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去る七日、大阪落城致したので

2020年12月29日 17:58

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/29(火) 15:11:47.50 ID:udP4YAK5
元和元年の夏、秀頼が又叛逆(大阪夏の陣)をした事について、本多上野介(正純)より書状が
差し越され、『軍勢を催し、一報があり次第まかり登るべし』という内容を申し来たため、
その一報を待っていた所、上野介、駿河守(山口直友)より、卯月(四月)二十日の書状で
『五月の初めに到来するよう、早々に出陣するように』と申し越したため、
五月五日、島津家久(忠恒)は一万三千の軍勢を召し連ね、鹿児島を発し、領内の京泊という所から
出船し、肥前平戸に舟をかけた所で、駿河守方より、五月九日付の書状で、

『去る七日、大阪落城致したので、軍勢は残し置いて、手廻りばかりにて早々に罷り出るように』

と申し越した旨が、同十九日に到来した。そこで兵船を平戸より返し、家久は手廻りばかりにて
罷り上がり。六月二日、尼崎に着船致し、伏見に於いて権現様(徳川家康)に御目見得仕った。
行平の御太刀、正宗の御脇差、御馬ニ疋を拝領仕った。

同月二十七日、二条城に於いて舞楽を仰せ付けられた。七月朔日、御能が有り、同八日、
伏見の御城に於いて御能が仰せ付けられた。何れも家久は召し出され、見物を仰せ付けられた。
有り難き上意共であった。

島津家譜

大阪夏の陣における、島津の遅参について



516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/29(火) 16:11:07.65 ID:IlJRnCay
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5369.html
この逸話では島津義弘が天文を見ながら「ああ、大坂城の命、旦夕に迫る
自分が城中にいれば」
と嘆いてるけど、とてもそんな様子じゃないな
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秀頼よりの使者

2020年12月28日 19:18

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/28(月) 17:08:37.03 ID:haa7VbwK
慶長十九年、大阪御陣の前、豊臣秀頼より高屋七兵衛と申す者が薩摩に差し下され、
島津家久(忠恒)に味方を頼むとの内容の、九月二十三日の日付の書状と、
長銘正宗の脇差を相添えて到来したが、家久はこの書札と、それに「同心仕らず」とした
返書の文案を添えて、京の板倉伊賀守勝重まで差し上げ、家康、秀忠が御出陣なさる場合は
必ず馳せ参ると、伺い申した所、その返事に

「軍勢を相催しての上洛は、状況次第で致すべきです。たとえ両御所が出馬されたとしても、
下知が有る迄罷り上がってはいけません。」

と、伊賀守は申し越して来たため、家久は軍勢を揃えた上で一報を待った。

その後、秀頼より北川勝左衛門と申す者を差し下し、書札を以て、是非に頼み入るという旨を
申し来たが、家久は
「前の返事で申し遣わした通り、同心仕らず。重ねて使札を送ってこないように。」
と申し返した所、秀頼よりまた、武井理兵衛と申す者を差し下して来たため、家久は
この理兵衛を絡め捕り、秀頼よりの書状を添えて、山口駿河守直友方まで差し上げた。

島津家譜



琉球出兵について

2020年12月27日 17:28

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/27(日) 16:54:25.91 ID:E1J1ggJF
琉球国は島津家久(忠恒)十代の祖、陸奥守忠国に、普広院殿(足利義教)より拝領され、
永享年中より薩摩に従っていたのだが、近年それを懈怠いたし、殊更、島津家より権現様(徳川家康
への御礼を申し上げる旨を申し付けたのだが、了承に至らなかった。そのため軍勢を差し向けて
退治するという旨を、山口勘兵衛直友を通じて言上いたした所、たちまち御免頂いたため、
慶長十四年三月上旬、家久は家老の樺山権左衛門久高、平田太郎左衛門増宗に申し付け、
軍勢三千、兵船百余艘を差し渡らせた。家久も山川と申す湊まで出馬し、下知をした。

権左衛門、と太郎さえもんは先ず大島に手を付け、徳島へと参ったが、島の者共がこれを
防ごうとしたため、数百人を討ち取った。そのため永良部島は異議なく従った。

それより琉球の地に押し掛かり、四月一日、海陸より、国王の居城である首里という城に
取り掛かった。そして国王の尚寧が降参仕ったため、早舟を以てこの事を家久に申し越した。
これを使者を以て言上した所、権現様、台徳院殿様(秀忠)は御感斜め成らず、感状を下され
琉球国を永く家久に下すという旨を仰せに成られた。龍伯(義久)、惟新(義弘)にも同前に
御感状を頂戴した。

権左衛門、太郎左衛門は、尚寧を連行して、五月五日、薩摩に帰着いたした。

島津家譜

琉球出兵について



禁中より蘭奢待を賜ひ、家久に遣わす

2020年12月26日 18:29

797 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/12/26(土) 17:46:43.11 ID:1Nc7UExF
蘭奢待は信長以降だと『当代記』(寛永年間)、『新武者物語』(宝永年間)によれば、徳川家康本多正純大久保長安を派遣し
正倉院宝庫の調査を実施したが、実際には切り取らなかったといわれているが・・

近衛信尋本源自性院記』寛永5年10月1日条に「嶋津家久を訪ふ」、「禁中より蘭奢待を賜ひ、家久に遣わす」とあるそうで、
これはいつのものになるんだろうか?




西村義明「寿徳院玄由の閲歴について」『日本医史学雑誌』第四十六巻第2号より

798 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/12/26(土) 17:48:31.14 ID:1Nc7UExF
本源自性院記』のこの蘭奢待の記述は、テレビの「なんでも鑑定団」で取り上げられたこともありましたね、そういえば。



799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/26(土) 20:10:46.33 ID:IA6pxhFd
家久が京都に留学して公家と仲良くなってたよな
アレは何のためだったんだろう?

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/27(日) 00:49:30.72 ID:MrQcvooJ
伊勢参りの話か

807 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/12/31(木) 11:35:21.92 ID:dvxsBnop
>>798
これは、「なんでも鑑定団」に自分は蘭奢待を持ってるって出場者がいて、肝心の鑑定結果は贋物(香木としては本物)という顛末でした。
その番組中に天下人以外でも入手した例として、本源自性院記の記述が紹介されたとのことです。

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/31(木) 22:18:33.20 ID:VGYMyiZN
>>797
史上に切り取った記述があっても、その時切り取った分の全部が下賜された、とは書いてないので、
下賜した分と別に宮中にストックされてるんじゃね?

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/01(金) 02:25:15.50 ID:fcuIiM/Y
>>809
明治の時のは粗方下賜してしまったらしいが、殆ど小さい粒状か髪の毛の様な細く刻んだものばかりだったとか。
そういやある茶道家元所有の蘭闍待もそんな感じだった。
貴重過ぎて大きく刻めないのだろう。

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/05(火) 09:49:01.48 ID:Zpts00sW
蘭奢待といえばあの糸川英夫が香りを全化学合成しようと研究してたってほんとなんだろうか

薩摩国の習いは硬口であり

2020年08月12日 17:23

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/12(水) 16:50:43.48 ID:4yYz9Hx3
慶長十二年六月頃、九州島津の使者が駿河に下り、駿府に在府中に、船に乗り遊君を召し連れ遊んだ。
酒興のあまり、見苦しきことも有ったのだろうか、当時駿府の普請を行っていた普請衆がこれを見て
嘲り笑った。

薩摩国の習いは硬口であり戯言を知らず、笑われた事を恥辱と思い、喧嘩を仕掛け闘争に及んだ。
それぞれの小者たちは退散したが、池田三左衛門(輝政)家中の者たちは残り留まって戦い、島津の使者を
搦め捕った。

後日これは追放されたが、かの者は恥辱であるとして、切腹するので、相手も成敗されるようにと
奉行衆に届けた。奉行衆は「この事は我々では治めがたいものです」と徳川家康に言上した。

こうして池田三左衛門家中で、この時の普請物主と、島津の使者、両人が成敗された。

当代記

喧嘩両成敗ですね。



250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/12(水) 17:03:28.69 ID:NzwLtqdx
江戸末期とやってること変わらんのか

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/12(水) 18:21:21.61 ID:mb3/KsK0
島津とかいう蛮族

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/12(水) 18:21:46.48 ID:tsLUhoru
薩摩弁と播州弁(尾張弁?)の喧嘩か

「夏蔭城」

2020年04月12日 14:52

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 21:34:55.97 ID:BaNKVLgT
今日、鹿児島市が新たな観光資源として復元していた鶴丸城御楼門が無事完成・開通しました。
島津義久と茅葺の門(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-587.html)
の話しを無視している大変立派な門です。コロナのおかげで影がすごく薄くなりましたが

何でわざわざ門だけ復元と思うかもしれませんが島津忠恒が鶴丸城を建築した時期は
鹿児島城ができるまで・悪い話(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-566.html)
↑に書かれてる通り関が原後の微妙な時期に建てられたので天守閣等の目立った物はなく、
館のみという城だったので正門が一番目立つ存在だったそうです。
(鶴丸上跡地自体は美術・歴史館、図書館、博物館、医療センターとなっているので
現在のほうが防御力高そう)

というわけで開通記念に鶴丸城の話をひとつ
鶴丸城はすぐ裏手が山となっていますがそこの防備はどうなっていたのかの話しです。

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 21:35:21.32 ID:BaNKVLgT
「夏蔭城」

現城山展望台の裏手に位置するここは昔は大きな楠がたくさん茂り、暑さ知らずの高涼地だったので
夏蔭と呼ばれていました。
城山は山自体が城の一部とされていましたが(実際戦になったら城山全体に陣を張る見込みだった)
裏手からの攻撃には無防備でした。そこで裏手から攻められた際の要であるこの地を守る為、
武士が配置されていました。
特に城や砦は設けられず、日光から守ってくれる楠のあるこの地は夏蔭城と呼ばれるようになりました。


・・・せめて番所位は作ってあげようよ忠恒さん
補足すると元々城山には上山城という城の遺構がのこっていたのでそれを利用する目論見もあったみたいですが
平和裏に徳川へ帰順できたので作られず、変わりに島津歳久の孫の常久が陣を張っていたのですが、
常久が早世した後は任命されず、城山自体が聖域として立入禁止となったその後の警備の話となります。

結局、島津家が城山を使った防衛システムを活用することはありませんでしたが、
(薩英戦争の時は大砲の射程内だったため別の場所に避難してますし)
西南戦争最後の舞台に西郷軍が防衛システムを使用、そして最後の日に夏蔭城が陥落し裏手から官軍が
雪崩れ込み西郷さん達の最後の突撃が行われることになりました。


御楼門自体は観光の目玉とはなりませんが上の通り周辺は西南戦争関連や歴史館など歴史好きな人向けの
観光スポットとなっていますので是非お越しください。コロナ終わったら

976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/11(土) 21:35:49.86 ID:BaNKVLgT
忠恒が防備の弱い城を作ったことに関して少しだけフォローを入れますと、
鶴丸城の前の本拠地の内城(現鹿児島市立大龍小学校)(おそらく↑↑の島津義久と茅葺の門の城)
ゲームとかだと立派な城ですが実態はただの館でした。(堀とかもなく塀があるだけだった模様)
近くに前本拠地・前々本拠地(清水城・東福寺城)が後詰の城としてあるとはいえ防衛力は無いに
等しかったんじゃないかと。

決戦指向だったせいかそれとも守りやすい本拠地の現日置市や鹿児島に入る前の
姶良市の城々で止めるつもりだったかはあるかもしれませんが、他の大名よりと比べ本拠地の防備に
無頓着な所は面白いです。



西江左足のきゝし

2017年09月05日 17:28

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/05(火) 10:20:51.55 ID:aCPiblhV
西江久右衛門という者が島津中納言(忠恒)に仕えていたある時、忠恒が家来を叱りつけ、
その脇に西江が平伏していた。

叱責をしている内に忠恒の目の色が変わり、この者を手討ちにしようと考え、刀を抜こうとした、
しかし叱責されていた者もこれを見て、身を沈め刀に手をかけた。

この時、脇に居た西江はとっさに、この者の刀のこじり(鞘の末端部分)をそっと持ち上げた。
このためこの者が前に倒れた所を、忠恒が手討ちにした。

忠恒はこれを感じ入り、「西江は左足がきく(西江左足のきゝし)」と賞賛した。
左足で刀の鞘を持ち上げたのであろうか。

忠恒はこの手討ちの時、顔色いささかも常と変わらなかったとのことである。

(士談)



96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/05(火) 10:44:07.14 ID:UYv4oUVb
基地外すぎるw

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/05(火) 12:12:14.33 ID:JxXPtsVL
>>95
さすが島津…w

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/05(火) 15:29:07.38 ID:K7LHrv19
平伏状態から左足?
例えじゃないのか

鬨の声、といえば

2016年02月15日 13:53

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/14(日) 09:41:17.09 ID:IiHzuNCP
鬨の声、といえば悪久か誰か、島津の藩主が狩りをしていたところ
部下の一人が声を立ててしまったために獲物が逃げてしまった
怒った藩主は「今度獲物がいる時に声を立てた者は打ち首にするぞ!」
とののしり、狩りを続行。
ふたたび獲物を見つけたため、藩主が捕らえようとしたところ、なんと部下全員が
「オー!!!」と鬨の声をあげ、獲物は逃走。
藩主が「打ち首にするぞ!と言ったのを忘れたか!」
と罵声を浴びせるが、部下たちは
「島津の兵たるもの、打首が怖くておとなしくしていられましょうや!」
と答えたという。




317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/14(日) 13:08:38.90 ID:jxx97yxz
>>316
馬鹿ってことだな
そりゃ厳しすぎる罰則がいるわな島津は

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/14(日) 15:53:50.79 ID:UTAvUVaC
面目第一の武士にこんな事を言う方が間違ってるわな


360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/18(木) 23:32:39.62 ID:ftniuCPl
>>316の鬨の声について薩摩の話を書いた者だけど
元ネタの海音寺潮五郎の「史談と史論」上を読んだら、
元々は「甲子夜話」が出典らしくて、それを調べたら

海音寺潮五郎は「巻狩」と言ってたのに、甲子夜話では実は「軍事演習」で、鬨の声を上げたんじゃなくて銃を撃ってた、
つまり、軍事演習の際にたまたま部下が銃を放ったのに怒った薩州侯が
「今のは大目に見てやるが、今度やったら打ち首だぞ!」と言ったのに、
その後、数十人が銃をぶっ放して
「大目に見てくださったのはありがたく思いますが、打ち首だぞと言われておとなしくしていたのでは、
打ち首が怖くてぶっ放しなかったと思われて本意ではありません」
とわざと銃をぶっ放した、て話だった

おそらく甲子夜話の作者、松浦鎮信と同じ頃だから悪久ではないと思われ


361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/19(金) 06:06:10.17 ID:KQQNOvRt
配下としては、三河武士とどっちが扱いにくいかな…

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/19(金) 11:23:52.87 ID:3/pga4/H
どっちもヤダ

363 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/02/19(金) 15:29:04.61 ID:kpw11bYQ
三河武士

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/20(土) 00:52:02.94 ID:WGYlcrB4
犬のように忠実な三河武士と言われるけど
隙を見ては主人にも噛みつく狂犬

秀頼公の御味方に参ることは

2015年12月14日 16:33

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/14(月) 05:41:18.14 ID:KJNAxOqs
豊臣秀頼は薩摩へ河北庄右衛門と高屋七蔵の両使をもって貞宗(正宗とも)
の脇差を遣わし、味方にと頼った。

これに島津は、「先年の関ヶ原の時、家康公に御敵申し上げましたものを、
御許しくださったので御恩は忘れ難く、今となってはもう秀頼公の御味方に
参ることは罷りなりません」と言い、脇差を大野修理(治長)まで返進した。

――『武功雑記』



今日コンビニで流し読みした本に

2015年03月11日 18:49

707 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/03/11(水) 00:59:34.04 ID:UMymFHmr
今日コンビニで流し読みした本に書いてあった鹿児島城の話

築城が1602年、島津家久
義久の末弟と記載

統率の義久・武勇の義弘・反逆の歳久・地味久と4兄弟1、事績に乏しい家久に光が当たったいい話。




708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/11(水) 02:03:19.95 ID:FElBlykQ
それ悪い話や

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/11(水) 02:11:11.78 ID:DFTw6Kpf
島津四兄弟の序列って
義弘>>>家久>>>義久>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>歳久だろ

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/11(水) 09:31:11.21 ID:AomUNZR4
>>707
悪久のことかー


※当然ですが、鹿児島城を築城したのは島津義久ではなく忠恒ですw

酔っぱらいを笑った結果

2014年07月23日 18:51

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/23(水) 01:23:45.06 ID:n1KdZQSZ
慶長12年(1607)5月、薩摩の島津家久の使いが、駿府に参り滞在したが、
この時海浜で遊び、妓女を船に乗せ酒宴を催し、酔興に乗じ大いに戯れた。
ところが丁度この頃、駿府城普請のため全国より集まっていた諸大名の藩士や役夫がこれを見て
大いに嘲り笑った。

これに気がついた島津の使いは激怒し、船から上がって笑っている者たちに斬り込んだ。
殆どの者達は逃げ去ったが、池田宰相(輝政)の藩士たちはそこに残って戦い、終に島津の
使者を生け捕った。その後、使者を追放しようとしたが、彼は

「私はこのような恥辱を受けた上は、生きて人と顔を合わせることは出来ない。よってただ切腹いたす!
であれば、私に敵した者も刑せらるべし!」

そう言って、駿府の奉行所に延々と訴え続けた。このため上裁に及んだが、結果、
その使者二人と、池田の藩士のうち、今回の築城の事を預かる者達の長一人を誅した。

(徳川実記:台德院殿御實紀)

酔っぱらいを笑った結果死者3名、という駿府城下の騒動についてのお話。



748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/23(水) 12:06:50.68 ID:FOOEmTEk
だからこの戦闘民族はw

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/23(水) 15:34:09.90 ID:AmINW3Yi
この時代ならどこにでもいそうな
むしろ薩摩なら、切腹前に一人くらい自分で斬ってそうなのにと

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/23(水) 15:42:54.58 ID:utO8pbcm
好きで遊んでるところをわらわれて怒るってよくわからん
失敗したのをわらわれて切れるならわかるけど

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/23(水) 15:46:40.94 ID:AmINW3Yi
落語「棒鱈」を聴けばわかると思うよ
江戸で芸者遊びしている薩摩武士があまりにも田舎臭すぎることを言うんで隣室の町人がからかって、
薩摩武士が切れて刀を振り回す、て話。

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/23(水) 20:04:17.10 ID:de3paWJ5
堅物のイメージが有る薩摩武士が芸者遊びしてたら芋臭くて笑えてくるなw

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/23(水) 20:08:45.34 ID:utO8pbcm
ああそうか遊び方がなってないって笑われたのね

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/23(水) 20:20:26.08 ID:dEnQM4Y0
幕末でも笑われてたしこういう人種なんだわな

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/23(水) 23:00:56.57 ID:FxfD8KhO
一方、良い家久は茶会を辞退した

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/24(木) 14:19:43.68 ID:TgB+dp5v
薩摩だの津軽だのは、方言の壁も大きそうだな

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/24(木) 15:05:31.27 ID:eAoQ48K3
津軽は上の方はあんま訛ってないんじゃない?貿易船もきてるし。むしろヒゲ剃るとわからなくなるかと

これはどの島津の殿様…

2012年09月22日 20:29

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 13:47:22.01 ID:fd1muouz
慶長年間のこと、
大隅の城において薩州様が手討ちに及ばれたことがあった。
その時、お使いになった正宗の切先が鴨居に当たり折れてしまったそうである。

これ以来島津家においては正宗を差し料とはしないと言うことだ。
これは薩摩の国人、小川權兵衛から聞いた話である。


『鍛錬玉函』
『鍛錬秘函』


やっちゃった感がすごいですが
これはどの島津の殿様なんでしょうねえ・・・・・・?




535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 13:55:54.73 ID:qRdHmeZi
>>534
可能性があるのは義久、義弘、忠恒だけど
まあ、あの人でしょ

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 14:00:10.18 ID:96f3VvAj
(●Д゜)「正宗は大事にしてね。」

537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 14:10:08.20 ID:Bhz95nJk
>>534
何の根拠もなく断言するけど、きっとあの人だ。



538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 14:13:58.05 ID:F7XLBAkn
手討ちなんて一生しなかった人の方が遥かに多いんだろうなあ
そう言えば嫁を失った後の秀忠の手討ち話は豪快で爽快感すらあったな

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 14:38:17.17 ID:OvyJ76u2
>>536
偽物のマサムネとはいえマサムネを削ったマサムネが言うな

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 14:56:48.87 ID:rIHbkXdq
(´・ω・`)「銘を変えただけだからOK」

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 15:18:38.01 ID:pPMT5WgO
やっぱり之定だ 36人斬っても だいじょーぶ

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 15:31:14.22 ID:uCrdzVEh
>>534
政宗「誰だろう」
忠興「誰だろうね」
長可「誰だろうな」

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 15:52:52.43 ID:nlPpsqja
島津で手打ちする当主とか誰か分からないわー、コナンの正体ぐらい謎だわー

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 16:07:36.49 ID:hBrVEyEn
切るなら切るでスパっとやっちゃえばいいのに
鴨居とかで刃毀れしちゃう間抜けは、まああいつだな
東郷に襲いかかって返り討ちにあったのと同じ匂いがする

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 16:10:34.29 ID:pPMT5WgO
どうせなら蹴り殺した方がマシちゃうんかと

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 16:21:21.93 ID:URmyPShf
へー、鴨居を斬って刀を折っちゃうような格好悪い殿様が、島津にいるのかー

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 16:59:16.30 ID:ttUqhglz
おまえら憶測でものを語りすぎだろwww

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 17:21:58.61 ID:96f3VvAj
伊集院忠真「義兄さんがそんな事する訳ないよ」

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 17:43:19.77 ID:v4hiVesG
>>545
????「毬は友達だよ、乱暴に扱っちゃダメだよ」

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 20:47:10.39 ID:pPMT5WgO
腹のわた 掻き出でてみれば ○久の 鴨居に禍う 抜きつ白刃

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/23(日) 11:12:38.64 ID:yvQg5f+q
ちぇすとー!な剣術だと当たるわな・・・部屋の中だと突き主体の剣術のほうがいいんだが。バールのようなもので撲殺もいいと思うが

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/23(日) 13:42:41.15 ID:Bs7TKjKo
??「鴨居ごと 圧し斬ってしまえ 不如帰」

ここに出た話では棚の中に差し込んで斬ったんだっけ

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/23(日) 14:59:53.21 ID:yvQg5f+q
さっき実験してみた。もちろん打刀でやると怒られるので木刀で代用
鴨井の真下あたりにいるのを切るとか鴨井から一歩のところで振りかぶるとかしないと当たらないな


554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/23(日) 15:38:24.29 ID:RI8/iPDP
室内で刀を振るなら居合いの型を参考にすれば良いな

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/23(日) 18:09:57.65 ID:yEt8ZH62
ふむ居合やってる妹に聞いてみようかの

困った時の神頼み

2012年07月02日 21:00

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/01(日) 19:08:08.27 ID:TXhG1pXX
困った時の神頼み


島津義久に実子がおらず、義久三女である亀寿の婿である島津忠恒が養子に入り、
後継者となったというのは有名な話であるが実はもう一人候補がいた。
それが義久の次女新城と島津彰久の間の子である島津久信という若者で女系ではあるが義久の孫に当たる
人物である。

そもそも義久自身も豊臣政権の介入によって次期後継者を決められた経緯もあってか不満があったらしく、
慶長4年(1599年)に一度家督を譲ったにも関わらず、その二ヶ月後には島津家当主の証である
「御重物」を没収するなど忠恒との仲は微妙であった。

関が原の合戦の後も義久は久信を可愛がっており、やがて後継者に据えようとしているという話が
島津家中では絶えず、
ついには「義久が久信を後継者にする朱印状を徳川政権から得た事で忠恒の父義弘が異議を申し立てた」
という噂さえ立つなど家中の統率は乱れた。

こうした事態に義久はついには正八幡宮に参詣し神の力・・・要するに「くじ引き」でどちらが
後継者にふさわしいかを決める事にした。
こうして行われたくじ引きでも後継者にふさわしいと出たのは忠恒の方であったので
義久も忠恒を後継者と認めることにしたという。(末川家文章)




285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/01(日) 19:12:43.39 ID:UNbuQykf
くじ引きでよかったね・・・忠恒殿

神意を占って「どっちもだめ」とか言われたら・・・w

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/01(日) 19:30:47.40 ID:UZPDW8Gr
>>284
せっかくの逸話なのに冒頭で実子実子とトチってしまったのは残念

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/01(日) 19:30:53.82 ID:yT8hhv7U
でもこれで家中円満になったかと言えばそうでもないと言うね…

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/01(日) 19:41:52.81 ID:3ZKd8wtg
まあお家の血統ためには良い種馬だったんじゃないの
今の島津ってほとんど全部悪久の子孫だよな?

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/01(日) 20:11:27.34 ID:5Gdm1uI+
その後の久信が気になる・・・

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/01(日) 20:21:39.83 ID:UZPDW8Gr
>>290
相手が相手だけに…↓。ちなみに名乗りは「久信」「信久」両説があるそうな
http://373news.com/_bunka/jikokushi/182.php
http://373news.com/_bunka/jikokushi/183.php

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/01(日) 20:53:37.41 ID:tKTZmzCJ
2月に家宝譲られたら3月に伊集院ヌッ殺して庄内の乱なんて大騒動起こしたあげく
家康の介入でやっと事態収拾したこの時期の悪久さんは器量を疑われても仕方ねーべ

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/01(日) 20:56:21.56 ID:JV5doudt
講談だと毒殺された事にされてる。悪久なら斬殺だろうから、天寿を全うしてるよな…

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/01(日) 21:17:00.28 ID:oW6lHdsL
悪久さんは蹴鞠ばかりやってて親に怒られ、朝鮮に渡ったら猪武者のように戦いに没頭し
家督継いだら速攻で謀殺
すごい直情径行の人に見えちゃうけど実際のところはどうだったんだろ
関が原後の難しい時期を乗り切ったのは親父達よりむしろ彼の功績のようにも思えるので
数々の逸話とのイメージの乖離が・・・

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/01(日) 21:26:12.35 ID:UZPDW8Gr
>>293
庄内の乱は義久がこれ幸いと伊集院を鎮圧にかかってるから
悪久さんと共謀してる可能性もあると思う。

この時期前後の島津は義久、義弘、忠恒の関係は事案によって
コロコロ変わってるように見えて微妙すぎると思う。

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/01(日) 23:16:44.52 ID:Ywzl4oPQ
悪久さんは朝鮮から戻さなかった方が良かったんじゃないかな?
あの人ならあそこをうまく統治できた気がする。

蹴鞠大好き島津忠恒

2012年01月27日 21:58

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/26(木) 21:10:55.54 ID:7nIIJpyI
ところで大日本史料DBで、島津忠恒で検索して気がついたのだが

☆肥前名護屋編

文祿3年8月25日 是より先、秀吉、薩摩鹿兒島の島津忠恆(忠恒)の、父義弘の軍に朝鮮に從はんとするを許す、
             是日、忠恆、肥前名護屋に出陣す

文祿3年8月29日 薩摩鹿兒島の島津忠恆、肥前名護屋の町を見物す、又陣中に蹴鞠の庭を作る、

文祿3年9月13日 薩摩鹿兒島の島津忠恆、肥前名護屋の陣中に茶湯の座敷を作る、


☆朝鮮巨濟島編

文祿3年10月30日 薩摩鹿兒島の島津忠恆、朝鮮唐島(巨濟島)に渡り、父義弘の軍に從ふ、

文祿3年11月1日 島津忠恆、朝鮮唐島(巨濟島)の陣中に鞠の庭を作る、

どっちも明らかに、到着して真っ先にやってるのが蹴鞠場作りなんだが、
悪久は身近に必ず蹴鞠場を作らないと死んじゃう体質か何かか?w




883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/26(木) 21:53:10.43 ID:DrZH7TCm
蹴鞠はこの頃も人気スポーツだったが、相撲に押されつつあった
その意味で島津家は流行に遅れているわけだ

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/26(木) 22:02:30.34 ID:LxGPhHmD
秀吉さんの家中の連中が相撲より蹴鞠に夢中!!!だったら、
それはそれは嫌だし、さすが島津さん雅だわ~って感じ

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/26(木) 22:33:33.89 ID:1FLw3Lb0
西の蹴鞠狂い代表を名乗っていいぞ

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/27(金) 00:21:49.11 ID:Pk9ABAmQ
京に遠ければ遠いほど、京の遊びに熱心だよね

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/27(金) 01:26:43.05 ID:Jq0gdZzg
蹴鞠や連歌とかの指導者は、技術だけでなく朝廷や幕府有力者との連絡役も兼ねてるからね

888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/27(金) 02:39:44.07 ID:vspkf9zU
蹴鞠・連歌・犬追物などの室町式儀礼を開催することは
守護の系譜に連なる大名にとって、地域の支配者であることを示すステータス。

まあ、どこも秀吉時代くらいにやらなくなるみたいだけど

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/27(金) 02:59:53.50 ID:sIZkG0bf
島津家は戦国どころか室町時代に既に衰退した犬追物を
明治まで保存してしまった、時代遅れどころかある意味浮世離れした家。

890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/27(金) 07:03:34.13 ID:xXDtgTrX
>>889
生類憐れみの令の時代はどうしてたんだろう?

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/27(金) 07:13:42.36 ID:efiSts+H
将軍お膝元である江戸と地方で取り締まりのレベルが全然違ったようだよ
地方の山間部で江戸と同じレベルで取り締まれば野生動物に荒らされまくりだし

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/27(金) 09:05:31.85 ID:pSDdBLVJ
>>890
尾張藩ですらいい加減だったのが「鸚鵡籠中記」に記されている

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/27(金) 09:30:39.29 ID:9AwPK7xe
江戸幕府の統治って、基本的には各藩の自治を認めてるからね~

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/27(金) 10:44:21.36 ID:3Fgw5pWt
生類憐れみの令はもともと、戦乱の時代じゃないんだしさ、殺伐な気風は改めようよ、
今までも口酸っぱくして言って来たけど動物範囲まで極端にすれば
せめて人間同士のいがみ合いは減るだろーちゅう精神論だからな
点数稼ぎに使った側近や役人の管轄地域はおかしい事になったが

文禄3年(1594)11月4日、忠恒は義弘を遊覧に誘い

2011年02月07日 00:01

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 18:34:17 ID:0TEiG2zq
文禄3年(1594)11月1日、高麗の地に上陸した島津忠恒は、先に来ていた父・義弘と対面した。

「父上。忠恒、ただ今参りました。私が来たからには、もうご安心ください。」
「ああ…頼む……」
(うーん、元気が無いな。この地で兄者を亡くしたのが、まだ堪えておるのか……そうだ!)


同月4日、忠恒は義弘を遊覧に誘い、晩も忠恒の陣屋で食事をとるよう勧めた。
「ぜひお越しください。少々、変わった趣向を用意しましたので。」
「変わった趣向じゃと?…おお、これは!」

忠恒の陣屋には、日本のそれと遜色ない立派な蹴鞠の庭が造られており、その庭で忠恒と近習たちが、
京滞在中鍛えた蹴鞠の腕前を、義弘の前で披露した。
「あっはっはっはっ!見よ見よ、忠恒め、いつの間にこれ程に腕を上げたのじゃ!」
(良かった!お元気になられたようだ…)

好評だったのか、忠恒は同月9日にも義弘のほか島津豊久・忠長等の見守る中、蹴鞠を行なっている。




…ので、名護屋で送迎船待ってた約40日のうち、晴れたら蹴鞠って遊んでたのは、黙っといてあげて下さい。

それにしても、自分の主人のことを「いつも蹴鞠ってやがる。(御鞠如常)」とか書いたり、
「今日は何も無かったです。(何たる儀無之候)」とか書いた次の行で「晩に盗人、成敗被成候。」
とか言ってる、元ネタ書いた面高連長坊はマジ大物だと思います。




618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 18:36:28 ID:7nQWEAC4
軍陣に盗みに入るとは気合い入った盗人だなw

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 18:38:34 ID:OUHiBTAb
あれ、wikiではあまりに蹴鞠にうつつを抜かすから、朝鮮出兵中の義弘に
書状で注意を受けた、て書いてたのに
その後義弘が蹴鞠好きになった、ということか

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 18:48:35 ID:yctrOdOk
例えば単身赴任してるお前にギター狂いの息子がいたとして
日頃は口うるさく注意してたとしても
実際に息子が自分のところに来てくれて
上達したギターの腕前を披露してくれたら
嬉しくて泣いちゃうかもしれないだろ?
そういうことだ

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 18:50:32 ID:ohxFaQ7K
>>618
人の出入りが多いから、けっこう狙い目なのかも>軍陣

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 18:53:32 ID:CTv09xKa
ドラ息子を甘やかすお父さん・・・

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 19:10:23 ID:ATDiyX5d
義弘のためにやってくれてるのは察してたろうから
義弘も楽しんだふりをしてやったんだろう
大将が沈んでると兵に影響するしそういう心遣いも大将の心得だよ

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 19:14:15 ID:yU6tyuIK
これが黒田長政や鍋島勝茂だったら、親父からその場で説教されそうな・・・

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 19:19:49 ID:GYLw/rhX
これが輝元だったら、叔父からその場で折檻されそうな…

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 20:38:21 ID:rldax2hK
>>618
Q太郎にも陣泥棒を防ぐ話があるし、割とよくあったんじゃないかな

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/06(日) 21:15:56 ID:aHUlCF+M
>>624
いや黒田の家なら失笑してこれで黒田家も終わりだ、って嫌味を言うと思うw


628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/07(月) 02:00:06 ID:yKJ6OsOL
性格わりいな黒田家は

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/07(月) 02:06:33 ID:LWy4hYOE
又兵衛あたりが余計な事を言う→
長政怒って取っ組み合い→
黒田官兵衛苦笑い

泗川の戦いの知られざる英雄

2010年10月01日 00:00

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/30(木) 00:42:24 ID:NIFXpTbi
泗川の戦いの知られざる英雄
泗川の戦いにて島津軍は当初お得意の釣り野伏せりで明軍を誘いこむと
釘や鉄片を大砲でぶっ放したり留守火縄の簡易地雷で明軍を迎撃した
本土からの大量の資材があった為に出血サービスで作戦を実行する事ができた
しかし島津史上最大火力の釣り野伏せりは明軍に通用……しなかった!!
そもそも釣り野伏せりとは敵軍が恐慌しないと成功とは言えない計略
敵の指揮崩壊がなければ寡兵を分けて大軍に勝てる道理など無い
そう、今回はあまりに明軍が多すぎて中央まで指揮崩壊しなかったのだ
そして明軍のターン、圧倒的大軍にて島津軍を泗川倭城に押し込むと
火器の本家本元の面目躍如、戦域に大量の爆薬を投入してきた
大軍だけでも島津軍を圧殺出来るのに更に大量の爆薬による火計
迎え討つ島津軍は此れに応戦出来る術などなく泗川倭城は風前の灯火となった


325 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/09/30(木) 00:51:13 ID:NIFXpTbi
その時だった、明軍の火薬庫で大爆発がおこったのだ
陣僧の佐竹光明坊(※1)、若武者の瀬戸口弥七郎ら2名が明軍の火薬庫に特攻したのだ
特に瀬戸口弥七郎は明軍に斬られ射られるも爆薬壺付近に近づくと
自身にくくり着けた爆薬を引火させ自爆して果てた
明軍の爆薬庫はたちまち連鎖誘爆を起こし、軍は恐慌状態に陥った
皮肉にも大量に用意した爆薬が裏目に出てしまったのである
そして島津軍が指揮崩壊した勝機の瞬間を逃すはずがなく…
忠恒「ずいぶん待たせちまったな、俺のターンだ!(※2)」
こうして島津軍は泗川にて圧倒的寡兵による歴史的大勝を得たのだった
島津義弘は帰国すると彼らを島津家の守り神である狐に例え
若武者の瀬戸口弥七郎(享年19才)はその白糸縅の鎧より白狐の化身とし
陣僧の佐竹光明坊(生存)は赤糸縅の鎧より赤狐の化身として
稲荷神社に奉り歴代藩主はこれを氏神として信仰した
島津斉興公は京都のト部家に神階を請願までして正一位高麗稲荷大明神の神号を賜ったという

(※1 彼は軍師で別の人間が特攻した可能性あり)
(※2 この戦いの活躍で日本七柱槍の称号ゲット)




326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/30(木) 00:53:30 ID:hpCHniiC
自爆テロがいい話なのか・・・

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/30(木) 01:07:39 ID:gQxUgFu8
特攻隊の基地は薩摩の知覧だったなぁ

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/30(木) 01:26:01 ID:iWr6tVs3
圧倒的寡兵に笑ったwww

329 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/09/30(木) 01:36:27 ID:zP0xYW11
何という爆弾三勇士www
日本人のメンタリティってこの頃から変わってないのか

330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/30(木) 02:03:13 ID:Ooq6UT6+
しっかし、撤退するためだけにとんでもないレベルの戦勝が必要になるというのが
悲しいところだ。誤った戦略の下ではどうにもならない事を示す好例の一つかも…

331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/30(木) 02:32:51 ID:V/fDrrzE
瀬戸口さんは死んでも爆薬を放しませんでした。

332 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/09/30(木) 02:50:26 ID:cG5KsNkh
火薬庫爆破と言えば舩坂軍曹だろう
戦国じゃないけど

333 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/09/30(木) 06:42:53 ID:EI8RElwL
ここは俺に任せて…ってシチュは漢なら誰しも憧れるよな

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/30(木) 09:33:43 ID:qEJ3EqBM
「ここで俺が死ぬより生き残ったほうが全体のためだから代わりにお前死んで来い」っていうひとが好かれるはずもなく

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/30(木) 09:36:53 ID:oWF3O8CM
天庵さんの事か…

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/30(木) 09:47:53 ID:Xuar6Sc5
脳内画像が石川賢版ゲッターのムサシ特攻のイメージしか浮かばない…

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/30(木) 10:15:53 ID:wL00lCxV
ふむ、つまりここ(軍神様相手の殿軍)は俺に任せてお前は宇喜多殿との酒宴に行け!といえばいいんだな

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/30(木) 10:17:20 ID:iWr6tVs3
天庵さんは、そこまで我欲は強くないでしょwww

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/30(木) 10:33:02 ID:wL00lCxV
   /菅\
   (;゚Д゚)   <殿ッ!!ここは篭城です、引いて守れば確実に勝てます!!
  (((φφ))    あ、あれなぜ、進撃命令が!?
   [ ̄ ̄]  ガチャガチャ

         / ̄ ̄ ̄\
       /  ─天 ─ \
      / -= =- -= =- \
      |::    (__人__)    |  全軍進撃、野戦にて憎き三楽めを討ち取るのだ
      \:::    ゙⌒"    /
      /;;.          `ヽ.

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/30(木) 10:40:40 ID:g3zyRmCv
天庵様は天然だから、討ち死にした部下達も恨んでないよ










たぶん

341 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/09/30(木) 13:03:23 ID:yyWXZGjT
佐藤家能
山田祐家
田中秀郷
鈴木師家


342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/30(木) 15:10:37 ID:SuBY0d5m
>>325
さすが忠恒さん、他人の犠牲を無駄にはしない男やでぇ……

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/30(木) 20:13:45 ID:PqmzzJwF
>>340
菅エモンは本人はともかく息子達は?

日本のうた三代・島津忠恒

2010年04月27日 00:02

564 名前:日本のうた三代(三)[sage] 投稿日:2010/04/25(日) 23:29:55 ID:k5rcCOPo
加治木黒川岬は古くから名勝として知られ、島津義弘に仕えた僧・鳳山明釣が、晩年この地に
「鳳山軒」という庵を結んだ。義弘の子・島津忠恒も、この名勝を愛して、鳳山軒をたびたび訪れた。

ある時、忠恒は黒川山に咲いた花々が、鏡のごとく輝く波間に映り込んだ絶景を、錦に例えて歌に詠んだ。


浪のおり かくる錦は 磯山の 梢にさらす 花の色かな


鹿児島湾の別称「錦江湾」の名は、この忠恒の歌より起こったと言われる。




三斎さんから忠利くんにお手紙ついた・悪久さん編

2010年04月19日 00:02

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/18(日) 07:21:41 ID:u/Y3kamX
三斎さんから忠利くんにお手紙ついた

寛永8年5月
「島津にお暇が許されない事をお前も不思議がってたが、別に不思議でも何でもない。
最近色々ある(駿河大納言忠長の事?)のに、「薩州まで領国に返してはどうか」って幕閣が考えただけのことさ。
島津は他の事心配してるようだけどww」

同年6月
「無事、島津に帰国が許されたようで、なによりだ。別れの挨拶として能興行をやるそうだが、『景清』
(平家の武将、悪七兵衛景清の娘が「父は“源氏に憎まれ、九州に隠れている”」と語るところから始まる演目w)
をやるってのはどうなんだ・・・」

寛永9年4月
「(肥後加藤家の騒動について)島津が、お前に「使者を送りたい」って言って来たけど断った。
「せめて書状だけでも!」とか、しつこく食い下がるんで、オレの書状と一緒に送るわ。返事は“オレに”届けてくれ。」

同年6月
「(同じく加藤家について)島津の家老の伊勢貞昌を通して忠恒に伝えておきたいが、最近貞昌は危篤状態になって
名医が治療してようやく「死なないだろう」という程度になったとか。原因は、ストレスらしい。
(原文:気之つかれと見え候間)
オレから忠恒に「何もさせるな、何も聞かせるな、養生させろ。」って説教して、忠恒も「ごもっとも」とか答えたけど、
忠恒ってば相変わらずちょっとした事でも貞昌に相談してるらしいwww
そういう訳で、お前からも貞昌へ見舞いの書状を出すべきだが、直接貞昌宛じゃなく、忠恒宛に出しとけ。」


4/20より国立博物館で開催の細川展支援のつもりで、三歳様の手紙から特定人物についてピックアップ。
悪久さん(´・ω・`)




244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/18(日) 08:29:54 ID:+ckd7k7u
忠興ほんっとマメだなあwそして家久(悪)wwwwww

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/18(日) 09:44:46 ID:0dssxJu1
伊勢さんがエラいことになってるだけに
素直に「ざまぁ」と言えないw

246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/18(日) 15:35:22 ID:g2Xo1JSG
三歳さんて嫁以外のことに関してなら、まともな人なのか。
悪久は嫁に関しても非道という噂だけど。

悪久さんって、琉球攻めの時には

2010年04月19日 00:00

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/18(日) 16:08:59 ID:7eM0wYzP
悪久さんって、琉球攻めの時には「降伏した相手を殺すな。無抵抗な農民に狼藉するな。人取り禁止」とか
「降伏したら、すぐに応じろ。籠城が長引くようなら撤退しろ。徴発する米は琉球の年貢より軽くしろ」とか
誰彼かまわず非道だったわけでもないようだし

もっとも、これは島津軍の規律が緩んで自壊することを恐れてで、琉球の人に対して慈悲をもっていたとかじゃ
ないようだけど




248 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/04/18(日) 18:06:38 ID:EvMdvu/n
略奪しまくって進軍してきた仙石軍のお宝を奪う為に島津兵の指揮がむちゃくちゃあがったって言うし。
豊後でさんざん略奪大会やったら
薩摩兵たちは自分たちが持ち帰れる限界まで略奪したあとに、どんどん勝手に軍を離れて
略奪品をたくさん持って帰っちゃったから軍が自壊したくらいだからな。
豊後で人さらいもさんざんやって肥後に拉致連行していった数が膨大で、
島津の略奪と焼き討ちによって疲弊していた肥後は、食糧がまったくなく深刻な飢餓状態になったから、
慌てて島原方面にどんどん日本人奴隷を連行して西洋人にタダ同然の値段でいいから買ってくれって哀願したほどだからな。
ちなみに宣教師の記録には薩摩は食糧の自給自足ができない痩せた地なので、
海を渡り略奪する仕事に従事する者たちばかりで、
薩摩出身の敬虔なキリシタンも故郷に戻った途端に略奪船に参加して討ち死にしたって話が出てくる。
宣教師もそれを信じられないとため息まじりに記しているくらい不毛な地が薩摩。

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/18(日) 19:48:17 ID:0dssxJu1
>>247
慶長の役の時も似たようなことやってたり、朝鮮から帰って恩賞のない者への加増を
嘆願してやったり、自分に逆らわない人間には割と優しいんだよね>悪久

逆に敵認定した相手はド汚ぇ手を使ってでも排除してるし、さらに進んで信頼した人間には
依存しちゃって伊勢貞昌あたりのストレスがマッハな訳ですがw

家久君上阪日記(冬)

2009年11月13日 00:15

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/11(水) 23:00:13 ID:/piwr51A
家久君上阪日記(冬)

慶長19年(1614)11月17日、島津家久(忠恒)は幕命により、鹿児島から出陣した。
日向美々津で大船を借り、海路大阪に向かう計画だったが、何日経っても船が集まらない。
しびれを切らした家久は、美々津代官の綾部助兵衛に抗議した。
「ちょっと!ちっとも船が来ないじゃん。どうなってんの?!」
「?何言ってるんスか。こんな狭い港に、そんなに大船来るワケ無いじゃないですか。」

( ゚д゚)

12月5日
綾部はいい人で、豊後森江津で大船を調達してくれる事になり、その成果を待った。
「殿、公儀のお使者が参りました。」「やべっ、催促か?ちょ、ちょっと待ってもらって!」

「お待たせ致した、家久にござる。いや申し訳ない」
「右大臣豊臣秀頼公の使者、武井理兵衛にござる。是非とも薩州殿のご助力を…」
「 『公』って そ っ ち か よ 」

12月12日
拘束した秀頼の使者を三島重庸に護送させ、大阪の家康のもとに送る。
「それも良いけどさー、薩州殿まだ?」 「も、もうすぐデスヨ…?」

12月22日
「お待たせ致した!島津家久参上!」 「あ、19日に講和したから帰っていいよ。」

( ゚д゚)

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/11(水) 23:01:00 ID:/piwr51A
家久君上阪日記(夏)

慶長20年4月8日、再び幕府より大阪への出陣の命が下った。
「よーし、今度は恥かかないように準備するぞー!!」
今度は綿密に九州中の港を調査し、無事に平戸の釜田浦で、大船を確保できた。

5月5日
当地で手柄を立てるべく、念入りに精鋭13800の兵を揃えて、鹿児島を出陣。
数日後、平戸に到着したところで、旧知の幕臣・山口直友からの書状が届いた。

『 8日に大阪落城したから、せめて早く来て、祝賀だけでも述べたら? 』

( ゚д゚)

あわてて軍を帰し、家久自身は昼夜を徹して船を走らせ、尼崎に上陸した。
「さあ、ここから大御所のいる伏見まで飛ばすぞ!馬ひけい!!」
「それが…急ぎ過ぎて、馬を乗せた船がまだ来ておらず……」

( Д )  ゚  ゚

やむを得ず徒歩で伏見に向かったら、家康から逆に同情されて栗毛の馬二頭をもらった。


以上、武勇はともかく兵站の才能からっきしな悪久君の上阪(できない)日記?でした。





120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/11(水) 23:56:37 ID:fkB8NRS8
>>115-116
情報収集力が弱いね。

でも、船や馬の手配は家久の家臣の仕事じゃないの?
家久一人が悪いわけじゃないと思うけど。

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/12(木) 00:16:32 ID:8m9vh8Q/
まあ家臣の不始末は君主の責任じゃないの。

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/12(木) 00:36:46 ID:4nO+bTwM
>>120
家臣だってある程度具体的な指示がないと動けない。
「何とかしろ」とか言われても何にも出来ないのと同じ。

例えば忠恒で言えば
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-453.html

こういう話もある訳だが、これだって家光の好みを忠恒自身がリサーチするか
伊勢貞昌に調査の上で造るよう指示しとけば、建て直しなんてせずに済んだ。
忠恒が気が回らないせいと言わざるを得ない。

関ヶ原からのこういう体験を踏まえて情報網を整備したから
幕末に勝ち組のトップに立てたって説もあるが。


124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/12(木) 01:34:59 ID:RhkyJuWR
だがそこが悪久クオリティ
情報収集が完璧な三歳風悪久なんて四天王の資格ナッシングです

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/12(木) 01:50:28 ID:8AiR92gt
悪久は確か加藤が改易された時も
下手な探りの入れ方して細川忠利に警戒されたりしてたな
情報収集下手なのかー
なんかなぜか世渡り上手なイメージあったわ