佐久間軍記より、佐久間信盛親子追放

2015年02月25日 18:42

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/25(水) 00:31:24.52 ID:FByVptBU
天正八年(1580)7月、近衛殿、勧修寺殿の御扱いにて、大坂本願寺の門跡が、織田信長と和睦した。
大阪を退き、紀州の雑賀に移った。
本願寺門跡と信長との戦いは、元亀元年よりこの年まで11年に及び、大阪を堅固に守っていたが、
彼らは毛利輝元、武田信玄と志を通じ、荒木村重をして本願寺を救うと硬く約束していた。
しかし信玄は病死し、荒木も滅亡したため、この度降伏したのだと言われた。

同年8月、信長は門跡が退去した大阪に向かい、城内を見聞すると、その後一書を以って、
佐久間信盛・信栄父子に対し

『多年に及び兵を曝し、衆を労して功を成すこと無かった。急ぎ天王寺を出よ』

というような内容を仰せ付けた。御運も末に成るかのような仰せである。
信盛、信栄は陳謝することも出来ず熊野に籠居した。

世の人々は言った。信長公16歳の御時より、佐久間信盛が先陣を勤め、近年は信栄が大阪を硬く守った。
信長が強敵に向かう時には必ず、信盛の先鋒があった。
しかし織田信長という人には、臣下の功を嫉むことがあった。
また当時、織田配下の中で国持大名に為るべきは先ず信盛であったのに、この大阪の押さえという役割は
彼には不足であったため、心中勇まなかった。
こういう時に、いかなる讒言があったのだろうか、数年の忠功を捨てる事となり、口惜しき次第である、と。


保田久右衛門安政(佐久間安政)はエツタカ城を退き、紀州根来に引きこもった。
(佐久間軍記)

佐久間軍記より、佐久間信盛親子追放についての記事である。




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佐久間兄弟の関ヶ原

2015年01月21日 18:51

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/20(火) 19:27:31.69 ID:RqNqgsT1
慶長五年(1600)、濃州関ヶ原合戦の時、佐久間久右衛門(安政)、同源六(勝之)の兄弟は
徳川家康に従い、会津征伐へと従軍していた。下野国小山に至り、家康は兄弟にこのように言った

「汝ら兄弟は、石田治部少輔の居城である佐和山の近くに妻子を置いており、さぞ心もとなく思っているだろう。
早く上方へ上り、これを助けると良い。」

これに兄弟は答えた
石田三成は、このように申していました。『もしもの時はそなた達を頼むために、我が城の近くに
兼ねてから領地を渡しておいたのだ。今度も我等と一味仕るように、』
そうして再三にわたり、今度の会津征伐に同行しないよう言ってきましたが、このように従軍する上は、
もし三成が我が妻子を人質に取ろうとしたなら、刺し殺して渡してはならぬと、家臣たちに申し置いて
参りました。どうか、心やすく存じ上げますように。」

そして彼らが江戸城に詰めている時、先に清須へと上った諸将は八月二十三日、岐阜を攻め落とし
城主である中納言(織田)秀信を生け捕り、城兵を尽く討ち捕らえた。これにより首などを御実検頂くため
進上した。そのための使者は八月末日江戸に到着し、家康はこれを聞いて、九月一日、江戸を出立、
佐久間兄弟もこれに供奉した。

佐久間兄弟は関ヶ原において、石田三成の備に向かって攻め入った。
そこで自身も高名し、家臣たちにも敵を討たせた。時に佐久間源六は三成と馳せ合い、言葉もかけたのだが、
兄の久右衛門が深く攻め入り傷を負ったのを見て、三成を捨て久右衛門の所に行き従った。

またその後、近江国高島郡でも働きがあり功を賞された。
(佐久間軍記)

佐久間軍記より、佐久間兄弟の関ヶ原での働きについての逸話である。




蟹江城と漢たち

2014年02月23日 18:59

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 19:34:10.18 ID:wlbpESpp
蟹江城と漢たち

小牧・長久手の戦いにおいて惨敗を喫した羽柴秀吉は、方針の変更を迫られることとなった。
両軍の陣地構築により膠着状態となった尾張北東部から伊勢・尾張南部に目を向ける。
当時、徳川家康は尾張の清洲城、織田信雄は伊勢の長島城に拠って各々指揮を執っていた。
秀吉は両者の連絡を断ち切るため、清洲・長島の中間にある蟹江城の奪取を計画する。

この計画の実行者にふさわしい者が陣中にいた。蟹江城の元城主で、先年秀吉に敗れ軍門に
降っていた滝川一益である。

一益はまず志摩水軍の九鬼嘉隆を調略で味方につけ、海上からの攻撃を可能なものとすると、
蟹江城内部の工作に取り掛かった。

この時、蟹江城を守っていたのは、佐久間信盛の子佐久間信栄である。折りしも信栄は信雄
の命により、伊勢萱生砦の修築に赴いており、城主不在の状態であった。城主留守の蟹江城は、
本丸を信栄の叔父佐久間信辰(信直)が、二の丸を信盛の妻(おそらく信栄の母)の弟である
前田長定(種定)が守り、その周辺の支城には、前田城に長定嫡子の前田長種、下市場城に長定
弟の前田長俊(利定)、大野城に信栄股肱の家臣である山口重政がそれぞれ配置されていた。
また、蟹江城本丸には信栄の妻子とともに、人質として各支城の家族が集められていた。
肉親と股肱の家臣に留守をまかせた信栄であったが、実はこの肉親は敵方の肉親でもあった。
前田長定は秀吉方として北陸で戦っている前田利家の本家にあたり、かつ嫡子長種の妻は利家
の子幸姫であった。信栄はこの点を考慮すべきであったかもしれないが、やむを得ないだろう。
つい数年前までは同じ織田家中で敵と戦っていたのである。攻める側の滝川氏でも一益の娘婿の
滝川雄利が信雄家老としているのであるから。

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 19:35:32.39 ID:wlbpESpp
さて、一益は当然のことながら、味方に繋がりのある前田長定に狙いをつけた。事前に加賀
前田家からの工作もあったかも知れない。長定はあっさりと内応を承諾した。自身だけでなく、
前田城の長種、下市場城の長俊も誘い、前田一族総出で裏切ることにしたのだ。だが大野城の
山口重政には事前勧誘をしてはいないらしい。裏切りの可能性は低いと見たのであろう。

天正12年(1584年)6月16日、長定が上げた狼煙を目指し、九鬼水軍の軍船に分乗した滝川軍
三千が蟹江城に迫った。長定の誘導によりそのまま二の丸を占拠する。そして、本丸の信辰に
城の明け渡しを要求した。激怒したのは信辰である。信栄の妻子を刺し殺し、城に火を放ち
自身は自害すると言い放ち、要求を突っぱねた。一益・長定としては、一刻も早く城を奪取
したい。交渉を繰り返し、長定の子を人質に出し、信栄の妻子の安全を保障することで本丸
確保に成功する。信栄の妻子は信辰に守られてこの日のうちに城を脱出した。

蟹江城陥落と同時に前田・下市場両城とも秀吉方となり、残るは大野城である。重政の母を
人質にとった長定は使者を遣わし重政に寝返りを勧める。だが重政は「信栄に対して二心は
抱けぬ。我が志を分かって母は殺されても恨みはしまい。己は城を守り信栄の恩に報いる」
と答え使者を追い返した。と同時に、信栄・信雄・家康に急を報せた。

報せを受けた家康は折りしも入浴中であったが、すぐに浴衣を着込むと馬を駆った。後を
追えた者は井伊直政ただ一人であったと言う。往時の織田信長を髣髴とさせる動きである。
信雄もことの重大さをよく分かっていたのだろう。いつもの彼らしからぬ(笑)機敏な動きで
駆けつけた(まとめ・信雄の奮戦 http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6917.html)。

滝川一益らも手を拱いていた訳ではない。援軍到着前に大野城を落とそうと川を遡上して
攻撃したが、船に松明を投げ入れられ数隻が沈没、上陸した部隊も城兵と井伊直政の軍に
破れ撤退し、一益は蟹江城、九鬼嘉隆は下市場城に逃げ込む。

早くも6月18日夜には、下市場城が陥落、嘉隆は海上に逃げ、裏切組の長俊は斬られた。
23日には前田城が落ち、長種は逃亡、織田・徳川方により海上は完全に封鎖された。
信栄を先陣に22日より始められた蟹江城包囲戦は、篭城した一益らの奮戦により多くの
死傷者が出たが、早急な援軍が見込めないと悟った一益は和睦を受け入れ、7月3日に
至り開城した。人質となっていた重政の母は無事開放された。一益も無事退去できたが
裏切りの張本人である長定は命を全うできなかった。逃げる途中で妻子ともども殺害
されたのである。後世の史料では一益の命令で斬られたということに変えられてしまって
いるが…。

こうして蟹江城は奪還された。秀吉は7月半ばに尾張西部から総攻撃をかけるつもりで
いたが間に合わなかった。

569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 19:37:05.41 ID:wlbpESpp
だがしかし、戦いの後、佐久間信栄は織田家中における家老の地位を守り抜くことは
できなかった。蟹江城失陥の責任を問われたためではない。蟹江城の戦いのおよそ
一月前の5月、京都で謀反が発覚し、多くの公家が逮捕されるという事件が起きた。
首謀者は佐久間道徳、信栄の弟とされる人物である。秀吉は影で道徳を操っていたのは
信栄に違いないと考え、織田信雄との和睦条件に信栄の自害を加えてきたのである。
このため、信栄は信雄のもとを離れ、佐久間家の旧領三河国笹原に隠れ住んだ(三河の
うち現豊田市中心部は以前から織田領であり佐久間氏が勢力を扶植していた)。
こうして信栄は武将としての人生を終えた。後に赦され豊臣、徳川と仕えるが茶人、
御咄衆として仕えたのであり、武将としてではない。居城失陥が彼の戦績の最後であった。

残された佐久間家の人々は織田信雄に仕え続けた。信雄改易後は、蟹江での戦いが縁と
なり、徳川に仕え、佐久間信辰は後に館林城の留守居役となった。その息子は信栄の養子
となっている。山口重政は苦労に苦労を重ね大名の地位を維持した(まとめ・ある若者の
その後の運命 http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8237.html)。

敗者のうち前田長種は加賀国に逃れ、加賀八家の一つ前田対馬守家の祖となった。後年、
微妙公こと前田利常を養育している。

滝川一益はまもなくこの世からふっと消えていった…
(まとめ・滝川一益の最期 http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3242.html)


夏草や 兵(つはもの)どもが 夢のあと


蟹江城は翌天正13年(1585年)の天正地震により壊滅し、今はただこの地にかつて城が
あったことを示す石碑が立つのみである。




570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 20:20:02.12 ID:Y7fu0rke
ここはいつからチラシの裏になったの?

571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 20:36:11.08 ID:f27vMd/J
>>567-569
原典ないけどこれ小説なの?

572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/23(日) 00:58:26.11 ID:JJQL3nwu
創作物の投稿は守備範囲外だよなぁ

573 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/02/23(日) 06:11:57.79 ID:pfIwyu7K
前投稿された藤堂高虎の主君替えシリーズもほとんど小説ぽかったような

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/23(日) 07:51:14.88 ID:7Kqo9BzW
なんか創作っぽいやつは高確率で徳川が絡んでんだよなあ

信栄の茶の湯の手前、ことのほか上手であった。しかし

2013年10月25日 19:07

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/25(金) 00:07:38.83 ID:yrwsuMaa
佐久間信盛・信栄の親子が石山本願寺を包囲している時、織田信長が陣中を訪れた。
佐久間親子は茶会を開いて信長をもてなした。
信長は京に戻ってきてからこう言った。
「信栄の茶の湯の手前、ことのほか上手であった。しかし羨ましいとは思わない」




408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/25(金) 00:13:38.61 ID:ptmj4Qfe
で信長折檻条につながると
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4448.html
一、貴様(親子)が本願寺を包囲している間に手柄を立てた話は聞いたことがない。
二、もっと臨機応変に戦うべきなのに、貴様は包囲一辺倒で工夫がない。
十二、貴様の息子はろくでなしだ。

信栄が茶の湯より戦に励んでいればよかったものを

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/25(金) 01:38:10.58 ID:D7rKQx7m
「お前もそうだが息子も茶の湯にばっかり励みやがって、武士なら戦に励めコラ」
と。
まあでも信盛にしてみりゃ、ウッカリ動いて負けでもしたら自分が討ち死にせずとも塙直政一族みたく潰されるんじゃないか、とか考えてたんじゃないかなあ

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/25(金) 01:40:12.78 ID:tdHrFcQD
そりゃ首になっても仕方ない

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/25(金) 09:04:31.68 ID:4d91IT6u
>>408
信盛「貴様の息子は舞は事の外上手だが要らん戦仕掛けて負けてくるろくでなしだ。」

412 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/10/25(金) 10:55:51.70 ID:2xlYhFig
でも信盛が死んだ後、息子は旧領戻してもらえたよな

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/25(金) 12:39:13.22 ID:D7rKQx7m
ちょっと切れ気味でキツいハッパかけたつもりがまさかアッサリ引っ込むとまでは思ってなかったとか
それに家臣も散ってるし、何より腐っても織田の重鎮の一人だった信盛と違って、息子だから戻しても問題ないかなとかじゃないの
敵に内通した、とかの疑いじゃないしね

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/25(金) 19:06:11.52 ID:sVFaAJ4L
魔王さま領地を取り戻した水野の息子の方がろくでなしなんですけど、しかも筋金入りの

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/25(金) 19:20:25.93 ID:7A29hjLT
鬼武蔵は人でなしというか鬼畜だけど、ノブのお気に入りです

佐久間信盛・その後

2013年07月06日 19:59

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/06(土) 14:45:19.01 ID:/5NvVk22
織田信長の勘気に触れた佐久間信盛は天王寺を出ていった。侍や小姓は皆退散し、
たった三人が高野山まで従った。しかし、そのうち二人もまもなく退散したという。

信盛は高野の南東の相江というわずかな所に居ついた。
金子もかろうじて十枚ほどを持参するだけだったという。

ある時、山岡景友は思い立って信盛を訪問し、平井安斎もこれに同道した。
信盛は対面して涙を流し、とても感悦した。
二人が信盛を訪問したことを、その頃の各々が感じ入ったという。

天正十年正月十六日、信盛は紀州熊野の奥で病死した。信長は気の毒だと言って、
信盛の子甚九郎を召し直し、織田信忠に奉公させた。

――『当代記』





佐久間信盛の才覚

2013年05月11日 19:55

596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/11(土) 09:40:55.52 ID:/+TgyIYB
長篠の合戦の前のこと。
信長は佐久間右衛門(信盛)と毛利河内守(秀頼)に、徳川家康への加勢として長篠に出陣すべきかどうかを
尋ねた。毛利河内は武辺の誉れある者であり、当時岡崎に置かれ、佐久間は分別厚き者で、彼は
長澤に置かれていた。

毛利河内は『今回出陣した場合、甲州の者一人に見方十人の積りで懸ったとしても、必ず味方の負と
なるでしょう。出陣することは必ず無用です。』と書面で返答した。

佐久間からは『甲州勢は強く、見方が負けるのは疑いのないことです。ですが、加勢に出陣されることこそ
正しいと考えます。』と返答した

信長はこれを見て「毛利河内などは武辺者であるのに、どうしてこのように申すのか?
とにかく書面では埒が明かない。両名ともこちらに出てきて、直接自分の口から説明せよ。」
と、御小姓である津田於杉を以って召喚させた。

毛利河内が申し上げたのは、初めの通り、負ける戦であるので出陣は無用である、との事であった。

佐久間が申し上げることには、
「今度は三河の地においての合戦です。その上、今度加勢も送らず徳川家康殿が負けられれば、
彼は武田の旗下と成ることでしょう。
であれば、この方面の味方の手は薄くなり、武田が家康殿を配下として三河遠州を平定し、
我らに向かってくれば、これは大きな危機となります。
この想定から、今回は例え負けるとしても、加勢に出陣したほうが良い、と考えるのです。」

信長はこれを聞き「それは面白い想定だ。」と感想を述べたが、この時佐久間は

「ではありますが、是非合戦にも勝ちたい物ですので、勝利を得られるよう拙者にお任せ頂きたいのです。

私に一つの才覚が有ります。しかしながらこれまで甲州に心を通じた者が無いので、証拠として
起請を書き、その上で甲州の長坂釣閑、跡部大炊助に金を取らせてたらし込みたいのです。」

信長は「それは尤もなことだ。たらしこむためなら何であっても与えよ。ただ太刀を取らせるのは、
これは人も見るものであるので、この脇差を与えよ」と、脇差を佐久間に渡した。

佐久間信盛はこれを甲州に差し出し
『私は今回の合戦、必ず我々が敗北すると信じております。私は以前より、内々に武田勝頼公に志を
持っておりましたので、勝頼公に御奉公申し上げたいのです。もしこのお頼みを許して頂けるにおいては、
今度の合戦で我が方に攻め懸かってこられれば、我が部隊は必ずわざと負けを装い撤退するでしょう。
私の申し上げた通り、どうかお心得下さい。』

これを見た勝頼の寵臣である長坂・跡部は佐久間の言うことを信じ、
『何時でも其方のことは請け合う』と固く約束をした。

これによって長篠の合戦では、両人は此の方から敵に無理に攻めかかれば敵は相違なく敗軍するのだと心得、
勝頼に、「川を越えて攻めかかるべきです!」と進言した。

逆に織田方は、この予定を以って柵を形成し、敵を思い通りの場所へと引き付け、ついにこの合戦に
切り勝ったのである。

ちなみにこの時調略に使った脇差は、8年後の甲州滅亡の時に取り返したという。
(紀伊國物語)




597 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/11(土) 10:11:04.31 ID:6S2fIjUJ
この5年後「お前が活躍した所を見た事がない!」と言われるんだな。

鬼玄蕃の弟たちのその後

2012年04月19日 21:29

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/19(木) 19:01:26.39 ID:ozqURuq1
賤ヶ岳で秀吉相手に勇猛に戦った、鬼玄蕃こと佐久間盛政には二人の弟、安政と源六があった。

彼らも兄に劣らぬ勇者であり、賤ヶ岳の後も秀吉に反抗し続け、佐々成政に、成政が秀吉に降服した後は
徳川家康に仕えた。
が、天正14年(1586)、秀吉が妹朝日のみならず、母親大政所まで送ってきたことに、家康もついに
秀吉への臣従を決意。そして家康は、安政と源六の二人を呼ぶと、申し訳なさそうにこう語った

「そういうわけで私は、秀吉に従うことと成った。このままわしに仕えては、そなた達の、
秀吉に復讐するという願いは叶わないだろう。
そこでそなたたちさえ良ければ、北條殿に仕えてはどうか?」

家康は重臣の榊原康政を北條に派遣し、わざわざ安政と源六の召し抱えを頼んだ。

北條で、二人は大いに厚遇された。北条氏政は彼らの勇猛さを大いに気に入り、また彼らも、
佐竹義宣との常陸江戸崎の合戦、皆川広輝の籠る下野大平城攻めなどで高名をなした。

しかし天正18年(1590)、秀吉の小田原征伐により、ついに北條も滅びる。

安政は弟源六に言った
「我々はいつも秀吉に背いてきた。小田原にあって6年、既に氏政公は御生涯なされた。
われら兄弟が死ぬ時は今であろう。兵たちは、思い思いに逃がすべし。」
源六もこれに同意したが、しかし家人たちは「我々は黄泉までお供をしたいのです!」と、一人も逃げなかった。

彼らは小田原の自分の屋敷の周りに鉄砲狭間を切り、鉄砲揃えた。戦闘の準備である。
間もなく豊臣軍の接収の兵が来る。彼らは武士らしく、それと戦って討ち死にすることを求めたのだ。

と、そこに一人の武士が、屋敷の方に向かってきた。「豊臣の検使がもう来たか!?」一斉に銃を向ける。ところが
「佐久間殿!わしだ!」「榊原殿!?」
それは榊原康政であった。彼は銃で固めたこの屋敷に臆すること無くつかつかと入ると、佐久間兄弟に
「殿のおっしゃったとおりだ。」「殿?徳川様が!?」「そう、殿はお主たち二人を殊の外ご心配なさっていたのだ。

『このように成ったからには彼らは、もはや死ぬしか無いと思いつめているであろう。しかしわしはまだ、彼らを
死なせたくない』

そうおっしゃって、わしをお主らのところに遣わしたのだ。殿はお主たちに、富士の麓に隠れ家も用意された。
まだ死ぬべき時ではないぞ!生きよ!」

佐久間兄弟は感激し、家康の勧めに従って小田原を退去した。
それからしばらくして、佐久間兄弟が生きている事を知った秀吉は、二人の罪を許し(おそらく家康の口添えがあったのだろう)
その後蒲生氏郷に仕え、蒲生家減封の際、秀吉の直臣と成った。関ヶ原では兄弟揃って家康に従い、石田三成の陣に
勇猛に攻め込んだ。その功で大名となり、隣り合った信濃飯山藩、長沼藩の藩祖と成った。

鬼玄蕃の弟たちの、賤ヶ岳のその後、のお話である
(佐久間軍記)





659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/19(木) 22:47:24.93 ID:hcDwOApk
>>658
何このマンガのようなイイ話( ;∀;)

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/19(木) 23:08:49.96 ID:oFtmBiPu
佐久間兄弟も家康も康政も氏政も、みんなかっけぇ

佐久間信盛と『播知釜』

2012年04月18日 21:29

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/18(水) 17:37:10.35 ID:zkqflcjJ
天正5年(1577)、松永久秀が信貴山城に滅びると、織田信長はこの信貴山攻めを行った
佐久間信盛を呼び

「これまでの功績と合わせ、播磨一国を与える」

と伝えた。この頃佐久間信盛は、畿内を始め尾張、西三河などに多くの所領と配下与力を持ち、
これにさらに播磨一国まで加われば、織田宗家に優に対抗できるほどの勢力となる。
当時の佐久間信盛への信長の信頼がどれほどのものか、よく分かる話であろう。

が、信盛はそれを断った

「所領は要りません。それよりも…」

信長所秘蔵の茶道具の一つ、古作の播知釜を望んだのだ。

「それは…」

と信長も躊躇したが、信盛の功績に鑑み、ついにこれを与えた。


後、佐久間信盛はご存知のよう追放される。そしてこの播知釜は、信守の遺品として、息子信栄に伝えられた。
信栄は高名な茶人と成ったが、この父の形見の播知釜で、よく茶を立てたとのことである。

滝川一益が上野に変えて名器を望んだのは、この先例があったためかもしれません。
佐久間信盛と「播知釜」のお話。




715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/18(水) 19:10:17.20 ID:UfSJgBJt
天正5年頃の播州貰ってもなぁ。

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/18(水) 19:12:06.12 ID:uBsgnyg7
まだ反乱分子と戦ってる真っ最中じゃねーかw

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/18(水) 19:17:03.28 ID:nhEVvg6w
先例って言っても悪い先例だな
播磨もらってたら中国攻めの司令官が秀吉じゃなくて佐久間になってたかな

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/18(水) 19:18:37.69 ID:BmD74JCi
信長からしたら恩賞を与えるってのは名目で播磨攻撃に加わらせたかったのかね
信盛は上手にかわした形だけど、こういう如才のなさが信長をイラつかせてたのかもしれないな

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/18(水) 19:57:57.00 ID:mVoHMMA1
佐久間さんは、折檻状に書かれているみたいに自己保守と蓄財の人だったからねー。
勤勉労働が武辺の第一! である信長の下である程度よくもったもんだ。

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/18(水) 21:44:21.86 ID:NQiIF4R2
でも追放した後で後悔したんだっけ信長さん

721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/18(水) 23:06:55.56 ID:vJqaUbHG
佐久間信信に出来なかった事を悔やんでたんだよね

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/18(水) 23:46:25.15 ID:zVtg269Z
>>719
ある程度というか家督相続以前から20年以上仕えた最古参なわけで。>佐久間さん

724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/19(木) 00:28:52.36 ID:IvBU6m9h
信盛に一字与えても長盛だろ
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佐久間信盛、信長の秀吉抜擢人事に

2010年10月27日 00:01

926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 22:35:30 ID:jkxbSDOS
永禄12年(1569)、三好三人衆の襲撃を何とか防いだ織田信長は、将軍足利義昭の居城として
二条城を建設。これをわずか70日で終えると再び岐阜へと戻ることとなった。

この時将軍義昭より信長に、地位が高く、武芸達者な者を一人残していって欲しい、との
願いが届けられた。
信長は「委細其の意を得奉る」と了承したが、誰を残すかは即答しなかった。

さて、この事について織田家中では、誰が残されるかについて大いに予想が盛り上がった。

「地位が高く、又武略に通じておられると言えば佐久間左衛門尉(信盛)殿であろう」
「いや柴田修理亮(勝家)殿ではないか?」
「ここは丹羽五郎左衛門尉(長秀)殿ではなかろうか?」

そのような名前が取り沙汰される中、信長が選んだのは実に意外な人物であった

「木下藤吉郎を残す」

この決定に、織田家中は激高した
「よりによってあんな、出自も定かでないような奴を、このように重大なお役目に!?」

信長の思いもよらない選定に対し、怒りや不満が渦巻いたのだ。
と、その時、

家中の不満の言葉を聞いた佐久間信盛が、このように言った

「信長様の人物を見る目が、今まで間違っていたことがあっただろうか?
特に今回のような重要な役目を任せる人物の選択は、必ず当たっていたと私は記憶している。
そのような信長様の判断に対し、我らのような小智小才の人間が当否を批判するべきではないよ。」

そう、冷静に語った。
これには満座言葉を無くし、その後家中に、この人事に否を言う人間はいなくなったそうである。


佐久間信盛、信長の秀吉抜擢人事を擁護する、と言うお話。




927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 22:49:35 ID:wMo9baae
後味悪いな・・・
その後の信盛さんを知ってるから~

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 22:54:33 ID:0G/544ks
>信長様の人物を見る目が、今まで間違っていたことがあっただろうか?

(´;ω;`)ウッ…


931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 23:49:48 ID:pibAk7yR
信盛、後に自分の運命も知らずに…

932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/26(火) 00:06:29 ID:fm6qfE1i
抜擢人事でミスるようになるのは人材を把握しきれなくなってったからなのかな

佐久間信盛、信長の上洛に・いい話

2009年05月24日 00:12

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/23(土) 00:54:44 ID:bijJTv+9
織田信長は上洛を狙っていたが、まったく不安がないわけでは
なかった。ある日、信長は酒宴の席で「俺は上洛しようと考え
ているが、お前たちはどう思う?」と家臣たちに意見を求めた。
だが、家臣たちは賛成とも反対とも言わずに、ただ黙っている
だけだった。しかし、一人だけ言葉を発した者がいた。織田家の
重鎮、佐久間信盛である。

「上洛は素晴らしいお考えと思います。天下に上り、逆族を
平定なさることに差し障りなどありえません。天下を纏め、
学問と知識を発揮し、真儒を盛んにして、衰退した文化を
復興すること。また、苦しむ民衆を救い、邪を退けて正道を
掲げなされば、全ての民が殿のお導きに従い、織田家の家運は
恒久のものとなりましょう」

信盛の言葉こそ信長の聞きたいものだった。信長はいたく喜んで
「では、国土安全の寿を始めるとしよう」と言った。その日の
宴は身分に関わらず、皆おおいに楽しんだという。

この頃の信盛には確かに栄光があった。いったい誰があんな
最期を遂げると予想しえただろうか。




850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/23(土) 00:59:38 ID:GDkQZNB+
>>849
最後の平家物語を彷彿とさせる語り口がいいねw
まさに諸行無常


佐久間大学助の鼻・いい話?

2009年04月25日 00:10

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/24(金) 21:42:26 ID:h4C/54Kx
織田信長の初期の有力家臣としてそこそこ有名な佐久間大学助のちょっといい(?)話。
ある日、酔っ払って寝ているところを暗殺者に襲われた。
しかし、そこは剛毅な大学助、逆に暗殺者を斬り伏せ難を逃れた。
とはいえ、無傷とはいかず顔に傷を負ってしまった。
さて、大学助、しばらくして傷は癒えたものの鼻が曲がってしまった。
そこで医者に診てもらったのだが「治すのは無理」と言われてしまった。
それを聞いた大学助、脇差を抜き、鼻の傷と逆側を自ら斬り強引に治してしまったとさ。




24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/24(金) 22:27:36 ID:S3m9e9BK
>>22
治した…?

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/24(金) 22:40:59 ID:h4C/54Kx
>>24
多分、切り傷が治ったことにより鼻が片側に引っ張られてしまったので逆側に傷をつけて同じようにしたんじゃないかな。

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/24(金) 22:50:30 ID:S3m9e9BK
それは治すというのか…?w

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/24(金) 23:02:16 ID:VA1h2ZHe
治すじゃなく、「直す」だなw