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藤吉郎の時、これに恋愛をなし

2021年10月29日 16:29

北政所   
749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/29(金) 12:35:40.77 ID:WLiyrdYk
一説に、政所殿(豊臣秀吉正室・高台院)は風姿容艶であった故に、秀吉が藤吉郎の時、これに恋愛をなし、
仲人が入り婚姻を望まれたのだが、その父は許容せず、これ故に心魂はますます病めるが如くと成り、
遂に信長公の御耳に達した。信長公は近臣をしてその実否を尋ねられ、彼女の父に命じて嫁がせたという。

或る本に、太閤秀吉公の御台所、元は尾州御器所村の禰宜の娘で、於根々と称した。
浅野又右衛門の妹の子であったため、又右衛門は彼女をその家で養った。
ある時、織田信長公が鷹狩に出られた時、又右衛門の家で御休息された。そこで彼女が
茶を持ち運んだのを御覧になり、名を御尋ねになられた後、又右衛門へ彼女を御所望あった。

又右衛門は信長公の御側にて召し使われるのだと思い、早速御請け申して差し上げたのだが、
信長公は仰せに、「又右衛門は身上よく、藤吉郎は不勝手なり」とて、そのまま秀吉公に遣わされた。
御祝言のときには、又右衛門の長屋の簀子の上に藁を敷き、その上に薄縁を敷かれたと、後に至って
政所殿はこの事を物語されたという、

新東鑑



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北政所の謀

2014年09月05日 18:57

北政所   
132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/04(木) 21:56:55.96 ID:LotvBoFB
関ヶ原の時。
石田三成ら、西軍は挙兵したが、小早川秀秋は上洛したものの、狩猟ばかりを行っており、またその兄である
木下勝俊は伏見城松の丸を守っていた。

この状況に石田三成は、秀秋がこのままでは敵味方の判断ができない、伏見城を攻めさせてその色立てを見ようと、
使者を立ててこれを要請した。

秀秋はこれに、すぐに京都へ登り北政所にこの事を相談した。北政所は秀秋に尋ねた
「其の方はどのように考えているのか?」

「石田は秀頼の命と言って西国の大名を動員しましたが、ここからは徳川殿を滅ぼして自身が天下の権を奪おうとの
目論見が鏡に写すように見えています。

私は、徳川殿の麾下につくのは仕方がないと考えますが、石田の下につくのは無念の次第です。
ですので、どうにかして徳川殿に属したいと時節を見ておりました。しかし石田はそんな私を危ぶみ、
伏見の攻め手として信を見極めようとしています。

これにより私は今、大変難渋しています。ここで東軍への色立てをすることで西軍の諸大名によって
攻め滅ぼされるのも口惜しいことです。」

北政所はこれをじっと聞いて
「私は女の身でありますから、軍の計らいはよく解りませんが、女であっても勇士の家に生まれた身でありますから、
私の考えを一つ申しましょう。私の言うことが良いと思われたら、これを用いなさい。

其の方は先ず、伏見城の攻め手に加わり城攻めに向かいなさい。少将(木下勝俊)が城中にあるのは
幸いの事です。あなたが出陣した後から、この私が伏見城に入ります。そして『戦いを止めよ、和睦せよ』と
敵味方に停戦を呼びかけます。

伏見城中では、私が城内にいることを幸いに、これを人質であると思うでしょう。
大阪方は、私を城から出すようにと申し入れるでしょう。
秀頼は私が産んだ子ではありません。しかし今日、秀頼は私を母君と崇めています。
我ともに攻め殺せとは、五奉行もよもや下知することは出来ますまい。
そうして時を稼いでいる内に、徳川殿が軍を率いて上洛されましょう。

万一、この謀が案に相違し、西軍が私共々攻め殺すと言うことになれば、運を天に任せる事こそ
勇将の決断の場です。」

秀秋はこれを尤もであると思い、伏見攻めの人数に加わった。
ところが、木下勝俊はこの内談を知らなかったため、弟の秀秋が攻め手に加わったと聞くと驚き、
また城中の者達は勝俊を疑うようになった。

木下勝俊はこれに耐え切れず、松の丸から密かに脱出した。
これ故に北政所の謀も水泡に帰し、その怒りのため、北政所は京に帰ってきた勝俊に
対面を許さなかったのである。

(明良洪範)



133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/05(金) 00:56:57.25 ID:QeRVVbAx
勝俊・・・。

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/05(金) 06:54:29.50 ID:Q2ixne+i
はかりごとは関係者一同によく連絡をしてから行いましょう

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/05(金) 07:39:26.28 ID:XUeoxQbj
宇喜多某「『敵を欺くには先ず味方から殺せ』と兵法書にありました」

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/05(金) 12:55:03.42 ID:k6N8jc8M
>>133
これで嫁さんにも愛想つかされたんだっけか。>勝俊

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/05(金) 12:59:14.63 ID:ELs3ohGk
武家というより歌人なのに
鬼武蔵の妹を嫁にしたらそりゃ合わない

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/05(金) 13:04:13.02 ID:JURDapnT
むしろなぜこの時まで伏見城にいたのかが不思議なレベル

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/06(土) 11:04:00.90 ID:3Q6lDSEc
木下勝俊はどう行動すればベストだったの?

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/06(土) 13:19:11.12 ID:mJxQGt9i
小山評定ばりの演説で人心を統一して幽斎みたいに戦う

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/06(土) 13:47:11.37 ID:5CwXbNVQ
なお帝よりの勅使は来ない模様

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/06(土) 13:58:53.33 ID:ZRBXH1I0
待つなら待つで力尽くで追い出されるまで待ち続けるべきだったな

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/06(土) 15:11:00.66 ID:QkepDTxJ
高野山に家出する

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/06(土) 16:36:57.46 ID:0w7yHmTh
捨て駒みたいな勝俊がどう行動しようともしかたのないことでは・・・

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/06(土) 20:45:33.52 ID:Zibgnl2J
秀秋のやりたかったこともよくわからないし

木下勝俊・利房兄弟間遺産争い顛末

2014年02月06日 19:03

北政所   
478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/05(水) 21:17:33.24 ID:yIKJSst2
慶長14年7月27日、この日故太閤(秀吉)の政所(北政所)方の孝蔵主が京を出て
駿河に下られた。これにはこのような理由があった。

木下肥後守(家定:北政所の兄とされる。慶長13年8月27日死亡)に遺領が2万石あり、
駿府では、彼の子息である宰相(木下勝俊)、宮内(木下利房)の両人に(相続争いがあったため)この
知行を分け与えるよう提言したのだが、北政所はこの遺領を全て木下勝俊に相続させ、木下利房には何も与えなかった。

このことを知った大御所徳川家康は大変不快に思ったが、「この措置に理由があるのなら聞きたい」と
孝蔵主を駿府に召し下したのである。

この頃、近年北政所は老いのため気が違い、このように不合理なことが多いと言われた。

この二万石に関しては、当面は幕府によって召し上げとなり、板倉伊賀守が管理した。

(当代記)

木下勝俊・利房兄弟間の、北政所も巻き込んだ遺産争いの顛末である。




479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/05(水) 21:20:36.70 ID:rR/x2MNn
北政所はアルツハイマーにでもなってたのか?

482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/06(木) 17:50:35.53 ID:BQabvDs4
すげえ家康が潰したのに北政所のせいにしやがった

「フロイス日本史」より、1人の坊主が、

2013年11月15日 18:59

北政所   
746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/15(金) 01:02:03.80 ID:etyLuDkG
秀吉が九州攻めをしている最中のこと 「フロイス日本史」より



1人の坊主が、署名のない関白の書状なるものを携えて大坂城に赴いた。
その書状には
『関白の軍勢は危機に瀕しているので、高野の僧たちがこの者を遣わす。
 関白夫人は相当な喜捨を行い、関白の軍勢に良き戦果がもたらされるよう、僧侶たちに、
 仏に祈り犠牲を捧げることを頼まれよ』
と書いてあった。

関白夫人はこれを訝しみ―なぜなら彼女はほとんど毎日、シモ(九州)からの報告に接していた―
書状に署名がないことに注目し、その坊主を拷問にかけようとして捕縛させた。
捕らえられて身の危険を感じた坊主は、書状が欺瞞であること、貧しかったためにこのようにして
いくらかの銀子を得られないかと試みたことを白状した。
かくして彼は公の牢に入れられ、関白が帰還した時に処刑される日を待っている。
毎日2人の兵がその監視に当たっていた。
彼の前には、生きながら炙る、もしくは揚げるために、溶解した鉄が入った大鍋が置かれていた。





雑談・北政所のことなど

2012年01月23日 21:59

北政所   
530 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/01/22(日) 23:57:16.53 ID:3POdXiJH

肖像画の厳ついイメージの清正が竹松で正則が市松っていう可愛い幼名だったかと思うとなんか笑える
まあ、小姓時代は年相応に可愛いい少年で
ねねやなかに立派な武将になるべく大事に育てられたのだろうが

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/23(月) 00:28:29.45 ID:EKpAdN1W
関ヶ原から何年も正則と北政所があった記録がないから親しくないって言う主張があるんじゃなかったっけ?
司馬遼太郎なんかは清正や正則の武断派はねね派、三成はじめ近江出身は淀君派って描いてたけど
それとも秀吉の遺訓を守らずに家康と縁組したりして勘気をこうむったんだろうか

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/23(月) 00:36:59.58 ID:ysErkBH2
そもそも「淀派」「北政所派」なるものは存在しなかった、というのが現代の研究の通説。
というか北政所にも淀にも、関ヶ原前後でも殆ど政治的影響力はなかったらしい。

そして淀殿は政治的にはむしろ家康に近く、また三成が旧主筋として尊んだ秀吉の側室は淀殿ではなく、
京極家出身の京極龍子(松の丸殿)だったそうな。

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/23(月) 01:12:50.66 ID:7ZXqXj9A
まだ有力な仮説、ってレベルの話じゃないのかその通説とやらは
つうか北政所は女性ながら大名並みの封地も所有し、それを徳川に生涯安堵されただけでも普通じゃない
人事や外交に関与した書状も残ってるし政治的影響力が無かったってのは納得できないな

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/23(月) 01:38:43.16 ID:PcnIZS0x
>>534
秀吉が死去してから関与したのは木下家程度だからな。

537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/23(月) 02:49:59.57 ID:DxU+oHdd
>>534
付き人の孝蔵主の名前もちょくちょく出てくるし
やっぱり力あったんだなと思ったりしたけど

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/23(月) 07:55:50.21 ID:tMsrIsrg
これまでの通説を否定して新説を語りたがるのは歴ヲタがかかる熱病みたいなものだからそっとしておく

539 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/01/23(月) 09:37:01.78 ID:vAlCKIW/
> そもそも「淀派」「北政所派」なるものは存在しなかった、というのが現代の研究の通説。
> というか北政所にも淀にも、関ヶ原前後でも殆ど政治的影響力はなかったらしい。

あんもん勉強不足のキチガイ永井路子が勝手に言い出した事だろ
政略結婚でやって来る嫁を「セックスつきの外交官」などと狂人の戯言みたいな事言い出すし

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/23(月) 09:56:06.56 ID:q7T7grj2
また「現代の通説」とやらが出ちまったかww

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/23(月) 10:01:17.38 ID:I6FWk76y
元々通説以前に政治力なんて無いだろ

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/23(月) 11:05:36.11 ID:EKpAdN1W
なんか…いい感じに荒れてきたな

信雄「燃~えろよ燃えろ~~~~~~~よ~~~~~~~~~~~」

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/23(月) 11:09:31.89 ID:JnG48o0C
おれの○○観が正しいって押し付け始めると荒れるよね

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/23(月) 11:12:53.18 ID:nML09O3f
荒れそうになったら作左に叱ってもらうべき

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/23(月) 11:15:51.75 ID:DtkaCxxJ
たまには道雪さんに叱ってもらいたい

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/23(月) 11:17:44.67 ID:YdtnbgAD
松永久秀「この茶を飲んで落ち着かれよ」

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/23(月) 11:23:41.48 ID:FwHfxJjc
秋田さんが凍蚓に向かって切々と荒れる話はよくない、皆穏やかに、と語りかけ続けるのを拝聴

>>546
悪いスレに帰れw

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/23(月) 12:33:27.09 ID:WJK2O1mF
>>545
いきなり鉄扇でバシっと叩かれるのか

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/23(月) 14:28:07.46 ID:yVd2LSYW
>>547
おいやめろ

550 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/01/23(月) 16:36:19.18 ID:88JHLf0b
>>533
派閥を作ろうにも大阪城の女性たちは後の大奥みたいに日常生活では隔離された存在だったようだから会う機会すらなかっただろう
大政所や北政所には公式な場では面会出来ただろうが
豊臣の奉行や家老ですらない清正や正則は秀吉の権勢が増すにつれ北政所達とは疎遠にならざるを得なかったと思う
関ヶ原後なんかに会ってたら徳川にあらぬ疑いをかけられただろうしね

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/23(月) 16:39:43.06 ID:Gwamdi+2
>>550
良かった
松の丸殿と淀殿の席次争いなんてなかったんですね

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/23(月) 16:47:51.26 ID:PpsF+v76
まあ北政所は良くも悪くも秀吉あっての存在感であり影響力だったようだ。
そしてその影響力は秀吉晩年には既に陰っていて、秀頼の産まれた頃には
北政所を差し置いて、淀殿を「北政所」「北の方」と読んでいる史料すらある。

官位において最も高貴な女性として、秀吉死後も一定の権威は持ち続けていたのはたしかだが、
だからといって大名に大きな影響をあたえるほどの存在ではなかった。と見るのが良いかと思う。

>>537
孝蔵主は北政所配下と言うより、独自のコネクションで動いていたフシがある。
北政所から半ば独立した存在と見たほうがいいかも。奥の人間と言うよりも、女性ながら
秀吉直臣に近い感じなんだよねw

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/23(月) 17:16:14.69 ID:tMsrIsrg
オメエはそれでいいよ

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/23(月) 17:22:28.55 ID:cBK4XWwm
それでいいから皆お茶飲んで一服しようぜ!
西国から差し入れがあったんだ!

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/23(月) 17:58:36.33 ID:EKpAdN1W
>>554
お前まず飲んでみろ

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/23(月) 18:11:42.34 ID:H0p29dMA
粉雪舞う季節は いつもスレ違い

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/23(月) 18:35:12.51 ID:QYokWLzJ
>>533
京極龍子さんて、秀吉が死んだ後は高次のいた大津城に返されたんじゃなかったっけ?