387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/02(土) 20:04:25.15 ID:Yp8Hd7hg
関ヶ原の敗北から土佐に帰り着いた
長宗我部盛親は、家臣を集め、家康への謝罪のための上阪について相談した。
「とにかく大阪に上がると決めた上は、片時も急がなくてはならない。
供の人数が多いのは良くない。士が80人ほど、雑兵180人ほど、日限は10月1日である」
と決定し、皆その準備のため退出しようとしていた所、久武内蔵助(親直)が進み出て申し上げた
「今度大阪に御上りされるのなら、その前に津野殿(津野孫次郎親忠)を殺されるべきです!
何故かといえば、津野殿は藤堂和泉守(高虎)殿と御入魂であり、今度我々が反逆に与したのを幸いに、
土佐のうち半国は津野殿に宛てがわれるように、取持ちをすること疑いありません!
その時になって後悔しても後の祭りです。急いで孫次郎殿を謀り呼び寄せ、詰め腹を切らせるべきです!」
これを聞くと盛親は顔色が変わり
「これは内蔵助の言葉とも思えない!この盛親は庶子ではあったが、長男の弥三郎殿(信親)は討ち死にされ、
五郎次郎殿(香川親和)は不幸にして早死され、孫次郎殿は他家を継がれていたために、私が家嫡となったのだ。
これは、実際には亡き父上の、私に対して慈愛が深かったためである。
それに、今回謀反に与した上は、公儀よりの御赦免はただでさえ計り難いものである。
その上に津野殿に腹を切らせては、重罪を逃れることは出来ない!
この事が、例え露見しなかったとしても、兄を殺して自分の身を立てるなど、出来るものか!」
そう苦々しく言い捨て、これには久武も、返す言葉も無く退出した。
ところが久武内蔵助は自宅に帰って思案し
「今回の私の進言が津野殿に聞こえれば、きっと深く恨まれるだろう。そうなっては、どんな事をされるか
解ったものではない。よし、たばかって討ち取るのだ!
盛親公とて今はあのように言っているが、いざ所領を分割されれば必ず後悔するだろう。
しかし、私一人でこの事は出来ない。」
と、かねてから親しくしていた津野藤蔵を急ぎ呼び寄せ、暗に自分の計画を伝えると藤蔵も同意し、
この事は時間をかけてはならぬと、その場から
津野親忠の元に、盛親からと称して直に使いを立てた。
使いは「今回の(関ヶ原での敗戦の)件に関して、ご相談したいことがあります。
赤岡にてお待ちしておりますので、どうか急ぎお越しください。」と伝えた。
これを聞いた
津野親忠は、「家の安否はこの時である」と、取るものもとりあえず手勢少々を引き連れ
赤岡に向かって急ぐとこにに、久武内蔵助は人を遣わして、先ず岩村の吉祥寺に入るよう伝えた。
一行がここでしばらく休憩していると、久武と津野藤蔵が数百騎を引き連れ押し寄せた。
「土佐守殿(盛親)の仰せである!孫次郎殿、急ぎ御腹召されるべし!我ら二人、御介錯のため罷り越しました!」
この突然の自体にも。
津野親忠は少しも騒がず
「一体何の罪によって、この親忠を謀り寄せて、討ち手を差し向けたのか!?
血の繋がった兄を殺して、自分が安泰になどなれるものか!天罰たちまちに来て、すぐに思い知るであろうよ!」
そう吐き捨てて直ぐに切腹しようとするのを郎党たちが押しとどめ
「これはなんと口惜しいお振る舞いでしょうか!?何の罪で、おめおめと御腹を召されるとのでしょう!?
ここは寄せ手の奴原を追い散らしてやるべきです!」そう、打って出ようとした所、
津野親忠は
「お前たちの志は誠に神妙である。だが、もはやとても逃れられぬ状況だ。
この親忠は自害する。だがお前たちは、何方へも立ち退き、妻子を養ってやれ。」
そう言うやいなや腹を十文字に掻き切った。
これを郎党の久松源蔵が介錯し、その太刀を持ち直し、自分の喉笛に突き立て、主君の死骸にうち重なって死んだ。
津野親忠、享年29歳。戒名は教山寺雪庭宗筝と号した。これにて、土佐津野氏の正統は18代にて
断絶したのである。
この久武内蔵助親直の父・肥後守則義、兄・内蔵助親信は、性格柔和にして、信頼厚く
忠義を専らにし、主君の不義を諌め佞奸を退けたため、人々は皆彼らを敬ったというのに、
今の内蔵助親信は、親にも似ず兄とも違い、奸佞にして邪智深く、人を滅ぼし身を立てようとする人物であった。
このような悪人が威を振るえば、どんな事が起こるのかと、心ある人々は嘆いていたが、
彼は蓮池、此江山を始め武功の者たちを讒言し、今またこのような悪事を行って、
結局は長宗我部家を滅ぼしたのである。
(土佐物語)
388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/02(土) 20:11:10.62 ID:NAZeXtiQ
そういや盛親って、無位無官だよなぁ
389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/02(土) 21:18:44.06 ID:7eErHXlA
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4870.html
この逸話?
長曾我部宮内少輔と書かれているが
390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/03(日) 01:19:56.57 ID:lidqeqCk
いや元親は正式に叙任されてるけど、盛親は自称でしかないんだよ。
391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/03(日) 08:01:01.44 ID:wW0No1gv
豊臣政権下の国持大名が無位無官って不思議だね?
392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/03(日) 09:37:06.73 ID:EVY1IRcA
実効支配を黙認されてるだけで正式な承認は受けてなかったんじゃ
393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/03(日) 09:44:22.58 ID:Rvo8ZQwG
代替わりでゴタゴタがあったんだっけ
確か秀吉が元親の後継者として指名したのは他の人物だったとか
394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/03(日) 10:58:27.33 ID:lidqeqCk
軍役は慶長の役を含めて一貫して土佐侍従(元親)宛に出されてる。
元親の死去が秀吉死後だから、ゴタゴタしてたんだろうなぁ
領知宛行状も出てない筈だし
395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/03(日) 11:01:07.97 ID:sbncRgEz
豊臣政権下は武家官位が重要視されてたということだから
前ちょっと出てた公家成、諸大夫成とかいうのだよな
国持大名でありながら諸大夫成でもなかったのか
396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/03(日) 11:30:16.01 ID:lidqeqCk
世子が元服した時点で諸大夫成するのは、清華として扱われてる家くらいかと
397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/03(日) 11:36:10.14 ID:lidqeqCk
間違った。清華は元服した時点で公家成だな。
398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/03(日) 11:40:50.34 ID:sbncRgEz
>>397
誰がいるの?
399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/03(日) 12:22:24.68 ID:lidqeqCk
>>398
徳川秀忠、宇喜多秀高
微妙な例としては、毛利秀元が秀吉に輝元の後継と認められた時点で侍従になってるのと
前田利長が前田家が清華になる前に侍従になってる。