和仁御前

2012年03月19日 21:50

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/19(月) 14:29:55.22 ID:E27nUpQz
天正十五年(1587)肥後国人一揆勃発。
三加和村田中城主、和仁親長は一揆側として反乱に加わったが、佐々成政の軍勢に攻められ落城。
和仁親長は討ち死にする。

この時、先に城より落ちていた和仁親長の夫人と娘、そして侍女たちは、和仁川の赤池淵のほとりにて
田中場の落城を知り、前途に絶望しここにて自害すると決した。
そして夫人は自分の娘、当時13歳であったという、を手にかけようとしたが、さすがにわが子を自らの手にかけることは
忍びず、自分に付いてきた老僕に、この娘を淵に落として、溺死させるよう命じた。

老僕はあまりのことに恐れ躊躇したが、夫人は何としてもと命じたため、致し方なく彼は、姫を岩の上から淵へと
落とした。

ところがこの姫は一端は沈んだものの、再び浮かび上がり岸へとたどり着いた。
老僕は夫人に攻められ、再び姫を淵へと落とす。しかし姫は再び浮かび上がり、岩へとしがみついた。

これを見て夫人は、自ら水の中に入り、姫の側へと行った。
姫は泣き叫んだ

「母上様!お許し下さい、どうかお許し下さい!」

夫人は姫の頭を縦に持ち、そのまま水に沈めた
「未練です。許してください。許してください。」

姫は、水に沈んだ。

これを見た侍女たちは、それぞれ着物の上から紐で足を縛り、次々に赤池淵に身を投げた。
そして最期に夫人は、あの老僕に

「そなたには今まで、一方ならぬ世話になりました。
もし、生き延びることができたならどうか、私たちの菩提を、弔ってやってください。」

そう言って、娘の沈んだ淵に身を投げた。
その後、夫人の遺体は下流の菊池川の淵に流れ着いたという。


それから、夏の夜になると、赤池淵に不意に楽の音する時があった。
こんな時は、付近の人々は「和仁御前」のお帰りだとして、酒やお供えなどを、淵に投げ込んだのだという。
そんな時は必ず、突然の雨が降ったのだそうだ。

肥後に伝わる、和仁御前の伝承である。




379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/19(月) 15:12:06.95 ID:4/3O5p70
熊本に住んでるときワニ氏の事を秀吉に最後に逆らった男ってやたら持ち上げてた記憶があるが、秀吉に逆らったんじゃなく佐々に逆らっただけだよな

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/19(月) 18:30:09.34 ID:06h3IzB+
>>379
田中城は豊臣秀吉の命令で小早川・立花・鍋島などの諸将も参加して、2月攻めて
最終的に安国寺恵瓊の謀略で落としてるから。結構頑張ってたんだよ。
当時は和仁親長の子の親実、親範、親宗の3兄弟が守ってたようだけど

母親が南蛮人だったという親宗の話は昔出てたかな。


382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/19(月) 18:40:23.10 ID:p5WXmmX+
>>378
身を寄せる場所が無くなった武家の夫人娘の最期は悲惨だな
最期に自決する場合と尼になって生き長らえる場合の違いは何なんだろうな

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/19(月) 18:50:41.39 ID:ss7sJ+5+
一人くらい生き残らないと真実が後世に伝わらないとか
可能性はゼロに近くとも家名再興の望みを捨てられないとか
そういう理由じゃないかね

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/19(月) 19:14:37.21 ID:Fgv+RMCy
>>382-383
単純だけど、進退窮まった(実際の所はともかく本人的に)かどうかってのが結局の所
最大の判断基準じゃないかな、菩提を弔うというのも一つの役割ではあるだろうし。

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/19(月) 19:35:41.72 ID:06h3IzB+
>>383
和仁氏の一族の一人が立花家で保護されて、
小野和泉の義弟として生き残ってるけどね。
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