず岩村の吉祥寺に入るよう伝えた。
一行がここでしばらく休憩していると、久武と津野藤蔵が数百騎を引き連れ押し寄せた。

「土佐守殿(盛親)の仰せである!孫次郎殿、急ぎ御腹召されるべし!我ら二人、御介錯のため罷り越しました!」

この突然の自体にも。津野親忠は少しも騒がず
「一体何の罪によって、この親忠を謀り寄せて、討ち手を差し向けたのか!?
血の繋がった兄を殺して、自分が安泰になどなれるものか!天罰たちまちに来て、すぐに思い知るであろうよ!」

そう吐き捨てて直ぐに切腹しようとするのを郎党たちが押しとどめ
「これはなんと口惜しいお振る舞いでしょうか!?何の罪で、おめおめと御腹を召されるとのでしょう!?
ここは寄せ手の奴原を追い散らしてやるべきです!」そう、打って出ようとした所、津野親忠

「お前たちの志は誠に神妙である。だが、もはやとても逃れられぬ状況だ。
この親忠は自害する。だがお前たちは、何方へも立ち退き、妻子を養ってやれ。」
そう言うやいなや腹を十文字に掻き切った。

これを郎党の久松源蔵が介錯し、その太刀を持ち直し、自分の喉笛に突き立て、主君の死骸にうち重なって死んだ。
津野親忠、享年29歳。戒名は教山寺雪庭宗筝と号した。これにて、土佐津野氏の正統は18代にて
断絶したのである。

この久武内蔵助親直の父・肥後守則義、兄・内蔵助親信は、性格柔和にして、信頼厚く
忠義を専らにし、主君の不義を諌め佞奸を退けたため、人々は皆彼らを敬ったというのに、
今の内蔵助親信は、親にも似ず兄とも違い、奸佞にして邪智深く、人を滅ぼし身を立てようとする人物であった。
このような悪人が威を振るえば、どんな事が起こるのかと、心ある人々は嘆いていたが、
彼は蓮池、此江山を始め武功の者たちを讒言し、今またこのような悪事を行って、
結局は長宗我部家を滅ぼしたのである。
(土佐物語)




388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/02(土) 20:11:10.62 ID:NAZeXtiQ
そういや盛親って、無位無官だよなぁ

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/02(土) 21:18:44.06 ID:7eErHXlA
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4870.html
この逸話?
長曾我部宮内少輔と書かれているが

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/03(日) 01:19:56.57 ID:lidqeqCk
いや元親は正式に叙任されてるけど、盛親は自称でしかないんだよ。

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/03(日) 08:01:01.44 ID:wW0No1gv
豊臣政権下の国持大名が無位無官って不思議だね?

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/03(日) 09:37:06.73 ID:EVY1IRcA
実効支配を黙認されてるだけで正式な承認は受けてなかったんじゃ

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/03(日) 09:44:22.58 ID:Rvo8ZQwG
代替わりでゴタゴタがあったんだっけ
確か秀吉が元親の後継者として指名したのは他の人物だったとか

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/03(日) 10:58:27.33 ID:lidqeqCk
軍役は慶長の役を含めて一貫して土佐侍従(元親)宛に出されてる。

元親の死去が秀吉死後だから、ゴタゴタしてたんだろうなぁ
領知宛行状も出てない筈だし

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/03(日) 11:01:07.97 ID:sbncRgEz
豊臣政権下は武家官位が重要視されてたということだから
前ちょっと出てた公家成、諸大夫成とかいうのだよな
国持大名でありながら諸大夫成でもなかったのか

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/03(日) 11:30:16.01 ID:lidqeqCk
世子が元服した時点で諸大夫成するのは、清華として扱われてる家くらいかと

397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/03(日) 11:36:10.14 ID:lidqeqCk
間違った。清華は元服した時点で公家成だな。

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/03(日) 11:40:50.34 ID:sbncRgEz
>>397
誰がいるの?

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/03(日) 12:22:24.68 ID:lidqeqCk
>>398
徳川秀忠、宇喜多秀高

微妙な例としては、毛利秀元が秀吉に輝元の後継と認められた時点で侍従になってるのと
前田利長が前田家が清華になる前に侍従になってる。


ある男が大坂城内の長宗我部盛親を訪ねて来た

2012年03月06日 21:50

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/05(月) 20:51:13.58 ID:dNvaIcjz
慶長19年(1614)12月下旬、幕府方と大坂方で和議が結ばれ、大坂冬の陣は終了した。ある者は帰国の準備を進め、
またある者は次なる乱を想定し準備を進める中、ある男が大坂城内の長宗我部盛親を訪ねて来た。

「盛親様、お久しゅうございます。」
「お前は!・・・攻め手に加わっていたか。どの手勢にいたのだ?」
「今は、井伊掃部殿の配下におりまする。」

「そうか。4日の朝、真田丸の戦いにも居たのか?」
「居りました。本日は、あの時に討ち死にした者の遺品を引き取りに参りました。」
「あの戦いで井伊家の者は何人死んだ?」
「名のある者、17人が討ち死にを遂げました。」

「そうか・・・皆の衆、この者の申したことは本当ですぞ!」
盛親は周囲の者にそう言い放つと近習に、戦利品である17本の旗指物を運ばせて、男に渡した。
指物の中に知人のものを見つけ、密かに涙する男を眺めつつ、盛親は言葉を続けた。

「この者の祖父も父も、わが父や兄の用に立ち、その馬前で死んでくれた勇士であった。
それに比べて、わしは・・・ハハ・・・・・・和議成ったばかりでの役目、大儀。杯を取らせる。」
「かたじけなし。」
盛親の杯を飲み干した男は、丁重に礼を返して大阪城を去った。(福留覚書)

男の名は、福留半右衛門
『福留の荒切り』と呼ばれ、伊予攻めで戦死した福留飛騨の孫で、『蛇もハミもそち寄れ、隼人殿のお通りじゃ』
と、その武勇を童歌にまで称えられ、戸次川の戦いにおいて長宗我部信親とともに死んだ福留隼人儀重の子である。

関が原の戦いの後、牢人となった半右衛門は諸大名を転々としており、大坂の陣の時は井伊家に属し、
戦後は尾張徳川家に仕えて生涯を終えた。

半右衛門自身の生い立ち、戦場における同僚との他愛ない交流、一時期仕えた加藤嘉明家での気に食わぬ上司等、
克明に記された『福留覚書』において大坂の陣、特に夏の陣のことは、淡々と足早に書かれている。




264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/05(月) 22:45:24.34 ID:hmxE2oEs
旧主と戦ってんだモンな、そりゃー色々思うところもあるだろうしなあ

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/05(月) 23:27:18.60 ID:dS8mE8KI
関ヶ原からこっちのgdgdで改易された上に三代に渡る忠臣の家が
今じゃ敵ときたら盛親だって泣く事も笑う事も出来んよなあ…

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/06(火) 00:37:40.52 ID:rY59UG3G
しかも本来だったら東軍だったんでしょ

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/06(火) 00:39:49.20 ID:zHC8wvM9
盛親さんは過小評価

268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/06(火) 02:00:37.15 ID:EYPfSLoi
実際のところ親忠兄さんはどれくらい優秀だったんだろうね?

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/06(火) 07:38:41.73 ID:4+6SQZHw
夏の陣では盛親は井伊隊と闘っているよな
「徳川方第一の戦功は井伊掃部」とか言って
その際に」長宗我部の忠臣だった男のこともいろいろと思いを馳せたんだろうな

長宗我部盛親の悪い話、井伊直孝のいい話

2011年04月22日 00:01

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/21(木) 21:05:07.62 ID:McsYp8ep
長宗我部盛親の悪い話、井伊直孝のいい話。

長宗我部盛親、板倉勝重の尋問に(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3353.html)の後の話
捕縛後の長宗我部盛親・いい話(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-360.html)にも繋がるのかな?
手元の資料では板倉の尋問後のエピとなってる。

尋問が済んだ後、塀の支柱に盛親は繋がれていた。
そこに年老いた番人が黒米と赤鰯を山折敷に盛ったものを食べさせようとした。

だが、その扱いに盛親は、悲痛な声で番人に訴えた。

「戦に敗れて捕虜になることは、古今に例のないことではないから恥だとは思わない。
 だが下僕扱いをするというのはあまりにひどいではないか?
 このような扱いを受けてまで食おうとは思わん、早く命を絶ってくれ。」

たまたまその現場を通りかかった井伊直孝は、盛親に詫びた。

「一軍の将である貴殿に、このような無礼な扱いをして申し訳なかった。許して下され。」
そう言うと直孝は盛親を座敷へと招き、台所方に命じて食膳を調えさせ、盛親に振舞った。

「このような扱いを頂きかたじけなかった。どうぞ首をはねるが良い。」
盛親は感銘して直孝に礼を告げると、その場から連れられ刑場の梅雨と消えたのであった。

穀米や赤鰯というのは、御世辞にも大名や上級の武士が口にするものではなく、ましてや盛親にとっては最後の晩餐である。
直孝はそれを察し、せめて最期くらいは失礼がないように…と気を利かせたのかも知れない。





79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/21(木) 21:06:49.68 ID:y+Kxftgo
>>77
直孝よりはるかにいいもの食ってるなぁw

讃岐善通寺の狸と

2010年11月28日 00:02

492 名前:1/2[] 投稿日:2010/11/27(土) 00:04:26 ID:tE13QuhJ
文化1,2年(1804,05)の頃の話だそうだ。

讃岐は松山の善通寺に、納所(施物の金品・米穀などの出納事)そしている僧があった。
彼は大変に律儀篤実な性格であったため信頼され、その年の寺中諸勘定(年間の収入と支出の計算)を
任された。

ところがこの僧、もとより計算など不案内で、一切の不正無く正直に計算したにもかかわらず、どうしても
20両ほどが足りない、ということになった。
彼はこの事を朝夕思い悩み、計算をしなおしたり数字の確認をしたりしたが、やはりどうしても20両足りない。

真面目な性格のこの僧『これは私の責任である。こんな体たらくで生きていても恥辱であるだけだ。
…よし、死のう。』と思いつめ、遺書を書き『今宵死のう』と坐禅を組んで夜がふけるのを待った。

その時である

「死ぬのはしばらく待ちなさいよ」

戸の外から突然、声が聞こえてきた。
僧驚き

「わ、私は死ぬことを誰にも言っていない!私の心中を知るお前は何者か!?」
「まあまあ、ちょっと外に出てきてください。言っておきたいことがあります。」

僧が外に出てみると、そこにいたのは大きな古狸であった。

「恐れながら、聞いて頂けますかね?俺はね、この山に数年来住んでる狸で、こう言うことには鼻が効くのさ。
あんたはどうしてそこまで心が追い詰められて、死のうなんて思ってるのさ?」

「…もはや決心したことであるし、隠すこともないだろう。
かくかくしかじかの理由で私は死を決したのだ。…それにしても、かねてからこの山に年久しく住む狸がいるとは
聞いていたが、おまえだったのか。その狸が、どうして私が死のうとするのを止めようとするのか?」

「その前にちょっとお聞きしますが、足りない額はいくらで?ふむ、20両…。分かりました、俺がその20両、
明後日までに用意しましょう!だから死んじゃだめですよ?じゃ!」

去ろうとする狸に僧、慌てて呼び止め

「ちょっと待て!お前の志は大変ありがたいが、それは駄目だ!
狸は金を持っているわけがない。金を用意するというのならおおかた、どこかから盗み取ってくるのだろう。
それは私が盗むのも一緒である。やはりいけない。この事止めにしよう!」

「ははは、あなたがそう疑うのも尤もなことだが、そんなことはしないよ。安心して待っていなさいって。」
そう言って立ち去った。

493 名前:2/2[] 投稿日:2010/11/27(土) 00:05:22 ID:tE13QuhJ
翌々日の夜、僧のもとに狸が現れ、20両を渡した。
「本当に持ってくるとは…」
僧、大いに喜んだ。…が小判を見るうちに
「違う!これは違う!」

僧、驚いて
「た、狸よ、この小判はたしかに金で出来ているが、我々が使っている小判とは形がまるで違う!
これは一体どういう金なのか!?」

「これはね」

狸、答える
「讃岐と土佐の境、人家も絶えた幽谷に埋まっていた、長宗我部の埋蔵金さ。

長宗我部盛親が関ヶ原の後没落したときのことだ。
長宗我部の連中はその幽谷に、金銀を埋め隠したんですよ。
これがまた恐ろしく深く険しい谷でね、我々の眷属であってもなかなか、手がだせないんなが、
まあどうにかこうにかして、そこからこの20両を揃えてきたのですよ。」

「どうしてそこまでして…?」

「俺はこの山に住んで年久しくなるわけだが、そのうちに子孫も増えて、食料にも事欠く時があったのさ。
だがそんな時、納所のあんたが寺のお供え物を山に捨ててくれた。それを拾ってきて俺は自分の
眷属を養うことが出来たんですよ。その恩返しさ。

…ま、もう一つ正直に言えば、あんたに死なれて新しい納所になったら、あんたみたいに俺達に良くして
くれないんじゃないか、とも思ってね。まあそんなわけで俺たちの眷属一同、必死でその埋蔵金を探したのさ。
じゃあな!」

そう言って姿を消した。

残された僧は途方に暮れた。

「このような金、今の世間に通用しないではないか。」
もはや致し方なく、住寺にすべてを告白した。住寺大いに驚き
「計算が合わないからと言って、死を考えるなどあっていいものか!」
と、彼の誠実さを感じつつ叱った。しかしてその長宗我部の20両、住寺にもどうにも取計れず、
事の訳と共に松山の役所に届けた。事のあまりに奇異さに役所から領主に伝えられ、領主からは
「その金子、現在通用している小判に直せばいくらほどになる?」との諮問を受け、専門家が計算したところ
「百両あまり、といったところです」との答え。

そこで長宗我部の埋蔵金20両は領主のもとに差し置かれ、善通寺には新たに、通用金で百余両が
下げ渡された、とのことである。

讃岐善通寺の狸と長宗我部埋蔵金、のお話。




494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/27(土) 01:36:27 ID:40SVBwaw
餌付けをするための狸がいない

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/27(土) 01:41:26 ID:ELa52p38
>>494
世田谷に引っ越せ

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/27(土) 11:05:08 ID:vGEDQhUj
周囲をよく見渡せ
常に赤ら顔ででっぷりと突き出た腹、短足、風呂嫌い、そいつが狸だ
最近は飲みに行く同僚も金もなくて寂しがってるからちょっと相手してやれ

497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/27(土) 11:09:41 ID:kIKHEjZH
200年間でおよそ5倍のインフレ
これは経済規模が拡大したから?

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/27(土) 11:26:04 ID:74Gns0id
>>497
重さ・含有率

499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/27(土) 13:13:47 ID:cbQ5ndMJ
>>497
純度と大きさ、も+かな。

200年後の金の方が他の混ぜものして質を落としている。
8代将軍の頃で例えると「家康の頃より今の方が小判1両の質が落ちており、含有率が半分以下」
って言われてる。

その後含有率はどんどん下がっており、15代の頃には開国その他の小判改訂の影響で
トンでもない内容に。

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/27(土) 14:47:28 ID:w/UemxFO
豊臣家が作った天正大判がかなりでかいらしいね

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/27(土) 14:49:04 ID:eB89gQu3
大判は小判の10倍クラスだろ


504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/28(日) 10:41:43 ID:XWDtN4Z5
>>501
そらそうよ。大判=十両なんだから。
江戸時代には大判にはプレミアがついて十倍以上の価値になったらしいが。

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/28(日) 11:35:52 ID:wC+n/paj
大判=7両半では?
対小判相場があるのは認める

大阪城中千畳御上段の間には…

2010年11月15日 00:00

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/13(土) 23:52:40 ID:9yQUECx3
落語「くっしゃみ講釈」の「難波戦記」について語っている部分

「大阪城中千畳御上段の間には、内大臣秀頼公、御左側には、御母公淀君をはじめとして、
介添として、大野道犬主馬修理之助、軍師には、真田左衛門尉海野幸村、せがれ大助幸昌、
四天王の銘々には、木村長門守重成、長曾我部宮内少輔秦元親、薄田隼人正兼相、
後藤又兵衛基次・・・」

真田信繁「・・・」
毛利勝永「・・・」
長宗我部盛親「おい!」
※「元親」になっているのは、本の誤植ではなく、なぜか落語ではずっと「元親」の
まま語られてきたらしい




590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/13(土) 23:55:19 ID:xQdgwL9M
薄田隼人の逸話といや、狒々退治があるけど、なんであんな話ができたんだろうね?
実際にでかい猿を狩ったことがあったんだろうか。

土佐物語十九巻「盛親古き士の事」より

2009年12月19日 00:09

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 03:03:42 ID:+KnLqQFE
土佐物語十九巻「盛親古き士の事」より

長宗我部盛親改易の後長宗我部家中は、新規外様は勿論、譜代恩顧の者たちも、
新たな主君を求めて土佐を出、散り散りとなった。
吉田猪兵衛は福島正則に仕えたが、大阪の陣の勃発に、旧主盛親が豊臣方として
参戦したという事を聞くと、彼は当時江戸にいたがすぐさま出奔し、盛親に合流すべく
大阪へと向かった。

ところが大阪では既に合戦は始まっており、猪兵衛が大阪城に入る事は出来なくなっていた。
途方にくれあちらこちらと彷徨っているうちに、幕府方の寄せ手の中に、同じく長宗我部旧臣、
桑名弥次兵衛一孝を見つけその陣所を尋ねた。

「土佐退散の後は音信もありませんでしたが、本当にお久しぶりです。」

猪兵衛と桑名は、互いに涙を流して旧交を懐かしんだ。そして猪兵衛

「私は福島家に仕えていましたが、この度の事を聞き、盛親様のところに駆けつけねば
どうにもならないと思い、こちらへ参りました。しかし来て見れば寄せ手の警戒は厳重で、
とても城に入ることが出来ません。」

と言う。桑名はこれを聞くと

「お主が大阪に入城しようと言う志、まことに立派だと思う。
どうにかして城に入り忠勤をなされよ。

…私も伴に入城したいが、今仕えている和泉守(藤堂高虎)様から、非常な厚恩をいただいた。
今もし籠城衆に参加してしまえば、主君に弓を引く罪人となり、しかし主君に忠義を成そうとすれば、
譜代相伝の主を敵とすることになる。八逆罪の無道人とはこの事だ。
正直に言って、進退窮まっている。

この上は敵が大勢居る所に駆け入り、何も手を出さずに討死して、主君に不忠を成さず、
旧主に不義をなさないようにしよう。そう思い定めている。
どうか私を、お主たちの手にかけよ。…これは暇乞いである。」

そう行って盃を交わし、涙ながらに別れた。


翌年
八尾の合戦において、長宗我部の部隊の前に、藤堂家の部隊が立ちふさがる。
そこに、桑名弥次兵衛の姿もあった。
盛親はこれを見つけると

「おのれ譜代の主に向って弓引く曲者!誰でも良い!弥次兵衛を討ち取った者を
今日の合戦一の高名の者とするぞ!」

すると吉田中務、および和食の人々進み出て「弥次兵衛は我らが一族であります。
どうして他人の手に懸けさせましょうか!」

桑名弥次兵衛は真一文字に駆け入った。そこを長宗我部の部隊に取り巻かれ、
たちまち討ち取られた。
弥次兵衛は討ち取られる時、槍を構え直す事もなく、真正面を向いたまま討たれたのだと言う。

その首が盛親の元に実検に持ち込まれる。桑名の首は兜をかぶったままだった。
桑名は兜の忍緒を真結びにして、両端を切り捨てており、兜が取れないようにしていたからである。
この時、吉田猪兵衛が盛親の前に出て、先に桑名と対面した時の話をした。
これを聞くと

「さては桑名は今日、討死すると思い定めたのか。不憫な事だ…」

そう、涙を流した。長宗我部旧臣同士が戦い会った中で起こった、悲劇の一つである。




130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 03:37:39 ID:pKgGud1U
盛親の話が出てるんで便乗なんだけど、
以前読んだ小説に盛親の部下に唖の部下がいて、他の家臣はなんでそんなやつを
召抱えたんだって非難してたけど、
盛親が大阪に入場する際に、この人が各地に散らばった家臣を集め軍勢を集めたってような
小説があったんだけど実話かな?
なんか元ネタとかありそうな気がして気になってたんだけど・・・

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 06:24:52 ID:9aNZY2yQ
盛親って改易されて寺子屋教師時代の逸話ってあるかな?
町民相手だったのか下級武士相手の教師だったのか

宗茂と違って改易されてからもちゃんと働いていたのに御家再興は出来なかったのは
やっぱ伝手が無かったのか

132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 09:31:08 ID:l1zn3xgh
寺子屋ってんだから町人じゃないかな
大岩祐夢でググッてもまあ、「寺子屋で学問を教えていた」と出る。

京で武家の子弟の教育を許すとか危険すぎるし。

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/18(金) 09:59:37 ID:cHvoePbf
伝手もないし宗茂みたいに勇名を知られた大将でもないし
関ヶ原後のお家騒動での兄殺しで不興をかったのがやっぱまずかったんじゃない