ロッペイタ

2012年02月01日 21:57

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/31(火) 20:59:26.75 ID:zVVVqgvW
喜多七太夫の小ネタでも

七太夫は幼少時、秀吉に近侍し、その芸達者ぶりから大変可愛がられた。
腰巾着のように、秀吉の傍を離れずにいることから、
ついたあだ名が「六平太(ロッペイタ)」

このロッペイタという名、ポルトガル語由来の言葉といわれ、
南蛮製の巾着の名であったといわれる。
この「六平太」という名は、喜多流宗家が使用する名乗りの1つとして、受け継がれている



「腰巾着」の意味自体は、あまり良いものではないと思うんだが、
外来語があだ名になった珍しさと、芸人らしい才気煥発さを指しているのだろうということで、こっちに。




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初代喜多七太夫の伝説

2012年01月31日 22:09

927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/31(火) 17:19:03.21 ID:rQSCjATu
能と高虎
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6164.html

↑コレに至るまでの喜多七太夫のお話

喜多七太夫の家は猿楽の旧家ではなく、慶長年間にその元祖である七太夫が鼻金剛の弟子になったもので、
彼の父は堺・蛇谷の町に住む扇屋であった。

22歳の時、大阪夏の陣があり、このとき七太夫は金春の大太夫と共に大阪に籠城し、5月7日、
真田左衛門佐(信繁)に従って将軍の御備に切り込んだ。大太夫は馬上、七太夫は徒歩であった。

大阪落城に及び両人とも落ち去り、太太夫は藤堂和泉守(高虎)に目をかけられていたゆえに、
藤堂の陣に走り入りそのまま隠れた。

七太夫は大和の方に逃げたが、その途中柳生但馬守(宗矩)にばったりと出会った。彼はこれ幸いと
顔見知りであった宗矩を頼ろうとしたが、宗矩は七太夫を見るや激しく叱りつけ、自分の前から退かせた。
そこで縁のあるものを尋ねて、これに頼って隠れ住んだ。将軍家においては、とりわけ彼らが
御備に切り込んだことを憎まれ見つけ次第成敗せよとの命令があったが、両人とも発見されること無く
隠れおおせたという。
(猿楽伝記)

しかしこの話には当時から疑念があった

「人が言い、世に伝わっている逸話によれば。元祖喜多七太夫は22歳の時大阪夏の陣において、七太夫は
真田の手に加わり、御備に切り入ったという。
この事、逸話といえども非常に疑わしい。

先ず大阪落城の時に七田有が22歳という事。これが喜田家の家伝と合わない。
家伝の年表から計算すると、大阪落城の年、七太夫は34歳である。
また、彼が22歳の年は慶長8年であり、太閤は他界した後ではあるが、神祖(家康)は御上洛されて
将軍宣下を受けた御年であり、秀頼もこの年内大臣となっている。世の中に波乱はなかった。

それに七太夫が藤堂家に忍び潜れたとも言うが、これも彼の家の家伝(黒田家に保護された)と違っている。
そもそも喜田七太夫と藤堂家の間にどんな縁があったというのか、未だ全く知られていないのである。

さらに、神祖が七太夫を召すときに柳生但馬守宗矩に諮問しこれを任せた、ということになっている。
これは無いことではない。大阪落城の時、宗矩は45歳である。
されども黒田から七太夫が召しだされたのは、神祖の没後である。そういう事である以上、これは真実ではない。
金春のことはわからないいことが多いので置いておくが、喜多の話はこのように、誤伝が非常に多いと
断定せざるをえない。

また近頃喜多湖遊が伝える所によると、七太夫は大阪落城後故郷である筑前に帰ったのだ、とも言い、
また内々の命令により薩摩に潜入したのだ、とも言う。
そして喜多家の家伝には、七太夫は伊賀の出身だともあり、このように初代七太夫に関する話は非常に混乱し、
今現在において結論を出せるようなものではないといえよう。」
(甲子夜話続編)

初代喜多七太夫の伝説と、それに対する反論、である。