581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/20(火) 19:27:31.69 ID:RqNqgsT1
慶長五年(1600)、濃州関ヶ原合戦の時、佐久間久右衛門(安政)、同源六(勝之)の兄弟は
徳川家康に従い、会津征伐へと従軍していた。下野国小山に至り、家康は兄弟にこのように言った
「汝ら兄弟は、石田治部少輔の居城である佐和山の近くに妻子を置いており、さぞ心もとなく思っているだろう。
早く上方へ上り、これを助けると良い。」
これに兄弟は答えた
「石田三成は、このように申していました。『もしもの時はそなた達を頼むために、我が城の近くに
兼ねてから領地を渡しておいたのだ。今度も我等と一味仕るように、』
そうして再三にわたり、今度の会津征伐に同行しないよう言ってきましたが、このように従軍する上は、
もし三成が我が妻子を人質に取ろうとしたなら、刺し殺して渡してはならぬと、家臣たちに申し置いて
参りました。どうか、心やすく存じ上げますように。」
そして彼らが江戸城に詰めている時、先に清須へと上った諸将は八月二十三日、岐阜を攻め落とし
城主である中納言(織田)秀信を生け捕り、城兵を尽く討ち捕らえた。これにより首などを御実検頂くため
進上した。そのための使者は八月末日江戸に到着し、家康はこれを聞いて、九月一日、江戸を出立、
佐久間兄弟もこれに供奉した。
佐久間兄弟は関ヶ原において、石田三成の備に向かって攻め入った。
そこで自身も高名し、家臣たちにも敵を討たせた。時に佐久間源六は三成と馳せ合い、言葉もかけたのだが、
兄の久右衛門が深く攻め入り傷を負ったのを見て、三成を捨て久右衛門の所に行き従った。
またその後、近江国高島郡でも働きがあり功を賞された。
(佐久間軍記)
佐久間軍記より、佐久間兄弟の関ヶ原での働きについての逸話である。
慶長五年(1600)、濃州関ヶ原合戦の時、佐久間久右衛門(安政)、同源六(勝之)の兄弟は
徳川家康に従い、会津征伐へと従軍していた。下野国小山に至り、家康は兄弟にこのように言った
「汝ら兄弟は、石田治部少輔の居城である佐和山の近くに妻子を置いており、さぞ心もとなく思っているだろう。
早く上方へ上り、これを助けると良い。」
これに兄弟は答えた
「石田三成は、このように申していました。『もしもの時はそなた達を頼むために、我が城の近くに
兼ねてから領地を渡しておいたのだ。今度も我等と一味仕るように、』
そうして再三にわたり、今度の会津征伐に同行しないよう言ってきましたが、このように従軍する上は、
もし三成が我が妻子を人質に取ろうとしたなら、刺し殺して渡してはならぬと、家臣たちに申し置いて
参りました。どうか、心やすく存じ上げますように。」
そして彼らが江戸城に詰めている時、先に清須へと上った諸将は八月二十三日、岐阜を攻め落とし
城主である中納言(織田)秀信を生け捕り、城兵を尽く討ち捕らえた。これにより首などを御実検頂くため
進上した。そのための使者は八月末日江戸に到着し、家康はこれを聞いて、九月一日、江戸を出立、
佐久間兄弟もこれに供奉した。
佐久間兄弟は関ヶ原において、石田三成の備に向かって攻め入った。
そこで自身も高名し、家臣たちにも敵を討たせた。時に佐久間源六は三成と馳せ合い、言葉もかけたのだが、
兄の久右衛門が深く攻め入り傷を負ったのを見て、三成を捨て久右衛門の所に行き従った。
またその後、近江国高島郡でも働きがあり功を賞された。
(佐久間軍記)
佐久間軍記より、佐久間兄弟の関ヶ原での働きについての逸話である。
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