大石信云の土産

2012年03月19日 21:50

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/14(水) 00:13:28.11 ID:ZrXjIjSc
3月14日だし、こんな話を。
「大石信云の土産」

幼い頃に父を亡くした近江国大石の住人・大石信云は、初めは近衛家に仕える外祖父・進藤長治、
次いでかつて父と親交の深かった浅野長政によって養育され、浅野采女正長重に仕えることとなった。
また、預けられていた男山八幡宮本坊から得度の前夜に出奔した信云の兄・良勝、初め戸田左門に仕えていた
従兄・一定も同じく長重の臣となった。
そして大坂の陣が勃発すると、3人は揃って出陣する。

慶長20年5月7日、浅野長重は、本多忠朝の相備えとして秋田実季、真田信吉らとともに
天王寺口の最前線に布陣していた。

その日の戦いは本多忠朝と黒半月の指物を翻した毛利勝永4千との銃撃戦で始まった。
やがて毛利勢が突撃を開始すると、忠朝の前衛の足軽はたちまち追い立てられて70人余りが
将棋倒しに討たれ、残る足軽も後陣に崩れかかった。
これを見た毛利勝永は軍を二つに分け、忠朝勢の左右からさらに攻めかかる!
しかし忠朝は左の脇備えで持ちこたえ抗戦したので、勝永はさっと方向を転じて秋田・真田信吉・浅野らの
相備七組に襲い掛かっていった。
相備の諸将は激しく揉み立てられ、真田信吉兄弟の備も崩れた。

各々鬨を上げて力戦する中、毛利勢に回避された本多忠朝が突出、小笠原忠脩もまた敵中に乗り込み、
自ら手を叩きながら抗戦したが叶わず、忠朝、忠脩ともに戦死、小笠原秀政も負傷して退き死亡してしまう。

この乱戦において浅野長重勢は万死一生の戦いを繰り広げたので、大石一定を含む22人が討ち取られたが、
敵の首60を挙げた。

285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/14(水) 00:15:25.97 ID:ZrXjIjSc
大石信云はこの時首級1を得たが、彼は家老・藤井又左衛門に証人となってもらった上で首を捨てて、
更なる勲功を求めて戦場を駆け回った。
しかし、信云は所労のため、陣払いの際に京に留まり療養するはめになってしまった。

が、どうにか回復して江戸に下向、ようやく長重への目通りが叶う。
その際に、彼は皮の枕を「土産」として主君に献上した。

長重は信云の天王寺口での働きを家老の報告によって詳細に知っており、感心すること甚だしかったので
「これは、あの時の敵の首であるな!」と、枕を懇ろに受け取ると、自ら着用の甲冑と、下着等を添え、
200石の領地を与えたのである。

一方、大石良勝も首級2を挙げるなどの大功を立てたのだが、故あって故郷・大石に直行し、
戦死した一定の妹を娶って3年ほどその地に居住していた。
しかし大坂での働きを知る加藤嘉明と平野長泰の推挙によって浅野家に帰参することとなり、
加増を受けた彼は、やがて家老に任じられることになる。

その後も大石兄弟は浅野家に仕え続け、転封となった長重の子・浅野内匠頭長直に従って播州赤穂に移転する。

足軽頭から家老にまで昇り詰めたこの大石内蔵助良勝の、曾孫の名を良雄という。
大石信云の子は大石無人、赤穂義士の後援者として活躍した人物である。

(大石家系図正纂)





290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/14(水) 00:48:42.50 ID:D6qD7RUZ
あら楽し 思いは晴るる 身は捨つる
浮き世の月に かかる雲なし
スポンサーサイト