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この一言は天下の名言

2022年05月17日 19:03

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/17(火) 16:15:21.99 ID:g40oUKwA
或る記に、坂崎出羽守(直盛)が将軍家を怨み参らせて、己が宿所に籠もった時、幕府の執政の人々は
相議して、出羽守の老臣の元に奉書を下して、

『汝が主人、逆乱の罪遁るるべからず、坂崎の家絶えざらん事を思わば、汝が主人に勧めて自害させよ。
さあらんに於いては、世継ぎを立てるだろう。』

という旨を下知すべしと議定した。

その時、本多上野介(正純)は人々に向かい
「誠に家老が主人に腹を切らせた場合、かの家を存続させるのか」と問うた。
人々は「どうしてかの謀反人の家を存続させるだろうか。」と答えた。

正純はこれを聞くと「然らば、その奉書を下されること、然るべからず。
坂崎出羽守の不臣を罰するために、その臣に不臣を勧めるなど、天下の下知に有るべき事とも思われず。
速やかに軍勢を差し向けて誅罰あるべきものである!

人臣への教えとすべきでは無い事を述べて、偽を行い、天下の風俗を乱すべきではない!」

そう言ったが、衆議一決しなかったため、「正純の連署叶うべからず!」と署名を拒否したという。

新井白石先生曰く、「本多正純の他事は如何にもあれ、この一言は天下の名言と言うべきである。」と
評価し、柳生但馬守宗矩も、常に彼に感じ入っていたという。
誠にこの一言を以て見るに、この人が若い頃から大御所の御覚えが良かったというのもむべなるかな。
また、彼が同職の人々との関係が不快であったという事も、押して知る事ができる。

新東鑑



189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/17(火) 16:37:38.40 ID:pgI56b42
嘘ついて何とかしようとするエライさんってヤだな
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本多正純と根来衆

2022年05月15日 17:50

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/15(日) 17:30:18.37 ID:JusC5b42
元和二年(1616)六月七日、本多佐渡守政信は七十九歳にて卒した。

或る記に、政信在世の間に、嫡子上野介(正純)へ
「私が没後に、必ず其の方へ御加増があるだろう。三万石までは、下されることに成れば御請け申せ。
もしそれ以上仰せ出されれば、御請けは決して無用である。冥加に尽きる。」

と言ったのだが、後年十五万石にて、下総国宇都宮城主に仰せ付けられ、根来衆百二十人を御預けになった。
この根来衆の組頭は、大納言、少納言という同心であった。彼らは度々御陣の供奉をして手柄が有った。
故に、一騎をも勤めるほどの者であった。

この根来衆という者達は、紀州根来寺の僧の末である。秀吉公の時。下知に背くこと有って、天正十三年
三月二十三日、秀吉公が彼らを攻めたが、悪僧たちは一味うぃ、近国隣里のあぶれ者どもを招き集め、
防ぐこと甚だ疾かったため、秀吉公の軍勢は追い立て追い立て、あら手を入れ替え攻めたにもかかわらず、
悪僧達は事ともしなかった。そのため「この寺しばらく破り難し」と、攻め倦ねた所を、筒井順慶が
兵士を下知して頻りに火矢を発した故に、城中俄に火災が起って、死する者千六百余人に及んだ。

これによって悪僧たちは防ぐ手段もなく散々に成って退いたが、武勇を顕す者共であったので、
「根来寺が破却され、今更高野山に従うのも口惜し」と思い流浪していたのを、徳川家康公が
聞き召され、その中から百余人を抱えられ、御先手として定められた。これを「根来組」という。
現在徳川家にその氏族があるのは、大略この時より始まるのだという。

然るに、本多正純は自身の功に誇り、宇都宮の城普請の節、彼の御預かりになっていた根来組に対して、
壁拒の普請をするようにと申し付けた。しかし根来の者共は、「これは癖事である」と勤めなかった。
これに正純は怒り、一人も逃さず、その女房子供まで首を刎ね、塚を築いて埋めた。

この悪事により、元和八年、正純は羽州由利の地に配流されたという。

新東鑑



彼は既に死人同然

2017年08月19日 21:02

54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/19(土) 21:00:53.48 ID:vEh+t7Iu
大阪夏の陣の5月7日、大阪城より「秀頼生害の事、御免あるように」との使いに、大野修理(治長)が出て
本多上野介(正純)にこの旨を伝えていた時、田代大膳という者が側に居たが、彼は大野が地に座って
発言している時、後ろで刀のこじりを上げていた。

これに気がついていた正純は、後で田代に「なんと荒気な事を」と戒めたが、田代は

「彼(大野)は既に死人同然なのです。聊かも油断すべきではありません。」

と申したという。
彼は後に駿河大納言(徳川忠長)に仕えた人物であり、この事は、ある人が語ったものである。

(士談)


宇都宮の事件、実は

2013年08月14日 19:55

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/14(水) 08:22:17.86 ID:7ccVNWd2
本多上野介正純滅亡の事であるが諸記録には「遠慮の事ありて記しがたい」
とありその理由を知ることはできない。

古老の伝説では秀忠公が日光御社参の時に正純の居城宇都宮にお泊りになる
予定であったが、上野介が逆意をもって御湯殿に落とし穴を設けて秀忠公を
弑し奉るたくらみが露見した。

秀忠公は密かに酒井雅楽頭(忠世)のみをお供にして引き返され江戸城へと
お帰りになり、松平下総守(忠明)が秀忠公の御装束を着て代わりに御社参し
上野介を謀ってこれを捕えて流刑にされたと言う。

(翁草)

宇都宮の事件は落とし穴だったと言う異説である。

なお翁草の筆者は他の説も併記しつつ、どの説も裏付けが取れなくて怪しい
んだよねぇとか身も蓋もない事を書いてたりする。




162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/15(木) 13:49:58.55 ID:t/giXINN
>>158
してその古老の名はなんと

本多正純のこと

2013年03月18日 20:00

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/18(月) 17:20:13.65 ID:dmvAtqb1
台徳院様の御時に本多上野介殿の身が果てたことについて、世上には色々と雑説が多く、
逆心の様に取り沙汰されるが論じるまでもないことだ。上野介殿は誠に忠臣というべき人である。

父佐渡守は智謀の深き人ではあったがいやなる人で、上野介殿はその子ながら父には似なかった。

権現様が最初に結城の秀康公を御立てになるべきか、台徳院様を御立てになるべきかと老中へ
意見を求めた時、佐渡守は「秀康公は一度太閤へ御養子になされ、結城の家を御継ぎに
なったのですから、天下は秀忠公が御継ぎなさるのが当然の理でございましょう」と申され、
老中はいずれもこれに同意した。

しかし、上野介只一人が「佐渡守の申すことではありますが、私は左様には思いません。
どのようであれ、秀康公は御長子でございます。只今までは太閤に御遠慮にてわざと御疎々しく
なされたといっても、御父子の情に変わりはないのですから、長子に御生まれになりながら、
庶子になられては御痛わしきことです。秀康公こそ御順道と思います」と申された。

その時、佐渡守が「悴は何を思って粗忽なことを申すのか!」と叱られると、上野介は座を立たれた。
結局は佐渡守の考えに極まり、秀忠公を御総領に御定め、秀康公は越前へ封ぜられた。
台徳院様はこの事を殊の外御遺恨に思し召された。

――『鳩巣小説』




942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/18(月) 21:46:50.73 ID:6bSE+HXy
秀康が西軍に着いちゃえば面白かったのになー

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/18(月) 21:52:41.87 ID:4X1WrXap
秀康がもう少し長生きしたらな

本多正純の「それは誰ですか」について

2013年03月04日 19:51

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/03(日) 23:17:06.96 ID:feui2987
本多正純の「それは誰ですか」について。

「『きっと、その人が申したことは何の役にも立たない可笑しいことだったので
上野介は誰なのか尋ねたとみえる。それゆえ佐渡守はとどめた。

佐渡守はその人が御前においても馬鹿げたことを申し上げたから、
その姓名を誰にも語らない心得でいて、子の上野介にも言わなかった。古人の篤実だ。

その時の父子の心得は違っている。佐渡守は権現様の言の御用のところを申したくて話したが、
それを聞く上野介(の心得?)は全く異なっていた』

そのように新井氏は古人の批判をされた。そこで私が、

『佐渡守殿がとどめたのは、きっとその様子を見ていたゆえの儀でしょうが、
只今推し量りますに、上野介殿も父に代わって権柄を取る人ですから、その人の名を聞いておき、
後には選挙しようと思っていたのかもしれない。

その人の志を奇特と感じて姓名を尋ねたのかもしれませんから、一概には言えないと思います』
と言ったところ、新井氏も『なるほど。それもそうだ』と言われた」

――『鳩巣小説、責而者草』




606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/03(日) 23:31:07.60 ID:QKVR9Pno
>>605
新井氏って新井白石かな?

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/04(月) 00:53:48.72 ID:Tjz062dG
室鳩巣と白石は同門だっけな~
同世代だけど一緒にいたかは知らんけど

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/04(月) 05:57:06.89 ID:n+2WfLfA
室鳩巣は武田信繁を再評価した人だという知識はあるが、
なんて読むのか知らないんだよねw

609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/04(月) 07:12:55.85 ID:qAbHI9m1
室鳩が名字だとおもったら室さんなのね

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/04(月) 14:17:34.97 ID:YqyWQql3
>>605
それはそれで、諌言もどきをして栄達しようとする
不心得者が続出しそうな気がする。


本多正純の廉潔

2012年12月10日 19:52

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/09(日) 19:36:22.64 ID:DMf07Ddb
(1611年7月5日。この前日、セバスチャン・ビスカイノ一行は、駿府城において
徳川家康との会見を行った)

『水曜日の午前、使節は皇帝(家康)の秘書官である上野介殿(本多正純)に面会に行った。
羅紗、ガラス器、石鹸その他相応な贈り物をしたが、秘書官は大変に謝意を表し、受け取った後
しばらく手元に留めていた。

しかし、すぐに次のように言った

「私は贈り物を受納したが、これは、ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)での価値では相当の
ものである。ついては、あなた方に自分の方からこれらを贈り返すので、それらは再び、他の
役に立ててほしい。

私にはこれらを受け取れない。もし受け取れば、自分の職務を忠実かつ清廉に果たすことができなくなり、
あるべきよう自分の主人に仕え、自分の担当となる交渉事について主人に真実を報告できなくなるので、
いかなる外国からもこのような進物は受け取らない習慣になっているのだ。」

我々はそれでも、この贈り物を嘉納してもらおうと何度もやり取りしたが、受け取らせるのは無理で、
むしろ彼は大変立派な理由で、受け取りの拒否を釈明した。それは異教徒のものでも、神や教えを持たない
人のものでもなかった。実際、彼には神の教え以外何ら足りないものはなかった。
この事は、同種の職務で王に仕える人々の模範となることだった。

その後、財務長官の家に行った。彼はジョサブロ(後藤庄三郎)と言う名だったが、この国を動かす
人物である。手ずから甘いもので使節と共の人々をもてなし、大変親切に接遇した。

使節は彼にも、羅紗と他のものを贈り物とした。彼は何のためらいもなくこれを納めた。
人の話によると、彼は金銀で600万を持っているにもかかわらず、四分銀(イスパニアの1ペセタ)よりも
八分銀(メキシコの1ペソ。1ペセタの倍の価値)を望む人物だからだ。
善処のため大いに尽力する、と申し出た。これを以って我々は宿へ帰った。』
セバスチャン・ビスカイノ旅行航海報告書)

本多正純の廉潔、についての記録である。




721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/09(日) 19:44:45.55 ID:twLCN4Fg
この辺も正純と三成は似ているなあ

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/09(日) 20:53:21.21 ID:S3kKq5Re
>>721
三成は普通に受け取ってるでしょ。

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/09(日) 21:23:14.71 ID:FULY31Rh
受け取った上で、大御所に報告するなり献上するなりすれば良かったのに

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/09(日) 22:17:43.30 ID:mkdcHAvr
他国からの高価な贈り物だからな
報告、上納すればいいという単純な話ではないでしょ

726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/09(日) 22:33:35.76 ID:0W2BG9LS
>>725
そう考えると受け取らないほうが悪い気がしてきた

727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/09(日) 23:44:58.04 ID:mkdcHAvr
なぜそうなるんたw
他国からの贈り物なんて、うちの国には融通効かせてくれ
の賄賂と考えて対処すべきものでしょ

本多正信「昔、まだ我らが浜松を居城としていた頃のこと…」

2010年05月19日 00:03

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/18(火) 02:50:42 ID:bubPgy+h
「昔、まだ我らが浜松を居城としていた頃のことじゃ。
ある夜、家康公に、わしの他三人が召しだされたが、三人のうち一人が懐から書付を取り出し、家康公に差し上げた。

「その書付は何じゃ?。」
「以前より、私が考えていた事等を書き付けておいた文にございます。殿のご参考にもなるかと思い、持参しました。」
「それは感心。佐渡よ、その書付、ここで読んで聞かせよ。」

わしは御意に従い、読み上げた。それは、家康公への数ヶ条に渡る意見書だったが、家康公は、一ヶ条ごとに
「もっともな事である。」などと相づちを打ちつつ、最後までお聞きになられ、
「ようやった。これからも気づいた事があれば、遠慮なく申し出よ。」
そう言って別の用事を言い渡し、三人を下がらせた。

三人が退出した後、家康公がわしに「今の意見、どう思う?」と聞かれたので、わしは率直に
「一つとして、殿の役に立つ事はございませんな。」と申し上げた。

「いや、それでもあやつが考え抜いて書いてくれたものなので、そこまで言わずとも良い。わしも正直、『なるほど』と
思える意見は無かったが、考えた事を文にまとめ、折を見て主君に伝えようとするその志は尊いものだ。

普通、自分の過ちなど気づかぬものだ。だが、小身の者は同僚・上司や友人で互いに意見するので、改めることが
出来やすい。これは、小身の長所でもある。
だが、大身の者は気位高く、そうそう同僚とも打ち解けた話などしないし、家臣も意見を述べにくい。
よって、過ちを改めることが無い場合も多い。これは、大身の損でもある。およそ、上の者が下の者の意見を聞かずに
滅んだ国や家の多いことよ。」そう言って、家康公は話を結ばれた…」


大御所・家康の思い出を語った本多佐渡守正信は、昔時を振り返り落涙した。
聞いていた息子の上野介正純は、
「ほうほう!その書付は、どんな文言でしたかな?」「同席の三人とは、誰と誰ですかな?」と正信に尋ねた。
「……それをお前が知って、何になる?」正信は苦りきって、話を打ち切った。




817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/18(火) 02:58:15 ID:531HHbYI
佐渡「駄目だこいつ・・・話の要点を全く理解してねー・・・」

818 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/05/18(火) 03:25:41 ID:WxD8E4h+
>>816
途中までは「そんな有名な話をいまさら」と思ったが。
最後で来たな。

本多息子は人間の底が浅いな。

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/18(火) 04:31:00 ID:A8BcqSWE
>>816-817
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1222.html
→ http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1251.html の別バージョン、かな。


>818倅の上野殿は本佐(サドの守)より底が浅い、と後世の人に思われていた、ってことだわね。
頭の回転が速すぎて、却って周りに気の利かない人=石田治部みたいな だったんかなあという気はする

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/18(火) 07:44:37 ID:tgKJqx2c
三成と正純は生きてりゃ親友同士になれただろうなぁw

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/18(火) 08:12:19 ID:Gyf7WKsp
佐渡は三成馬鹿にしてそうだけどなあ。
どっちかというと上野と三成が理解し合えそう。

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/18(火) 08:40:51 ID:pVlwDfZ7
> 上野と三成が理解し合えそう。

関ヶ原の後の逸話を見ると、正純の小物っぷりでそんなのなさそうだけどね。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3139.html


823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/18(火) 12:41:28 ID:0Ux1dBYG
立場が逆なら上野もそれくらいは言いそうだけど。
秀吉が生きてたころや、島津を置き捨てにしたりしてたころの三成はこんなこと言えなかったと思う。

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/18(火) 12:49:31 ID:WbQbV1pM
>>820-822
同類かも知れないけど、三成と上野では、
上野が小物過ぎる。

825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/18(火) 13:45:09 ID:3jMqTa0s
治部は馬鹿真面目な能吏で
上野は一流半の謀臣ってイメージではあるけど。

直江山城はどっちとも仲良かったんだっけ?
やっぱり同類ではあるのかな。

826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/18(火) 14:12:42 ID:WbQbV1pM
人が一番嫌いなのは、自分に似ているけど、自分より劣る奴。
だから治部と上野は、時部が一方的に嫌いそうw

山城はまた少し違う怪物な気がする。

827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/18(火) 14:26:56 ID:KODLGMjO
同僚ならともかく部下としてなら自分の縮小再生版は好まれる傾向が

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/18(火) 14:49:34 ID:K843V8uD
佐渡は直接治部少相手の謀略を練ってたから、よく理解してたろうけど、
結局戦場以外で佐渡の想定を上回る行動取ったとも思えないから…。

行政官僚として憎まれ役もこなした板倉勝重なんかは治部少と話があったかも。
まあ、譜代の武ばった連中のほうがむしろ治部少に一定の評価与えてそうだけど。

本多正純、石田三成を尋問す

2009年11月12日 00:22

106 名前:1/2[sage] 投稿日:2009/11/11(水) 01:22:25 ID:8N2Vo0En
関ヶ原合戦の後、捕縛された三成に対し、家康の命により、本多正純がこれを尋問した。

「冶部殿にお尋ね申す。
今、秀頼公はまだ御幼少であり、大老、奉行相計って、天下静謐になるようにと
心を砕かれるべきであるのに、かえってこのような戦乱を起こし、ただ一度の決戦で
その全てを失った事、これはまるで、愚者の立てた計画のようです。

一体この乱の張本人は誰で、どういう御思慮で挙兵されたのでしょうか?」

これに三成

「その方は陪臣である。
井の中の蛙が大海を知らないように、しょせん陪臣でしかないお主に、天下の安否を
計る事など、出来ようはずも無い。

まあ、今回の企ての全てを、わし一人に詳細に説明しろといわれてもそれは無理だ。が、
大老である宇喜田秀家、上杉景勝、毛利輝元から、奉行の前田玄以、増田長盛、
長束正家に至るまで、お主が言うように、波風は立てたくないと、最初は皆、わしの企てに
賛同はしなかった。
それを一人づつ説得し、この乱を起こした事。これはお主が究明するまでもなく、
このわし一人が行った事である。張本人は、私だ。
この上は、他の人々の罪は軽くし、わしの首を刎ねるようにと、内府に申し伝えよ。

…が、このように言ってしまえば、まるで戦略も無く大事を企てたように思われるかもしれないが、
あの合戦の時我らは、裏切りや、動かない者たちがいたがために、勝つ事ができなかったのだ。
当初からの計画通りにみなが動いていれば、敗北していたのは、おぬし達の方だ。

しかし、そうはならずに、今わしは囚人の身となり、おぬし達の手に渡ってしまった。
これでは、浅ましく負けたものだと批判を受けるのもしょうがないだろう。
が、裏切りがあって壊乱するまで、宇喜田秀家を始め、大谷刑部、島津義弘、
そして我等は陣列を乱すことなく敵と堂々と渡り合った。決して不覚の負けを取ったわけではない。
この上にわれらを口汚く罵る輩があれば、こう言ってやるだけだ、

我心において、恥ずる所、無し。」


107 名前:2/2[sage] 投稿日:2009/11/11(水) 01:23:30 ID:8N2Vo0En
しかし正純、これに納得しない

「貴方の御弁舌は承りました。が、いささか疑問があります。
おおよそ智将と呼ばれる人は、人々の人情、機微を察するものであると聞いています。
あてつけに聞こえるかもしれませんが、我が内府は、鳥居、内藤の注進を聞いて、小山より
引き返し、直ちに西上すべきであったのに、それをせず出陣を遅らせたのは、
衆情をうかがい知る為でありました。

貴方は諸将の心も計らず、軽卒に出陣なされた。そのために、ついに裏切りにあったのでは
ないですか?
なのに今になって、『返り忠の輩が居なければ勝っていた』などといわれるのは
心得かねます。

それに、秀家卿から貴方、長束殿にいたるまで、美濃にご出馬あった日から、討死の
御覚悟があるべきなのに、実際には大谷殿を捨て殺しにしただけで皆逃げ出し、
その上ここに生け捕りになっています。

これも貴方の、戦略だと言うのですか?」

この時、三成打ち笑った

「実に、おぬしの言うとおりだ。諸将の心を知ることが出来なかったために、
裏切りにあってしまった。これについて今更、言うべき事も無い。

ただし、大谷を敵に討たせて、我々が逃げたのは不覚であるように言うのは、
お主の小さな頭で考えた、勝手な理屈と言うものだ。
大谷は多年の病で、先はもう長くなかった。そのため死を急いだのだ。
わしや秀家が逃げたのは、時節を待つ為であった。

その後、田中吉政の家来がわしの隠れ家にやって来た時、これを刺し殺して
自害するのは容易い事だった。が、わしは関ヶ原の合戦以後、他の人々の
動向を知ることが出来なかった。それを知り、泉下の太閤にその事を語り聞かせるため、
こうやって生きながらえたのさ。

さて、もうこれ以上、そなたに話す事は無い。口を利くのは、ここまでだ。」

その後は、一切口を開かなかった。そして正純も席を立ち、下がっていった、とのことである。




108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/11(水) 01:46:13 ID:Vl8HtrZQ
なんか時々思うんだが三成ってちょっと自意識過剰なところあるよなあ
基本的に若くして才能認められてエリート街道走ってきた男だから仕方ないかもしれないが

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/11(水) 09:05:03 ID:L1kd5e4k
それこそ語って聞かせることでも無いよな。
自分がわかっていればいいことだ。

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/11(水) 09:06:09 ID:fkB8NRS8
どちらも中世の人としては
異様に理屈がうまいな。

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/11(水) 09:34:11 ID:h5onptcL
理屈っぽい上自分が正しいと信じてるから分かりの悪い他者への説明が足りなくなりがちなとこまでそっくり。

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/11(水) 09:36:03 ID:NYO+xIQd
正純はなんか藪つっついて蛇出しちゃっているような気がするがw

>一体この乱の張本人は誰で、どういう御思慮で挙兵されたのでしょうか?

これを訊くことが仕事なのに「オメー戦起こして全部失っちゃったねw」なんて前置きするから

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/11(水) 14:13:51 ID:T2SKtnBz
>>112
「こんな愚かな計画を貴方が企てるわけはない」という意味で放った言葉に対し、
正純の性格に合わせて理屈で挑発して論争に持ちかけたとしたらすごいな。
そして真実は闇の中に。

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/11(水) 16:50:48 ID:qBqAneTO
正信が凄く残念な表情で二人を見ています。

[ 続きを読む ]

坂崎処分と本多正純・いい話

2009年04月30日 00:06

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/29(水) 01:19:22 ID:oZurEIPs
姉妹スレで坂崎出羽守の話が出たので関連した話でも。

幕府の要人たちは坂崎事件の対応を協議していた。結論は早期鎮圧
ということになり、坂崎の家老に書面を送ることになった。内容は
「あなたの主君の罪は許されないが、あなたが主君に薦めて自害させた
ならば出羽守の嫡男が家督を継ぎ、坂崎家が存続することを約束する」
というようなものだった。

本多正純は協議していた人たちに「家老がその要求どうりにしたら本当に
坂崎家を存続させるのか」と聞いた。この問いに要人たちは「この書面は
鎮圧のための謀略です。謀反人の家を存続させるわけがない」と答えた。

正純は書面の内容が偽りと知ると「謀略なら書面を出すのはよくない。
出羽守の不忠を断罪するために、その家老に不忠な行為をさせるような
ことを天下の政道を守る幕府がやってはならない。天下の政道は信に
基づかなければならないのだ。この事件を鎮圧するためにはすぐに兵を
派遣して誅罰すべきだ。家老に不忠を行わせた上に、騙すようなことを
すれば天下の風儀は乱れるであろう」と言って要人たちの案に反対した。

要人たちは「ですが正純殿、既に議論の上、結論は出ております」と言った
のだが、正純は「そんな結論に賛成できるか。私は署名しないぞ」と言って
署名しなかったという。

その後、このやり取りを知った柳生宗矩は「正純は批判されることを
いろいろやったが、この一言だけは天下の名言である」と言って感心したという。

正純いいこと言ってるけど、孤立してる気がしなくもない・・・。




112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/29(水) 01:30:12 ID:w6tya9yd
どっかの三成を思い出すな

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/29(水) 02:05:52 ID:4Hk4+/io
もし生きていたら三成が辿ったかもね
前も言われていたけれど

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/29(水) 09:28:38 ID:7XZsnuGM
>111正純さんらしいな。一理あんのにその言い方じゃあ同僚に嫌われるわなぁ。

>>112-113
ただ信義っつーよか謀略としての巧拙を評しただけのようにも読める。

「赦免や御家存続の許可を(後々残り得る)書面で渡すって馬鹿なの?死ぬの?」てニュアンス。
関ヶ原後の毛利との交渉みたいに徳川(幕府)から直の手紙は出さず
仲介役を挟んでそいつに交渉させ、後で反故にする方がいいじゃん、という……


大坂の陣では上野介正純さんも色々やってるワケだが、
アレは悪名被ってでも乱世を終わらせて天下泰平百年保たせるためだって
徳川幕府なりに民衆に強弁できる大義名分を押し立てたからでしょー。
マスタープランを描いたのは(正純じゃなくて)神君と本多サドの守だけど。

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/29(水) 10:36:32 ID:Y8vMbgNv
三斎殿を(頭が)三歳殿と書くのと同義。

120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/29(水) 12:20:59 ID:6BvWbNve
正純は自分が反対したところで覆らないとわかった上での
ポーズ作りのような気がする。

転封後の本多正純・悪い話

2009年04月25日 00:07

947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/24(金) 21:41:24 ID:VA1h2ZHe
転封後の本多正純の話

転封は正純が山形で最上改易の処理をしていた際、電撃的に告知された
すでに鳥居忠政や佐竹義宣らが幕命を受け、軍勢を展開している
正純は身辺の家臣とともに、おとなしく転地の由利本城へ向かった

しかし、正純が到着した翌日、佐竹軍が本多家の居城となるべき本城城を破却
二十日後には、佐竹家重臣の梅津政景より、「今後は一切お付き合いしません」と通告される
翌月には、正純の荷物が佐竹領を通ったら差し押さえろ、とのお達しが幕府より下る
追い詰められた正純は由利の受領を拒否
結果、佐竹家の横手城へお預けとなり、知行は1000石とされる
しかも、佐竹家には百姓といえど正純の知行地と交流させるな、と命じられていた
二年後、正純に番がつけられ、幽閉が強化される
四年後、ともにお預けされていた嫡男・正勝が死去する
十一年後、幽閉のまま正純も死去する

政争に敗れるとはこういうことだった、というお話






宇都宮吊天井事件・悪い話

2009年04月10日 00:01

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/09(木) 12:40:55 ID:ALHxoP7u
有名なお話ですが戦国よりちょっとそれる

宇都宮吊天井事件

秀忠が家康の七回忌で日光東照宮へ赴いた帰り
宇都宮城へ立ち寄る予定でした
宇都宮城は本多正純が父、正信のいいつけを守らず
加増をホイホイ受けとったお城でした

このお城に入ろうとする秀忠ご一行
しかし殿のお耳に不穏な噂が!

「正純くんが殿の御寝所の天井に小細工をして
寝ている間に天井を落として殿を抹殺しようと
たくらんでおります!」

なんとけしからん正純め!と怒った秀忠は
正純を出羽へ改易させたのでした


この話はフィクションです
実在の人物、事件とは関係ありません




本多正純、屋敷の火事に・いい話?

2009年03月24日 00:18

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/23(月) 19:18:30 ID:x9u/Vj02
本多正純の屋敷で火事がおこった。だが、家臣たちのがんばりで消火されて
大事にならずに済んだので、正純は喜んで胸をホッと撫でおろ……さなかった。
喜ばないのを不思議に思った家臣が正純に理由を聞くと、正純はこう答えた。

「大事にならずに済んだのに嬉しくないのですか?」
「私はいつも自分の家臣を頼りにしているが、それはいざというときにこそ、
その命を投げうってほしいからだ。たかが屋敷のために大事な家臣たちに
何かあったらと思うと嬉しくない。」

そこは喜んでおけよ正純。




120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/23(月) 20:08:40 ID:VtHmD1bh
火の用心がなってねえ、これじゃ危急の際にどうなるのか
ということを正純なりに表現したんだな

121 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/03/23(月) 20:30:24 ID:ltQ6ij3S
ツンデレだな

本多正純、秀忠の為に家康に陳弁す・いい話?

2009年02月14日 00:29

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/13(金) 01:32:09 ID:s15Dqw53
関が原の戦いにおいて徳川秀忠は上田城の攻略に手間取ったため戦場に遅参した。
家康は非常に憤り秀忠との会見を拒否するほどであったという。

この時秀忠の為に家康に陳弁したのが本多正純であった。
曰く「秀忠公が遅れられたのは参謀たるわが父正信が謀を誤った為であります。
  どうか父正信を処罰し、秀忠公の咎でないことを天下に明らかにして頂きとうございます。」
家康の機嫌はこの言葉によって多少よくなった。
秀忠は感謝し「よくぞ言ってくれた。そのほうの言葉、一生忘れぬぞ。」と言ったという。

さて大いに面目を施し得々として退出してくる正純を見た安藤直次はある人にこう言った。
「上野介も先は長くないな。己が父を傷つけて得意がっているようでは危ない危ない。」

この後本多正純は家康、秀忠父子の覚えめでたく、ますます出世してゆく。
その人が「一向に危なくないではありませんか。」と皮肉混じりに言うと
直次は「いや、危ないのはこれからだ。」

その後正純が宇都宮15万石を賜った時その人がまた言った。
「どうです?見込み違いでしょう。」
直次は「いや、今度こそ危ないのだ。」

正純が宇都宮に居る事3年
宇都宮騒動によって領国没収されるに及んでその人は直次の明察に服したという。


安藤直次のいい話…かな。



681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/13(金) 01:43:56 ID:oW7NAH2C
何事も根気良く、という話か
どうにかなるまで危ない危ない言い続ければ言いわけで

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/13(金) 01:54:26 ID:45hm8Hg6
>>680
「ある人」が気になったんだけど、誰か分からないのかな?

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/13(金) 02:06:51 ID:joEd+MZm
>>683
正純乙w

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/13(金) 02:33:52 ID:vkgZRgq8
>>683
弥八郎「そんな細かいことを気にしとる場合かー!」

ウチノセガレハ...('A`)


ほんまは家康も、才気走って危なっかしいし、弁が立ちすぎ何気ない一言で敵を増やしそな正純の将来を危ぶんだと思うぞ?(…まさに東の石田治部)

同じエピで秀忠が
『こやつ、俺を庇うためとはいえ、あっさり親を切り捨てようとした…
もし徳川家にとって必要なくなれば、次は世子たる俺をも簡単に切り捨てるのではないか?!』
と疑った説もあんだヨ

本多正純について・雑談

2009年02月07日 00:16

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/06(金) 01:35:47 ID:3UCu27uR
>>345 
正信「…という話でな。」
正純「それで父上、その『ある家臣』というのはどなたの事なのですか?
    その諫言はどのような内容だったので?」
正信「そのような瑣末な事はどうでもよいであろうが!下らぬ事を知りたがるな!!」
という感じだったらしい。
人生経験の差というか才を包む人間性の違いを感じる。

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/06(金) 01:45:33 ID:cLiewl7L
>>366
正純、この調子じゃあ、正信も歯痒かったろうなあ
伝えたいことがまったく伝わってないという・・

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/06(金) 10:15:59 ID:qkBXnkng
>>366
逸話だから続きがあるんだろうなと思ってたら
ヤパーリ続きがあったんだ ㌧楠

正信のイイ話の落ちは必ず正純が担当なんだなw 

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/06(金) 12:11:42 ID:V8xwkZCS
>>370
本多正純、世代が少し近ければ石田治部や直江山城と友達になりそうだよね。
頭の回転は早いし明敏だったんだろうけど、言葉の裏にある意味とか細かい人情を汲み取るのは苦手だったんじゃ…

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/06(金) 14:15:29 ID:V9Aprjoo
>>381
5歳差だから、かなり近い世代だと思うが。

んで、wikipediaの本田正純の項には
石田三成の身柄を預かったとき、三成に対して、「貴殿も忠臣なら、なぜ潔く腹を切られなんだ」
と質問すると、三成は「大望ある者は、最後まであきらめず己の信念を貫くものだ。
お主にはそれがわかるまい」と言い返されたとされる。
なんていうエピソードが載ってた。

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/06(金) 15:40:55 ID:g3E0S8ji
人情の機微と言うものが理解できない奴同士が語り合ってもやっぱり理解しあえないですよという落ち?

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/06(金) 15:53:29 ID:4r1inkBc
森長可・富田長繁「言葉じゃなくて拳で語り合おうぜ!」

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/06(金) 16:05:07 ID:PnBJylOO
>>383ふつうに主家・主君へ忠義を持つトコまでは共通しても

いい悪いは別にして一個の武将として覚悟があった三成と、
そうじゃなく徳川家の能吏って枠内に収まってしまった正純の差、かな。


……別の話(ていうか後世の評)があって、

なまじ佐和山19万国の所領を持っていたために西軍の首謀者として斬られた石田三成。
謀略家に徹するなら、毛利や宇喜多にもっとへつらって(自分は)矢面に立つのを避けるべきだった
大禄ではないけどそこそこ所領があり、自分が豊家を支えるんだって自負心も強すぎたんだろう
石田家は寡兵なのに決戦場に赴いて華々しく戦って、結局負けるハメになってしまった。

正純の父ちゃんは自分が一向一揆に与して徳川家から一時逐電していた過去を忘れなかったらしく
大御所家康、秀忠に信任されていたにも関わらず相州玉縄に2万国ちょっとの禄しか受けなかった。
自分が謀臣・黒幕であることをむしろ強調して家中の憎まれ役を引き受けて、家康の後を追うようにひっそり死んでしまった
(息子にも「俺の死後、3万国までは加増を受けてもいいけど、それ以上は貰うなよ?
 将軍家の寵臣が大禄をはんでいたら世人の疑い嫉みを招くだけだ」と言ったとか)
正純は父・正信ほど透徹した考えを持てなかったんだろうか。

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/06(金) 16:28:21 ID:m2O5ASE7
一瞬、正信がオーベルシュタインと被った。
主君の影としてきっちり制御された清廉潔白な腹黒さを持つ奴は魅力があるよね。

391 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/02/06(金) 18:23:42 ID:swoRDXsP
>>385
お前らは拳で済まないだろw

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/06(金) 20:28:26 ID:HuxCIZNu
>>386
謀反人の息子としてスタートした正純にとって家康は父以上のほとんど神のような存在だったろうし
その主が眠る日光東照宮のお膝元をあげるといわれたら、絶対断らないと思うんだよな。
もちろん神君のお膝元として恥ずかしくない城下町にするためにそれなりの石高も欲しいだろう。

なんというか、こいつの晩年は「生き残った場合の三成」だとおもう。

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/06(金) 21:26:17 ID:MUr0xBJv
>>398
あーそう言われると確かに生き残った場合の三成かもね
良い形容だ

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/07(土) 10:39:17 ID:hCDWTz9u
>>398あーその喩えはよく分かるわ、あんがと。自分じゃうまく言葉にまとめられなっかたよ...


しかも家康は大事を成して先に亡くなって、次代の秀忠や幕閣からは
『何かと神君神君って先代の巨人(や親父の正信)を引き合いに出す、うっとうしい古株』て思われかねないし。

正純は一々“主家を残し自分も生き残ってしまった石田治部”だったのかもね。

本多正純の木村重成評・悪い話

2008年10月24日 00:06

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/23(木) 14:46:11 ID:/LpgPX/C
大阪の陣が終わった後。

家康の前で、本多親子たちが、その戦についての論評をしていた。

正純は言う
「木村重成の討ち死には早かった。翌日の天王寺、岡山の決戦の時まで生き残っていれば、
豊臣秀頼公を連れて落ち延びることも出来ただろうに。」

これを聞いた家康は、なんとも答えずに嫌な顔をした。

すると、織田信長から「海道一の勇士」とも評された、本多正信の弟、正重がこういった

「死にたくて死ぬ馬鹿はいない。」



974 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/10/23(木) 17:25:01 ID:SHWXz9S9 ?2BP(500)
>>969
切ないというか儚いというか
大阪の陣はこういう話が多いね。。。
みんな最期の花火を上げる為に戦ったからかな。

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/23(木) 17:32:26 ID:/s5F9h/f
>>969は本多正純のバツの悪い話だね
後方で策を巡らし、内務を担当するヤツが言う台詞じゃない